映画・テレビ

啓志線について考察してみる。その4 ナゾの空白地帯を行く

 ナゾの空白地帯。もともとナゾばかりな啓志線だが、おそらく、今までだれもレポートして来なかったことについて紹介しよう。
 
 前回、啓志線跡を辿る案内人を務めて欲しい、と板橋区に依頼されたことは記した。与えられた時間は半日だったので、東武練馬駅集合にして上板橋駅まで歩くコースを設定した。どうせなら、練馬自衛隊の中を通って行きたいと思い、幸い、あることで練馬自衛隊の広報の方と面識があったので、見学をお願いし、快諾をいただいた。啓志線の自衛隊の中を走る部分については、それまで情報がなかったので、目玉企画になるに違いないと図ったのだ。せっかくだから、と、旧交通博物館の専任学芸員・S氏(現在・鉄道博物館学芸部長)と同・学芸課長のO氏、東武博物館学芸員・J女史にも参加していただいた。また、コラムのネタにしてもらうため、泉麻人先生もお呼びしたので、ずいぶん豪華なパーティーとなった。これだけの知能が集まれば、なにか発見があるかも、と期待に胸が膨らむ。こうして、一般公募者あわせ30名ほどの集団で、いざ啓志線を巡る旅は始まった。
‥ここから、プロの物書き風に見学記が書ければいいけど、当日は先頭に立って案内をしなくてはならず、それだけで頭が一杯であり、しかも、もう二年も前の話で記憶も薄れているので、要点と写真のみの紹介で済ますことにしちゃいます。期待してた方には申し訳ない。

 

1947S30Photo まずは、昭和22年と30年頃に撮影された空中写真の比較です。昭和22年の写真では、まだ敷地は練馬倉庫時代のままで、グラントハイツ建設用の資材が積み上がっている様子が見てとれます。貨車らしき車両が確認出来、敷地内は複線になっていたようです。自衛隊広報の話によると、貨物の積み降ろしに使われたプラットホームは、A地区の車両らしきものが止まっている付近にあったそうです。陸上自衛隊(警察予備隊)が発足した翌年の昭和26年、同時に練馬駐屯地が創立された。昭和30年頃の写真では、敷地内のほとんどの建物が建て替えられているのがわかりますね。では、現在ではどうなっているのだろうか。

 

543Photo_2 左のカラー写真は、史跡巡りの時に撮影したもの(A地区からB地区へ抜ける部分)。広報の話では、線路が撤去されてから敷地は整地されてしまい、痕跡は残っていないだろうとのことだった。しかし、線路が敷設されていたと思われるルートは想像することができた。モノクロの写真は、西側(グラントハイツ方面)に抜ける部分。警備の歩哨が立ち、複線の線路が単線に変る様子が写っているように見える。

 

Photo_3 写真は、「幻の鉄道部隊・消えた第101建設隊」という本から引用させていただいたもので、練馬自衛隊内の線路を撤去しているところが写されている。本文の年表によると、練馬駐屯地引き込み線撤収 第一次作業実施、昭和36年3月21日〜25日。第二次実施、4月3日〜8日と記載されている。啓志線の線路が完全撤去されたのがいつだったか、手元に資料が見つからなくうろ覚えだが、自衛隊線路撤去後だった気がする。
それにしても、東武鉄道の社史では昭和34年7月22日にこの路線を買収し運転営業免許を申請した。とあるが、この自衛隊内を通る部分はどうするつもりだったんだろう?線路に分断された南側は空き地状態なので、この時はまだ自衛隊の敷地ではなかったのであろうか。

 

2989 ここで、スクープ写真を紹介しましょう。自衛隊敷地を巡り、啓志線の痕跡が無いことがわかり落胆した一行でしたが、正門へ向かう途中、学芸員のS氏が”ん?あれは線路じゃないの?”と立ち止まった。それは、川越街道に接する部分に築島状に作られた「顕彰碑」へ渡るための橋で、確かに線路の廃材を利用して作られていた。残念なことに、時間が押せ押せで、詳しく調査をすることができず、写真を撮るのが精一杯であった。はたして、啓志線唯一の遺構となるのだろうか?

