経済・政治・国際

啓志線について考察してみる。その4 ナゾの空白地帯を行く

 ナゾの空白地帯。もともとナゾばかりな啓志線だが、おそらく、今までだれもレポートして来なかったことについて紹介しよう。
 
 前回、啓志線跡を辿る案内人を務めて欲しい、と板橋区に依頼されたことは記した。与えられた時間は半日だったので、東武練馬駅集合にして上板橋駅まで歩くコースを設定した。どうせなら、練馬自衛隊の中を通って行きたいと思い、幸い、あることで練馬自衛隊の広報の方と面識があったので、見学をお願いし、快諾をいただいた。啓志線の自衛隊の中を走る部分については、それまで情報がなかったので、目玉企画になるに違いないと図ったのだ。せっかくだから、と、旧交通博物館の専任学芸員・S氏(現在・鉄道博物館学芸部長)と同・学芸課長のO氏、東武博物館学芸員・J女史にも参加していただいた。また、コラムのネタにしてもらうため、泉麻人先生もお呼びしたので、ずいぶん豪華なパーティーとなった。これだけの知能が集まれば、なにか発見があるかも、と期待に胸が膨らむ。こうして、一般公募者あわせ30名ほどの集団で、いざ啓志線を巡る旅は始まった。
‥ここから、プロの物書き風に見学記が書ければいいけど、当日は先頭に立って案内をしなくてはならず、それだけで頭が一杯であり、しかも、もう二年も前の話で記憶も薄れているので、要点と写真のみの紹介で済ますことにしちゃいます。期待してた方には申し訳ない。

 

1947S30Photo まずは、昭和22年と30年頃に撮影された空中写真の比較です。昭和22年の写真では、まだ敷地は練馬倉庫時代のままで、グラントハイツ建設用の資材が積み上がっている様子が見てとれます。貨車らしき車両が確認出来、敷地内は複線になっていたようです。自衛隊広報の話によると、貨物の積み降ろしに使われたプラットホームは、A地区の車両らしきものが止まっている付近にあったそうです。陸上自衛隊(警察予備隊)が発足した翌年の昭和26年、同時に練馬駐屯地が創立された。昭和30年頃の写真では、敷地内のほとんどの建物が建て替えられているのがわかりますね。では、現在ではどうなっているのだろうか。

 

543Photo_2 左のカラー写真は、史跡巡りの時に撮影したもの(A地区からB地区へ抜ける部分)。広報の話では、線路が撤去されてから敷地は整地されてしまい、痕跡は残っていないだろうとのことだった。しかし、線路が敷設されていたと思われるルートは想像することができた。モノクロの写真は、西側(グラントハイツ方面)に抜ける部分。警備の歩哨が立ち、複線の線路が単線に変る様子が写っているように見える。

 

Photo_3 写真は、「幻の鉄道部隊・消えた第101建設隊」という本から引用させていただいたもので、練馬自衛隊内の線路を撤去しているところが写されている。本文の年表によると、練馬駐屯地引き込み線撤収 第一次作業実施、昭和36年3月21日〜25日。第二次実施、4月3日〜8日と記載されている。啓志線の線路が完全撤去されたのがいつだったか、手元に資料が見つからなくうろ覚えだが、自衛隊線路撤去後だった気がする。
それにしても、東武鉄道の社史では昭和34年7月22日にこの路線を買収し運転営業免許を申請した。とあるが、この自衛隊内を通る部分はどうするつもりだったんだろう?線路に分断された南側は空き地状態なので、この時はまだ自衛隊の敷地ではなかったのであろうか。

 

2989 ここで、スクープ写真を紹介しましょう。自衛隊敷地を巡り、啓志線の痕跡が無いことがわかり落胆した一行でしたが、正門へ向かう途中、学芸員のS氏が”ん?あれは線路じゃないの?”と立ち止まった。それは、川越街道に接する部分に築島状に作られた「顕彰碑」へ渡るための橋で、確かに線路の廃材を利用して作られていた。残念なことに、時間が押せ押せで、詳しく調査をすることができず、写真を撮るのが精一杯であった。はたして、啓志線唯一の遺構となるのだろうか?

