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2024年5月

板橋区民、東上線開業110周年を祝う会を開催する。

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G.W.も過ぎ、世間はすっかり落ち着きを取り戻したようです。

そんなG.W.の最中だった先週末、板橋区民はときわ台駅南口出口対面にある「Tokiwadai Base」さんの一隅をお借りして、5月1日で開業110周年を迎えた我らが東武東上線の創業期と常盤台住宅地についてのプチ解説会を行った。普段は我が赤塚郷の寓居に収蔵されているお宝グッズ&資料、写真パネルを披露しつつ、多少の妄想を交えた東上鉄道創業にかかわるあれこれや常盤台地域についての蘊蓄を語ったのだけれど、その流れを簡単にご紹介する。

日本で初めての鉄道が明治5年に新橋ー横浜間で開業し、その後は財政難に苦しむ政府により民間の資金で鉄道網を構築する政策に沿い、全国で新路線計画申請が活発になった。その中で東上線の原型となる路線は、明治28年に発起された小石川から川越を経て足利へ至る毛武鉄道計画だった。この計画には渋沢栄一も株主として加わったけれど、渋沢をもってしても資金不足等により計画は断念され、その後もいくつかの路線が企画されたがいずれも実現には至らず、明治36年に発起した東上鉄道株式会社が現在の東武東上線へと繋がる。

解説会では冒頭、現在も東上線沿線に残る鉄道碑について話した。それは大きく分けると開業時に建てられた開業に奔走した人物を称える顕彰碑駅の誘致に奔走した顕彰碑が存在する。そのうち、開業に奔走した人物の顕彰碑は下板橋駅近くにある碑と上福岡駅前にある碑だ。下板橋は「内田三左衛門」を讃えたもの、上福岡は「星野仙蔵」を讃えたもので、板橋区民はそれぞれ”板橋グループ”、”川越グループ”と呼んでいる。

内田三左衛門は志村蓮根で醤油造醸業を営み、星野仙蔵は代々新河岸川の福岡河岸で廻船問屋の福田屋を営んでいた。いわゆる東上鉄道敷設計画に参画し奔走したのは星野が先で、それは鉄道輸送による舟運の衰退を見越しての行動であったが、内田に関しては動機がよくわからない。内田は当時の鉄道起業熱に冒されていたとしか想像できないが、その熱意は尋常ではなく、それが結局は川越グループを差し置いての仮免許取得へと繋がる。現在、東上鉄道開業に至る経過については、川越グループを主流とする見方が大勢であり、板橋グループに触れて書かれたものは圧倒的に少ない。板橋贔屓の板橋区民は昔からこのことに憤慨していたが、近年になって朧げながらその実態について掴みかけてきた。

一つは練馬区大泉で大正期から昭和初期まで大泉の町長を務めた見留家の文書を入手したことで、その中に見留氏が若い頃(明治の頃)に東上鉄道の創立事務所に書記として参加していた時の文書やメモが存在していたこと、もう一つは2021年にふじみ野死市大井の資料館で開催された星野仙蔵生誕150年を記念する展示に、内田三左衛門から星野仙蔵に宛てて書かれた手紙が公開されていたのである。

まだ精査は済んでいないので、憶測も入れての解説になるけれど、東上鉄道開業までにはこのような経過があったようだ。

明治36年に東上鉄道株式会社の設立申請がなされ、晴れて明治41年10月に仮免許が下付された。(当初の創立委員長は千家尊賀だったが明治39年に死去したため、上練馬村の村会議員で地元名士の上野伝五右衛門に引き継がれる)ところが、見留家の文書によれば板橋グループ内では賛同者同士の間に不協和音が流れており、そこに資金難も加わり厳しい状況にあったようだ。そこへ決定的な打撃が加わってしまう。それは、仮免許が下付された直後に鉄道院が火災の難に遭い、提出した図面や書類が全て灰燼に帰してしまい、それらの復旧に窮してしまった。そこで創立委員会で話し合った結果、東武鉄道創立者で実業家である根津嘉一郎の助力を得ようと画策をした。ところが、根津は板橋グループと面会することを拒んだようで、根津とは衆院議員同期で親交もあり、かつては鉄道事業の企画をする仲でもあった星野仙蔵に仲介の労をとって欲しいと頼んだことが、大井の資料館で展示されていた星野宛の手紙に記載されている。

その後は東武鉄道の社史等に記載されている通りで、根津が創立委員長となり一気に設立は進み、東上鉄道敷設の本免許を取得し、土地買収は星野の奔走により纏まり、大正3年5月1日に池袋〜田面沢間にて開業するに至ったのである。板橋グループの要であった内田三左衛門は敗軍の将として身を引き、委員長であった上野伝五右衛門は根津の東上鉄道の役員となった。

