日記・コラム・つぶやき

啓志線について考察してみる。その4 ナゾの空白地帯を行く

 ナゾの空白地帯。もともとナゾばかりな啓志線だが、おそらく、今までだれもレポートして来なかったことについて紹介しよう。
 
 前回、啓志線跡を辿る案内人を務めて欲しい、と板橋区に依頼されたことは記した。与えられた時間は半日だったので、東武練馬駅集合にして上板橋駅まで歩くコースを設定した。どうせなら、練馬自衛隊の中を通って行きたいと思い、幸い、あることで練馬自衛隊の広報の方と面識があったので、見学をお願いし、快諾をいただいた。啓志線の自衛隊の中を走る部分については、それまで情報がなかったので、目玉企画になるに違いないと図ったのだ。せっかくだから、と、旧交通博物館の専任学芸員・S氏(現在・鉄道博物館学芸部長)と同・学芸課長のO氏、東武博物館学芸員・J女史にも参加していただいた。また、コラムのネタにしてもらうため、泉麻人先生もお呼びしたので、ずいぶん豪華なパーティーとなった。これだけの知能が集まれば、なにか発見があるかも、と期待に胸が膨らむ。こうして、一般公募者あわせ30名ほどの集団で、いざ啓志線を巡る旅は始まった。
‥ここから、プロの物書き風に見学記が書ければいいけど、当日は先頭に立って案内をしなくてはならず、それだけで頭が一杯であり、しかも、もう二年も前の話で記憶も薄れているので、要点と写真のみの紹介で済ますことにしちゃいます。期待してた方には申し訳ない。

 

1947S30Photo まずは、昭和22年と30年頃に撮影された空中写真の比較です。昭和22年の写真では、まだ敷地は練馬倉庫時代のままで、グラントハイツ建設用の資材が積み上がっている様子が見てとれます。貨車らしき車両が確認出来、敷地内は複線になっていたようです。自衛隊広報の話によると、貨物の積み降ろしに使われたプラットホームは、A地区の車両らしきものが止まっている付近にあったそうです。陸上自衛隊(警察予備隊)が発足した翌年の昭和26年、同時に練馬駐屯地が創立された。昭和30年頃の写真では、敷地内のほとんどの建物が建て替えられているのがわかりますね。では、現在ではどうなっているのだろうか。

 

543Photo_2 左のカラー写真は、史跡巡りの時に撮影したもの(A地区からB地区へ抜ける部分)。広報の話では、線路が撤去されてから敷地は整地されてしまい、痕跡は残っていないだろうとのことだった。しかし、線路が敷設されていたと思われるルートは想像することができた。モノクロの写真は、西側(グラントハイツ方面)に抜ける部分。警備の歩哨が立ち、複線の線路が単線に変る様子が写っているように見える。

 

Photo_3 写真は、「幻の鉄道部隊・消えた第101建設隊」という本から引用させていただいたもので、練馬自衛隊内の線路を撤去しているところが写されている。本文の年表によると、練馬駐屯地引き込み線撤収 第一次作業実施、昭和36年3月21日〜25日。第二次実施、4月3日〜8日と記載されている。啓志線の線路が完全撤去されたのがいつだったか、手元に資料が見つからなくうろ覚えだが、自衛隊線路撤去後だった気がする。
それにしても、東武鉄道の社史では昭和34年7月22日にこの路線を買収し運転営業免許を申請した。とあるが、この自衛隊内を通る部分はどうするつもりだったんだろう?線路に分断された南側は空き地状態なので、この時はまだ自衛隊の敷地ではなかったのであろうか。

 

2989 ここで、スクープ写真を紹介しましょう。自衛隊敷地を巡り、啓志線の痕跡が無いことがわかり落胆した一行でしたが、正門へ向かう途中、学芸員のS氏が”ん?あれは線路じゃないの?”と立ち止まった。それは、川越街道に接する部分に築島状に作られた「顕彰碑」へ渡るための橋で、確かに線路の廃材を利用して作られていた。残念なことに、時間が押せ押せで、詳しく調査をすることができず、写真を撮るのが精一杯であった。はたして、啓志線唯一の遺構となるのだろうか?

 

3004_2 その後、一行は上板橋駅までのルートを辿った。その間については、今まで、他の方々がレポートされている域を出ないので省略する。ただし、東武鉄道が設置した境界石柱が散見された。これは、学芸員氏が見つけてくれたもので、さすがによく物を見ていると感心しきりであった。
え?なぜその位置を示さないかですって?それは説明通り、私は案内人として、参加者の交通安全などに気を配るあまり、見落としていたからですよ。興味ある方は探してみて下さいネ! 