 

3004_2 その後、一行は上板橋駅までのルートを辿った。その間については、今まで、他の方々がレポートされている域を出ないので省略する。ただし、東武鉄道が設置した境界石柱が散見された。これは、学芸員氏が見つけてくれたもので、さすがによく物を見ていると感心しきりであった。
え?なぜその位置を示さないかですって?それは説明通り、私は案内人として、参加者の交通安全などに気を配るあまり、見落としていたからですよ。興味ある方は探してみて下さいネ! 

 

 

追記:

さて、今は西暦2019年、令和元年5月。この記事は2008年にUPしたもので、11年経ってから何を今更と思われるだろうが、今年3月にココログのシステムが変更され、どうやら過去記事の検索も改善されたようで古い記事が読まれるようになった。特に最近は当該記事へのアクセスを多くいただいているようですが、UPしてからすでに11年。現在では新たな資料も見つかり、特に昨年2018年には総集編のような形で啓志線の記事を書きましたので、そちらもどうぞご一読願います。

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チェコ大統領は板橋区から。

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早朝、テレビをつけながらウトウトしていると”〜来年のチェコ大統領選に日本人のオカムラ氏が立候補〜”というニュースが聞こえてきた。続いて本人のコメントが流れ”私は板橋区高島平で生まれて‥”という言葉で飛び起きた。


そこでネットを検索し記事を探すと‥

チェコ大統領選に日系人出馬表明 実業家オカムラ氏

【ウィーン共同】
19~20日投票のチェコ上院選挙で同国の実業家トミオ・オカムラ氏(40)の当選が決まり、オカムラ氏は20日、来年1月に行われるチェコ大統領選挙への出馬を正式表明した。オカムラ氏は日本人の父とチェコ人の母を持ち、東京都出身。
 オカムラ氏は上院議員に当選した理由について、地元メディアに「人々が大掛かりな変革を求めていることの表れだ」と述べた。世論調査でオカムラ氏は大統領選の立候補予定者のうち、支持率で3位につけている。チェコのメディアによると、オカムラ氏は1990年代に東京からチェコの首都プラハに移った。日本食材店などの事業を展開する傍ら、チェコのテレビにも出演し、現地での知名度は高い。


このニュース自体は21日に日本のメディアでも報じられていたが、板橋区高島平出身までは知らなかった。オカムラ氏は年齢40歳という。そう、高島平団地が出来て今年でちょうど40年、氏は高島平人一世なのだ。

まっ、たくさんのチェコの人達の支持を得ているのは喜ばしいことだけれど、前回の東京都知事選で東国原氏が百万票を得たように、オカムラ氏も「チェコのテレビにも出演し、現地での知名度は高い」、ということで思わず票が集まったような感じですかね。現状の政治に対する不満の現れでもあるんじゃないでしょうか。

オカムラ氏は、「私は東京の板橋区の高島平団地で生まれました。チェコのきれいなところを(日本人に)見せて、私がやれるかどうか分かりませんが、チェコと日本との間の橋になりたい」とおっしゃっているそうで、もしも大統領に選出されたら、高島平に凱旋訪問して下さいネ。


明後日は高島平図書館近くの旧高島第七小学校校庭で「高島平まつり」が行なわれます。
我が西洋流火術鉄砲隊保存会による空砲演武は28日(日曜日)午後1時30分から。是非お出で下さい!!

