旅行・地域

啓志線について考察してみる。その4 ナゾの空白地帯を行く

 ナゾの空白地帯。もともとナゾばかりな啓志線だが、おそらく、今までだれもレポートして来なかったことについて紹介しよう。
 
 前回、啓志線跡を辿る案内人を務めて欲しい、と板橋区に依頼されたことは記した。与えられた時間は半日だったので、東武練馬駅集合にして上板橋駅まで歩くコースを設定した。どうせなら、練馬自衛隊の中を通って行きたいと思い、幸い、あることで練馬自衛隊の広報の方と面識があったので、見学をお願いし、快諾をいただいた。啓志線の自衛隊の中を走る部分については、それまで情報がなかったので、目玉企画になるに違いないと図ったのだ。せっかくだから、と、旧交通博物館の専任学芸員・S氏(現在・鉄道博物館学芸部長)と同・学芸課長のO氏、東武博物館学芸員・J女史にも参加していただいた。また、コラムのネタにしてもらうため、泉麻人先生もお呼びしたので、ずいぶん豪華なパーティーとなった。これだけの知能が集まれば、なにか発見があるかも、と期待に胸が膨らむ。こうして、一般公募者あわせ30名ほどの集団で、いざ啓志線を巡る旅は始まった。
‥ここから、プロの物書き風に見学記が書ければいいけど、当日は先頭に立って案内をしなくてはならず、それだけで頭が一杯であり、しかも、もう二年も前の話で記憶も薄れているので、要点と写真のみの紹介で済ますことにしちゃいます。期待してた方には申し訳ない。

 

1947S30Photo まずは、昭和22年と30年頃に撮影された空中写真の比較です。昭和22年の写真では、まだ敷地は練馬倉庫時代のままで、グラントハイツ建設用の資材が積み上がっている様子が見てとれます。貨車らしき車両が確認出来、敷地内は複線になっていたようです。自衛隊広報の話によると、貨物の積み降ろしに使われたプラットホームは、A地区の車両らしきものが止まっている付近にあったそうです。陸上自衛隊(警察予備隊)が発足した翌年の昭和26年、同時に練馬駐屯地が創立された。昭和30年頃の写真では、敷地内のほとんどの建物が建て替えられているのがわかりますね。では、現在ではどうなっているのだろうか。

 

543Photo_2 左のカラー写真は、史跡巡りの時に撮影したもの(A地区からB地区へ抜ける部分)。広報の話では、線路が撤去されてから敷地は整地されてしまい、痕跡は残っていないだろうとのことだった。しかし、線路が敷設されていたと思われるルートは想像することができた。モノクロの写真は、西側(グラントハイツ方面)に抜ける部分。警備の歩哨が立ち、複線の線路が単線に変る様子が写っているように見える。

 

Photo_3 写真は、「幻の鉄道部隊・消えた第101建設隊」という本から引用させていただいたもので、練馬自衛隊内の線路を撤去しているところが写されている。本文の年表によると、練馬駐屯地引き込み線撤収 第一次作業実施、昭和36年3月21日〜25日。第二次実施、4月3日〜8日と記載されている。啓志線の線路が完全撤去されたのがいつだったか、手元に資料が見つからなくうろ覚えだが、自衛隊線路撤去後だった気がする。
それにしても、東武鉄道の社史では昭和34年7月22日にこの路線を買収し運転営業免許を申請した。とあるが、この自衛隊内を通る部分はどうするつもりだったんだろう?線路に分断された南側は空き地状態なので、この時はまだ自衛隊の敷地ではなかったのであろうか。

 

2989 ここで、スクープ写真を紹介しましょう。自衛隊敷地を巡り、啓志線の痕跡が無いことがわかり落胆した一行でしたが、正門へ向かう途中、学芸員のS氏が”ん?あれは線路じゃないの?”と立ち止まった。それは、川越街道に接する部分に築島状に作られた「顕彰碑」へ渡るための橋で、確かに線路の廃材を利用して作られていた。残念なことに、時間が押せ押せで、詳しく調査をすることができず、写真を撮るのが精一杯であった。はたして、啓志線唯一の遺構となるのだろうか?

 

3004_2 その後、一行は上板橋駅までのルートを辿った。その間については、今まで、他の方々がレポートされている域を出ないので省略する。ただし、東武鉄道が設置した境界石柱が散見された。これは、学芸員氏が見つけてくれたもので、さすがによく物を見ていると感心しきりであった。
え?なぜその位置を示さないかですって?それは説明通り、私は案内人として、参加者の交通安全などに気を配るあまり、見落としていたからですよ。興味ある方は探してみて下さいネ! 