 

 

追記:

さて、今は西暦2019年、令和元年5月。この記事は2008年にUPしたもので、11年経ってから何を今更と思われるだろうが、今年3月にココログのシステムが変更され、どうやら過去記事の検索も改善されたようで古い記事が読まれるようになった。特に最近は当該記事へのアクセスを多くいただいているようですが、UPしてからすでに11年。現在では新たな資料も見つかり、特に昨年2018年には総集編のような形で啓志線の記事を書きましたので、そちらもどうぞご一読願います。

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☆祝!西洋流火術鉄砲隊結成10周年☆&伝説の人

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いろいろありましたが、なにげなく再開しますか。

前回、こうきょう放送で放映中のTGドラマ撮影スタジオ訪問記をお届けしましたが、(ひやっこたいのクライマックスシーンです)第四の権力様のご指導により関係記事を削除いたしました。応援が過剰すぎたようでしたね。ご迷惑をおかけした関係者の方々にお詫び申し上げます。


先日、我が板橋区の誇る「西洋流火術鉄砲隊保存会」の総会と創立十周年の集い、が大山で行なわれました。
あれから十年‥創立当初から見守ってきました板橋区民にも感慨深い物があります。それは暑い暑い夏の日のことでございました‥なんて感慨に浸っていると長くなりますのでこのへんで。まっ、とにかく最初の頃と現在ではまったくといって良いくらい装備も演武の内容も変り、より高島流に近くなっているのではと思います。

文化会館の一室で行なわれた総会(予算の承認や今年度の計画報告など)が終わった後、場所をハッピーロードの中華料理屋に移し、関係者を招いての十周年の集いが催されました。正会員は銃士と言う名称ですが、他にも様々にサポートしていただいている方がおります。その中のお一人が、日本競技自転車界で活躍し、世界的にもカジワラフレームとして名を轟かす”伝説のフレーム職人”梶原さんだ。
梶原さんのことは数年前に当ブログで紹介したけれど、今でもそのページにはアクセスが多く、世間の関心は高いようだ。梶原さんは骨董品、それも機械関係に興味があり、自転車職人として修理道具類も所持しておられるので、武具などの修理も頼まれて行なっている。

なぜ梶原さんが伝説の存在となったのか‥それは世界の自転車界に彗星のように現れ、絶頂のなかでふいに姿を消したからで、以降その消息はつゆ知れずいつしか伝説だけが残った‥てなことはまったく知らない人が作った神話で、ご本人は親の代から住んでいる土地にずっと暮らし、今でも自転車の部品を製作しているし、なにより研究家としても活躍しておられるので、知ってる人は知っている存在なのである。
今、自転車ブームといわれているけど、自分のマシンばかりに目が行って、自転車の歴史なんかまったく興味も持たないんだよな‥と残念がっておられた。「みんなさ、自転車のことチャリンコって呼ぶでしょ。あれ語源が韓国語だってことも知らないよね‥」

この日も愛用の自転車で現れ、「富岡八幡宮の骨董市へ行ってきたよ」と言い、今日は50キロ走ったよ、とおっしゃっていた。「多い日は100キロくらい走るよ」なんてすごい健脚ぶりである。
梶原さん愛用の自転車は、まぎれもなく本物のクロモリ(クローム・モリブデン鋼)製「カジワラフレーム」で組み上げられている(ブレーキやギアはシマノ使用)。外見はちょっとボロい(失礼ですスミマセン)けど、梶原さん用にチューンナップされた世界唯一のレア物だ。ワークス以上、最強のプライベーターバイクなのだ。


ということで、これからまた初心に帰り、収集したグッズや情報をどんどんUPしてゆきますね。

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板橋区民、2014年の大晦日なのでお宝を公開する。

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 とうとう、2014年も大晦日。‥年々、月日や時間が過ぎるのが早く感じるなあ。。と思っている皆さん、それは単に物忘れが進んでいるせいですぞ。と、自分のことを棚に上げつつ本年最後のお宝を‥


ちょっと、なんすかこれ?歳末に公開するお宝にしては地味じゃね?珍しくもないじゃん。
‥なんて声が聞こえてきますが、んじゃあこんなモノはいったいどこで手に入るんですかい?まさか板橋区中を回って盗んでくるんじゃあ?なんて警察のお世話になるような方法で手にしたもんじゃないっす。これはちゃんとヤフオクに出てたのを落札したんですよ。

過去、6回?でしたか我が収集癖の歴史を語りましたが、それは昔々の収集法の話でした。
ウチに初代のパソコンが来た(確かMacのパフォーマー5430だったかな、今のi-macみたいなモニター一体型のPC)のが1996年のこと、まだモデムでピーヒョロロ〜とインターネット接続していた時代でした。当時のスペックではHPを見るのも一苦労で、写真が多いとものすごく時間と接続料がかかりましたっけ。その後すぐにISDNが出来るようになり、電話FAXと別回線で接続できてだいぶ便利になりました。ADSL方式はそれからまた数年後。で、現在はフレッツ光ですね。ネットを始めた当時はまだGoogleさんは誕生していなかったので、ヤフーさんとかインフォシークさんとかグーさんといった検索サイトを使ってました。

