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啓志線について考察してみる。その4 ナゾの空白地帯を行く

 ナゾの空白地帯。もともとナゾばかりな啓志線だが、おそらく、今までだれもレポートして来なかったことについて紹介しよう。
 
 前回、啓志線跡を辿る案内人を務めて欲しい、と板橋区に依頼されたことは記した。与えられた時間は半日だったので、東武練馬駅集合にして上板橋駅まで歩くコースを設定した。どうせなら、練馬自衛隊の中を通って行きたいと思い、幸い、あることで練馬自衛隊の広報の方と面識があったので、見学をお願いし、快諾をいただいた。啓志線の自衛隊の中を走る部分については、それまで情報がなかったので、目玉企画になるに違いないと図ったのだ。せっかくだから、と、旧交通博物館の専任学芸員・S氏(現在・鉄道博物館学芸部長)と同・学芸課長のO氏、東武博物館学芸員・J女史にも参加していただいた。また、コラムのネタにしてもらうため、泉麻人先生もお呼びしたので、ずいぶん豪華なパーティーとなった。これだけの知能が集まれば、なにか発見があるかも、と期待に胸が膨らむ。こうして、一般公募者あわせ30名ほどの集団で、いざ啓志線を巡る旅は始まった。
‥ここから、プロの物書き風に見学記が書ければいいけど、当日は先頭に立って案内をしなくてはならず、それだけで頭が一杯であり、しかも、もう二年も前の話で記憶も薄れているので、要点と写真のみの紹介で済ますことにしちゃいます。期待してた方には申し訳ない。

 

1947S30Photo まずは、昭和22年と30年頃に撮影された空中写真の比較です。昭和22年の写真では、まだ敷地は練馬倉庫時代のままで、グラントハイツ建設用の資材が積み上がっている様子が見てとれます。貨車らしき車両が確認出来、敷地内は複線になっていたようです。自衛隊広報の話によると、貨物の積み降ろしに使われたプラットホームは、A地区の車両らしきものが止まっている付近にあったそうです。陸上自衛隊(警察予備隊)が発足した翌年の昭和26年、同時に練馬駐屯地が創立された。昭和30年頃の写真では、敷地内のほとんどの建物が建て替えられているのがわかりますね。では、現在ではどうなっているのだろうか。

 

543Photo_2 左のカラー写真は、史跡巡りの時に撮影したもの(A地区からB地区へ抜ける部分)。広報の話では、線路が撤去されてから敷地は整地されてしまい、痕跡は残っていないだろうとのことだった。しかし、線路が敷設されていたと思われるルートは想像することができた。モノクロの写真は、西側(グラントハイツ方面)に抜ける部分。警備の歩哨が立ち、複線の線路が単線に変る様子が写っているように見える。

 

Photo_3 写真は、「幻の鉄道部隊・消えた第101建設隊」という本から引用させていただいたもので、練馬自衛隊内の線路を撤去しているところが写されている。本文の年表によると、練馬駐屯地引き込み線撤収 第一次作業実施、昭和36年3月21日〜25日。第二次実施、4月3日〜8日と記載されている。啓志線の線路が完全撤去されたのがいつだったか、手元に資料が見つからなくうろ覚えだが、自衛隊線路撤去後だった気がする。
それにしても、東武鉄道の社史では昭和34年7月22日にこの路線を買収し運転営業免許を申請した。とあるが、この自衛隊内を通る部分はどうするつもりだったんだろう?線路に分断された南側は空き地状態なので、この時はまだ自衛隊の敷地ではなかったのであろうか。

 

2989 ここで、スクープ写真を紹介しましょう。自衛隊敷地を巡り、啓志線の痕跡が無いことがわかり落胆した一行でしたが、正門へ向かう途中、学芸員のS氏が”ん?あれは線路じゃないの?”と立ち止まった。それは、川越街道に接する部分に築島状に作られた「顕彰碑」へ渡るための橋で、確かに線路の廃材を利用して作られていた。残念なことに、時間が押せ押せで、詳しく調査をすることができず、写真を撮るのが精一杯であった。はたして、啓志線唯一の遺構となるのだろうか?