 

 

追記:

さて、今は西暦2019年、令和元年5月。この記事は2008年にUPしたもので、11年経ってから何を今更と思われるだろうが、今年3月にココログのシステムが変更され、どうやら過去記事の検索も改善されたようで古い記事が読まれるようになった。特に最近は当該記事へのアクセスを多くいただいているようですが、UPしてからすでに11年。現在では新たな資料も見つかり、特に昨年2018年には総集編のような形で啓志線の記事を書きましたので、そちらもどうぞご一読願います。

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コンデジ動画で”2011年赤塚諏訪神社田遊びまつり”を撮影してみた☆

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 昨夜、重要無形文化財に指定されている、「赤塚諏訪神社田遊びまつり」が例年通り厳かに執り行われた。昨年はブログでスルーしてしまい、申し訳なく思います。

現在、板橋区内では3つの田遊びまつりが行なわれている。2月10日の「赤塚氷川神社」、11日の「徳丸北野神社」、そして13日の「赤塚諏訪神社」だ。このうち、氷川神社では田遊びの形式が戦時中に失われてしまい、現在はどんど焼きのまわりを獅子や太鼓が廻るだけになっている。北野神社は昨年も今年も降雪により”もがり”が使用出来ず、神社神殿内で執り行われた。この場合、撮影はほぼ無理だ。春が近いせいなのか11日は天候が悪い場合が多く、ここ10年で半分くらいの確率で天気が悪いのではないだろうか。そして、不思議と赤塚諏訪神社は天候に恵まれ(昨年は傘をささなくても良い程度のみぞれだったが)ている。

「田遊びまつり」はもう15年以上撮影しているので、毎回いろいろな方法を試している。それこそ、ブローニーカメラを使ったり、モノクロフィルムで撮ったり、ビデオカメラで撮影したり、いろいろだ。最近では購入したばかりのデジタルカメラを使って撮影している。昨年はサボってUPしなかったけど、ニコンD3Sで超高感度撮影をしてみたりした。私は高校生の時にバイトをし、初めて自分の一眼レフカメラを持った(オリンパスOM-1とOM-2)が、大学に入学してから池袋のミヤマカメラで下取りに出し、中古のニコンF2を手に入れて以来、今日までずっとニコン党だ。(板橋区民ならば板橋区発祥のキャノンを選ぶべきだったが、当時はその事を知らなかった。ペンタ、トプコン、ゼンザブロニカもしかり。)デジタル時代になってからはD1があまりに高くて買えず、やっと手に入れたのがコンデジの COOLPIX5000だった。(コンデジのくせに12万!)ニコンはデジカメでは一時、大きくキャノンに遅れを取っていたが、D3発売以来、レンズでも素晴らしい性能のものが出ている。しかし、ニコンのコンデジ(コンパクトデジタルカメラ)は未だにダメだ。私のニコン心に響く製品はない。で、もっぱら愛用しているのが、パナソニックのLUMIXだ。特にLXシリーズはコンパクトながらレンズも明るく広角も24㎜相当で接写もOK、それになんといってもホットシューが付いている点を高く評価している。もう一つ、動画機能が素晴らしい。高感度で明るく撮れるのが良い。それと、動画はなんと言っても音声が録れるので、伝統芸能の撮影では威力を発揮できる。ボディが小さいといろいろ問題が起こるけど、小回りがきくので「田遊びまつり」のように混乱する現場では重宝しますね。

前の機種、LX3ではズームしながらの撮影が出来なかったのが不満だったが、昨年、ズーム撮影可能なLX5が出た。
そして今回、このLX5クンを使ってどこまで「田遊びまつり」を撮影出来るのかチャレンジしてみたというわけで、ざっと編集をしてYouTubeにUPしてみたので見ていただきたい。撮影にはLED照明を使ったが、音声は外部マイクを使わずそのまま録った。モードはQuick Timeにて収録。映像は田遊び撮影歴16年のノウハウが詰まっているので、今後撮影される方はご参考にどうぞ。

ん〜難を言えばCCDが小さいので、逆光でレンズに入る強い光に対し縦長のスミアが入るところが惜しい!
http://www.youtube.com/watch?v=mecjNqQgwZU

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冬至で夜も長いから久しぶりに成増飛行場建設秘話でもしますか。