1999年9月、ネット上でヤフーオークションのサービスが始まりました。現在でも日本国内のネットオークションサイトでは最大規模じゃないっすかね。楽天にもオークションはあるけど、商品の多彩さにおいてはだいぶ劣ります。
あっしがヤフオクに参加するようになったのは、開設直後からだったかな。10年くらい前にIDとパスワードを盗まれて悪用され(事前に気がつき損害はなかった)、新規IDにした時に評価がゼロの振り出しに戻りましたが、その時点で500回くらいの取引をしていました。

さて、今の世の中が大きく変わったのは、昭和から平成になったからではなく、”デジタル化”というものがものすごい速度で進化していったからだと思います。これは40代以上で、そのデジタル化のスピードを目の前で見て来た方なら同感していただけるのではないでしょうか。デジタル化により急速に衰退していった産業も多いですね。例えば写真。今はほぼデジタルに置き換わり、フイルムも気軽に手に入る時代ではなくなりました。あの、コニカフィルムが会社ごと無くなっちゃうなんて(ホント)信じられないことでした。。
しかし、デジタル化とともに普及した携帯電話とインターネットは、世の中を大きく変えました。衰退した物もありましたが、それによって得られた便利なシステムはもう後戻りは絶対にできないでしょう。

あれ、なんか話がグローバルな方向に膨らんでなに語ってるんだかわからなくなってきました。
ええっと、冒頭の写真に写る住所プレートをヤフオクで落札した話から脱線したんでしたね。そう、収集の方法も、インターネットの普及により変わりました。現在ではクレジットカード決済やネットバンクのサービスも始まり、ますます便利に。もう多大な時間と手間と交通費をかけてお宝を探すこともなく、目の前の電子箱をカタカタと動かせばあら不思議、いろんな珍しい品が次々と‥なんてオーバーですが、まあ、多彩なモノが集まり易くはなりました。

でもね、15年ほどネットオークションを楽しんでますが、そりゃ便利なもんですけど、出品する側の心理を考えるとネットオークションに出すのを嫌う人もいるのがわかります。ヤフオクは商品を7日間しか置けないし、競ったとしてもクリスティーやザザビーみたいに大きな金額になるわけでもなし、思った程商品が高く売れるもんじゃないんっすよ。やっぱり、その商品を欲しがるマニアの間で競わせることが一番なんです。その点、昔と変わらないもんで、専門業者が行なう販売会やマニア間で流通する入札誌は貴重品が手に入る可能性が高く、ネット時代になっても決して廃れてはいません。

それでも、冒頭の住所プレートのようにおもわぬモノが出てくるのがネットオークションの面白い所。恐らく、ゴミの収集業者あたりから流出したのでしょう。ブックオフを回り、いわゆる”背取り”という方法で価値の高い本を見つけ出しオークションで売る人がいるように、収集された不用品の中から価値の出そうなモノを見つけ出して売る業者がいます。特に「紙くずコレクション」の対象となるものは”捨てられた”モノからサルベージされるのではないかなと思います。


以前程ではないですが、今年もいろいろな収集品が我がコレクションルームに納まりました。それらの品々は、また追々、当ブログの記事にて紹介してゆきますので、来年もどうぞ宜しくアクセスをお願い致します。
今年も当ブログに訪問していただいたたくさんの皆様方、どうぞ良いお年をお迎え下さいませ。多謝。

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板橋区民、本気出す。2015

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‥すっかり新年気分はなくなりましたね。

昨年は東上線開業100周年記念の年でした。今年は、大東亜戦争終戦から70周年です。ということで、板橋区民もそちら方面への調査にやる気をスイッチしました。

先の戦時中、我が赤塚郷の南、土支田・田柄・高松町方面にかけ、「成増陸軍飛行場」が存在しておりました。現在の練馬区光が丘団地一帯ですね。飛行場の詳しい歴史については、今まで当ブログにてたびたび記事にしてきましたのでご覧いただければ幸いです。(但し、ブログ機能の欠点で過去記事を辿るのは大変なので、検索サイトで適当な文字列→成増飛行場に関するワードを入れて検索して下さい。)

簡単ですが飛行場の歴史を説明すると、昭和17年4月に米空母から発艦した爆撃機が東京を初空襲、急遽帝都を守護するため板橋区に防空飛行場を建設(皇居上空まで3分で到達できる位置が条件)、昭和18年10月から飛行47戦隊にて運用を開始、同19年11月より空対空特攻隊を含め米軍との戦闘が始まり、同20年2月頃から沖縄特攻隊の編制・訓練基地も兼ねる。5月下旬47戦隊は九州へ移動、入れ替わりに第100飛行団が再編成のため駐屯、沖縄陥落後は本土決戦特攻隊の編制・訓練基地となるが終戦。

てな流れです。

さて。

戦時中のことに関しては、現在までに刊行されている戦記本や行政が発行している本で調べれば、だいたいの流れがわかります。ネット上でも、当ブログを含めたくさんの記事がヒットしますね。ただ、ネットに出て来る情報は、利便性が優れているゆえにソースが怪しい場合が多いのが珠に傷です。常に出典を考えながら情報を読まなくてはなりません。一番確かな情報は”一次資料”から引用された情報で、それは当時を実際に経験した方の証言も含まれます。
ただし、体験者が語る証言は扱いに慎重になる必要があります。事実には客観的な事実や主観的な事実もあって、それを聞き取る側の心構えも慎重にしなくてはならず、残された記録が信頼して良い物かどうかを判断する感覚が必要になります。

‥まあ、そんなことを考えているといつまでも調査は進みませんけどね。。(反省)

事を調べるにあたり、文献を読んだりネットで検索してもどうしても出て来ないことがあります。その場合は、他の方法を考えなければなりません。

‥んなこと言ったってどう調べりゃいいのよ?

