学問・資格

板橋区民、平成最後に「光陰矢の如し」と思う。

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本日は板橋区民アウェーの地、渋谷へ行ってきました。

初めてのNHKホール、ああここで紅白歌合戦をやるのか、とワクワクしながら入りましたが、思っていたよりも小規模、特にステージは意外と狭いんだな、と感じました。

あっ、忘れてましたが今夜はここで井上陽水御大の50周年記念ライブツアーが行われたんです。タイトル名は「光陰矢の如し」〜少年老い易く 学成り難し〜。

奇跡のように前の方の席が取れたのでもうドキドキです。陽水御大もついに70歳の大台を越えられました。

板橋区民が初めて井上陽水を知ったのは、あの大ヒットアルバム「氷の世界」で、1974年の正月に遊びに行った横浜の親戚の一つ年上の従兄弟からでした。「氷の世界」はその1カ月前に出たばかりで、従兄弟は「これはすごいんだぜ〜」と見せびらかし、LPレコードをかけてくれました。板橋区民はどちらかと言うと”かぐや姫”派でしたから、その時は、あまり響きませんでしたが。

定刻通り午後6時30分にライブが始まり、途中15分の休息タイムを入れながらも終了まで往年の名曲を熱唱。特に”少年時代”を生で聞けたのは感激でした。アンコールの”夢の中へ”は総立ちの大盛り上がり、そして”傘がない”でフィニッシュ。さすがベテランのライブでした。

やっぱり、自分の小学校高学年から青春時代までを楽しませてくれたレジェンド達の、生のステージは最高ですね。時代の共有感があります。今年は、もっといろんなライブへ参加してみようかな‥

 

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ゴールデンウィークは、赤塚郷から始まった。(4年ぶり3回目)

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G.W.も始まろうというのにお天気がイマイチですね。

昨晩放送されたNHK「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」で”ゴールデンウィークの名付け親が判明。”というネタを取り上げていた。これについては過去何度か当ブログで記事にしましたが、せっかくなので一部修正して再掲します。

 

1951年(昭和26年)5月5日(土)、同じ原作を大映と松竹が同じ題名で映画化した「自由学校」が同時に封切られ、大映版の方は会社創業以来の興行成績を記録した。正月映画やお盆映画に匹敵するヒット作が出たことに気をよくした当時の大映常務取締役の松山英夫が、この時期を「ゴールデンウィーク」と名付けて宣伝に利用したのが定着し、一般にも使われるようになったのが始まりとされている。

「自由学校」は朝日新聞に1950年5月26日~同年12月11日に連載された獅子文六による長編小説である。獅子文六は当時の人気作家の一人で、その作品の多くが映画化されており、この作品については松竹と大映の両方が映画化権を得たことで競作となった。
 ストーリーは、自由が欲しいという理由で会社を辞めた五百助(松竹:佐分利信、大映:小野文春)が妻の駒子(松竹:高峰三枝子、大映:木暮実千代)に家を追い出され、ルンペン暮らしの末に和解して家に戻るまでを描いたものである。

この映画「自由学校」の大映版、実は我が赤塚郷で撮影されている。(‥全編ではないですが。)

主人公夫婦は、空襲の激しくなった都心を離れ、郊外の農村地帯へ疎開して来た設定だ。戦後になっても、まだ農家の離れに住んでいる。その、最寄駅が下赤塚駅なのだ。(映画内では駅名を武蔵間駅と変えられている。)撮影に使った農家も、おそらく赤塚の農家だろう。昭和50年頃まで、茅葺の大きな農家はあたりまえのように存在していた。

映画に登場する”下赤塚駅”の駅前風景は、さすがに70年前だけあって今とは全然違うけど、でも、よく見ると理解できると思う。特に駅横の踏切のカットは、カーブの様子や北側が低くなっている感じは現在と変わらない。それと、手前に写る旗、なんだかわかります?古い人には懐かしく、若い人には意味がわからんですね。これは踏切警手が電車の接近や通過を知らせてる風景です。昔の踏切は”手動”で踏切の開け閉めをしてたんですよ。