 

3004_2 その後、一行は上板橋駅までのルートを辿った。その間については、今まで、他の方々がレポートされている域を出ないので省略する。ただし、東武鉄道が設置した境界石柱が散見された。これは、学芸員氏が見つけてくれたもので、さすがによく物を見ていると感心しきりであった。
え?なぜその位置を示さないかですって?それは説明通り、私は案内人として、参加者の交通安全などに気を配るあまり、見落としていたからですよ。興味ある方は探してみて下さいネ! 

 

 

追記:

さて、今は西暦2019年、令和元年5月。この記事は2008年にUPしたもので、11年経ってから何を今更と思われるだろうが、今年3月にココログのシステムが変更され、どうやら過去記事の検索も改善されたようで古い記事が読まれるようになった。特に最近は当該記事へのアクセスを多くいただいているようですが、UPしてからすでに11年。現在では新たな資料も見つかり、特に昨年2018年には総集編のような形で啓志線の記事を書きましたので、そちらもどうぞご一読願います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

板橋区と高倉健。

50207


 ‥いや、わかってます。何でもかんでも板橋区と関連付けるのは恥ずかしくないのか?ってコト。でもココはそういうブログなんです。。

今週水曜日(19日)、俳優の高倉健さんが都内の病院で逝去されたというニュースが日本列島をかけめぐった。各マスコミでは特集が組まれ、追悼の映画がテレビで放映されたり急遽放送が決まったり、と賑やかだ。特にNHKは生前最後の独占密着映像を持っているせいか、張り切りぶりが目立つ。昨夜は”クロ現”でも特集され、この週末には密着ドキュメンタリーの再放送を総合で行なうようだ。渥美清さんが亡くなった時も同じようなことをしていたっけ、と思い出した。

健さんの逝去が発表されると、追悼コメントを求めて縁の方々へマスコミが殺到していたが、その中で、映画監督の山田洋次氏が「撲にとって渥美清さんと高倉健さんは、間違いなく、めぐり合うことのできた2人の偉大な俳優でした。」とおっしゃっていた。健さんと渥美さんは山田監督の松竹映画「幸せの黄色いハンカチ」で共演もしている。

渥美清さんはあまりにも「男はつらいよ」シリーズが有名なため、”東京の下町生まれで下町育ち”のイメージが強い。しかし、確かに生まれは上野車坂(昭和3年・1928年)だが、8歳の時に板橋区清水町へ転居し、現在の志村第一小学校へ通い、卒業後は志村の高等小学校・国民学校を出て戦時中を板橋区内で過ごした。志村第一小学校には渥美清の記念コーナーが作られている。

で、健さんと板橋区の関係は‥

まず思い浮かぶのは、1975年公開の東映製作「新幹線大爆破」っすね。もう何度か書いてますがその内容は‥

<東京発博多行の「ひかり109号」に爆弾が仕掛けられた。その爆弾は「時速が80キロ以下になると自動的に爆発する」という恐るべき物であった。やがてデモとして仕掛けられた貨物列車が爆発脱線し、爆弾の存在は疑いが無くなる。大捜査線を展開する警察、爆弾解除を試みる国鉄、事実を知らされ騒然となる109号の1200人の乗員乗客達。博多に到着する12時間の間に事件は解決するのか?そして、犯人達の狙いは一体何なのか?>というストーリーで、この犯人達のリーダを演じているのが健さんだ。