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 NHKあさの連続テレビ小説「カーネーション」を見てますか?今日は軍国少女となった主人公の長女が戦争映画を見に連れて行ってくれとねだり、しかたなく母親が連れていくシーンがありました。その道すがら、「お手て〜つないで〜」という歌を歌ってましたね。童謡の「靴が鳴る」です。あれ?ピンときませんか。ここでピンと来なければ、もしも板橋検定があるなら、あなたは高得点を取れません。
大正8年に発表された「靴が鳴る」の作詞者は”清水かつら”です。まだわかりませんか?清水かつらは、亡くなるまで白子宿に住んでいました。最寄り駅は成増だったので、成増と和光市が清水かつらを取り合ってバトルをしていることは地元では有名な話です。成増駅北口には像まで建ってますね。
と、つかみはこのへんにして話題を「カーネーション」に戻すと、今週の時代は昭和18年頃の話です。主人公の糸子は、旦那を戦地にとられ、手のかかる子供と老年にさしかかる両親やおばあちゃんの世話をしつつ洋裁店を切り盛りし、てんてこ舞いの生活が続いています。昭和18年・・そうです、成増陸軍飛行場の建設が始まった年ですね。私は6年前、ちょうどカーネーションの糸子と同じくらいの歳の女性に、成増飛行場についての話を伺いました。お名前を、仮にKさんとしておきます。Kさんは嫁入りをしてKの名字になりましたが、実家も婚家も地元が近く、両家ともおそらく数百年前からのジモピーと思われます。Kさん宅は、飛行場建設の際、軍に土地を強制的に接収されてしまいます。

「戦争もたけなわの頃、成増にあった兎月園に、時の総理大臣・東条英機がやってきて、ここら辺一帯を視察して行きました。そして、この場所は土地が平坦だから(防空)避難所ではなく、飛行場を作ろうと決めたのだそうですよ。だから立ち退きにあった人達は、言ってました。東条英機の奴、バカヤロウだって。平らだから飛行場にもってこいだなんて。なんだ、避難場所じゃないじゃないか。何てことだって。土地を持っている人達は、それこそ狂わんばかりに怒りましたね。」
実際に視察を行い、飛行場の場所を選定したのは陸軍の大河内大佐ではないかと思われますが、地元ではこのように伝わっています。この時代、田柄地域は純農村地帯と言っても良く、先祖代々の土地を引き継いでいた豪農が多かった。それ故に、土地に対する思いは強く、戦時中とはいえ、その地を取り上げられることは、身を引き裂かれる思いであったろう。ある旧家の当主は、軍命令なので致し方ないと一応の納得はしたものの、10日間くらい食事が喉を通らず、放心状態になってしまった。ようやく新しく土地を手に入れ家を新築したが、ショックで祖父が倒れ、数ヶ月後に亡くなるまで、「この家は俺の家じゃない・・」と呪い続けながら死んでいったという。
軍は、土地代金の支払いと、家を立て替えるのに必要な物資の現物支給を約束しただけで、代替え地の斡旋や引っ越し費用、農作物などへの保証はいっさい行わなかった。その物資の支給も、十分な量を揃えてはくれなかったそうである。

Kさん宅では、婚家の両親が高齢で体が弱く、夫も役所勤務で忙しかったので、移転の手配など、全ての雑務をKさんが引き受けねばならなかった。幼い子供をかかえながら、登記所への手続き、大工の手配、足りない資材の確保に奔走した。立て替え中の家では瓦の数が足らず、人伝てに志木の近くに瓦屋があると聞きつけては、荒川沿いに自転車を飛ばして買い求めに走ったり、鬼瓦が割れて使えないと言うので、上板橋の五本ケヤキそばの店で手に入れたが、その重量で自転車の前輪が上がり、運転できなくなってしまったので、しかたなく旭町の転居先まで自転車を引きずって行ったこともあった。若くて必死だったから、今では考えられないほどの力が出たのだそうだ。しかし、若い女が前面に出ていろいろなことをこなしていると、女だてらに生意気言うな、などと莫迦にされたり、ずいぶん嫌な思いもしたそうである。