映画が撮影された頃は、まだ北口は無くて駅舎は南口だけだった。佇まいの古さから、昭和5年(1930年)12月29日に開業した初代駅舎と思われる。2枚目の写真左手の”ハヤシ薬局”は雑居ビルになったけど、ダイナマイト酒場の隣に今もある。奥の大きな日本家屋は、現在、1階が「すき屋」で2階が居酒屋「はなの舞」が入ったビルだけど、建物の角度が同じで、形も今と似ていますね。

他にも疎開先の農家から飛び出した五百助が駅まで向かうシーンや、雑木林で暴漢に襲われるシーン(コメディタッチ)なんかもありますが、いったいどこのド田舎なんだ?というロケーションで、撮影場所は見当もつかないけれど、でも赤塚郷のどこかなのは間違いない。それは、この、どこのド田舎なんだ?という雑木林の風景を、遥か昔の子供時代に、自分は確かに見ているからだ。

 

 

この回「大型連休のおなまえ」が、明日、4月27日午前10時05分からNHK総合で再放送されるので、観ていない方はどうぞ。放送中、大映版の赤塚郷撮影シーン2カットが一瞬ですが映ります。(農家の屋内と畑地を歩くシーン。)

 

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板橋区民、平成最後の日にBest of お宝 in Heisei を選ぶ。

とうとう「平成」最後の日がきましたね。板橋区民が”趣味・板橋区”宣言をして、板橋区及び周辺地域の資料収集を始めたのは、平成が始まってすぐのことでした。以来、自分の興味の赴くままに蒐集や研究を行い、昨年秋には地元郷土資料館でその一部が展示され、一定の成果を上げたと感じております。ただし、それらは輸送関係の資料のみであり、それは蒐集品のごく一部に過ぎない。そこで、平成の大晦日にちなみ、板橋区民の中で、これが数ある蒐集品の中で一番かなと思うお宝を発表します。

 

それでは、ドコドコドコドコドコ‥‥‥‥。ジャーン!

 

発表します! Best お宝・オブ・ザ・平成は‥‥。

 

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「成増陸軍飛行場関連資料」に決定!!

 

お宝は、終戦50周年の年、平成7年(1995.)より調査を始めた成増陸軍飛行場に関する資料で、当時の関係者へのインタビュー動画を始め、お預かりした手記や手紙、複写した写真、その他etc、を含める関連資料群だ。

現在の赤塚新町、練馬区田柄、光が丘地域に存在した成増飛行場については、ごく一部のことしか伝わっておらず、いまだによくわかっていない。当時の直接的な資料は、写真や防衛庁図書館に所蔵されている統計的な資料の他には、第43飛行場大隊におられた方が終戦時に処分をせず、平成の初めまでひた隠しにしていた1945年3月時点の成増基地をまとめたガリ版刷りの極秘資料が一冊あるだけだ。

その極秘資料は、おそらくは陸軍航空本部提出用に作成されたもので、飛行場の組織や基地周辺の体制などについては詳しく書かれているが年表などはなく、どんな経過で飛行場が作られ運用されていたかまではわからないのである。

飛行場の資料は進駐軍が来るまでに焼却処分されてしまったので、関係者の方が持ち出した資料が奇跡的に見つかる以外に望めない。兄弟飛行場である調布飛行場は、その建設が開戦前に東京府により行われたため、一次資料は東京都公文書館に残っているが、成増飛行場は開戦後に陸軍主導で設置されたため残っていないのである。

冒頭の写真地図は、米軍が空襲用のターゲットとして作成した成増陸軍飛行場と周辺を捉えた空中写真で、分析された情報も書き込まれている。最初の地図は1944年に作成されたもので、まだ情報が足りないのか「TAKAMATSUCYO AIRFIELD」と書かれている。2枚目の地図は1945年1月に作成されたもので、こちらでは「NARIMASU AIRFIELD」と変更されている。書き込まれた情報は詳細で、間違っている箇所もあるけれど、概ね正確だ。驚くのは送電線まで載っており、すでに戦闘機や小型爆撃機での空襲も想定しているのではないかと思われるのである。

 

これらの地図は板橋区民が蒐集したものだけれど、よくこんなピンポイントなお宝が手に入ったものだと、我ながらその奇遇さに感動する。明日から、”令和”時代が始まるけれど、さらに貴重なお宝が目の前に現れることを楽しみに待ちたいものです。

それでは、良い改元記念日を!