 

3004_2 その後、一行は上板橋駅までのルートを辿った。その間については、今まで、他の方々がレポートされている域を出ないので省略する。ただし、東武鉄道が設置した境界石柱が散見された。これは、学芸員氏が見つけてくれたもので、さすがによく物を見ていると感心しきりであった。
え?なぜその位置を示さないかですって?それは説明通り、私は案内人として、参加者の交通安全などに気を配るあまり、見落としていたからですよ。興味ある方は探してみて下さいネ! 

 

 

追記:

さて、今は西暦2019年、令和元年5月。この記事は2008年にUPしたもので、11年経ってから何を今更と思われるだろうが、今年3月にココログのシステムが変更され、どうやら過去記事の検索も改善されたようで古い記事が読まれるようになった。特に最近は当該記事へのアクセスを多くいただいているようですが、UPしてからすでに11年。現在では新たな資料も見つかり、特に昨年2018年には総集編のような形で啓志線の記事を書きましたので、そちらもどうぞご一読願います。

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板橋区民、地元旧家からネタを仕入れる。〜ミュージシャン・山下達郎は、赤塚郷で誕生した〜

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桜が終わり、今は藤の花が咲き始めましたね。
先日、赤塚郷でも指折りの旧家の方と話す機会があった。その方をT氏としよう。
T氏は60代後半で、音楽、それもジャズが大好きな方だ。前に、T氏所蔵の厖大なジャズの名盤やCDのコレクションを見せていただいたことがある。残念ながら、板橋区民はBGMとして聞くジャズは好きだが、アーチスト情報などには詳しくなかったので、ほとんどその価値はわからなかった。
そのT氏へ、最近、板橋区民はレジェンドアーチストのコンサートへ足を運ぶようになったんですよ、と言うと、こんな話をしてくれた。
板橋区民が思春期の頃から活動を続け、現在もその人気の衰えないアーチストに山下達郎がいる。山下達郎といえば毎年12月になればどこからともなく聞こえて来る名曲、「クリスマスイブ」が有名ですね。
T氏にはN氏という親戚がいて、N氏は赤塚郷民ならば必ずその名を目にする不動産屋を経営している。N家は、明治の後半に赤塚村の村長を務めた家柄であり、下赤塚駅の開業に尽力もした。そのN氏と山下達郎が中学の同級生で、音楽の話で意気投合し、アマチュア・バンドを結成した。グループは高校進学後も活発な活動を続けたが、高3の年に一時解散状態となった。しかし解散はしたものの、N氏は音楽活動を続け、結局、山下達郎も1969年の秋頃からその集団に参加するようになった。メンバー全員が大学に進学した1972年の春、今までの活動を自主制作のレコードにしてはどうかという提案が出されたのである。
そして、さっそくレコーディングをすることになり、その場所となったのが、N氏家の所有していた倉庫だった。その倉庫は、三園通り沿いの赤塚4丁目側にあったと言う。そこへ、ギター、ベース、ドラム、電気オルガン、ピアノを持ち込み、ヤマハのミキサーを使いステレオ録音を行った。収録曲数はA面B面で12曲、アルバムタイトルはADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」と付けられた。そのアルバムにはしっかりと録音場所として、”S.R.S.(SURFIN' RABBIT STUDIO)東京都板橋区赤塚”と記されている。
アルバム製作枚数は僅か100枚で、ほとんどがタダ同然で配られてしまった。しかし、レコードという形でしっかりと残したため、これをきっかけとして山下達郎のプロミュージシャンとしての活動が始まり、現在まで活躍は続いているのだ。
N氏と山下達郎との交際はいまも続いていて、T氏もN氏に連れられてコンサート中の楽屋へ連れて行ってもらったことがあるという。ちなみに、この100枚しか作らなかったレコードは、いまでは超希少版として100万円を超える値段で市場取引されている。

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ゴールデンウィークは、赤塚郷から始まった。(4年ぶり3回目)

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G.W.も始まろうというのにお天気がイマイチですね。

昨晩放送されたNHK「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」で”ゴールデンウィークの名付け親が判明。”というネタを取り上げていた。これについては過去何度か当ブログで記事にしましたが、せっかくなので一部修正して再掲します。

 