練馬区の発行する本では、土地の所有者は6月にいきなり板橋区役所に呼び出され、大河内大佐から土地の立ち退きについて説明をされたあと、有無をいわせず書類に署名捺印させられたとの話が載っているが、Kさんは、飛行場建設の話を聞かされ、立ち退きを命令されたのは5月15日のことであったと証言されている。他にも、5月に話を聞いた、との記録も残っていることから、一部の家には、正式に発表される前から話が伝わっていたようである。
軍が支払った代金は、税金がかからないとの話であったが、実際には戦時利得税として、3割の税金をとられてしまった。その上、軍事国債やお金を銀行に預金していた家では、終戦直後の預金封鎖や、インフレ抑制のための新円切換えにより、ほとんど価値を失うケースも出た。そのことが、後々まで怨恨として残ってしまう原因の一つとなったのである。
 
飛行場予定地の住民たちは、8月末日の土地引き渡しまで時間がないため、慌ただしく引っ越し作業を続けていた。その最中、Kさんはふと、道端の石仏や、お稲荷様などが、置き去りにされていることに気がついた。皆、自分のことに精一杯で、そのようなものに構っている余裕を失くしていたのである。信心の篤かったKさんは、打ち捨てられてゆく神仏に心を痛め、自分が普段目にしていたものには方々に手配をつけ、ようやく近くの氏神様に一時預かってもらう算段をつけた。それでも、家から離れた場所にあったものは、つい見落としてしまい、“見ざる言わざる聞かざる“の三猿の彫ってあった庚申様は、思い出した時には、すでに滑走路の下になってしまっていた。
Kさんからは、成増飛行場で訓練をする特攻隊員を慰問する話もお聴かせいただいたが、それはまたの機会に記します。

・・終戦後のことである。戦争も終わり数年が過ぎ、ようやく世の中が落ち着いてきたころ、Kさんは、氏神様に預けておいた稲荷神社や石仏などを、自分の家の庭や、所有する土地の一隅に移した。そして、毎月の掃除やお参りを、50年以上も欠かすことなく続けてこられた。住民と同じように苦難の道を歩んだ神仏も、こうして、ようやく安住の地を得たのであった。
 
Kさんが守り続けた社や石塔は、後の道路拡張で現在地(光が丘高校の北側)に移された。そのうちのひとつ、享保13年(1728)に建立された、丸彫聖観音立像廻国供養塔(まるぼりしょうかんのんりつぞうかいこくくようとう)は、平成12年、練馬区の有形民俗文化財に登録された。

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板橋区民、遥かなる八重山諸島を巡る。〜竹富島編〜

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 東京は涼しいとか。八重山諸島は蒸し暑いです。


うむ。連夜の泡盛攻めで気持ちいいっす。

今日は竹富島でのんびりしました。朝から天気がよく、海はどこまでもコバルトブルーでした。酔っぱらった勢いで、遠浅の珊瑚の砂上で太陽を浴びる板橋区民の姿を初公開しちゃいます。(まるで黒いヒトデのようですが‥)

竹富島は石垣島から船で約15分。すごく近いけど、風景はまったく変わります。八重山諸島にキターって感じです。水牛車はのんびりゆったり楽しい乗り物でした。板橋の古老の話で、巣鴨などの市場に野菜を運ぶのに牛車を使ったとありますが、ほんと力持ち。牛は頭が良く、帰りは荷車に乗って寝ていてもちゃんと家まで連れて帰ってくれると伝わってますが、この竹富島の水牛車も、観光ポイントをちゃんと把握していて、そこにつくときちんと止まります。

父島の白砂浜にも感動しましたが、竹富島は遠浅の珊瑚の砂浜が続き、まるで天国のようでした。板橋区民は最近温泉に嵌っていて、生暖かい海はまるで温泉のようで、本当に、本当に癒されました。やはり無理してでも行くもんですよ。

明日はどこへ行くのか‥

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チョー久しぶりに兎月園の写真でもUPするか。

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 涼しい日が続きますが、なんだか眠りが浅くぼんやりした日を過ごしております‥夏バテかな?


おまたせしました。大正後期〜大東亜戦争中まで赤塚郷成増村はずれに存在した遊園地、兎月園の写真をUPします。
現物のポストカードを入手したのは初めてですが、すでに練馬区のH.P.では公開されている写真なので、当ブログ的には新鮮みがありませんね。。

写真には、ボートを浮かべた池や、高台にある東屋なんかが写っています。施設は時代によって姿を変えていきましたが、基本的には前野町の”さやの湯処”や”こども動物園”や”運動場”なんかを併せ持ったような娯楽施設で、戦争が始まってからは規模を縮小し、主に軍の慰安所として使われていたようです。
成増飛行場の聞き取りをしていた時、地元の古老が「あそこに東条英機が滞在して飛行場の場所の下見をした」なんて噂話をしてましたが、記録では、陸軍の大河内大佐が滞在して飛行場範囲を下見したようですね。特攻隊員の宴会をしたとの話も聞いたことがあります。
園内の様子は、過去に何度か当ブログにて写真をUPしておりますので不親切ですが、探し出して見て下さいネ。