当時は「ジョーズ」とか「大地震」とか「タワーリングインフェルノ」といったパニック映画がブームで、この映画もそれに便乗した体裁をとっている。しかし、これは営業の煽り文句に過ぎず、実は、その根底には高倉健さんがひたすら演じ続けてきた”社会の不条理に追いつめられた男が、最後の最後に立ち上がる”ということが根底に描かれている。
「新幹線大爆破」では、高度経済成長の時代に落ちこぼれた、社会の負け犬たちが寄り集まり、起死回生を求め、高度成長の象徴の一つとして、新幹線を狙う。社会に対する恨みが犯行の動機だけれども、むしろ体制への反抗という面を持っているのだ。

映画では、犯人達のリーダーである健さんは、板橋区志村で町工場を営んでいるという設定だ。その工場は河の近くにあるので、新河岸か舟渡あたりなのだろう。他の仲間も三田線の蓮根駅近くの女のアパートに潜伏していたり、志村車両工場での緊迫したアクションシーンも有りとなかなか板橋人を楽しませてくれる映画だ。


健さんと板橋区を結ぶもう一つの映画がある。それが2001年公開の東映創立50周年記念作品「ホタル」だ。ストリーはこうだ。

「鹿児島県知覧で漁師をしている山岡(高倉健)とその妻・朋子(田中裕子)。朋子は肝臓を患い透析を続けていた。時は昭和が終わり、平成に時代が移り変わったある日、山岡の元に青森から、藤枝が雪山で自殺をしたという知らせを受ける。藤枝は山岡と同じ、特攻隊の生き残りでもあった。
山岡は、かつて特攻隊員に“知覧の母”と呼ばれていた富屋食堂の女主人・山本富子から、ある事を頼まれる。それは体が不自由になった山本に変わって、特攻で散った金山少尉(本名:キム・ソンジェ)の遺品を、韓国に住む遺族に届けて欲しいという頼みだった。金山は山岡の上官で、知子の婚約者でもあったのだ。山岡は複雑な気持ちだったが、余命僅かな知子のことを考え、韓国に向かう決意をする。しかし金山家の人達は、山岡達を快くは思ってくれなかった。山岡は遺族に金山の遺品を渡し、遺言を伝えた。金山は日本の為に出撃したのではなく、祖国と知子の事を思い出撃した事を‥」

健さん演じる山岡が所属する特攻隊は、明野教育飛行師団が編成を担任した第51振武隊がモデルとなっていると思われる。その記事は以前書いたので以下に再録する。

『第51振武隊は、3月29日、明野で編成された。5月6日から28日にかけて知覧を出撃、9名戦死。この隊については、直木賞作家である豊田穣氏著「日本交響楽7・完結編」に描かれている。(以下引用)

「明野で編成された隊は、まず所沢に飛行機を受領に行った。彼らが受領したのは、隼三型という戦闘機であった。自分が乗って突入する飛行機が決まると、彼らは東京に近い成増の飛行場で、突入の訓練を受けた。この頃研究されていたのは、敵のレーダーによる発見を避けるため、敵発見までは低空で接近し、突入の前に千メートルまで高度をとり、急降下あるいは暖降下するという方法であった。陸軍の飛行機は軍艦に突入することになれていないので、海上を飛ぶための航法の訓練も必要であった。一ヶ月ほど成増で訓練を行った後の4月下旬、いよいよ知覧に移動することになった。その隊員の中に、背の高いがっちりした男がいた。男は京都出身で名を光山文博といった。実は、光山少尉は朝鮮人であり、今までに判明している朝鮮・台湾出身者14名の特攻戦死者のうちの一人であった。5月上旬、富屋食堂に光山少尉がふらりと現れた。昭和18年10月から知覧の教育隊で、一年間教育を受けている間に親しくなっていたのである。トメさんは懐かしそうに光山少尉を迎えたが、この時期にやってくるのは特攻隊員であるからと、瞬時に悟った。5月10日、第51振武隊員のうちの10名が富屋食堂にやってた。トメさんは、彼らが明日出撃なのだとわかった。隊員達にはあきらめの表情が浮かび、屈託もない。やがて宴もたけなわとなり、隊員一人一人が歌を歌うことになった。光山少尉の番がきた。では私の故郷の歌をうたいます—アリラン、アリラン、アラリヨ‥‥—隊員一同とトメさんは驚いた。そのとき初めて光山少尉が朝鮮人であることを知ったのであった。光山少尉は、朝鮮の布地で織った財布を形見としてトメさんに預け、翌日午前6時30分、知覧飛行場を飛び立ち、帰らぬ人となった。」』