1951年(昭和26年)5月5日(土)、同じ原作を大映と松竹が同じ題名で映画化した「自由学校」が同時に封切られ、大映版の方は会社創業以来の興行成績を記録した。正月映画やお盆映画に匹敵するヒット作が出たことに気をよくした当時の大映常務取締役の松山英夫が、この時期を「ゴールデンウィーク」と名付けて宣伝に利用したのが定着し、一般にも使われるようになったのが始まりとされている。

「自由学校」は朝日新聞に1950年5月26日~同年12月11日に連載された獅子文六による長編小説である。獅子文六は当時の人気作家の一人で、その作品の多くが映画化されており、この作品については松竹と大映の両方が映画化権を得たことで競作となった。
 ストーリーは、自由が欲しいという理由で会社を辞めた五百助(松竹:佐分利信、大映:小野文春)が妻の駒子(松竹:高峰三枝子、大映:木暮実千代)に家を追い出され、ルンペン暮らしの末に和解して家に戻るまでを描いたものである。

この映画「自由学校」の大映版、実は我が赤塚郷で撮影されている。(‥全編ではないですが。)

主人公夫婦は、空襲の激しくなった都心を離れ、郊外の農村地帯へ疎開して来た設定だ。戦後になっても、まだ農家の離れに住んでいる。その、最寄駅が下赤塚駅なのだ。(映画内では駅名を武蔵間駅と変えられている。)撮影に使った農家も、おそらく赤塚の農家だろう。昭和50年頃まで、茅葺の大きな農家はあたりまえのように存在していた。

映画に登場する”下赤塚駅”の駅前風景は、さすがに70年前だけあって今とは全然違うけど、でも、よく見ると理解できると思う。特に駅横の踏切のカットは、カーブの様子や北側が低くなっている感じは現在と変わらない。それと、手前に写る旗、なんだかわかります?古い人には懐かしく、若い人には意味がわからんですね。これは踏切警手が電車の接近や通過を知らせてる風景です。昔の踏切は”手動”で踏切の開け閉めをしてたんですよ。

映画が撮影された頃は、まだ北口は無くて駅舎は南口だけだった。佇まいの古さから、昭和5年(1930年)12月29日に開業した初代駅舎と思われる。2枚目の写真左手の”ハヤシ薬局”は雑居ビルになったけど、ダイナマイト酒場の隣に今もある。奥の大きな日本家屋は、現在、1階が「すき屋」で2階が居酒屋「はなの舞」が入ったビルだけど、建物の角度が同じで、形も今と似ていますね。

他にも疎開先の農家から飛び出した五百助が駅まで向かうシーンや、雑木林で暴漢に襲われるシーン(コメディタッチ)なんかもありますが、いったいどこのド田舎なんだ?というロケーションで、撮影場所は見当もつかないけれど、でも赤塚郷のどこかなのは間違いない。それは、この、どこのド田舎なんだ?という雑木林の風景を、遥か昔の子供時代に、自分は確かに見ているからだ。

 

 

この回「大型連休のおなまえ」が、明日、4月27日午前10時05分からNHK総合で再放送されるので、観ていない方はどうぞ。放送中、大映版の赤塚郷撮影シーン2カットが一瞬ですが映ります。(農家の屋内と畑地を歩くシーン。)

 

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板橋区民、平成最後の日にBest of お宝 in Heisei を選ぶ。

とうとう「平成」最後の日がきましたね。板橋区民が”趣味・板橋区”宣言をして、板橋区及び周辺地域の資料収集を始めたのは、平成が始まってすぐのことでした。以来、自分の興味の赴くままに蒐集や研究を行い、昨年秋には地元郷土資料館でその一部が展示され、一定の成果を上げたと感じております。ただし、それらは輸送関係の資料のみであり、それは蒐集品のごく一部に過ぎない。そこで、平成の大晦日にちなみ、板橋区民の中で、これが数ある蒐集品の中で一番かなと思うお宝を発表します。

 

それでは、ドコドコドコドコドコ‥‥‥‥。ジャーン!

 

発表します! Best お宝・オブ・ザ・平成は‥‥。

 

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「成増陸軍飛行場関連資料」に決定!!