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板橋区民、嵐の中を行く。



2日続きの絵日記。

いま、板橋区民は東北自動車道の大河内SAでブレイクタイムをとっている。温かいココアが身にしみる。

大型台風の近づく中、投票を済ませ本降りの高速道を行くのは当然の理由があるわけで、それは我が板橋区の研究の為である。内容はまた何れかの時期に記事にしますが、最近絵日記以外の書き込みがないのは記事にするタイミングがなかなか合わないからなのである。決してサボってんじゃないのですよ。

板橋区民は温泉が好きだ。(以下略

いやーそれにしても雨が強い。無理をした甲斐があって良い資料をゲットできた。さて、温泉でも入って豪雨の帰路に備えるか‥今回訪れるのは佐久山温泉きみのゆだ。

ふぅ、板橋区民好みのぬる湯であった。泉質は贔屓の埼スポと同じヌルヌルアルカリ泉だけど明らかに黄色っぽいお湯で、微かに硫黄臭がした。ここは何年か前に訪れた喜連川早乙女温泉にほど近いので影響があるのだろうか。

さて、嵐のなか我が赤塚郷まで頑張ろう。

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板橋区民、那覇の戦跡を巡る。

おはようございます。
今朝の那覇市は良い天気。風は少しありますがシャツ1枚でも過ごせます。

本日のミッションは那覇周辺の戦跡巡りだ。それではGo!



最初の訪問地は「前田高地」。夏に日本で公開された映画ハクソー・リッジの戦闘があった場所ですね。



とりあえず先を急ぎます。



次はなにかと話題の普天間基地を望む嘉数高台公園展望台。ここは上陸した米軍との最初の激戦地だった場所だ。



エプロンにはあのオスプレーがズラリと並んでますね。



さて、お昼ご飯の後は豊見城跡近くにある旧海軍司令部壕見学だ。



ここは壕内の見学が出来るようになっている。



中はしっかりした作りだ。一見の価値がある。



さて、糸満市の沖縄平和記念公園に移動。



この公園は沖縄の戦闘が終わった糸満市の摩文仁の丘にある。沖縄戦で戦没した全ての人の名が刻まれた碑が建っている。



精進落としは那覇空港を望む瀬長島にある琉球温泉 龍神の湯を頂く。いやーとにかく沖縄のコバルトブルーの海を眺めながら浸かる露天風呂はサイコーだ。礼文島で入った露天風呂クラスのベストビュー。現在、新たな滑走路の建設が進んでいて、3年後には温泉に浸かりながら飛行機の離発着を観るという、飛行機マニアにはたまらんスポットになるだろう。


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板橋区民、会いに行く。晴海埠頭まで。

今日も暑い。いや、熱い。

こんな酷暑な中、板橋区民はいま、晴海埠頭にいる。イギリス海軍の揚陸母艦アルビオンに乗船するためだ。


開場時間に着いたので、すごい行列だ。酷暑なのであまり人は来ないと思ったが甘かった。


はぁはぁ、やっと手荷物検査場が見えてきた。海風で少しは涼しいが照り返しが熱い。。


ようやく乗艦。


中は当たり前だが広い。


本物の英国兵を囲むミリオタ諸氏。


自衛隊と違って武器に触り放題。大人気だ。



ビジュアルも良いですネ。いかにもイギリス兵って感じだ。


次はアルビオンに接待?として随伴している掃海母艦うらがに乗艦。


うらがは機雷を掃海するための船だ。



デッキにはこんなプレートが。

なんか生々しいですね。


艦橋内へ。


ミッション終了、下船。

酷暑の中、辛かったけど楽しかったです。イギリス兵って米軍と違って黒人を見かけませんね。

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板橋区民、地元旧家からネタを仕入れる。〜ミュージシャン・山下達郎は、赤塚郷で誕生した〜