兎月園は、現在では住宅地に変貌して、当時の面影はまったくありませんが、地形や水路跡を辿れば、往時の姿を感じることが出来るかもしれません。右上に掲出の地図を頼りに散策してみて下さい。この地図は、「東京の水2009fragments」さんのブログから、許可を得て転載させていただきました。現在の様子もたくさんの写真を使い解説されておりますので、是非ご覧下さい。

http://tokyoriver.exblog.jp/18072907

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板橋区民、北へ。

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赤塚郷は相変わらず梅雨って感じですか?


‥なんて挑戦的な書き込みで始まりましたが、板橋区民は現在、新潟湾のフェリー乗り場にいます。
これから、新日本海フェリーの「ゆうかり号」に我が愛車、スズキ・ハスラー「赤塚号」とともに乗り込み、一路、北へと向かいます。

さて、行き着く先はナホトカかウラジオストックか(画像に出てますケド)‥乞うご期待!!
(ライブな様子はアメーバの別ブログ、「赤塚号が(で)行く」にて配信しております。

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板橋農民、恐怖する。

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 世間はお盆シーズンに入りましたね。昨日、リハビリのため(温泉に浸かるだけですが)にシューイチで通っている埼玉スポーツセンターの温泉へ行きましたが、川越街道は働き者のトラックと外環に乗る車で大渋滞でした。源泉は相変わらずコンディションが良く、気持ちよかったです。。


”ネタに困ったら新聞記事”てなことで今回は昭和22年1月8日付けの毎日新聞から。

「何の恨み?板橋の恐怖」とセンセーショナルな見出しから始まる誌面ですが、時は戦後の混沌とした時代が続く昭和22年1月の事。成増陸軍飛行場跡が一時的に農地となり、収穫を目前に米軍家族住宅地としての転用が決まり、本格工事が始まろうかとする頃ですね。
松の内があける6日夜から7日早朝にかけ、志村中台を中心とした地域で、連続して放火魔が農家に次々に火を付けるという事件が起こった。その数11軒に及び、住宅や物置などが全焼した。犯人はまだ捕まっていない。
記事によれば、農家ばかりが狙われているので「農村への買出しをめぐって先鋭化した都会人と農村民との感情対立の結果ではないか」とみて捜査をしている。

放火のあった場所は、平和台方向から続く環八を走ると見渡せる地域にある。今でもなんとなく農村地帯だった頃の面影を感じられますね。6日午後8時46分に上板橋の宝田さん宅が最初に火をつけられ、翌午前2時頃に出火した西台の内田宅が最後だった。内田宅の隣人が放火魔の姿を見つけ追いかけたが、犯人は暗闇にまぎれ取り逃がしてしまった。若い男で戦闘帽を被り、陸軍の外套を着ていたという。(一番右の写真が犯行時の様子を語る隣人達)
狙われた農家の方々は、志村署生活係の談によれば、いずれも純朴な農家の方々で供米成績も良く、これまで検挙されたり監察を受けたこともないそうで、悪徳農家も見当たらないという。


この新聞記事には、実に興味深いことが書かれていた。それは、志村警察署への取材で聞き込んだ情報と思われる内容で、記事から引用すると「食料危機の訪れた昨年の買出し最盛期にも同方面への買出しは比較的少なく東上線上板橋、常盤台、東武練馬各駅で降りる買出し客は三駅合して一日わずかに120人程度、この辺に来る買出し客はほとんど縁故関係でねぎ(公定価格19円50銭)ごぼう(公22円10銭)にんじん(公20円70銭)がいずれも28円くらいで特に暴利を得ているとはいわれず、直接被害農家に対する恨みの犯行説は薄らいでいる」と結ばれている。

趣味を板橋区として定めて調べ始めた頃、板橋区内の交通事情と成増飛行場を大きなテーマとしていた。基本として統計資料を調査したけれど、東上鉄道時代と戦中戦後すぐの頃の資料を見つけるのに苦労し、特に終戦間際や直後については他の鉄道もそうだけれどよくわからない場合がほとんどだった。(資料が出てくるのは朝鮮戦争頃から)
記事によれば、昭和21年の買出し最盛期(おそらく夏から秋にかけての時期)に、上板橋、常盤台、東武練馬各駅で降りた買出人は、3駅で1日120人程度であったと書いてある。さすがに闇取り引きを取り締まっていただけあり、ちゃんと調べていたようだ。ということは、1日の乗降客数も把握していたのだろう。戸田橋など県境に接する場所に検問所が設けられていたという話も聞きますね。