 

お宝は、終戦50周年の年、平成7年(1995.)より調査を始めた成増陸軍飛行場に関する資料で、当時の関係者へのインタビュー動画を始め、お預かりした手記や手紙、複写した写真、その他etc、を含める関連資料群だ。

現在の赤塚新町、練馬区田柄、光が丘地域に存在した成増飛行場については、ごく一部のことしか伝わっておらず、いまだによくわかっていない。当時の直接的な資料は、写真や防衛庁図書館に所蔵されている統計的な資料の他には、第43飛行場大隊におられた方が終戦時に処分をせず、平成の初めまでひた隠しにしていた1945年3月時点の成増基地をまとめたガリ版刷りの極秘資料が一冊あるだけだ。

その極秘資料は、おそらくは陸軍航空本部提出用に作成されたもので、飛行場の組織や基地周辺の体制などについては詳しく書かれているが年表などはなく、どんな経過で飛行場が作られ運用されていたかまではわからないのである。

飛行場の資料は進駐軍が来るまでに焼却処分されてしまったので、関係者の方が持ち出した資料が奇跡的に見つかる以外に望めない。兄弟飛行場である調布飛行場は、その建設が開戦前に東京府により行われたため、一次資料は東京都公文書館に残っているが、成増飛行場は開戦後に陸軍主導で設置されたため残っていないのである。

冒頭の写真地図は、米軍が空襲用のターゲットとして作成した成増陸軍飛行場と周辺を捉えた空中写真で、分析された情報も書き込まれている。最初の地図は1944年に作成されたもので、まだ情報が足りないのか「TAKAMATSUCYO AIRFIELD」と書かれている。2枚目の地図は1945年1月に作成されたもので、こちらでは「NARIMASU AIRFIELD」と変更されている。書き込まれた情報は詳細で、間違っている箇所もあるけれど、概ね正確だ。驚くのは送電線まで載っており、すでに戦闘機や小型爆撃機での空襲も想定しているのではないかと思われるのである。

 

これらの地図は板橋区民が蒐集したものだけれど、よくこんなピンポイントなお宝が手に入ったものだと、我ながらその奇遇さに感動する。明日から、”令和”時代が始まるけれど、さらに貴重なお宝が目の前に現れることを楽しみに待ちたいものです。

それでは、良い改元記念日を!

 

 

 

 

 

 

 

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祝!令和元年。〜板橋区民、初詣をする。〜

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板橋区民の皆様、令和元年おめでとうございます。

 

本日、5月4日。皇居長和殿にて、新天皇への代替わり初めての一般参賀が行われた。板橋区民は、天皇陛下は日本国の宮司の頂点におられる方と思うので、昭和天皇の頃より一般参賀へは、初詣として参っている。

今回は、前天皇陛下が御退位されての即位と言うことで、お祝いモード全開、テレビを見ると、日本全国でお祭り騒ぎをしているムードだ。一般参賀はG.W.真っ只中に行われるので、相当な人出を覚悟して出向いたけれど、あの広大な皇居前は老若男女善男善女で溢れかえっていた。まだ集計は発表されていないのだが、おそらくは今年新年の明仁天皇陛下最後の一般参賀くらいの人出はあるだろう。

板橋区民は、もしかすると次の時代には生きていないので、代替わりを経験するのはこれが最後かもしれない。もし生きていたとしても、一般参賀が始まるまでの長時間を持ちこたえる自信はないので、やっぱりこれが最後かと感慨深いのであった。

 

大混雑の皇居からの帰り道、東京国際フォーラムのイベントで挨拶をする小池百合子東京都知事を見かけた。こちらはすっかり存在感を無くしてしまっているけれど、来年の東京オリンピック、成功させてくださいね。それにしても今日は、日本国の象徴と東京都の首長に出会えるという貴重な日となりました。

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板橋区民、令和最初のボランティアをする。

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G.W.ももう後半、令和最初のこどもの日はとても爽やかに過ごせましたね。

そんな休日の一日、板橋区民は、地元赤塚郷にある郷土資料館中庭で行われた「鎧着付け体験」で鎧を着付けするボランティアに参加した。今日は天気も良く絶好の外出日和で、却って体験会に来る方は少ないかと予想したけれど、遠出に疲れた方々がたくさんおられたのか、終わってみれば約230人余の方々が訪れ、大盛況に終わった。

使用している鎧はすべて手作りで、ベースは紙製だけれどとても良く仕上げてあり、写真映えする。製作は「赤塚城戦国絵巻武者行列」の方々で、特徴としては、乳幼児や幼稚園児も着用できる特製の鎧を独自に製作しているところであり、大変に好評だ。まっ、好評なのは親にだけであり、肝心の子供は嫌がって泣いたりすることも有りますが。

