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板橋区民、練馬区民から東武練馬駅の秘密について教えられる。

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緊急事態宣言が一ヶ月延長となりました。本当に3月で明けるのか不安です。

先日家探しをしていると、懐かしい手紙が出てきた。もう10年以上前に亡くなられた方からの手紙だった。手紙の主は、練馬北町に住んでいた大木さんからで、本家筋(名主・大木金兵衛家)に近い筋の方である。大木さんは仕事柄、一部の街の方々からちょっと畏怖されていた存在だったが、板橋区民とは歳も離れており、また、趣味に一致することもあって、親しくさせていただいていた。

ある時大木さんからいただいた手紙で、昭和20年代の東武練馬駅構内(恐らく初代駅舎)について覚えていることを、達者な絵図にして送ってくださったことがあった。それはまだ徳丸側の北口駅舎がなかった頃の記憶で、当時、徳丸の住民は一度踏切を渡って南口の改札を通り、構内にある踏切を再び渡って池袋方面側のホームへ出るという、まことに不便極まりない方式を強いられてきた。昭和30年代になると徳丸側の宅地化が急激に進み、ラッシュ時は大混雑だったと、そのころ徳丸本町に越してきた板橋区民の父親から聞いた。

この方式は現在でも使われていて、東武亀戸線の亀戸水神駅などがそうである。東上線のときわ台駅も、駅横の踏切から注意深く観察すると、昔、構内踏切へ向かうスロープだったところと現在のホームを支える大谷石?が古色と新色に分かれている部分を確認出来る。確か公文書館に写真があり公開されていたかな。なんでそんな方式になっていたかと言うと、東武練馬駅の場合、昭和6年の開業時はまだ徳丸側の人口が非常に少なく不経済だったからで、ようやく北口が出来たのは昭和40年代に入ってからだった。板橋区民の最古の記憶に(あてになりませんが)、なんで一度踏切を渡ったのにまた渡るんだと、母親になんでなんで攻撃をしていたことを憶えています。

手紙は大木伸銅所についても触れられており、「祖父である大木彦右ェ門が創業者の大木岩治に、”これからはどんな商売が伸びるのか”と問われ、”これからは伸銅の時代だぞ”」とアドバイスを受け起業すると、軍需景気に乗り会社が大きくなった、と記されていた。「伸銅」とは製品加工される前の金属製品で、板や棒やパイプ状の製品であり、例えばドアノブとか手スリとか多種多様な物へと加工される。戦争となれば薬莢などの兵器や武器を作る素材となるのだ。当時、川越街道沿いには伸銅工場が点々と存在していた。

現在も、東武練馬駅には往時の構内踏切の跡が残っており、大幅に縮小され職員用の通路として使用されている。

 

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