これが”壁”ってやつで、だいたいの調査がここで挫折をしてしまいます。”どうしたらその答えに辿り着けるのか”、これが最大の難関です。
ホント、難しい。ああ、若いうちから勉強しておけば良かったなあ。。なんて思うのはこんなときですね。まっ、そんなこと言っててもしかたないっす。いろんな資料を、その周辺にまで広げながら読むという地味で膨大な作業をこつこつ続けるしかないのかな、と思います。

さて。

成増陸軍飛行場についてわからないことの一つに、「終戦直後のこと」があります。もうね、戦時中のことに関しての情報に比べると極端に少ない。唯一、飛行場を管理していた第43飛行場大隊に在籍していて、最後まで業務を行なっていた、元成増会々員で飛行場の機密資料を保管してきた高橋正治氏の証言記録が残るのみだ。その記録も「(昭和20年)10月下旬に終了業務を終え、11月1日に司令部に報告に行き成増飛行場を後にした。」という内容で、進駐軍による接収の様子はわからない。

さあ、どうやって調べるのか‥まず浮かぶのは公文書の存在だ。進駐軍や日本政府の公文書。それには国立公文書館が作る「アジア歴史センター」のサイトで調べるのが手っ取り早いが、現在までに公開されているのは終戦以前の項目までで、進駐や占領後の情報はあまり出て来ない。(グラントハイツ建設時の書類などは見られる。)

その為、調査は長い間停滞していた。しかし、所沢や調布の飛行場接収に関しては、それらを研究する優秀な方々がいて、米軍の資料などを集めてほぼ解析していた。出典も載っている項目はあるけれど、米国国立公文書館所蔵資料など、ちょっとやそっとでは調べられないものだった。
以来、ずーーーっとモヤモヤしていたが、ある研究者から終戦直後の成増飛行場の写真が1970年代の「航空ファン」誌に出ていた記憶がある。との情報を頼りに、古本屋サイトで該当の雑誌を入手すると、やはり出典はアメリカの公文書館であるとわかった。う〜むやはりこれは行かねばならぬ、と一大決心をしてワシントンD.C.の隣に位置するメリーランド州カレッジパークにある、米国国立公文書館新館・NARA2へと出かけたのは今から7年前だった。今から思えば準備不足もあり、またNARA2の検索システムにも不慣れだったため、反省点は多かったけれど、少しは貴重な資料を持ち帰ることはできた。

長かったけど、ようやく本題に移ります。

成増飛行場に、いつ進駐軍がやってきたのか?
正月の酒も抜けない頃、ネットで東京周辺の進駐軍の占領状況が載っているサイトを読んでいると、ふと目についた資料に、出典として”外務省外交記録”のキーワードが出ていた。そうか、外交文書は、元は外務省の管轄文書なのか、と気がついた。そんなの常識じゃん、と頭の良い人は思うだろうが、そこは凡人の悲しさですね。。ムダな時間を過ごしてきました。。

そこで先日、正月太りでだぶついた体を奮い起こし、板橋区民にとってはアウェーの地である六本木・麻布地区をめざして寒風吹きすさぶ中、赤塚郷を出た。目指すは麻布台にある外交資料館だ。外務省のHPを見ると外務省には外交資料館が附属していて、そこのHPでは現在公開されているマイクロフルム化された外交資料一覧がPDFで見られるようになっており、ポツダム宣言受領時からの資料が揃い、進駐軍が占領を始めたころの文章も存在していた。PDFにより該当しそうな項目は検討がついたが、詳細まではわからない。だから実際に現地でマイクロフィルムを確認する必要があった。

渋谷駅から一時間に2本しか出ていない都営88番新橋東口行きのバスに乗り、外交資料館へ向かう。受付で書類に記載し、身分証明所を提示した。館員の方に、これこれこう言う事柄について調べたいがどういう方法でアクセスするのかと聞くと、項目の載った分厚いファイルを渡された。ネット上の情報よりも一段階詳しい項目があり、ページを手繰って行くと、「連合軍進駐状況一覧表」という項目があった。

これだ!