第51振武隊は、3月末に成増飛行場へ移動し、4月一杯訓練を行なったが、その頃、成増飛行場を根拠としていた47戦隊は、四国沖に米軍艦隊が現れるとの情報で、大阪の佐野陸軍飛行場へ移動していた。東京への空襲も激しい時期で、板橋区内も大きな被害を受けていた。空襲警報のたびに飛行機を基地周辺に設けられた掩体壕へ隠さねばならず、飛行場大隊の方々も大変な労力だったろう。


いつも思うのだが、特攻隊員は出撃命令が下った瞬間から死への葛藤が始まるのではなく、葛藤は何波にも分けてやってくるのではないのだろうか。最初はもちろん特攻を希望した時、そして特攻隊員への任命が下った時だろう。(当然、血気盛んで葛藤を感じない隊員もいたかもですが)その葛藤を訓練に集中することによって克服してゆくのだ。
しかし、特攻隊の映画ではあまり訓練風景は出て来ず、描かれるのは知覧など、特攻の出撃基地での風景ばかりだ。天候不順で出撃が延びたり、機材の不調により代かえ機待ちで出撃出来ないこともあるけれど、特攻隊は、基本的には直前に前線基地へ移動し数日で出撃(生への執着を断つためとも言われる)する。先の引用にあるように、富屋食堂のトメさんの本では、出撃前夜の特攻隊員達は、すでに達観の境地にいる方々が多かったと述懐されている。

だから、特攻隊員の葛藤を描くには前線基地ではなく、それ以前の訓練基地を舞台にした方がリアルなんじゃないかと思うのだが、そんな丁寧な映画作品はなかなかないですねえ。。もし「ホタル」がそんな映画だったら、成増をモデルにした飛行場が出てきたのでは、なんて思うのですが‥


| | コメント (0) | トラックバック (0)

板橋区民、注釈付きでSKIP BEAT!




と言うことで板橋区民は、東京ドームにいる。
ポールのコンサート以来かな。今回のアーチストは桑田佳祐である。まだ開演まで1時間あるのに凄い人出だ


さて本日の席はまだどこかは分からない。なにせ注釈付きなのだ。

注釈付きとはなんぞや?まあ、入口でチケットを交換すればわかるだろう。


さて、回転ドアの前で発券。一塁側二階席か。中に入るとこんな席だった。


実は今回、チケット争奪戦に破れ入手出来なかったのだが、数日前に行われた「注釈付き指定券」抽選販売で当たりを引いたのだ。注釈とはステージが見えづらい席、の意味で、ご覧の通りステージの一部がスピーカー照明塔で隠れてしまうのだ。

まっ、こんな席でもコンサートを体験出来るんだから楽しまなくっちゃね。開演まであと15分、ワクワクドキドキ。



楽しい時間はあっと言う間に過ぎる、と言うこって午後7時45分にコンサートは終了した。照明塔もステージ中央からははずれていたので生桑田さんも見えたし(遠すぎて顔はわかりませんが)座席の場所が良かったので終演後は速やかに外へ出られた。これがヘタな位置にいると30分くらいドームの中にカンズメにされ表も大混雑、丸ノ内線も大混雑で大変な目に会うのだ。

桑田佳祐さんは今年でオン年61歳、よってファン層の年齢も高いけど、いや〜大盛り上がり。2階スタンド席なのに立って踊り出す人続出、特に後半、朝ドラひよっこ主題歌からほぼ全員が立ち上がり、波乗りジョニーに至っては2階スタンド全体が揺れていた。まあ長年コンサートへ通う常連さんにはいつものことだろうけど、いや〜これはパワー貰いますね。パワーも使いますが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

板橋区民、2017年の笑い納めをする。



板橋区民の皆さん、年始の準備は進んでおりますか?