 

 

 

 

 

 

 

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祝!令和元年。〜板橋区民、初詣をする。〜

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板橋区民の皆様、令和元年おめでとうございます。

 

本日、5月4日。皇居長和殿にて、新天皇への代替わり初めての一般参賀が行われた。板橋区民は、天皇陛下は日本国の宮司の頂点におられる方と思うので、昭和天皇の頃より一般参賀へは、初詣として参っている。

今回は、前天皇陛下が御退位されての即位と言うことで、お祝いモード全開、テレビを見ると、日本全国でお祭り騒ぎをしているムードだ。一般参賀はG.W.真っ只中に行われるので、相当な人出を覚悟して出向いたけれど、あの広大な皇居前は老若男女善男善女で溢れかえっていた。まだ集計は発表されていないのだが、おそらくは今年新年の明仁天皇陛下最後の一般参賀くらいの人出はあるだろう。

板橋区民は、もしかすると次の時代には生きていないので、代替わりを経験するのはこれが最後かもしれない。もし生きていたとしても、一般参賀が始まるまでの長時間を持ちこたえる自信はないので、やっぱりこれが最後かと感慨深いのであった。

 

大混雑の皇居からの帰り道、東京国際フォーラムのイベントで挨拶をする小池百合子東京都知事を見かけた。こちらはすっかり存在感を無くしてしまっているけれど、来年の東京オリンピック、成功させてくださいね。それにしても今日は、日本国の象徴と東京都の首長に出会えるという貴重な日となりました。

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板橋区民、令和最初のボランティアをする。

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G.W.ももう後半、令和最初のこどもの日はとても爽やかに過ごせましたね。

そんな休日の一日、板橋区民は、地元赤塚郷にある郷土資料館中庭で行われた「鎧着付け体験」で鎧を着付けするボランティアに参加した。今日は天気も良く絶好の外出日和で、却って体験会に来る方は少ないかと予想したけれど、遠出に疲れた方々がたくさんおられたのか、終わってみれば約230人余の方々が訪れ、大盛況に終わった。

使用している鎧はすべて手作りで、ベースは紙製だけれどとても良く仕上げてあり、写真映えする。製作は「赤塚城戦国絵巻武者行列」の方々で、特徴としては、乳幼児や幼稚園児も着用できる特製の鎧を独自に製作しているところであり、大変に好評だ。まっ、好評なのは親にだけであり、肝心の子供は嫌がって泣いたりすることも有りますが。

鎧着付け体験は、毎年5月のこどもの日と、3月の梅まつりの時にも行われるので、ぜひお越しくださいませ。

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練馬区、不思議な空間を創る。

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爽やかな空気の日々が続きますね。まるで夏の軽井沢か北海道のようです。

 

東武練馬駅南口すぐ、旧川越街道筋に、なんとも中途半端な空間ができていた。ここには、少なくとも板橋区民が幼少の頃から布団屋さんがあった。店の中には入ったことはないけれど、貸し布団が主体だったのだろう。昭和の時代まで、貸し布団業は盛況だったように記憶している。あの頃はストライキで泊まり込みも多かったし、旅館などへの需要もあった。

店は数年前に営業を止め、しばらく空き地になっていて、次は商業ビルでも建つのかと思っていたのが、まさか広場?になるとは想像外だった。土蔵?を模したような塀?にはプレートがはめ込まれ、そこには「練馬区立本陣跡地緑地」と書かれている。これが緑地?なのかということはさておいて、緑地の奥には黄金に輝く大根のモニュメントが鎮座している。