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桜が終わり、今は藤の花が咲き始めましたね。
先日、赤塚郷でも指折りの旧家の方と話す機会があった。その方をT氏としよう。
T氏は60代後半で、音楽、それもジャズが大好きな方だ。前に、T氏所蔵の厖大なジャズの名盤やCDのコレクションを見せていただいたことがある。残念ながら、板橋区民はBGMとして聞くジャズは好きだが、アーチスト情報などには詳しくなかったので、ほとんどその価値はわからなかった。
そのT氏へ、最近、板橋区民はレジェンドアーチストのコンサートへ足を運ぶようになったんですよ、と言うと、こんな話をしてくれた。
板橋区民が思春期の頃から活動を続け、現在もその人気の衰えないアーチストに山下達郎がいる。山下達郎といえば毎年12月になればどこからともなく聞こえて来る名曲、「クリスマスイブ」が有名ですね。
T氏にはN氏という親戚がいて、N氏は赤塚郷民ならば必ずその名を目にする不動産屋を経営している。N家は、明治の後半に赤塚村の村長を務めた家柄であり、下赤塚駅の開業に尽力もした。そのN氏と山下達郎が中学の同級生で、音楽の話で意気投合し、アマチュア・バンドを結成した。グループは高校進学後も活発な活動を続けたが、高3の年に一時解散状態となった。しかし解散はしたものの、N氏は音楽活動を続け、結局、山下達郎も1969年の秋頃からその集団に参加するようになった。メンバー全員が大学に進学した1972年の春、今までの活動を自主制作のレコードにしてはどうかという提案が出されたのである。
そして、さっそくレコーディングをすることになり、その場所となったのが、N氏家の所有していた倉庫だった。その倉庫は、三園通り沿いの赤塚4丁目側にあったと言う。そこへ、ギター、ベース、ドラム、電気オルガン、ピアノを持ち込み、ヤマハのミキサーを使いステレオ録音を行った。収録曲数はA面B面で12曲、アルバムタイトルはADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」と付けられた。そのアルバムにはしっかりと録音場所として、”S.R.S.(SURFIN' RABBIT STUDIO)東京都板橋区赤塚”と記されている。
アルバム製作枚数は僅か100枚で、ほとんどがタダ同然で配られてしまった。しかし、レコードという形でしっかりと残したため、これをきっかけとして山下達郎のプロミュージシャンとしての活動が始まり、現在まで活躍は続いているのだ。
N氏と山下達郎との交際はいまも続いていて、T氏もN氏に連れられてコンサート中の楽屋へ連れて行ってもらったことがあるという。ちなみに、この100枚しか作らなかったレコードは、いまでは超希少版として100万円を超える値段で市場取引されている。

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ゴールデンウィークは、赤塚郷から始まった。(4年ぶり3回目)

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G.W.も始まろうというのにお天気がイマイチですね。

昨晩放送されたNHK「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」で”ゴールデンウィークの名付け親が判明。”というネタを取り上げていた。これについては過去何度か当ブログで記事にしましたが、せっかくなので一部修正して再掲します。

 

1951年(昭和26年)5月5日(土)、同じ原作を大映と松竹が同じ題名で映画化した「自由学校」が同時に封切られ、大映版の方は会社創業以来の興行成績を記録した。正月映画やお盆映画に匹敵するヒット作が出たことに気をよくした当時の大映常務取締役の松山英夫が、この時期を「ゴールデンウィーク」と名付けて宣伝に利用したのが定着し、一般にも使われるようになったのが始まりとされている。

「自由学校」は朝日新聞に1950年5月26日~同年12月11日に連載された獅子文六による長編小説である。獅子文六は当時の人気作家の一人で、その作品の多くが映画化されており、この作品については松竹と大映の両方が映画化権を得たことで競作となった。
 ストーリーは、自由が欲しいという理由で会社を辞めた五百助(松竹:佐分利信、大映:小野文春)が妻の駒子(松竹:高峰三枝子、大映:木暮実千代)に家を追い出され、ルンペン暮らしの末に和解して家に戻るまでを描いたものである。

この映画「自由学校」の大映版、実は我が赤塚郷で撮影されている。(‥全編ではないですが。)

