« ⭐️高島平を衝け⭐️「秋帆先生がくる」のか? | トップページ | 板橋区民、ワクワクが止まらなくなる。 »

「高島平」とは、誰がどんな背景で命名したのか。

Img_5916

いよいよ今週14日から大河ドラマ「青天を衝け」が放映開始となる。その第1回から、板橋区に馴染み深い洋式砲術家の「高島秋帆」が登場する予定だ。秋帆先生は、長崎で自前で研究し兵装を揃え組織した洋式砲術隊を率い、天保12年(1941年)5月、武州徳丸ヶ原において並み居る幕閣や諸国の役人を前に最新式の砲術を披露し、驚愕させた。徳丸ヶ原に轟いた大砲の咆哮は、後の幕末維新の始まりの合図となったのである。

砲術が披露された「徳丸ヶ原」とは、現在の”板橋区高島平地域”である。もともと荒川の氾濫原として住居に適さず、作物を作っても水害で流される不毛の地とされてきた。そのため、江戸開府以来、徳川将軍の鷹狩や砲術の演習場として利用されていた。今年は秋帆先生が徳丸ヶ原で砲術調練を行ってからちょうど180年の記念の年である。そんな記念の年に大河ドラマで描かれるとは、非常に喜ばしいことである。

さて。その後、徳丸ヶ原は荒川の改修工事により大正時代の終わりころから開墾が進み、昭和に入ってからは東京の消費の7割の米を賄うまでの大田園地帯となった。いわゆる「徳丸田んぼ」である。ところが、高度経済成長の過程で新河岸川の汚染が進み、また、治水対策は進んだけれど数年に一度の巨大台風による大水害時には対応ができず打撃を受けることが続いた。とくに1958年の狩野川台風では壊滅的な被害を受けてしまった。そこでにわかに土地開発の機運が高まり、1961年に日本住宅公団による大規模開発の計画が立ち上がったのである。その過程でいろいろドロドロした問題が起こったが、それらを乗り越え1964年、東京オリンピックの喧騒をよそに最後の田植えと収穫が行われ、広大な徳丸田んぼはその役割を終えた。その後、土地整理事業は、徳丸選出の東京都議会議員・田中熊吉を中心に進められたのである。

話は昨年11月の頃のことに遡る。ある組織から、来年2月に放送予定のNHK「日本人のお名前」という人気番組で、”青天を衝け”の番宣を行う予定があり、高島秋帆関連で板橋区高島平を題材に出題を考えていて、誰が高島平と名付けたのか、ということを知りたいのだがそれについて意見を伺いたい、と板橋区民に問い合わせが来た。

板橋区民は即座に、それは我が生れ故郷、徳丸出身の都議会議員・田中熊吉先生に決まっているであろう、と即答した。しかしである。敵もさる者、そのことは当然承知だが、整理組合の議長として意見を取りまとめて選んだのはわかるが、誰がどんなことから「高島平」という名前を発想したのであるか、それを知りたいのだ。と、朝日新聞記者のごとく突っ込んだ質問をしてきた。熊吉先生は、「徳丸平」や「赤塚平」という候補もあったが、自分が考えた「高島平」に決めたと言っていたが、他にも俺が高島平という名前をつけた、と証言している人物がいるらしいのである。

もし現代に徳丸ヶ原の跡地に街を造り命名するならば、「高島平」という名前が出てくるであろうか。残念ながら答えはノーと言わざるを得ない。高島秋帆?なにそれおいしいの?と誰もが思うだろう。幕末の洋式砲術家・高島秋帆の名を知るのは幕末の歴史に興味を持ち、積極的に調べる人間でなければ知りえない名前なのだ。残念ながら。

しかしである。秋帆先生の名は、過去においては修身の教科書にも載る国民必修の人物だったのだ。明治22年(1889)、勝海舟は「陸軍歴史」という大作の出版を始めた。日本の近代軍隊の歴史をまとめた本で、その第一巻において「高島秋帆は陸軍の祖である。」と明記し、まるまる一冊を費やして秋帆先生の事績を描いた。この本は陸軍根幹の書となり、その後、陸軍によって秋帆先生の名は利用された。とくに大正時代の世界的な軍縮論議により予算的危機に見舞われた陸軍は、長崎の秋帆旧邸や徳丸原調練で指揮した弁天塚(新高島平駅近くに存在していた)などを史跡に指定させ、あの有名な陸軍大将・秋山好古を訪問させて宣伝に努めたり、いくつもの英雄本が出版された。

そんな時代が1945年の終戦まで続いたが、終戦後は排斥こそ受けなかったが語られることはほとんどなくなってしまった。おそらく”高島平”の名前を出してきた人物は、戦前の教育を受け、地元にそんな高名な人物が来て歴史を作っていったのだという誇りを持ち続けていたのだろう。そして新しい街が高島平と命名され、団地建設も終わり5万人もの人々が生活を始めたころ、板橋区在住のある人物が板橋区の文化財行政のトップとして招かれた。その方は民俗学者としても高名で、晩年の柳田國男の愛弟子でもあった。

後年、ある会議の席上で板橋区の史跡指定についての話し合いが持たれ、開発により消失し高島平駅近くの徳丸ヶ原公園に移設された弁天塚にあった調練記念碑や、調練の際に宿舎が置かれた我が赤塚郷の松月院にある大砲をモチーフにした記念碑が題材に上がった。その席上、普段は温厚なトップが激昂し「俺の目の黒いうちは、絶対に高島秋帆関連の物を史跡にすることは許さん!絶対にだ!」と言い放った。議論はそれで終わりである。

江戸時代にかかわる歴史的記念物を、文化財のトップが議論もさせず声を荒げて忌諱するのはなぜか。それは、そのトップが文化を深く愛する方だったからである。トップは戦争まっただ中に大学時代を過ごした。そして、戦争によって人が文化が破壊されるのを身を以て体験してきたのである。それゆえ、例え防衛のためであってもどんな理由があっても反戦を主眼としていた。理屈ではない。だから、”陸軍の祖”とされた高島秋帆は許せない存在であったのだ。

現在では秋帆先生関連の物は史跡に認定されている。戦争を直接経験した世代が表舞台を去ったからともいえるが、冷静な議論ができる時代になったともいえるだろう。戦争は、政治の問題だ。政治をしっかり見張ることが大事だと思うのである。

 

ここで終わると「高島平は誰が名付けたのか」の結論が出てないままですね。当時の会議録が残っていれば良いのだけれど、発見されていないようだ。もうすぐ「日本人のお名前」が放映されるけれど、果たして取り上げられるのかどうか注視しよう。

|

« ⭐️高島平を衝け⭐️「秋帆先生がくる」のか? | トップページ | 板橋区民、ワクワクが止まらなくなる。 »

携帯・デジカメ」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ⭐️高島平を衝け⭐️「秋帆先生がくる」のか? | トップページ | 板橋区民、ワクワクが止まらなくなる。 »