負けた内田三左衛門は、不屈の精神を持って明治43年に中央軽便電気鉄道(蓮田〜岩槻)の開設を試み免許を取得し、この路線は大正13年に武州鉄道と名前を変えて開業した。(最終的には日光と東京市内を結ぶことを構想していた)同年、内田は開業を見届けるようにしてこの世を去った。

 

と、まあそんな解説を行いました。

次は、板橋区役所の暮らしと観光課から依頼を受け、観光ボランティアさんへ「成増飛行場とグラントハイツ」についての講義を行う予定でおります。

追伸;NHKでは5月6月にかけ、各番組内で東上線沿線の特集を放映します。

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⭐️祝!東上線開業110周年⭐️〜名ばかりの記念碑は、撤去しろ。〜

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昨日は早起きして横田基地日米友好祭に参加しました。風は爽やかでしたが直射日光はもはや真夏。広大な基地内の移動と太陽光で体力を削られました。

前回は東上鉄道開業を争った「板橋グループ」と「川越グループ」について紹介しました。結論としては、”歴史は勝者によって作られる”と格言にあるように、東上鉄道開業は川越グループにより成し遂げられ、板橋グループの奮闘は無いものとされるが如くの扱いとなり、板橋区文化財係や当ブログ以外では、今日まで日陰の存在に甘んじているといっても過言ではない。

いまから60年余り前の1963年発売「鉄道ピクトリアル5月号」誌に、興味深い記事が載っている。書いたのは交通地理学の研究者で学芸大学名誉教授であった青木栄一氏(2020年逝去)で、当時、青木氏は大学院生だった。記事は「東上鉄道記念碑の問題点」とタイトルが付けられ、要約すると「池袋の東上業務部前(現在のルミネあたりにあった事務所)に鎮座している東上鉄道記念碑は、内田某なるどこの馬の骨ともわからない人物を称える碑であり、東上鉄道の関係者でもない人物の記念碑をここに置いておく意味が理解できないのでどこかへ撤去しろ。」と、なかなか過激なことが書いてある。

まあ、これは東武鉄道側の立場にたてば理解はできる。東上鉄道創立の本免許を取得し、資金を集めて建設事業を進め開通に至らしめたのは根津嘉一郎社長であり、内田某なる人物を功労者として称える石碑が業務局の前に堂々とあるのは、奇異なことに感じるのはいたしかたないのかもしれない。青木氏はこうも続ける。「東上業務部はこうしたおおらかな所があり、ときわ台駅横に飾ってあるベビーロコ号を東上鉄道の1号機関車などと紹介までしている。」これもその通りで、実際には有田鉄道から譲渡された機関車で、非力であったために使い物にならず、かといって廃棄処分にするのも忍びないので展示したのだが、本来は有田鉄道の1号機関車なのを間違え、東上業務部は東上鉄道の1号機関車として紹介してしまっていた。困ったことに今だにこれを引用し紹介している事例が散見されるのである。

この時分の青木氏は若く血気盛んであり、筋が通らないことは許せなかったのだろう。それに加え、その時代は内田三左衛門の業績についての研究や理解が進まず、記念碑に刻まれるのみで全く世に知られていなかった。記事が掲載された2ヶ月後、祖父が内田氏と交流がありそのことを伝え聞いていた北海道大学の助手の方が内田氏の功績について同誌に寄稿したが、それに対し青木氏は東上鉄道創業時の株主の持株構成を引き合いに出し、内田氏は数株しか持っておらず経営に関して全く発言権を持たない泡沫株主の一人に過ぎない、とまでこき下ろしている。なにもそこまで、と思うけど、そのことが60年経った現在でも影響を与えているのだと感ぜざるを得ないのである。

下板橋駅近くにある記念碑は、もともとは大正8年に上板橋駅南口近くの構内(3枚目の写真中央あたり)に建立された。これは、内田氏の最寄駅だったことだからと思われる。(それにしても蓮根からは遠いが‥)そしてこの碑を建てた代表者は、かつて東上鉄道創立委員長であった上野伝五右衛門氏である。青木氏は故意かどうかわからないけど、上野氏が東上鉄道開業時に役員だったことには触れていない。戦後、碑が東上業務部の前に移動したのは、役員であった上野氏が建てたからという可能性もあると思うのだが。(5枚目写真の肖像は星野仙蔵、碑は上福岡駅前にある星野仙蔵の功績を称える碑)

 

後年、青木氏が学芸大学の教授を務め鉄道史学会の重鎮となっていた時分の1995年、板橋区の郷土資料館で東上線開業90年の企画展が催された。その展示期間中、青木氏を招いて講義室で講演が行われたのだが、講演が終わって質疑応答に移った時、あるお年寄りの男性が名乗りを上げ「家では私の祖父、内田三左衛門が東上鉄道創立に関わっていたと伝わっているが、今日の話では触れられていなかったが、そのことについて知りたい」と確かそんな質問をした。その時、青木氏はとても慌てていた様子だったことを憶えている。結局、青木氏は情報を持ち合わせず、質問には答えていなかったと思うが、なにせ30年近く前のことなので板橋区民も記憶が曖昧だ。確か講演の様子はビデオカメラで記録していたはずなので、もしかするとテープはどこかにあるかもしれない、探してみるかな。