かねてから逃避癖のある板橋区民は今、日本武道館におります。YOUは何しに武道館?ということで、



肩書きはなんでしょうか、エンターティナーの清水ミチコの武道館ライヴに来ているのだ。

それにしても、専業の歌手でもないのに武道館での単独ライヴはすごい。

しかもチケット争奪戦に乗り遅れたのでこんな席しか取れなかったのである。



それでも、類い稀な才能がある清水ミチコさんのライヴを生で見られるのは楽しみなんだな。。







16時10分に始まったライブはきっかり2時間半で終わった。いや〜やっぱり生がいいですね。テレビでやらないネタ満載でした。これで笑い納めもできました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

板橋区民、思いを遂げる。

台風は過ぎたけど、風が強いですね。




板橋区民はいま、浜町の明治座にいる。明治座は初めてである。




で、何をしに来たかと言うと、「志村魂」を観に来たのだ。



昨日、俳優の菅井きんが亡くなっていたニュースが流れた。板橋区民が子供だった頃からおばさん役で親しんでいた方だった。最近、自分が子供だったころのオジさん、オバさん世代が少なくなったのを実感する。

そんなことで、子供のころテレビで楽しませてくれた方々も亡くなったり目にする機会がなくなったりしていて、今のうちに会っておきたいとの思いが強くなった。

子供時代に好きだったテレビは、なんと言ってもドリフだった。8時だよ、全員集合!!の公開放送のハガキも出したが当たることは一度も無かった。すでにドリフも長さんが亡くなり、テレビでのコントも見れなくなってしまった。

しかしまだ志村さんがいる。板橋区民は荒井注時代なので、志村加入後はそれほどではなかったが、バカ殿様シリーズは時々みていた。そこで、ドリフを引き継ぐ志村さんの舞台はいつか観たいと願っていた。



開演10分前、前方ど真ん中の良席なので、楽しみだ。





午後4時30分舞台終了。前半はテレビ番組版「志村けんの大丈夫だぁ」、途中30分休息を挟んで志村さんの三味線ショーと人情喜劇と言う構成だった。

いゃーやっぱり舞台はキレイですね。もう、キラキラしてる。後ろの席にゲラオバさんが陣取っていて五月蝿かったけど、ナマの臨場感がありました。

前半はテレビ番組通りのお約束ギャグ満載で、客もそれを見に来たと言った感じか。昼の回なので子供連れも多く年齢層も子供からお年寄りまで幅広い。中にはクロウトっぽい美女もチラホラ。
後半の人情劇のあとのカーテンコールは変なおじさん締めで終了でした。志村さんも68才、まだまだ頑張ってマス。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