モニュメントには説明板が設置されており、「下練馬献上大根碑」との名称であることがわかる。説明文を読むと、”ここ北町には徳川綱吉が幼少の頃に御殿があり、体の弱かった綱吉が一時御殿で療養し、その時に大根を栽培させ、江戸城に戻ってからもこの土地の大根を献上させた。”ことと、この場所に下練馬宿の本陣があったことを合体させて、「本陣跡地緑地」としたらしい。

記憶のみで書きますが、確かこの場所には戦後まで名主大木家の醤油醸造工場があった場所なので、縁があるっちゃあるけれど、それにしても中途半端すぎないか?いや、中途半端な敷地なのでこうなった、と言えなくもないけれど、敷地外の景観が良いわけじゃなし、座る場所があるわけもなく、どうすりゃいいの??って感じだ。

おそらくこの土地は、練馬区に物納されたのだろうけれど、もっとこう、防災関連の倉庫とか立体駐輪場とか活かせる方法はなかったのだろうか。当然、議論はあったのだろうけれど、単に予算がないから取り敢えず緑地にしたのか、とにかくなんだかよくわからない空間だなあ。。

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板橋区民、新中央図書館開館をワクワクしながら待つがその前にミニ知識を書き留める。

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暑い。もう夏なのか。

この10連休のある日、板橋区民がときわ通りを走行していると、平和公園で大きな工事が始まっていた様子を目にした。そうか、ようやく新たな板橋区立中央図書館の建設が始まったかと、感慨を深くした。

現在のときわ台駅北口にある中央図書館が開設されたのは1970年のこと。板橋区民も高校生の頃から何度か利用していたが、さすがに設備が古くなっていたことや、近年では練馬区や北区の図書館のほうが充実している感があったので、いつしか足が遠のいていた。

しかし、ようやく待望の新中央図書館が計画されたのが2013年のこと。それでも噂では地域区民によるいろいろな意見があり建設計画は足踏みをしていると耳にしていたけれど、2020年度中には開館の運びとなるようで誠に喜ばしいかぎりである。

新図書館は地上3階地下1階の作りで、緑の中に佇む公園一体型の図書館となる。板橋区民にとって喜ばしいのは、3階に広い地域資料エリアが設けられる予定があることだ。今でも図書館には地域資料エリアはあるけれど、規模は狭いし、肝心の地域資料が各地図書館に分散していて非常に面倒くさく、常々、”ここに行けば全部揃っている”状態を望んでいたので、是非とも公文書館にある資料も含めて移設してほしいものである。

さらに、東京都中央図書館並みとは言わないけれど、練馬区の光が丘図書館のように新聞検索や国立国会図書館の電子化書籍(国立国会図書館内でしかアクセスできない電子化書籍を含む)を検索できるPCシステムを導入していただきたい。光が丘図書館では、光が丘地域の歴史を扱ったコーナーがあり、独自に情報を集めたり、私家本も置いてありとても充実しているのだ。そこには、板橋区民渾身の私家本、「成増陸軍飛行場記」も置いていただいているのである。区内の図書館でも、たまに地域の方が自費出版した本が置いてある所があるけれど、そのような本も一堂に集めていただけたら、と思う。

 

さて、この新中央図書館が建設されている平和公園には、昔、何があったのでしょうか? ‥そりゃ畑か林だろ。正解。いやいや、そんな近代以前の話じゃなくて昭和の話。

昭和時代、それも戦時中のこと、この場所には「高射砲陣地」が構築されていた。駐屯していたのは、高射砲第116連隊第1大隊第6中隊。6基の7センチ半野戦高射砲が半円状に据えられていた。最近、この近くから高射砲の弾殻が発掘され、郷土資料館に寄贈された。以前記事に書いた「常盤台住民驚く。〜空からP-51Dが降ってきた〜」も、この陣地の放った高射砲弾による撃墜の可能性があるのだ。