さっそくマイクロフィルムを借出し、ページを辿ってゆく。Oh! I Gat it!! そいつが、冒頭の写真である。ページの途中なので記載が省略されているけれど、昭和20年10月15日、午後5時現在の状況を示している。
表を読み取ると、「成増飛行場は9月21日、40人の進駐軍警備兵により接収された。」という内容だ。

嗚呼、長かった。。資料自体は何年も前から公開されていたのだが、ここに辿り着くまで時間がかかった。たった1行の文だけど、これで、成増陸軍飛行場に進駐軍がやってきたのは昭和20年9月21日のこと。と堂々と書けるようになった。

誠に感慨深いことである。。

関連資料として、7年前にNARA2で入手した「終戦直後の成増飛行場」の写真資料の状況を公開しちゃいますね。
NARA2では、一日3回の時間帯で資料を借出(一度に借りられる量はこのワゴンに載る量)して閲覧することができる。申請した資料はワゴンに乗せられて閲覧者に引き渡される。2番目の写真は、紙焼きで保存された東京へ進駐した時に撮影された写真が納められたファイルで、8×10(インチ)でプリントされた写真が入っている。中には乾燥により反り返っていて複写に難儀するプリントも。複写は自分のカメラで申請もいらず自由に撮影できるし、営利目的でないならネットなどでも公開出来る。(これがアメリカの太っ腹な所だ。)ただし他者が複写した写真を勝手にコピーして使用する事は出来ない。
ファイルの中には、書籍で使われたり映像で見たことのある有名な写真がいくつもあった。その、たくさんあるファイルの一つに、「航空ファン」で使用された「終戦直後の成増飛行場」の写真を見つけた。裏面にはキャプションが付いている。

そのキャプションにはこう記載されていた。
「破壊された日本機が並べられた滑走路から離陸する米陸軍第1騎兵師団のL-4連絡機。1945年10月8日、日本、東京にて。」

米陸軍第1騎兵師団は、東京の占領を行なうために最初に進駐した部隊だ。キャプションには板橋区あるいは成増とは記載されていないが、東京には他に海軍の東京(羽田)飛行場と陸軍の調布飛行場があるけれど、写真の背後に映る風景から羽田ではないし、破壊された47戦隊マークの付いた四式戦が写っていることから、成増飛行場にほぼ間違いないと推察されている。
よって、9月21日に進駐してきたのも米陸軍第1騎兵師団の警備隊と考えて良さそうだ。同師団は朝霞の士官学校や調布飛行場も接収している。


いやはや、たった1行の記録や写真を見つけ出すのに、なんと手間や時間がかかるもんだと啞然としちゃいますね。ちいさな事をこつこつと。歴史を辿るのはこの積み重ねなんだなあと改めて感じた次第でした。。

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板橋区民、逃避する。











マズイ。今、板橋区民は青森駅近くの寿司屋で地物ネタの刺身をつまみながら田酒で一杯やっている。
昨夜は雪深い酸ヶ湯温泉に逗留していた。こんなことをしていちゃイケナイのに‥見積もりが‥確定申告が‥嗚呼‥

しかし、憧れの酸ヶ湯温泉はさすがだった。大きな混浴の千人風呂は圧巻だ。お湯はワタシ好みの白濁硫黄泉。硫化水素臭プンプンのヤツだ。
混浴だけどうまくしたもので、お湯は白濁だし広いので女性ゾーンは湯気が濃く人間の姿はボーッとしか見えない。中には夫婦やカップルで示し合わせて合流したりする実にケシカラン輩も。。

今日は弘前に移動し、江南鉄道で平賀駅で下車し新屋温泉へ行った。ここの温泉はコールタールに似た油臭がするけどキレイなエメラルドグリーンの色のお湯が沸き出す摩訶不思議な温泉だ。いままで100箇所くらい温泉に行ったけど、初めての泉質だ。

ああ、冒頭の寿司屋から移動しビヤホールでビールを飲んでいる。。完全な逃亡だ。。

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板橋区民、逃避行する。








あぁ‥実はまだ逃避行は続いているのだ。。
昨日は青森から遥か万座温泉まで移動し、日本一の濃度を誇る白濁硫黄温泉を堪能した。聚楽に逗留したのだが、硫化水素が濃いので屋内風呂では強力な排気扇がガンガン回っている。

露天風呂からは山の斜面に水蒸気の上がる景色が望める。そう言えば、最近、ここから2キロの距離にある白根山の火山性微動が異常に増えていると報道されたばかりだ。噴火すればここまで噴石が飛んでくるのか、と思いつつも心地よい湯に心も溶けてゆく‥

今朝も白濁湯に身を沈め、朝食バイキングに腹を満たし軽井沢から上田へ向かった。上田はいま、来年の大河ドラマ「真田丸」の舞台地として早くも盛り上がっており、町中六文銭の旗が翻っている。
昼になったので池波正太郎もよく訪れたという蕎麦屋「刀屋」へ寄った。真田蕎麦を注文したが、味噌を鰹出汁で溶いた汁につけて食するスタイルだ。ここの蕎麦は量が多く、食べてるうちにだんだん飽きてきてしまう。。(うまいんですが)