新聞記事には、こんなお宝情報が隠れていることがあるので面白いモノです。明治時代の板橋競馬場や廃止後にグライダーの飛行実験が行なわれた様子なども新聞記事で詳しく取材されていて、あなどれません。
‥しかし、いかんせん老眼の身には記事を詳細に読むのがキツいっすね。。

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土方歳三(本物)、板橋区へ現れる。

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 朝晩はさすがに寒くなりましたね。。あっしの癒しコース「白子スシロー→埼スポ」も「白子くるまやラーメン→和光市極楽湯」へ変更になりました。。

ここの所、自分語りばかり続きましたので今回は板橋区のネタでも。


幕末の板橋区で有名な出来事といえば、砲術家・高島秋帆が武州徳丸原で行なった日本初の洋式調練ですが、一般的には新選組局長・近藤勇が千葉の流山で捕縛され、東山道軍の拠点であった板橋宿の豊田家へ預けられ、宿場外れの野原で斬首された事件ですね。
明治時代に入ってから、JR板橋駅近くの北区側(板橋区ではなく残念)に永倉新八が発起人となって建立された新選組の供養墓(供養塔)があり、新選組ファンの聖地として賑わっています。

さて、赤塚郷にある板橋区立郷土資料館では10月8日から11月30日まで「幕末動乱 ー開国から攘夷へー」と題した特別展が行われています。幕末維新の醍醐味がギュッと詰まった見応えのある展示となっていて、こちらも多くの観覧者が訪れています。

展示の目玉は「最古の土方歳三オリジナル写真」で、あまりに貴重なので公開は今月28日~30日のわずか3日間のみ!だ。

いや〜これはすごいですぞ。土方歳三の写真はよく紹介されているけれど、修正された写真も多く、正真正銘のオリジナルを見ておくのは大事なことだ。
今回公開される写真は、有名なエピソードとして伝えられている、函館戦争時に土方歳三の小姓を勤めていた市村鉄之助が、土方の親族である日野宿の佐藤彦五郎宅へ届けた物ではなく、医者で野崎村(現・三鷹市)の名主だった吉野泰三の息子である泰之助が明治34年(1901)頃、北海道旅行の際に入手した写真だ。

じゃあ”最古の写真”ってなんだよ?佐藤家伝来の写真じゃないなら後年複写されたブロマイド写真かもしんないじゃん。なんて認識のアナタ、甘いですぞ。そんなアナタは子母沢寛や司馬遼太郎に騙され‥いや感化され過ぎていますぞ。

その理由は、特別展で販売されている図録の巻末に載る藤井和夫氏の検証論文により紹介されている。論文をそのまま写すことは出来ないので、詳しくは図録を購入していただくこととして、要点だけ抜粋すると‥

・そもそも佐藤彦五郎宅へ市村鉄之助なる人物は来ておらず、持参したとされる土方歳三の写真や遺髪や短歌など遺品も現存していない。

・現存する土方歳三写真はガラス湿板写真を含め5枚あり、湿板写真と紙焼き1枚は現在不明。鶏卵紙に焼付けられた写真は、吉野家所蔵以外はすべて複写されたものである。

どうですか、ショックでしょ。あっしなんか今まで疑問にも思いませんでしたよ。そんな遼太郎やヒロシに騙されて、完全に信じちゃってました。官軍迫る函館五稜郭で、歳若い小性に遺品を持たせ、古里へ向けて逃したなんて涙々の物語じゃないっすか。あの涙を返せ!と思わず叫んじゃいました。。

論文では、いかにして”市村鉄之助伝説”が誕生したのか多くの資料を元に解き明かしていく。最後は、今日でも伝説が日々創造され続くことを憂い「研究論文は研究論文”伝説”は伝説として読む能力、言うならば歴史小説リテラシィを身につけろ」、と結んでいて痛快だ。

‥ただし、ですね、土方歳三の写真には刀の鞘に手をかけた全身像と、腰の所で拳を握っている半身像の二種類があると言われているけど、それらの写真についての検証がなされていないことが気になる。半身写真もトリミングして修正を施されたものなんですかね‥