戦時中の空中写真を重ねてみると、新図書館の場所には高射砲部隊の付帯設備(宿舎等の建物)があり、戦後は、東京教育大学の桐花寮として使用されていたようだ。一番東側の高射砲の台座がギリギリ工事予定地にかかりそうではあるけれど、なにか遺物でも出てこないかな、と期待している。新図書館開館の暁には、是非、ここに志村地区防衛のための高射砲陣地があったことを、伝えてほしいなあ‥

 

 

 

 

 

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⭐️貴重資料は突然に!⭐️板橋区民、令和最初にして最高のお宝資料を手に入れる。〜赤塚郷最新発掘速報付き!〜

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板橋区民はやはり”持って”いる。24時間常に念じていると、こんな貴重資料に出会えることもあるんだなあ。。(しみじみ)

今回、板橋区民の元へやってきた資料は、成増陸軍飛行場の平面詳細図である。テトリスのような形をした成増飛行場の図は、防衛省図書館に所蔵されている防空関係の資料にも残っているが、詳細な図面については、元第43飛行場大隊の関係者が残した極秘資料の中に記載されている物が唯一であった。

手に入れた平面図は昔の青焼きの複写物で、残念ながら経年劣化により文字が非常に読み取りにくい状態にある。作成された経緯を想像すると、表紙には英語でNarimasu A.F.とあり、中にある図面に描かれた付帯設備の名称にも、例えば「厠 Toilet」のように英称が併記されているところから、終戦後にGHQへ提出するために作成された平面図と思われる。このような図は他にも、板橋区立郷土資料館に収められている第二造兵廠の平面図がある。

この平面図の詳細な解析はこれから行うが、極秘資料の図と比較すると建屋がだいぶ減っており、米艦載機により空襲が始まって以降、建物の取り壊しが行われた様子が伺え、そのことからも終戦直後の状況を示す平面図であることがわかる。

それにしても劣化が著しく、すぐに対処しないと図や文字が消えてしまう恐れがある。取り合えずコピー専門業者に持ち込んで相談してみよう。

 

 

さて、最新の発掘ニュースをひとつ。

つい最近、我が赤塚郷、成増5丁目のマンション建設現場から、平安〜奈良時代の横穴式墓地が2基発見された。しかも横穴だけではなく、人骨のある状態で発見され、遺骸の周りを小石で囲むなど装飾がなされているとか。板橋区内としてはこの時代の墓は初めての発見で、詳細な調査が進められている。同時代の板橋区は非常に人口の少ない(人の住んでいた痕跡の発掘が極端に少ない)時期であり、調査結果が楽しみだ。

 

 

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板橋区民、本気出す。2020。〜「成増陸軍飛行場の記憶」公開〜

今週は天候が悪く、前半は東京も雪模様のようです。

出ました、”本気出す宣言”。いったい何度目の宣言だか。でも、今年は違います。先の大戦が終わって75周年、56年ぶりの東京オリンピック開催、板橋イオン開業20年などなど、紀年行事が目白押しである。そこで、板橋区民も重い腰と痛むヒザを上げ、自分が取り組んできた成果を板橋区及び周辺地域の方々に還元すべく、ほんとの本気を出すことにしました。

さて、その記念すべき第一弾として、過去に板橋区民が製作した映像作品「成増飛行場の記憶」を公開します。この作品は、1995年から成増飛行場の調査を続けていた板橋区民へ、2005年(平成17)に板橋区立郷土資料館から、終戦60周年の企画のひとつとして、飛行場を知る関係者の証言を是非公開してほしいとの依頼があり、結果約60分の作品としてまとめたものでした。映像は、同年の終戦記念日近くの日に、板橋区大山の旧・産文ホール(現・グリーンホール)で、応募の区民100名余りの方々の前での公開と相成りました。