鎧着付け体験は、毎年5月のこどもの日と、3月の梅まつりの時にも行われるので、ぜひお越しくださいませ。

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練馬区、不思議な空間を創る。

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爽やかな空気の日々が続きますね。まるで夏の軽井沢か北海道のようです。

 

東武練馬駅南口すぐ、旧川越街道筋に、なんとも中途半端な空間ができていた。ここには、少なくとも板橋区民が幼少の頃から布団屋さんがあった。店の中には入ったことはないけれど、貸し布団が主体だったのだろう。昭和の時代まで、貸し布団業は盛況だったように記憶している。あの頃はストライキで泊まり込みも多かったし、旅館などへの需要もあった。

店は数年前に営業を止め、しばらく空き地になっていて、次は商業ビルでも建つのかと思っていたのが、まさか広場?になるとは想像外だった。土蔵?を模したような塀?にはプレートがはめ込まれ、そこには「練馬区立本陣跡地緑地」と書かれている。これが緑地?なのかということはさておいて、緑地の奥には黄金に輝く大根のモニュメントが鎮座している。

モニュメントには説明板が設置されており、「下練馬献上大根碑」との名称であることがわかる。説明文を読むと、”ここ北町には徳川綱吉が幼少の頃に御殿があり、体の弱かった綱吉が一時御殿で療養し、その時に大根を栽培させ、江戸城に戻ってからもこの土地の大根を献上させた。”ことと、この場所に下練馬宿の本陣があったことを合体させて、「本陣跡地緑地」としたらしい。

記憶のみで書きますが、確かこの場所には戦後まで名主大木家の醤油醸造工場があった場所なので、縁があるっちゃあるけれど、それにしても中途半端すぎないか?いや、中途半端な敷地なのでこうなった、と言えなくもないけれど、敷地外の景観が良いわけじゃなし、座る場所があるわけもなく、どうすりゃいいの??って感じだ。

おそらくこの土地は、練馬区に物納されたのだろうけれど、もっとこう、防災関連の倉庫とか立体駐輪場とか活かせる方法はなかったのだろうか。当然、議論はあったのだろうけれど、単に予算がないから取り敢えず緑地にしたのか、とにかくなんだかよくわからない空間だなあ。。

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板橋区民、新中央図書館開館をワクワクしながら待つがその前にミニ知識を書き留める。

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暑い。もう夏なのか。

この10連休のある日、板橋区民がときわ通りを走行していると、平和公園で大きな工事が始まっていた様子を目にした。そうか、ようやく新たな板橋区立中央図書館の建設が始まったかと、感慨を深くした。

現在のときわ台駅北口にある中央図書館が開設されたのは1970年のこと。板橋区民も高校生の頃から何度か利用していたが、さすがに設備が古くなっていたことや、近年では練馬区や北区の図書館のほうが充実している感があったので、いつしか足が遠のいていた。

しかし、ようやく待望の新中央図書館が計画されたのが2013年のこと。それでも噂では地域区民によるいろいろな意見があり建設計画は足踏みをしていると耳にしていたけれど、2020年度中には開館の運びとなるようで誠に喜ばしいかぎりである。

新図書館は地上3階地下1階の作りで、緑の中に佇む公園一体型の図書館となる。板橋区民にとって喜ばしいのは、3階に広い地域資料エリアが設けられる予定があることだ。今でも図書館には地域資料エリアはあるけれど、規模は狭いし、肝心の地域資料が各地図書館に分散していて非常に面倒くさく、常々、”ここに行けば全部揃っている”状態を望んでいたので、是非とも公文書館にある資料も含めて移設してほしいものである。

さらに、東京都中央図書館並みとは言わないけれど、練馬区の光が丘図書館のように新聞検索や国立国会図書館の電子化書籍(国立国会図書館内でしかアクセスできない電子化書籍を含む)を検索できるPCシステムを導入していただきたい。光が丘図書館では、光が丘地域の歴史を扱ったコーナーがあり、独自に情報を集めたり、私家本も置いてありとても充実しているのだ。そこには、板橋区民渾身の私家本、「成増陸軍飛行場記」も置いていただいているのである。区内の図書館でも、たまに地域の方が自費出版した本が置いてある所があるけれど、そのような本も一堂に集めていただけたら、と思う。