 

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板橋区民、尾久駅を飾る。

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東京は本日で夏日連続10日目。もう風薫る5月なんて呑気なことはいってられないですな。

もう一年以上前になるけれど、JR尾久駅から依頼されて戦前の尾久駅構内図の原寸大複製データを作成した。それが漸く複製図となり、尾久駅の長大な構内の南北を渡る地下道に掲示されたので、現認しに行った。尾久駅前の明治通りは通った事はあるけれど、駅に降り立ったのは初めてだ。ホーム南側に広がる車両基地は圧倒的な風景で、鉄道好きにはたまらない場所だろう。ちょうど両側に旗を持った作業員を乗せた単機の電気機関車が目の前を通り過ぎたが、こんな姿はなかなか見る機会はないだろう。構内図が掲示された地下道は、入り口が尾久駅に隣接した所にあり、そこからまたなんとも摩訶不思議な、JRの線路に囲まれた中之島のような上中里という街に繋がっている。この街には貝塚とか銭湯があり、なかなか興味深い。あまりテレビやネットの情報でも見たことの無い街で、いつか機会があれば散策をしてみたい。

この構内図は、尾久駅が構内の古い倉庫を取り壊すことになった時、内部整理の際に見つかったものだ。製作年代はわからないが、すでに相当の規模や設備が整っていることから、少なくとも昭和初期以降と思われる。その構内図と一緒に、歴代の駅員が記録してきたアルバムも発見され、その中に非常に貴重な写真が収蔵されていた。この依頼がきっかけとなり、板橋区民が長年のあいだ懸念としていた「空襲で焼けた下板橋駅の写真は、本当に下板橋駅なのか」問題の解決に繋がったのである。

板橋区が1990年代に発行した「図説 板橋区史」等に、問題の空襲直後の下板橋駅とされた写真が掲載されているのだが、当時、一目見て違和感を覚えた。たしかに戦前の下板橋駅は留置線に隣接し構内は広かったけれど、それにしても右側に映るような巨大な照明塔が必要なほどの規模なのか、また駅ホームにも違和感を感じていた。(空襲写真では駅舎は焼け落ちている)その疑問は、尾久駅アルバムに残っていた写真の検証によってほぼ証明できたのではないかと思っている。すなわち、空襲直後の写真は、明治通りから駅舎のある南に向けて撮影されたものと推定できるのである。

さて、である。

板橋区民としてはこの事実を世に広めたい。板橋区役所がこの写真を使用しているので板橋区役所に訴えたいところだが、それは結果であり、板橋区は写真の出所からその情報を得ているので、その出所に訴えるしかない。ではその出典はどこかといえば、江東区にある東京大空襲・戦災資料センターである。東京空襲に関する権威のある機関だ。しかし、訴えたところで結果は見えている。まともに訪ねても「やっかいそうなオタク研究家が鼻息荒くなんかいってるぞ」と内心の感情を押し殺して「ほうほう、そうですか、それはそれは貴重なご意見を」などと適当に持ち上げられ、お説は拝聴しましたと、早々にお引き取りを願われるのがオチである。

実はすでに知遇のある鉄道界の権威者に、件の一連の流れについて確認をしたことがある。しかし話を聞いたその権威者は、重箱の隅を突くような疑問を呈してくる。そして最後に本音をこうぶつけてきた。「この件について私が肯定したら、さも得意げにネット上のサイトや関係機関で私の名前を出し、このことについては〇〇氏も認めてますといいふらすでしょ。それは困るんだよ」と、まあそんなぞんざいな扱いを受けた。これは権威のある機関や権威者による言われなき差別だ、権威を傘に来た横暴だ!と瞬間沸騰機の様に顔を真っ赤にして即騒ぐのはよろしくはない。不条理だけれど、これは世の中の仕組みを知らないだけで、無知を晒すような行為だ。

