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⭐️祝!東上線開業110周年⭐️〜名ばかりの記念碑は、撤去しろ。〜

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昨日は早起きして横田基地日米友好祭に参加しました。風は爽やかでしたが直射日光はもはや真夏。広大な基地内の移動と太陽光で体力を削られました。

前回は東上鉄道開業を争った「板橋グループ」と「川越グループ」について紹介しました。結論としては、”歴史は勝者によって作られる”と格言にあるように、東上鉄道開業は川越グループにより成し遂げられ、板橋グループの奮闘は無いものとされるが如くの扱いとなり、板橋区文化財係や当ブログ以外では、今日まで日陰の存在に甘んじているといっても過言ではない。

いまから60年余り前の1963年発売「鉄道ピクトリアル5月号」誌に、興味深い記事が載っている。書いたのは交通地理学の研究者で学芸大学名誉教授であった青木栄一氏(2020年逝去)で、当時、青木氏は大学院生だった。記事は「東上鉄道記念碑の問題点」とタイトルが付けられ、要約すると「池袋の東上業務部前(現在のルミネあたりにあった事務所)に鎮座している東上鉄道記念碑は、内田某なるどこの馬の骨ともわからない人物を称える碑であり、東上鉄道の関係者でもない人物の記念碑をここに置いておく意味が理解できないのでどこかへ撤去しろ。」と、なかなか過激なことが書いてある。

まあ、これは東武鉄道側の立場にたてば理解はできる。東上鉄道創立の本免許を取得し、資金を集めて建設事業を進め開通に至らしめたのは根津嘉一郎社長であり、内田某なる人物を功労者として称える石碑が業務局の前に堂々とあるのは、奇異なことに感じるのはいたしかたないのかもしれない。青木氏はこうも続ける。「東上業務部はこうしたおおらかな所があり、ときわ台駅横に飾ってあるベビーロコ号を東上鉄道の1号機関車などと紹介までしている。」これもその通りで、実際には有田鉄道から譲渡された機関車で、非力であったために使い物にならず、かといって廃棄処分にするのも忍びないので展示したのだが、本来は有田鉄道の1号機関車なのを間違え、東上業務部は東上鉄道の1号機関車として紹介してしまっていた。困ったことに今だにこれを引用し紹介している事例が散見されるのである。

この時分の青木氏は若く血気盛んであり、筋が通らないことは許せなかったのだろう。それに加え、その時代は内田三左衛門の業績についての研究や理解が進まず、記念碑に刻まれるのみで全く世に知られていなかった。記事が掲載された2ヶ月後、祖父が内田氏と交流がありそのことを伝え聞いていた北海道大学の助手の方が内田氏の功績について同誌に寄稿したが、それに対し青木氏は東上鉄道創業時の株主の持株構成を引き合いに出し、内田氏は数株しか持っておらず経営に関して全く発言権を持たない泡沫株主の一人に過ぎない、とまでこき下ろしている。なにもそこまで、と思うけど、そのことが60年経った現在でも影響を与えているのだと感ぜざるを得ないのである。

下板橋駅近くにある記念碑は、もともとは大正8年に上板橋駅南口近くの構内(3枚目の写真中央あたり)に建立された。これは、内田氏の最寄駅だったことだからと思われる。(それにしても蓮根からは遠いが‥)そしてこの碑を建てた代表者は、かつて東上鉄道創立委員長であった上野伝五右衛門氏である。青木氏は故意かどうかわからないけど、上野氏が東上鉄道開業時に役員だったことには触れていない。戦後、碑が東上業務部の前に移動したのは、役員であった上野氏が建てたからという可能性もあると思うのだが。(5枚目写真の肖像は星野仙蔵、碑は上福岡駅前にある星野仙蔵の功績を称える碑)

 

後年、青木氏が学芸大学の教授を務め鉄道史学会の重鎮となっていた時分の1995年、板橋区の郷土資料館で東上線開業90年の企画展が催された。その展示期間中、青木氏を招いて講義室で講演が行われたのだが、講演が終わって質疑応答に移った時、あるお年寄りの男性が名乗りを上げ「家では私の祖父、内田三左衛門が東上鉄道創立に関わっていたと伝わっているが、今日の話では触れられていなかったが、そのことについて知りたい」と確かそんな質問をした。その時、青木氏はとても慌てていた様子だったことを憶えている。結局、青木氏は情報を持ち合わせず、質問には答えていなかったと思うが、なにせ30年近く前のことなので板橋区民も記憶が曖昧だ。確か講演の様子はビデオカメラで記録していたはずなので、もしかするとテープはどこかにあるかもしれない、探してみるかな。

 

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コメント

こんにちは。サイトを拝見し、地域の詳細な情報に驚きました。私も、同様のサイトを持っており、特に成増飛行場についてお話をお聞きできればと思います。よろしければ連絡をお願いいたします。

投稿: 金子 | 2024年5月21日 (火) 17時45分

 どのハンドルでここに書いているか忘れて、先ほどは大森山谷を使いましたが、一円です(以前は大森山谷を使っていた気もします)。

 このところ戦後の資料を少しづつ読んでいます。ただし主目的の鉄道関連の記事にはなかなかぶつかりません。それでも読んでいると時々面白い記述があります。昭和20年10月のこと、駐留米軍がどこかでロデオを開催した。これに際し、終了後に最寄り鉄道駅で乗車制限を行ったらしい。当然制限されて割を食ったのは日本人でしょう。これに関する経緯はどのようなものだったのか?(詳細の記載は無し)
 アメリカンラグビーの大会をやっていたのは知っていましたが、ロデオなんていうのまでやっていたとは。そうかと思えば、上野動物園に於いて「闘牛」の開催がもくろまれていたなんていう話も(こちらは日本人主催らしいが、結局許可が下りずに実施されなかった模様)。
 そんな中にケーシー少将が暖房設備の設置を早く進めろ、と要求してきた(昭和20年10月)。などという一文もありました。またいずれこの名が出て来る可能性もありそうです。

投稿: 一円 | 2024年5月24日 (金) 14時36分

一円さま
コメントをありがとうございます。武州鉄道の資料を逃したのは残念ですね。実際に開通し短命に終わったほんとうに幻の路線ですから。確か鉄道博物館に画像があったかと思います。最近はネットの翻訳機能も進化が著しく、海外の資料を読むハードルも低くなってきたので、新たな史実の発掘も進むのではと期待しております。

投稿: オーク | 2024年5月24日 (金) 21時09分

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