満腹で突っ張った腹を抱えつつ上田城へ。思ったほど堅固な感じは受けなかったけど、電車の時間を気にしながらの見学でほぼ通り過ぎる程度だったからなのだろう。
なぜ急いだのかは次に温泉マニアに人気のある戸倉観世温泉に向かうからだ。しなの鉄道に乗り戸倉駅下車、歩くこと約20分。千曲川近くの住宅街に佇む温泉だ。土曜日なので客がひっきりなしだ。お湯の色は昔のバスクリンを明るくしたような緑色!かすかに硫化水素臭がする。先日の新屋温泉といい、なんでこんな摩訶不思議な温泉があるんだろう‥

てなことでいい加減、逃げてばかりでもしょうもなく、長野駅から乗った帰りの新幹線の中でこの駄文を書いてるのです。あと僅かで上野かぁ‥現実に戻るのね〜〜

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板橋区民、OUT THEREする。

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 暑いんだか寒いんだか‥


OUT THERE。(外へ行く、または ぶっ飛ぶぜ!の意。)
昨晩、板橋区民は東京ドームへ赴いた。ポール・マッカートニーの「OUT THERE JAPAN TOUR 2015」に参加するためだ。

「OUT THERE JAPAN TOUR 」は一昨年に続き2回目だが、本来は昨年、現在解体作業が進む国立競技場で行われる予定だったが、コンサート直前ポールが体調を崩し全公演が中止となってしまい、今回の再公演となったのだ。
板橋区民は2002年、2013年に続いて3度目のコンサート参戦だ。S席で18000円、先行予約で買うと手数料込みで19000円もする高額なチケット、それでも超満員御礼なんだからさすが元ビートルズのレジェンド、ポール・マッカートニー様である。ポールは御歳72歳、5万人近い観客を前に30曲以上を歌い、演奏する。すでにワタシの父親の亡くなった年齢を超えている、もうすぐ後期高齢者の老人だなんてとても信じられない。

ポールのコンサートは、一眼レフカメラでの撮影と、動画・音声録音は禁止だけど、スマホ、コンデジ撮影は黙認するという太っ腹な対応をしている。いちいち係員が注意するのもコンサートの雰囲気を損ねるのと、FBやツイッターやブログなどで発信してもらう方がかえって宣伝になるとの判断もあるんだろう。

会場の年齢層はさすがに高く、杖をつき係員に手を引かれながら案内される方も目についた。もちろん若い人もいるけれど、コアなファンは60代〜70代の方々、まさに「OUT THERE」な世代だ。
あっしは現役ビートルズファンよりだいぶ下の世代で、確か小学5年生の頃、クラスのおませな奴が兄か姉の持っている「レット・イット・ビー」のアルバムを教室に持ち込み、「ビートルズって知ってる?このレコードすごいんだぜ!」なんて自慢していた風景を思い出す。

ビートルズを聴き始めたのは高校生から大学の時かなあ、プリーズミスターポストマンをカーペンターズより前に歌っていたのを知って驚いたり、谷村新司担当回のセイヤングで視聴者の誕生日を祝うコーナーのBGM曲・バースデーがビートルズの曲だと気がついたりしたっけ。
最初はポールの曲と歌声が好きだったけれど、青年になるにつれジョン・レノンの曲に惹かれていった。1980年12月にジョンが熱狂的なファンに射殺された時は本当にショックで、たしかこの年は長嶋が巨人軍の監督を解任されたり王選手が現役を引退し、一つの時代が終わった感がしたものです。。

板橋区民は日本がバブルに沸いていた頃、N.Y.に住んでいた。散歩でたまにセントラルパークへ行ったのだが、縦長の広大な公園の中ほどに、「ストロベリーフィールズ」と言う広場がある。ジョン・レノンを偲んで造られた場所で、そこから、かつてジョンが暮らし射殺された現場でもある「ダコタハウス」が聳えているのを望むことができる。
ある時、公園を出てダコタハウスの前へ行き、なんとなく「ヨーコが出てこないかなあ‥」なんて思いながら対面の道でぼーっと立っていると、なんとホントにあの、オノ・ヨーコが出てきて驚いたことがあった。屈強なボディーガード4人に囲まれ、サングラスをかけた小柄な東洋人の女性だったので、間違いないだろう。車に乗り込み、いずこかへ去って行った。

東京ドームのコンサートは大いに盛り上がり、午後9時40分に終わった。しかし、最初から最後までほとんど歌いっぱなしだったポールは本当にすごい。100年、200年後にヴェートーベンなどの楽聖と同一に語られるだろうと言われているのも頷けますね!!