板橋区民、地元旧家からネタを仕入れる。〜ミュージシャン・山下達郎は、赤塚郷で誕生した〜

Photo_2
桜が終わり、今は藤の花が咲き始めましたね。
先日、赤塚郷でも指折りの旧家の方と話す機会があった。その方をT氏としよう。
T氏は60代後半で、音楽、それもジャズが大好きな方だ。前に、T氏所蔵の厖大なジャズの名盤やCDのコレクションを見せていただいたことがある。残念ながら、板橋区民はBGMとして聞くジャズは好きだが、アーチスト情報などには詳しくなかったので、ほとんどその価値はわからなかった。
そのT氏へ、最近、板橋区民はレジェンドアーチストのコンサートへ足を運ぶようになったんですよ、と言うと、こんな話をしてくれた。
板橋区民が思春期の頃から活動を続け、現在もその人気の衰えないアーチストに山下達郎がいる。山下達郎といえば毎年12月になればどこからともなく聞こえて来る名曲、「クリスマスイブ」が有名ですね。
T氏にはN氏という親戚がいて、N氏は赤塚郷民ならば必ずその名を目にする不動産屋を経営している。N家は、明治の後半に赤塚村の村長を務めた家柄であり、下赤塚駅の開業に尽力もした。そのN氏と山下達郎が中学の同級生で、音楽の話で意気投合し、アマチュア・バンドを結成した。グループは高校進学後も活発な活動を続けたが、高3の年に一時解散状態となった。しかし解散はしたものの、N氏は音楽活動を続け、結局、山下達郎も1969年の秋頃からその集団に参加するようになった。メンバー全員が大学に進学した1972年の春、今までの活動を自主制作のレコードにしてはどうかという提案が出されたのである。
そして、さっそくレコーディングをすることになり、その場所となったのが、N氏家の所有していた倉庫だった。その倉庫は、三園通り沿いの赤塚4丁目側にあったと言う。そこへ、ギター、ベース、ドラム、電気オルガン、ピアノを持ち込み、ヤマハのミキサーを使いステレオ録音を行った。収録曲数はA面B面で12曲、アルバムタイトルはADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」と付けられた。そのアルバムにはしっかりと録音場所として、”S.R.S.(SURFIN' RABBIT STUDIO)東京都板橋区赤塚”と記されている。
アルバム製作枚数は僅か100枚で、ほとんどがタダ同然で配られてしまった。しかし、レコードという形でしっかりと残したため、これをきっかけとして山下達郎のプロミュージシャンとしての活動が始まり、現在まで活躍は続いているのだ。
N氏と山下達郎との交際はいまも続いていて、T氏もN氏に連れられてコンサート中の楽屋へ連れて行ってもらったことがあるという。ちなみに、この100枚しか作らなかったレコードは、いまでは超希少版として100万円を超える値段で市場取引されている。

| | コメント (2)

ゴールデンウィークは、赤塚郷から始まった。(4年ぶり3回目)

Photo_3 Photo_4 Photo_5

G.W.も始まろうというのにお天気がイマイチですね。

昨晩放送されたNHK「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」で”ゴールデンウィークの名付け親が判明。”というネタを取り上げていた。これについては過去何度か当ブログで記事にしましたが、せっかくなので一部修正して再掲します。

 

1951年(昭和26年)5月5日(土)、同じ原作を大映と松竹が同じ題名で映画化した「自由学校」が同時に封切られ、大映版の方は会社創業以来の興行成績を記録した。正月映画やお盆映画に匹敵するヒット作が出たことに気をよくした当時の大映常務取締役の松山英夫が、この時期を「ゴールデンウィーク」と名付けて宣伝に利用したのが定着し、一般にも使われるようになったのが始まりとされている。

「自由学校」は朝日新聞に1950年5月26日~同年12月11日に連載された獅子文六による長編小説である。獅子文六は当時の人気作家の一人で、その作品の多くが映画化されており、この作品については松竹と大映の両方が映画化権を得たことで競作となった。
 ストーリーは、自由が欲しいという理由で会社を辞めた五百助(松竹:佐分利信、大映:小野文春)が妻の駒子(松竹:高峰三枝子、大映:木暮実千代)に家を追い出され、ルンペン暮らしの末に和解して家に戻るまでを描いたものである。

この映画「自由学校」の大映版、実は我が赤塚郷で撮影されている。(‥全編ではないですが。)

主人公夫婦は、空襲の激しくなった都心を離れ、郊外の農村地帯へ疎開して来た設定だ。戦後になっても、まだ農家の離れに住んでいる。その、最寄駅が下赤塚駅なのだ。(映画内では駅名を武蔵間駅と変えられている。)撮影に使った農家も、おそらく赤塚の農家だろう。昭和50年頃まで、茅葺の大きな農家はあたりまえのように存在していた。