約15年前、板橋区役所一階のギャラリーで、三鷹の龍源寺に門外不出で秘蔵されている、近藤勇着用とされる道場用の袴と天然理心流のぶっとい木刀が展示されたことがあった。それまで近藤勇はガタイのいいがっしりした体形のイメージがあったけど、袴は以外に小さく腰回りも細かったのに驚いた記憶がある。
近藤勇も、宿場はずれの谷端川近くの野原で斬首されたというのが史実であり、舞台としてはけっしてドラマチックなものではないそうで、事実というのは味気ないものです。”人は信じたいものを信じてしまう(ジュリアス・シーザー)”は名言ですね。。

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年末事件簿〜それは赤塚郷から始まった〜/昭和戦後の大事件。

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 先週は、マックフライポテトLサイズや吉牛の食べ納め、新河岸のクラショウの高級肉特売や来年1月に値上げするティッシュやトイレットペーパーの買出し、また、来春大幅値上げが発表されたサントリーウイスキーの確保等、忙しかった。特にウイスキーは1本1000円〜1500円も値段が上がり死活問題だ。せめて500円くらいの値上がりでは済まないのだろうか?山崎12年なんて先々週末には見かけたが今ではどこにもない。プンプン。


と、年末らしく気ぜわしい日々が続きますが、テレビでは過去を振り返る番組が多く流れる時期ともなりましたね。
我が赤塚郷も、残念ながら新聞を騒がす事件が過去にたびたびおこった地域であることは認めざるを得ませんけど、中でも最大の事件は、今からちょうど44年前の昭和45年(1970年)12月18日に起った「上赤塚交番襲撃事件」だろう。事件の様子を朝日新聞の記事から引用する。

『同日午前1時半ごろ、板橋区の上赤塚派出所(赤塚3-41-1)に3人の若い男が「自動車が故障したので、迎えが来るまで待たせてほしい」といって入ってきた。いい終わるなり3人は、見張り中の高橋孝志巡査(20)にむかって、それぞれ長さ30センチほどのビニールホースに仕込んだ鉛の棒をふりかぶってなぐりかかった。

奥の休憩室にいた安部貞司巡査長(42)が、物音に気づいて同室の戸をあけたとたん、1人が休憩室に入り込み飛びかかった。阿部巡査長は手首をなぐられながらも、そばの短銃保管庫からピストルを取り出し、1人にむかって前から2発発射した。弾丸は2発とも胸に命中し、犯人はその場に倒れた。』

結果、京浜安保共闘(日本共産党<革命左派>神奈川県委員会)のメンバーである柴野春彦(24・横浜国大)は胸に2発の銃弾を受け死亡。同・渡辺正則(23・横浜国大)は右上腕部に銃弾を受け全治2週間。同・少年S(18・川崎市内の定時制高校)は腹部に銃弾を受け全治不明の重傷。高橋孝志巡査が流れ弾に当たり腰背部に貫通銃創。右目上部挫創。頭部打撲。全治5週間。安部貞司巡査長は右上腕に打撲。全治1週間の怪我を負った。

なぜこんな事件が起ったのかと言うと、前年12月に逮捕された革命左派指導者の川島豪が、この年の春頃から自身の奪還を獄外指導部に対して指示していた。獄外指導部(最高指導者・永田洋子)は様々な奪還方法を検討した結果、川島を乗せた護送車を襲撃し川島を奪還することとしたが、その際に補助的に銃が用いられることになり、交番襲撃による銃の奪取が計画された。この事件は、左翼運動家が警察官に射殺された初めてのケースとなった。

その後、銃奪取に失敗した革命左派は、交番のかわりに銃砲店からの銃奪取を目指し、翌年2月に真岡銃砲店襲撃事件を起こすことになる。土田国保・警視庁警務部長は「犯人を射殺したことは警察官の職務規定を遵守した正当防衛である」と発言し、これに怒りを覚えた過激派グループが1971年12月に土田邸に爆弾入りの小包を送りつけ、土田夫人が爆弾で殺害されてしまう(土田・日石・ピース缶爆弾事件)。ここから京浜安保共闘が赤軍派と統合した連合赤軍は過激さを一層増し、対外的なテロ事件をおこす一方、「山岳ベース事件」などの内部粛正が行なわれた。