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板橋区民、OUT THEREする。する。

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 春からいっきに夏になりましたネ。。

板橋区民は、まだぼーっとしている。恋をしたり、風邪をひいたわけではない。
昨夜、板橋区民は北の丸公園の日本武道館で行われた、Sir James Paul McCartney爵の夜会に出かけた。すでにさまざまなメディアでニュースになっているけれど、ポールが日本武道館の舞台に立つのは、ザ・ビートルズの一員として1966年(昭和41年)に来日して以来、49年ぶりのことだ。

東京ドームに比べれば1/5ほどの観客キャパシティしかないけれど、49年前に参加した方々から中学生くらいの少年まで、大勢の人が熱気を持って武道館周辺にあふれていた。
それにしても、正面入り口に掲げられた”Paul McCartney”の看板を感慨深げに見上げる人達の多いこと!道路を挟んだ反対側の駐車場にも無言で佇み看板を見上げている人で溢れていた。

コンサートは午後7時50分、Can't Buy Me Loveで始まり、午後9時55分、Yesterday→Birthday→Golden Slumbers/Carry That Weight/The Endで終了した。東京ドーム公演より30分短く、曲数も9曲少なかったが、観客のノリと一体感はドームより断然盛り上がっていた。お年の方も多かったが、ビートルズ公演の時は会場内に機動隊が入り、観客も着座で見なくてはならなかったが、その時のうっぷんを晴らすかのような総立ちノリノリ状態だった。


ビートルズが初来日した当時、板橋区民は現在の板橋イオン裏にあるまきば幼稚園に通う、いたいけな幼児でしたが、ガイジンのお兄さんを見ると指をさし「あっビートルズだ」と叫んでいた。これは自分の最古級の記憶としてハッキリ残っている。おそらく、来日騒動のテレビニュースを憶えていたんだろう。

さて、あまり板橋区と関係のない記事が続くのも気が引けるので、その当時の東武練馬駅近辺の住宅地図もUPしておきますね。

昭和40年代の徳丸は、買い物といえば北一商店街が基本だった。今は買い物客でごった返すイオンは広大な工場であり、北口側はどちらかというと閑散としたイメージがあったけど、住宅地図をみるとそれなりに店屋が並んでますね。
お年寄りの方に聞いた話では、徳丸で初めてテレビが置かれたのが、ラーメン花月あたりにあった「粕谷電気商会」で、当時、近所の人達がテレビを観に押しかけ、床板が抜けてしまったことがあったそうだ。まるで、映画「三丁目の夕日」の一シーンそのものですね。

ボーッとしつつ武道館から飯田橋駅へ向かう道すがら、年を重ねるに従い感動することが少なくなり、日々の生活でも新しいことを求める気力も薄れついつい引きこもりがちになるけれど、思い切って外へ出てみると(OUT THERE)すっかり忘れていたあの熱い感情を呼び起こすことが出来るんだなあと改めて気がついた、そんなG.W.前日の夜でした。。

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☆G.W.は、赤塚郷から始まった。

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暑い。いや、熱い。風薫る5月なのに。。


先日、テレビの情報番組で、なぜG.W.はゴールデンウイークと呼ばれるのかと言う解説をしていた。
答はこうだ。

1951年(昭和26年)5月5日(土)、同じ原作を大映と松竹が同じ題名で映画化した「自由学校」が同時に封切られ、大映版の方は会社創業以来の興行成績を記録した。
正月映画やお盆映画に匹敵するヒット作が出たことに気をよくした当時の大映常務取締役の松山英夫が、この時期を「ゴールデンウィーク」と名付けて宣伝に利用したのが定着し、一般にも使われるようになったのが始まりとされている。

「自由学校」は朝日新聞に1950年5月26日~同年12月11日に連載された獅子文六による長編小説である。獅子文六は当時の人気作家の一人で、その作品の多くが映画化されており、この作品については松竹と大映の両方が映画化権を得たことで競作となった。
 
ストーリーは、自由が欲しいという理由で会社を辞めた五百助(松竹:佐分利信、大映:小野文春)が妻の駒子(松竹:高峰三枝子、大映:木暮実千代)に家を追い出され、ルンペン暮らしの末に和解して家に戻るまでを描いたものである。


さてさてさて。

この映画「自由学校」の大映版だけど、実は我が赤塚郷で撮影されている。(‥全編ではないですが。)
主人公夫婦は、空襲の激しくなった都心を離れ、郊外の農村地帯へ疎開して来た設定だ。戦後になっても、まだ農家の離れに住んでいる。その、最寄駅が下赤塚駅なのだ。(映画内では駅名を武蔵間駅と変えられている。)撮影に使った農家も、おそらく赤塚の農家だろう。昭和50年頃まで、茅葺の大きな農家はあたりまえのように存在していた。

映画に登場する”下赤塚駅”の駅前風景は、さすがに65年前だけあって今とは全然違うけど、でも、よく見ると理解できると思う。特に駅横の踏切のカットは、カーヴの様子や北側が低くなっている感じは現在と変わらない。
それと、手前に写る旗、なんだかわかります?古い人には懐かしく、若い人には意味がわからんですね。これは踏切警手が電車の接近や通過を知らせてる風景です。昔の踏切は”手動”で踏切の開け閉めをしてたんですよ。