映画に登場する”下赤塚駅”の駅前風景は、さすがに70年前だけあって今とは全然違うけど、でも、よく見ると理解できると思う。特に駅横の踏切のカットは、カーブの様子や北側が低くなっている感じは現在と変わらない。それと、手前に写る旗、なんだかわかります?古い人には懐かしく、若い人には意味がわからんですね。これは踏切警手が電車の接近や通過を知らせてる風景です。昔の踏切は”手動”で踏切の開け閉めをしてたんですよ。

映画が撮影された頃は、まだ北口は無くて駅舎は南口だけだった。佇まいの古さから、昭和5年(1930年)12月29日に開業した初代駅舎と思われる。2枚目の写真左手の”ハヤシ薬局”は雑居ビルになったけど、ダイナマイト酒場の隣に今もある。奥の大きな日本家屋は、現在、1階が「すき屋」で2階が居酒屋「はなの舞」が入ったビルだけど、建物の角度が同じで、形も今と似ていますね。

他にも疎開先の農家から飛び出した五百助が駅まで向かうシーンや、雑木林で暴漢に襲われるシーン(コメディタッチ)なんかもありますが、いったいどこのド田舎なんだ?というロケーションで、撮影場所は見当もつかないけれど、でも赤塚郷のどこかなのは間違いない。それは、この、どこのド田舎なんだ?という雑木林の風景を、遥か昔の子供時代に、自分は確かに見ているからだ。

 

 

この回「大型連休のおなまえ」が、明日、4月27日午前10時05分からNHK総合で再放送されるので、観ていない方はどうぞ。放送中、大映版の赤塚郷撮影シーン2カットが一瞬ですが映ります。(農家の屋内と畑地を歩くシーン。)

 

| | コメント (2)

板橋区民、平成最後の日にBest of お宝 in Heisei を選ぶ。

とうとう「平成」最後の日がきましたね。板橋区民が”趣味・板橋区”宣言をして、板橋区及び周辺地域の資料収集を始めたのは、平成が始まってすぐのことでした。以来、自分の興味の赴くままに蒐集や研究を行い、昨年秋には地元郷土資料館でその一部が展示され、一定の成果を上げたと感じております。ただし、それらは輸送関係の資料のみであり、それは蒐集品のごく一部に過ぎない。そこで、平成の大晦日にちなみ、板橋区民の中で、これが数ある蒐集品の中で一番かなと思うお宝を発表します。

 

それでは、ドコドコドコドコドコ‥‥‥‥。ジャーン!

 

発表します! Best お宝・オブ・ザ・平成は‥‥。

 

1_3 2_4 8445 8442

「成増陸軍飛行場関連資料」に決定!!

 

お宝は、終戦50周年の年、平成7年(1995.)より調査を始めた成増陸軍飛行場に関する資料で、当時の関係者へのインタビュー動画を始め、お預かりした手記や手紙、複写した写真、その他etc、を含める関連資料群だ。

現在の赤塚新町、練馬区田柄、光が丘地域に存在した成増飛行場については、ごく一部のことしか伝わっておらず、いまだによくわかっていない。当時の直接的な資料は、写真や防衛庁図書館に所蔵されている統計的な資料の他には、第43飛行場大隊におられた方が終戦時に処分をせず、平成の初めまでひた隠しにしていた1945年3月時点の成増基地をまとめたガリ版刷りの極秘資料が一冊あるだけだ。

その極秘資料は、おそらくは陸軍航空本部提出用に作成されたもので、飛行場の組織や基地周辺の体制などについては詳しく書かれているが年表などはなく、どんな経過で飛行場が作られ運用されていたかまではわからないのである。