 

さて、この新中央図書館が建設されている平和公園には、昔、何があったのでしょうか? ‥そりゃ畑か林だろ。正解。いやいや、そんな近代以前の話じゃなくて昭和の話。

昭和時代、それも戦時中のこと、この場所には「高射砲陣地」が構築されていた。駐屯していたのは、高射砲第116連隊第1大隊第6中隊。6基の7センチ半野戦高射砲が半円状に据えられていた。最近、この近くから高射砲の弾殻が発掘され、郷土資料館に寄贈された。以前記事に書いた「常盤台住民驚く。〜空からP-51Dが降ってきた〜」も、この陣地の放った高射砲弾による撃墜の可能性があるのだ。

戦時中の空中写真を重ねてみると、新図書館の場所には高射砲部隊の付帯設備(宿舎等の建物)があり、戦後は、東京教育大学の桐花寮として使用されていたようだ。一番東側の高射砲の台座がギリギリ工事予定地にかかりそうではあるけれど、なにか遺物でも出てこないかな、と期待している。新図書館開館の暁には、是非、ここに志村地区防衛のための高射砲陣地があったことを、伝えてほしいなあ‥

 

 

 

 

 

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⭐️貴重資料は突然に!⭐️板橋区民、令和最初にして最高のお宝資料を手に入れる。〜赤塚郷最新発掘速報付き!〜

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板橋区民はやはり”持って”いる。24時間常に念じていると、こんな貴重資料に出会えることもあるんだなあ。。(しみじみ)

今回、板橋区民の元へやってきた資料は、成増陸軍飛行場の平面詳細図である。テトリスのような形をした成増飛行場の図は、防衛省図書館に所蔵されている防空関係の資料にも残っているが、詳細な図面については、元第43飛行場大隊の関係者が残した極秘資料の中に記載されている物が唯一であった。

手に入れた平面図は昔の青焼きの複写物で、残念ながら経年劣化により文字が非常に読み取りにくい状態にある。作成された経緯を想像すると、表紙には英語でNarimasu A.F.とあり、中にある図面に描かれた付帯設備の名称にも、例えば「厠 Toilet」のように英称が併記されているところから、終戦後にGHQへ提出するために作成された平面図と思われる。このような図は他にも、板橋区立郷土資料館に収められている第二造兵廠の平面図がある。

この平面図の詳細な解析はこれから行うが、極秘資料の図と比較すると建屋がだいぶ減っており、米艦載機により空襲が始まって以降、建物の取り壊しが行われた様子が伺え、そのことからも終戦直後の状況を示す平面図であることがわかる。

それにしても劣化が著しく、すぐに対処しないと図や文字が消えてしまう恐れがある。取り合えずコピー専門業者に持ち込んで相談してみよう。

 

 

さて、最新の発掘ニュースをひとつ。

つい最近、我が赤塚郷、成増5丁目のマンション建設現場から、平安〜奈良時代の横穴式墓地が2基発見された。しかも横穴だけではなく、人骨のある状態で発見され、遺骸の周りを小石で囲むなど装飾がなされているとか。板橋区内としてはこの時代の墓は初めての発見で、詳細な調査が進められている。同時代の板橋区は非常に人口の少ない(人の住んでいた痕跡の発掘が極端に少ない)時期であり、調査結果が楽しみだ。

 

 

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1945年7月10日午前6時35分の悲劇。〜赤塚高射砲陣地、沈黙ス。〜

 令和の御代となり一ヶ月が過ぎました。もうじき梅雨となりますが、近年の天候が東南アジア化してきているようで、災害が心配ですね。

 

昨年秋のこと、我が母校、赤塚第一中学校から新大宮バイパスを挟んで北西側の段丘に展開していた高射砲部隊・下赤塚中隊のことを記事にしました。その後、米軍艦載機による日本空襲について研究をされている、ブログ・「連合国海軍による日本本土攻撃」の主催者さまより、1945年7月10日に赤塚高射砲陣地を急襲した艦載機の作戦行動に関する「アクション・レポート」の提供をいただいたので、その報告書を元に、より詳細な当日の状況を解説します。