映画が撮影された頃は、まだ北口は無くて駅舎は南口だけだった。佇まいの古さから、昭和5年(1930年)12月29日に開業した初代駅舎と思われる。改札口横に電話ボックスがあるけど、撮影時にはあったんですかねえ?映画中ではここから電話するシーンも出てくる。(後ろ姿の女性は木暮実千代で、電話ボックスから出て商店街を行く。)
写真の”ハヤシ薬局”は雑居ビルになったけど、ダイナマイト酒場の隣に今もある。奥の大きな日本家屋は、現在、1階が「すき屋」で2階が居酒屋「はなの舞」が入ったビルだけど、建物の角度が同じで、形も似ているのですぐわかりますね。

他にも疎開先の農家から飛び出した五百助が駅まで向かうシーンや、雑木林で暴漢に襲われるシーン(コメディタッチ)なんかもありますが、いったいどこのド田舎なんだ?というロケーションで、撮影場所は見当もつかないけれど、でも赤塚郷のどこかなのは間違いない。それは、この、どこのド田舎なんだ?という雑木林の風景を、遥か昔の子供時代に、自分は確かに見ているからだ。

「自由学校」の映画は、以前VHS版がレンタル用に発売されたけど、今はなかなか見つけられない。どうも版権は角川に移ったようだがDVD化はされておらず、いつか発売されることを望むばかりである。

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☆終戦70周年紀年☆〜刈谷さんの遺品よ、永遠に〜

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夏真っ盛りのような気候が続きますね‥

1日過ぎてしまったけれど、9年前(2006年)の5月14日、神田須田町にあった「交通博物館」が85年の歴史に幕を下ろし閉館した。(1921年開館、1936年、東京駅近くより神田へ移転。)
最初は「鉄道博物館」として開業したけれど、戦後は「交通博物館」として陸・海・空の交通全般を扱う博物館となった。

建物は増築を繰り返したけれど基本的には姿は変わらず、時代から取り残された感が漂い、平成に入ってからはその”昭和的”佇まいから熱狂的なファンもいたけれど、入館者数は低迷していた。
しかし、閉館が告知されるや過去のファンや俄かファンも大挙して押し寄せ、大変な騒ぎになったことを思い出す。

ファンの多くは鉄道が目当てだったけれど、2階や3階に展示された船や車、飛行機にも、それぞれのファンたちが名残を惜しみに訪れていた。博物館側もこれで最後だと、普段は収蔵庫に眠っている資料を新たにコーナーを設け、特別に展示していた。そんな3階の航空機ブースの展示ケースの中に、ひっそりと旧日本軍戦闘機で使われていた計器が置かれていた。その計器、「九七式高度計」を寄贈した人物こそ、成増陸軍飛行場を根拠地としていた、飛行47戦隊の整備中隊長として有名な刈谷正意さんだった。

博物館の記録によると、高度計は昭和60年代に寄贈されたものらしい。当時、70代を迎えようとする刈谷さんが、同じフロアに展示されている、戦時中に整備に腐心した四式戦疾風に搭載されていた誉エンジン(ハー45)に会いに来ていたことから、寄贈を思い立ったのだろう。

刈谷さんは終戦時、47戦隊とともに山口県の小月飛行場にいた。最後の仕事は、連合国の通達により、戦隊所属機の武装解除をすることだった。悔し泣きをしながらプロペラを外し、戦闘機の前に並べたと言う。
後年、感情が先走ったまま調べもせず書かれた終戦時の手記などでは、8月15日から数日後に進駐軍のジープが接収に来たなどと書かれている場合があるけど、白旗を上げたが直前まで殺し合いをやっていた相手の陣地にほいほいやってくることはありえず、まずは武装解除を徹底させ、それを空から偵察機で確認し、しかるべき手続きを踏んでから進駐を始めるのだ。

刈谷さんが寄贈した高度計は、おそらくこの時に取り外して記念に持ち帰ったものなのだろう。刈谷さんの生前、何度かお宅にお邪魔させていただいたが、部屋の本棚の上には他にもいくつかの計器類が飾られていた。

この「九七式高度計」は、現在、大宮の鉄道博物館の収蔵庫に収められている。もともとは交通博物館を運営していた交通文化振興財団が刈谷さんから寄贈を受けたが、閉館後、鉄道関係以外の収蔵品は借りていたものは借主に返還し、借主が事情により受け入れられない場合は替わりを探して引き受けてもらっていた。しかし、個人から寄贈された資料は返還できず、そのまま、交通文化振興財団の後を引き継いだ鉄道博物館を運営するJR東日本文化財団の元に渡った。

実は、これが問題なのだ。

交通博物館は、民営化前までは財団の親会社が国鉄だったので、ある意味公共性が高く、ノーブルさも持ち合わせていた。ところが鉄道博物館は、JR東日本が子会社の財団に運営を任せている企業博物館であり、JR東日本のアピールをする場でもある。それゆえ鉄道関係以外の物を展示することはしないし、せいぜい船は国鉄連絡船、陸は国鉄バスを扱うのみなのだ。


鉄道博物館の収蔵庫には、こうした旧交通博物館から引き継いだ鉄道以外の交通関係資料が、恐らく永遠に日の目を見ることなく眠り続けるのだろう。。

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