飛行場の資料は進駐軍が来るまでに焼却処分されてしまったので、関係者の方が持ち出した資料が奇跡的に見つかる以外に望めない。兄弟飛行場である調布飛行場は、その建設が開戦前に東京府により行われたため、一次資料は東京都公文書館に残っているが、成増飛行場は開戦後に陸軍主導で設置されたため残っていないのである。

冒頭の写真地図は、米軍が空襲用のターゲットとして作成した成増陸軍飛行場と周辺を捉えた空中写真で、分析された情報も書き込まれている。最初の地図は1944年に作成されたもので、まだ情報が足りないのか「TAKAMATSUCYO AIRFIELD」と書かれている。2枚目の地図は1945年1月に作成されたもので、こちらでは「NARIMASU AIRFIELD」と変更されている。書き込まれた情報は詳細で、間違っている箇所もあるけれど、概ね正確だ。驚くのは送電線まで載っており、すでに戦闘機や小型爆撃機での空襲も想定しているのではないかと思われるのである。

 

これらの地図は板橋区民が蒐集したものだけれど、よくこんなピンポイントなお宝が手に入ったものだと、我ながらその奇遇さに感動する。明日から、”令和”時代が始まるけれど、さらに貴重なお宝が目の前に現れることを楽しみに待ちたいものです。

それでは、良い改元記念日を!

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (5)

祝!令和元年。〜板橋区民、初詣をする。〜

4616 4635 4662 4657

板橋区民の皆様、令和元年おめでとうございます。

 

本日、5月4日。皇居長和殿にて、新天皇への代替わり初めての一般参賀が行われた。板橋区民は、天皇陛下は日本国の宮司の頂点におられる方と思うので、昭和天皇の頃より一般参賀へは、初詣として参っている。

今回は、前天皇陛下が御退位されての即位と言うことで、お祝いモード全開、テレビを見ると、日本全国でお祭り騒ぎをしているムードだ。一般参賀はG.W.真っ只中に行われるので、相当な人出を覚悟して出向いたけれど、あの広大な皇居前は老若男女善男善女で溢れかえっていた。まだ集計は発表されていないのだが、おそらくは今年新年の明仁天皇陛下最後の一般参賀くらいの人出はあるだろう。

板橋区民は、もしかすると次の時代には生きていないので、代替わりを経験するのはこれが最後かもしれない。もし生きていたとしても、一般参賀が始まるまでの長時間を持ちこたえる自信はないので、やっぱりこれが最後かと感慨深いのであった。

 

大混雑の皇居からの帰り道、東京国際フォーラムのイベントで挨拶をする小池百合子東京都知事を見かけた。こちらはすっかり存在感を無くしてしまっているけれど、来年の東京オリンピック、成功させてくださいね。それにしても今日は、日本国の象徴と東京都の首長に出会えるという貴重な日となりました。

2019

 

| | コメント (2)

板橋区民、令和最初のボランティアをする。

1905051 1905055 1905057

G.W.ももう後半、令和最初のこどもの日はとても爽やかに過ごせましたね。

そんな休日の一日、板橋区民は、地元赤塚郷にある郷土資料館中庭で行われた「鎧着付け体験」で鎧を着付けするボランティアに参加した。今日は天気も良く絶好の外出日和で、却って体験会に来る方は少ないかと予想したけれど、遠出に疲れた方々がたくさんおられたのか、終わってみれば約230人余の方々が訪れ、大盛況に終わった。

使用している鎧はすべて手作りで、ベースは紙製だけれどとても良く仕上げてあり、写真映えする。製作は「赤塚城戦国絵巻武者行列」の方々で、特徴としては、乳幼児や幼稚園児も着用できる特製の鎧を独自に製作しているところであり、大変に好評だ。まっ、好評なのは親にだけであり、肝心の子供は嫌がって泣いたりすることも有りますが。

鎧着付け体験は、毎年5月のこどもの日と、3月の梅まつりの時にも行われるので、ぜひお越しくださいませ。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