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赤塚高射砲陣地は、成増陸軍飛行場防空の目的で、1942年12月に同地に構築された。陣地内には砲座、指揮所、砲側弾薬庫、電気照準具の保護設備、砲側待機所等が半地下もしくは地下に構築され、陣地に隣接した場所には中隊の宿舎が設けられた。下赤塚中隊全体で、160名余が所属していたようである。

1945年7月1日、沖縄や九州攻撃の任務を終え、編成替えを行った米海軍第38任務部隊が、フィリピン・レイテ島の基地を出撃した。目的は、11月に予定された南九州上陸作戦を前に、本州や北海道の基地、軍需工業地帯を空母艦載機によって攻撃することであった。10日早朝、この日の攻撃目標であった関東各地の飛行場へ向け、16隻の空母から一斉に米艦載機が飛び立った。このうち、ヨークタウンおよびシャングリラから出撃したVBFー88中隊とVBFー85中隊計24機が、成増飛行場を目標としていた。

ここで、提供いただいた米海軍の「アクション・レポート」をご覧いただきたい。

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ざっと解説すると、空母ヨークタウン所属のVBF-88中隊と空母シャングリラ所属のVBF-85中隊が、1945年7月10日、ミッション「敵航空基地破壊作戦/成増&調布基地」を遂行。VBF-88中隊は北緯34度、東経142度30分付近の海域から午前5時に発艦、午前9時30分に帰還、とある。ヨークタウン所属中隊機はFG-1D(グッドイヤー社製F4Uコルセア)12機、シャングリラ所属の中隊はF4U-1D 12機である。搭載された爆弾は、VT信管付き260ポンド破片爆弾、通常260ポンド破片爆弾、5インチロケット弾である。

破片爆弾とは、爆弾の周りにベルト状の鉄板をコイルのようにぐるぐると巻きつけたもので、爆発と同時に鉄板が砕け散り、破壊力や殺傷力を高めたものである。これに、VT信管=近接信管(信管内部の真空管から電波を発し、目標の手前で爆発させることができた)を付けて使用した。爆弾を空中で爆破させることにより、無蓋掩体に置かれた飛行機や、半地下の防空壕、胸墻(きょうしょう‥敵弾を避けるために胸の高さまで築いた盛り土)や遮蔽物に隠れた防空砲台の兵士へのダメージを狙っていた。

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空母ヨークタウンの滞在地点は上の海図に記した地点で、空母シャングリラは少し離れた海域にいた。

 

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次は、攻撃の記録である。VBF-88中隊は、成増の他に調布と松戸の基地を攻撃した。攻撃地点に雲は無く、視界は15マイルあった(VBF-85中隊のレポートでは20000フィート上空に雲量2の雲と報告)。攻撃方法は急降下で、爆撃照準にはマーク8型照準機を使用し、高度4000フィート(約1200メートル)から爆弾を投下した。成増上空到達は午前6時36分だった。

目標1は成増飛行場から北東に3500フィート(約1キロ)の地点にあるAA(対空砲陣地)で、2機がVT信管付き破片爆弾とロケット弾を使用し攻撃を行った。このAAは赤塚高射砲陣地と思われ、照準の範囲20’X20’とは6mX6mであり、6基ある高射砲のうちの1基に照準点を定めて攻撃したと考えられる。目標2は飛行場北側にある駐機場で、1機が普通破片爆弾とロケット弾で攻撃した。目標3は飛行場西側の対空砲で、1機が普通破片爆弾とロケット弾で攻撃を行った。以上が成増飛行場に対する攻撃で、目標4以下はヤマガミト?飛行場、松戸飛行場、調布飛行場への攻撃だった。

一方、VBF-85中隊は午前6時45分に成増上空に到達、12機全てが成増飛行場を攻撃した。この攻撃に対する所感は以下のとおり。「3発のVT破片爆弾が南西防壁地域で爆発するのが観察された。 1発が滑走路に隣接する着陸区域で爆発するのが観察された。 3発が飛行場の南東角で観察され、4発は観察されなかったが目標地域に命中したと想定される。 損傷は観察できなかった。 燃えたと見られる飛行機はないが、未確定数の飛行機への損害は想定される。 ロケット弾と弾薬は防壁区域で命中したが、正確な命中は見られなかった。」