主人公夫婦は、空襲の激しくなった都心を離れ、郊外の農村地帯へ疎開して来た設定だ。戦後になっても、まだ農家の離れに住んでいる。その、最寄駅が下赤塚駅なのだ。(映画内では駅名を武蔵間駅と変えられている。)撮影に使った農家も、おそらく赤塚の農家だろう。昭和50年頃まで、茅葺の大きな農家はあたりまえのように存在していた。

映画に登場する”下赤塚駅”の駅前風景は、さすがに70年前だけあって今とは全然違うけど、でも、よく見ると理解できると思う。特に駅横の踏切のカットは、カーブの様子や北側が低くなっている感じは現在と変わらない。それと、手前に写る旗、なんだかわかります?古い人には懐かしく、若い人には意味がわからんですね。これは踏切警手が電車の接近や通過を知らせてる風景です。昔の踏切は”手動”で踏切の開け閉めをしてたんですよ。

映画が撮影された頃は、まだ北口は無くて駅舎は南口だけだった。佇まいの古さから、昭和5年(1930年)12月29日に開業した初代駅舎と思われる。2枚目の写真左手の”ハヤシ薬局”は雑居ビルになったけど、ダイナマイト酒場の隣に今もある。奥の大きな日本家屋は、現在、1階が「すき屋」で2階が居酒屋「はなの舞」が入ったビルだけど、建物の角度が同じで、形も今と似ていますね。

他にも疎開先の農家から飛び出した五百助が駅まで向かうシーンや、雑木林で暴漢に襲われるシーン(コメディタッチ)なんかもありますが、いったいどこのド田舎なんだ?というロケーションで、撮影場所は見当もつかないけれど、でも赤塚郷のどこかなのは間違いない。それは、この、どこのド田舎なんだ?という雑木林の風景を、遥か昔の子供時代に、自分は確かに見ているからだ。

 

 

この回「大型連休のおなまえ」が、明日、4月27日午前10時05分からNHK総合で再放送されるので、観ていない方はどうぞ。放送中、大映版の赤塚郷撮影シーン2カットが一瞬ですが映ります。(農家の屋内と畑地を歩くシーン。)

 

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板橋区民、平成最後の日にBest of お宝 in Heisei を選ぶ。

とうとう「平成」最後の日がきましたね。板橋区民が”趣味・板橋区”宣言をして、板橋区及び周辺地域の資料収集を始めたのは、平成が始まってすぐのことでした。以来、自分の興味の赴くままに蒐集や研究を行い、昨年秋には地元郷土資料館でその一部が展示され、一定の成果を上げたと感じております。ただし、それらは輸送関係の資料のみであり、それは蒐集品のごく一部に過ぎない。そこで、平成の大晦日にちなみ、板橋区民の中で、これが数ある蒐集品の中で一番かなと思うお宝を発表します。

 

それでは、ドコドコドコドコドコ‥‥‥‥。ジャーン!

 

発表します! Best お宝・オブ・ザ・平成は‥‥。

 

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「成増陸軍飛行場関連資料」に決定!!

 

お宝は、終戦50周年の年、平成7年(1995.)より調査を始めた成増陸軍飛行場に関する資料で、当時の関係者へのインタビュー動画を始め、お預かりした手記や手紙、複写した写真、その他etc、を含める関連資料群だ。

現在の赤塚新町、練馬区田柄、光が丘地域に存在した成増飛行場については、ごく一部のことしか伝わっておらず、いまだによくわかっていない。当時の直接的な資料は、写真や防衛庁図書館に所蔵されている統計的な資料の他には、第43飛行場大隊におられた方が終戦時に処分をせず、平成の初めまでひた隠しにしていた1945年3月時点の成増基地をまとめたガリ版刷りの極秘資料が一冊あるだけだ。

その極秘資料は、おそらくは陸軍航空本部提出用に作成されたもので、飛行場の組織や基地周辺の体制などについては詳しく書かれているが年表などはなく、どんな経過で飛行場が作られ運用されていたかまではわからないのである。