そして、1972年2月19日、あの「あさま山荘事件」が起る。

数々の凶悪なテロ事件を起こした連合赤軍を、警察は都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行い、総力を挙げて行方を追いつめていた。連合赤軍は群馬県の山中に逃れるが、警察の山狩りにより、榛名山や迦葉山のベースを発見されたことをラジオのニュースで知り、群馬県警察の包囲網が迫っていることを感じ、隣接する長野県に逃げ込むことにした。
彼らは長野県の佐久市方面に出ることを意図していたが、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出て別荘地に建つあさま山荘に人質を取り立てこもった。

事件は、NHKや民放で連日生中継され、28日の強行突入のシーンは、NHK(9時40分から10時間40分に渡って放送)では平均50.8%の視聴率を記録した。これは事件から40年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率の日本記録なのだそうだ。私も、夢中で中継を見ていて、学校に遅刻しそうになってしまったのを憶えている。

立てこもりが長期に渡った理由の一つとして語られているのが、上赤塚交番襲撃事件の時に犯人を射殺したことで過激派が凶暴化し、以降の様々な事件が引きおこってしまったと言う判断があり、そのため警察側の発砲許可が突入直前まで許可されず、犯人は全員逮捕できたが警察側に3人の死者と16人の重軽傷者が出る結果となってしまった。


それにしても、なんで襲撃先として上赤塚派出所が選ばれたのだろう?赤塚郷住人としては気になるところだ。ウィキペディアの記事によれば、「銃奪取のための交番襲撃については楽観視しており、計画らしい計画も立てないまま交番襲撃は決行された。」てなことらしく、東京都下の田舎ののんびりした交番だったのが理由だったようですね。。(2番目の写真は当時のニュース映像/左手の林は赤塚氷川神社の参道)

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赤塚郷民の初詣。2015

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 皆様方、そろそろアルコール分は抜けましたか?拙は元日に開けた竹鶴17年を本日中に空けますぞ。


あっしの生まれ育った赤塚郷で参拝客No.1初詣スポットと言えば、ダントツで東京大仏の鎮座している浄蓮寺だ。正月三が日はお寺周辺に交通規制が敷かれるほどで、これでもかと人が押し寄せる。以下は成増の菅原神社、赤塚の諏訪神社、徳丸の北野神社が人出の多い神社かな。高島平地区は昭和の始めまで荒川の氾濫源だったのでほとんど住居もなく、従って歴史ある神社が存在し無かったので、現在の住民の方々は台地上に鎮座する寺社へ参らなくてはならない。

初詣に神社へ行くと、基本的にはお賽銭を投げて柏手を打ったり、その後はおみ籤を引いたりお札やお守りを買ったり絵馬を奉納したり、または昇殿参拝をしてお祓いを受けたりしますね。その他、氏子の方は餅米や酒や帚など神社で使用する用品の現物奉納もします。神楽殿や社殿には掲示板が置かれ、寄付金を奉納した方々はお名前が紙に書かれ貼り出されています。

参拝の折、掲示板に貼り出されたお名前を見ると、だいたいその土地の有力者がわかるので、いつも眺めることにしている。
赤塚の諏訪神社では、毎年、気になるお名前を見かける。それがタレントの山田邦子さんだ。記憶ですが、確か昭和の頃からずーっと変わらず一番の奉納金額で先頭にお名前が載っている。(写真は本日撮影)
山田邦子さんは生まれは荒川区で、高島平団地が出来た当時に越してきている。も寄り駅は新高島平駅なので、位置的に諏訪神社が氏神様なのだろう。

彼女は1980年代初めにテレビタレントとして頭角を現わし、90年代半ばまで、数々の冠番組を持ち「唯一天下を取った女芸人」とまで言われていた。しかし、その後のプロデュースに失敗して大バッシングを受け、急速に人気を落としマスコミへの露出が減ってしまった。
でも、引退をすることもなく今年新年のテレビ番組でも元気な姿で活躍する姿を拝見した。2007年にビートたけしの健康番組に出演した際、乳がんが発見され2回の手術を経て摘出した。それ以降は社会活動に熱心に取り組んでおられるそうだ。


山田邦子さんは、現在別の土地にお住まいで、おそらく諏訪神社の氏子連でもないと思うが、それにしても何故長年奉納を続けているのか気になる。実家のご家族は高島平にまだおられると思うけれど、そのためなんですかね?とんねるずの石橋貴明もとっくの昔に家族共々赤塚郷の人ではないけれど、いまだに地元の人と交流があると聞きます。我が赤塚郷には、なにかしらの土着パワーがあるのかもしれんですなあ。。

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