昨年、成増のギャラリーで成増陸軍飛行場の写真展を開催した。NHKの取材を受けニュースでも放映されたおかげでたくさんの方々が訪れてくれた。中には同好の士というか同じ様な調査をしている市井の研究者の方もいて、自分の研究成果を得々と述べ、権威ある機関に話をしてもレポートを提出しても採用してもらえず、暖簾に腕押しだ、と嘆く。自分も同じ状況を経験しているので、そんなことは誰しもが経験することで、めげずに研究を続けましょうと同情し慰めるけれど、内心、思うところはある。それは、その研究者の成果について見るべきところがあり、ぜひ私の研究に使わせてほしい、と願い許可を貰ったとしても、その成果については改めて再調査をする必要がある。それが古老の証言のみだと再検証は難しいが、なんとか状況証拠を見つけ出すよう極力努力はしなくてはならない。さてそこまでしてその成果を発表した時、先の研究者は果たしてどんな心境になるのだろうか。自分の成果が生かされて喜ぶのか、逆に自分の成果を横取りされたと怒るのか、その見極めが難しい。権威機関や権威者は、孤独な市井の研究者は社会的な信用がない、というより背景のわからない怪しい人物とみなしている。実際に、博物館や資料館の窓口に自説の資料を持ち込んだり、講演会の質問タイムを利用して自説を披露する孤独な研究者は多く、しばしばトラブルを起こすのを見聞きしたことがあるのも事実だ。

では、王道となにか。

例えば、権威の象徴である区史や県史の編纂はどう行われるのか。まずは高名な大学の学長クラスが座長となり、時代ごと(考古や古代や中世、近世など時代区分)に支部が作られ、それぞれの時代ごとに権威のある人物が座長となり、そのグループ内で資料を発掘し喧々諤々の議論が交わされた後に纏められ、各界人の最終的なチェックを受けようやく出版に至るのである。だから全巻が揃うのに数十年もかかる場合があるのだ。もう一つは、世の中には様々な学会が存在し、全国規模で展開される学会も多い。そして、その学会に所属し、論文を書いて学会で発表を行い、そこで他の研究者から様々な批判を受け、論破したり再調査をし論文を修正し精度を高める。それか、大学の研究室に入り研究の成果を上げ博士号を貰う、など、それらが世の中に認めてもらう王道なのだ。そんな過程も経ず批評も受けず、ただひたすら閉じた世界にこもって孤独に研究を進めても、世間に出た時に相手にされないのは自明なのだ。今はコミケという祭典が大勢の人を集め認知され、そこにサークルと称して参加し、自分たちの成果を出版し披露する機会もあるけれど、残念ながらそれもコミケという閉じた世界での出来事とされ、いまだ世間で認められるには至っていない。ネットでの情報発信もしかりで、発表した成果はいいようにパクられるだけで、特に最近はAIの発達が著しく、ますます成果は簡単にパクられ消費されるだけだ。

なんだか愚痴ばかりとなったけれど、いいこともある。それは、AIを含めネットの世界が著しく進化したため、古文書を自動で翻訳してくれたり、海外の文献であっても翻訳ソフトにより即座に日本語に変換したり、なおかつリアルタイムでの問い合わせも即時翻訳で日本語でできるようになったりと、いままで挫折してきた天井を破ることが出来るようになってきたのだ。板橋区民もいつまで健康寿命を維持して研究を続けられるのかわからず、出来ることの限界も見えてきたが、前を向いて進みたい。

 

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板橋区民、過去を上書きする。

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・・人間誰しも墓場まで持っていく秘密の一つや二つくらいあるだろう。または上書きしてしまう記憶の一つや二つ・・

と、意味深に書き始めてみたが、先日UPした東上鉄道記念碑についての記事の続報です。

記事の最後に、1995年に板橋区立郷土資料館で開催された「板橋の鉄道展」にて行われた、学芸大学の青木栄一教授による講演会で、最後に設けられた質問時間へ移り、その時、東上鉄道の設立に尽力した内田三左衛門の孫と名乗るご老人が名乗りをあげ、三左衛門の功績について知りたいと迫り、青木教授が思わずたじろいだ、との板橋区民の記憶によるエピソードを書いた。

それが本当であったかどうか、確かビデオカメラで記録していたはずだ、とこれまた遠い記憶を呼び起こし探索したところ、件のテープはたしかに見つかった。うん?テープの上に付箋が貼ってあるが‥まあとにかく確認だ、とDVカメラにセットしてみたが‥なんと映っていたのは1993年頃に撮影した凸版印刷の遺跡発掘調査の映像(当時主流の8ミリビデオで撮影した映像を編集しDVテープに上書き)であった。う〜む、どうしたことだ。なぜこのテープに上書きしたのか全く記憶がない‥

ビデオ撮影でよくやらかす失敗は、録画ボタンのオンオフの間違い(撮影時にオンしたつもりがオフのままになっていたとか)や、外部マイクを使った時にマイクスイッチを入れ忘れた場合がある。映像は音声が非常に大事で、風景や動物ならまだ救いようがあるけれど、講演会などは音声が録れていなければ救いようがない。今回のケースは音声が録れていなかったのかもしれない。

しかし、音声が録れていなくても三左衛門さんのお孫さんの映像だけでも‥と、いまさら悔やんでみても仕方がない、はぁ(ため息)・・

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