飛行場の資料は進駐軍が来るまでに焼却処分されてしまったので、関係者の方が持ち出した資料が奇跡的に見つかる以外に望めない。兄弟飛行場である調布飛行場は、その建設が開戦前に東京府により行われたため、一次資料は東京都公文書館に残っているが、成増飛行場は開戦後に陸軍主導で設置されたため残っていないのである。

冒頭の写真地図は、米軍が空襲用のターゲットとして作成した成増陸軍飛行場と周辺を捉えた空中写真で、分析された情報も書き込まれている。最初の地図は1944年に作成されたもので、まだ情報が足りないのか「TAKAMATSUCYO AIRFIELD」と書かれている。2枚目の地図は1945年1月に作成されたもので、こちらでは「NARIMASU AIRFIELD」と変更されている。書き込まれた情報は詳細で、間違っている箇所もあるけれど、概ね正確だ。驚くのは送電線まで載っており、すでに戦闘機や小型爆撃機での空襲も想定しているのではないかと思われるのである。

 

これらの地図は板橋区民が蒐集したものだけれど、よくこんなピンポイントなお宝が手に入ったものだと、我ながらその奇遇さに感動する。明日から、”令和”時代が始まるけれど、さらに貴重なお宝が目の前に現れることを楽しみに待ちたいものです。

それでは、良い改元記念日を!

 

 

 

 

 

 

 

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祝!令和元年。〜板橋区民、初詣をする。〜

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板橋区民の皆様、令和元年おめでとうございます。

 

本日、5月4日。皇居長和殿にて、新天皇への代替わり初めての一般参賀が行われた。板橋区民は、天皇陛下は日本国の宮司の頂点におられる方と思うので、昭和天皇の頃より一般参賀へは、初詣として参っている。

今回は、前天皇陛下が御退位されての即位と言うことで、お祝いモード全開、テレビを見ると、日本全国でお祭り騒ぎをしているムードだ。一般参賀はG.W.真っ只中に行われるので、相当な人出を覚悟して出向いたけれど、あの広大な皇居前は老若男女善男善女で溢れかえっていた。まだ集計は発表されていないのだが、おそらくは今年新年の明仁天皇陛下最後の一般参賀くらいの人出はあるだろう。

板橋区民は、もしかすると次の時代には生きていないので、代替わりを経験するのはこれが最後かもしれない。もし生きていたとしても、一般参賀が始まるまでの長時間を持ちこたえる自信はないので、やっぱりこれが最後かと感慨深いのであった。

 

大混雑の皇居からの帰り道、東京国際フォーラムのイベントで挨拶をする小池百合子東京都知事を見かけた。こちらはすっかり存在感を無くしてしまっているけれど、来年の東京オリンピック、成功させてくださいね。それにしても今日は、日本国の象徴と東京都の首長に出会えるという貴重な日となりました。

2019

 

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板橋区民、令和最初のボランティアをする。

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G.W.ももう後半、令和最初のこどもの日はとても爽やかに過ごせましたね。

そんな休日の一日、板橋区民は、地元赤塚郷にある郷土資料館中庭で行われた「鎧着付け体験」で鎧を着付けするボランティアに参加した。今日は天気も良く絶好の外出日和で、却って体験会に来る方は少ないかと予想したけれど、遠出に疲れた方々がたくさんおられたのか、終わってみれば約230人余の方々が訪れ、大盛況に終わった。

使用している鎧はすべて手作りで、ベースは紙製だけれどとても良く仕上げてあり、写真映えする。製作は「赤塚城戦国絵巻武者行列」の方々で、特徴としては、乳幼児や幼稚園児も着用できる特製の鎧を独自に製作しているところであり、大変に好評だ。まっ、好評なのは親にだけであり、肝心の子供は嫌がって泣いたりすることも有りますが。

鎧着付け体験は、毎年5月のこどもの日と、3月の梅まつりの時にも行われるので、ぜひお越しくださいませ。

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