あれから15年。映像は板橋区民の元で眠り続けておりました。当時すでにYouTubeはあったけれど、容量制限(データ量1GB以下、映像10分以内)など、使い勝手が悪い時代でした。それが今では4K画質で長時間のUPが可能なんて、驚いちゃいますね。撮影に使用したカメラは、初期の頃はSONY VX1000、そして当時最新のSONY PD150、編集はMacのG5+ファイナルカットプロだったかと思いますが、現在はiPhone11proとiPadpro+iMovieなんて、映像機器、というよりデジタル機器とインターネットの進化は驚異的ですな。これが通信5Gだ6Gだなんて時代が来たら、一体どんな世界になるのだろう。

おっと、話が逸れてしまいました。

撮影は2000年2月、志村三丁目駅近くで発見された不発弾騒動から始まり、2001年6月、成増飛行場の戦友会「成増会」会長であった、飛行47戦隊整備中隊長の刈谷正意大尉へのインタビュー、翌年、仙台在住の元震天制空隊員だった山家曹長の撮影を行っていましたが、この時は公開の予定はありませんでした。2005年初め、板橋区の資料館から戦後60周年企画の話があり、すぐに不発弾騒動のシーンを冒頭に入れることから作品を構築することを思いつき、一気に撮影を進めました。

当時の話をしてくださる方々への協力願いなど、なかなか高いハードルを勢いで突破し、最後の知覧での撮影を終えたのは6月下旬のことでした。それからは怒涛の編集作業へ。へろへろになりながら出来上がった作品にほっとしましたが、後で見直すと、動画に重ねた静止画の位置がずれて下の画像がはみ出していたり、テロップが小さくて読みづらかったり、ラストシーンのテロップ表記で殉職を殉死と間違えていたりと、数々の不備に気がついたけれど後の祭り。すでにプロジェクトデータを消去しているので再編集はムリ。そんな映像を今になって公開するのは恥ずかしいことですが、精魂込めた作品ですので、約60分と長編ですが、どうぞ視聴いただければ幸いです。

大きい画像で観たい方はこちらへ→ https://youtu.be/BipWsZYKzP0https:





 

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鹿、240年振りに板橋区に現れる。

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今日から6月、梅雨の季節も近いですな。

昨日5月31日、鹿が板橋区舟渡で目撃され大騒ぎとなった。以下マスコミの記事より。

「東京・板橋区の河川敷で鹿が目撃され、警察官が出動する騒ぎとなった。警視庁によると、31日午前11時すぎ、板橋区舟渡の荒川河川敷にある野球場で、鹿がいるとの通報が複数寄せられた。目撃した人は「このくらいの子鹿がいた」、「あわてている様子はなく、ゆっくり草を食べている感じ」などと話した。警察官が駆けつけたところ、この鹿は、しばらく河川敷を下流方向に移動し、草の茂みに入ったあと、行方がわからなくなったという。付近には、鹿を飼育している施設などはなく、野生の鹿とみられている。警視庁は、鹿を目撃しても、近づかないよう呼びかけている。」

少し前には、荒川沿いで猪や猿の目撃がニュースになりましたね。もはや狸やハクビシンは日常茶飯事、我が故郷徳丸6丁目でも目撃されている。歴史好きならばご存知のことと思いますが、板橋区には貝塚もいくつか存在し、かつては様々な動物が生息していたことが知られており、加賀からはナウマン象の歯も出土していますね。江戸時代には徳川将軍が度々鹿や鷹狩りに訪れていることが記録されている。中でも三代将軍家光の鹿狩りは大規模に行われ、板橋地域だけで数百頭もの鹿が捕られたのだとか。最後の鹿狩りの記録は天明期前後(1780年代)の徳丸原で、それ以降は文化7年(1810年)に荒川対岸の美女木村で見られた記録を最後に、まもなく鹿の姿は消えてしまったようだ。

と言うことで、舟渡での目撃は240年振り、なワケだけど俄かには信じがたい。ニュースにならなかっただけなんじゃないかと思う。それにしてもこの鹿はどこからやってきたのだろう。奥多摩あたりから山を越えて秩父へ出て荒川沿いにやってきたのだろうか‥う〜ん鹿さんに聞いてみたいところだ。

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