他に、鉄道または道路橋に1機がロケット弾で攻撃、1機が飛行場北側にあるラジオ塔をロケット弾で攻撃したが、損傷は与えられなかったようだ。この鉄道とは東上線と思われるが、白子川を挟む谷に架かる鉄橋部分が攻撃を受けたのだろう。

 

「アクション・レポート」には続きとして、今回の作戦についての詳細な報告が付記されている。以下に日本語訳のみ書き記します。

「掃討作戦は午前5時まもなく、本州の犬吠埼約237キロ、成増飛行場の攻撃地点から約350キロの地点から行われた。空中集合ののち、5時15分に進発、掃討隊は高度約4200メートルで海岸線に達した。この時点での速度は約270キロ、HART少佐は防御的な編隊に展開し、スピードを300から320キロに上げ急降下コースをとった。飛行隊は竜ヶ崎の南と大沢の北側を良好な西風を受けながら数マイル過ぎた。午前6時35分、目標に到達。西から東に向け約4200メートル上空から約200メートルまで急降下し、飛行場の北側に位置する目標に爆弾とロケット弾が投下された。すべての飛行機による急降下爆撃でいくつかの目標を攻撃したが、戦果の確認はできなかった。攻撃時の敵対空砲は、中程度の激しさで不正確だった。急降下後は1500メートルまで上昇し、成増飛行場の北18キロの川越上空で集合した。その後、調布飛行場への爆弾投下と砲撃を行うために、HART少佐とSHEFLOE大尉、WOOLWAY大尉の1小隊が南下して攻撃を仕掛けた。SHEFLOE大尉の小隊は、2ヶ所の目標に対し、最初の攻撃で彼らの爆弾を放つことができなかった。そのため、2度目の攻撃の後、松戸飛行場へ向かい、格納庫エリアに爆弾を投下した。戦果は確認できなかった。

この掃討作戦では戦果を観察できなかったが、VT信管付き破片爆弾による戦果を確認することは困難であることを念頭に置く必要がある。照準点は指示通りであり、ダメージをあたえられた可能性はある。敵は現在、飛行場からかなり離れた場所にある分散エリアに、彼らの飛行機を偽装する努力をしている。偽装された防壁は自然な地形を生かして造られている。帰還した小隊長らの結論は、偽装された航空機や設備を適切に確認するには、木枝への砲撃と爆撃を開始しなければならず、急降下爆撃は、明らかに大きな標的または重視された標的に限定されるべきである。」

 

さて、米軍側のレポートに対し、日本軍側の様子はどうであったろうか。それは、前回の当該記事にも載せましたが、下に再掲します。赤塚高射砲陣地の元中隊長による戦後40年目の回想です。

「忘れもしません。昭和二十年七月十日東の空が漸く明けきった頃、東方地平線上に黒ゴマを撒いた様に数百機の敵艦載機の大編隊が我が陣地めがけて殺到してくるのが望見されました。機影はみるみる大きさを増し、正に雲霞の如き表現があてはまる敵機との死闘が開始されました。赤塚隊各掩帯内の砲座と敵機の壮絶なる一騎打ちが繰り返され始めたのです。時刻をかえり見るいとまなぞ毫もありません。突如上空の雲塊からコルセアの一群が急降下で現れ、数発投下した爆弾の一発が、第五掩帯内の砲座に折悪しく命中し大炸裂音とともに肉片が飛び散り、分隊長狩野辰一軍曹以下九名が壮裂な戦死を遂げ、小隊長ほかが負傷を負ったのであります。あたり一帯土けむりに覆われ視界は全く零の状態となりましたが、戦友は戦いの間をぬって、救出に遺体の収容にあたりました。敵機が去ると同時に戦死者を掩帯付仮眠所内に安置いたし、直ちに手厚く慰霊の通夜にあたった次第であります。朝な夕な寝食を共にし、肉親ともかわらぬ深い絆で生死を誓い合った我が友を一瞬に失った悲しみが満ち溢れ、死体にすがって慟哭するもの、悲嘆の涙にくれるものの中にあって、私もただただ涙がとめどなく流れて断腸の思いで胸がいっぱいでありました。」

 

当記事を書くにあたり快く資料を提供いただいた、ブログ・「連合国海軍による日本本土空襲」主催者さまに、厚く御礼申し上げます。

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