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2021年2月

板橋区民、練馬区民から東武練馬駅の秘密について教えられる。

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緊急事態宣言が一ヶ月延長となりました。本当に3月で明けるのか不安です。

先日家探しをしていると、懐かしい手紙が出てきた。もう10年以上前に亡くなられた方からの手紙だった。手紙の主は、練馬北町に住んでいた大木さんからで、本家筋(名主・大木金兵衛家)に近い筋の方である。大木さんは仕事柄、一部の街の方々からちょっと畏怖されていた存在だったが、板橋区民とは歳も離れており、また、趣味に一致することもあって、親しくさせていただいていた。

ある時大木さんからいただいた手紙で、昭和20年代の東武練馬駅構内(恐らく初代駅舎)について覚えていることを、達者な絵図にして送ってくださったことがあった。それはまだ徳丸側の北口駅舎がなかった頃の記憶で、当時、徳丸の住民は一度踏切を渡って南口の改札を通り、構内にある踏切を再び渡って池袋方面側のホームへ出るという、まことに不便極まりない方式を強いられてきた。昭和30年代になると徳丸側の宅地化が急激に進み、ラッシュ時は大混雑だったと、そのころ徳丸本町に越してきた板橋区民の父親から聞いた。

この方式は現在でも使われていて、東武亀戸線の亀戸水神駅などがそうである。東上線のときわ台駅も、駅横の踏切から注意深く観察すると、昔、構内踏切へ向かうスロープだったところと現在のホームを支える大谷石?が古色と新色に分かれている部分を確認出来る。確か公文書館に写真があり公開されていたかな。なんでそんな方式になっていたかと言うと、東武練馬駅の場合、昭和6年の開業時はまだ徳丸側の人口が非常に少なく不経済だったからで、ようやく北口が出来たのは昭和40年代に入ってからだった。板橋区民の最古の記憶に(あてになりませんが)、なんで一度踏切を渡ったのにまた渡るんだと、母親になんでなんで攻撃をしていたことを憶えています。

手紙は大木伸銅所についても触れられており、「祖父である大木彦右ェ門が創業者の大木岩治に、”これからはどんな商売が伸びるのか”と問われ、”これからは伸銅の時代だぞ”」とアドバイスを受け起業すると、軍需景気に乗り会社が大きくなった、と記されていた。「伸銅」とは製品加工される前の金属製品で、板や棒やパイプ状の製品であり、例えばドアノブとか手スリとか多種多様な物へと加工される。戦争となれば薬莢などの兵器や武器を作る素材となるのだ。当時、川越街道沿いには伸銅工場が点々と存在していた。

現在も、東武練馬駅には往時の構内踏切の跡が残っており、大幅に縮小され職員用の通路として使用されている。

 

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2021年、緊急事態宣言下、国指定重要無形文化財「田遊び」強化週間は始まるのか!?

今日は観測至上最速の春一番が吹いたようですが、我が赤塚郷ではそんなに感じませんでした。

さて、毎年2月上旬に赤塚郷の神社「赤塚氷川神社」「徳丸北野神社」「赤塚諏訪神社」で行なわれている、国指定重要無形文化財「田遊び」ですが、当ブログにて毎年その告知を行ってきましたが、コロナ禍による緊急事態宣言が継続する中、今年はどうなることやらと気をもんでおられる田遊びファンの方も多いかと思いますが、さてどうなるのか・・

ジャカジャカジャカジャカ・・・・

「ノーコメント。」

大変申し訳ございませんが、2021年の「田遊び」については、案内は無しよ、ってことでお許しくださいませ。その代わり穴埋めとして、昨年板橋区民がiPhoneXにて撮影した映像を貼りますのでお楽しみください。

 

赤塚氷川神社
徳丸北野神社
赤塚諏訪神社

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⭐️高島平を衝け⭐️「秋帆先生がくる」のか?

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先週末は春爛漫でしたね。

コロナ禍及び出演女優スキャンダルで、異例の年越し延長放映された「麒麟がくる」が最終回を迎えました。そしていよいよ次の大河「青天を衝け」が14日から始まります。

ドラマは江戸、明治、大正、昭和を生き抜いた大実業家・渋沢栄一の生涯を描いた物語ですが、板橋区民が注目するのは、その序盤にクローズアップされる(かもしれない)、栄一が少年時代に出会い影響を受ける人物、西洋流砲術家の「高島秋帆」の出演シーンだ。

長崎の町年寄を務める高島秋帆は、出島取締役の特権を生かしいち早く西洋の砲術を取り入れ、日本近海に頻繁に出没する外国船による侵略に備えるため長崎奉行を通して幕府に進言をし、天保12年(1841年)武州徳丸原(現在の板橋区高島平)にて幕閣や諸大名の前で最新の砲術を披露した。その大地をつんざく大砲の咆哮は、やがてくる幕末維新の始まりを告げる合図となった。

過去にも何度か秋帆先生は大河ドラマに出てきたが、ほとんどモブ扱いであった。古くは1974年放映の「勝海舟」で、登場は第2回目、そのものズバリ「武州徳丸ヶ原」の回。残念ながらNHKにも映像は残っていないが、板橋区民の薄い記憶では、少年の勝海舟が父親の勝小吉に連れられて砲術演習を見学に来て、崖の隙間から覗き見る(一般人は見学厳禁)というシーンだった、と思う。その次は「花神」にも出たような気がするが確かではない。近年では2013年の「八重の桜」で、これも記憶のみですが第1回目、八重の父親役の松重豊が「江戸の徳丸ヶ原で高島秋帆が西洋流砲術を披露した云々」、と囲炉裏端で話していた。

と、いずれにしろモブ出演か話題のみの登場だったけれど、今回は違う。秋帆役を中堅人気役者の玉木宏さんが演じ、少年時代の渋沢栄一にこれから進むべき日本の姿を教示するという重要な役どころだ。公開されている第1回のあらすじは、「武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)で養蚕と藍玉作りを営む農家の長男として生まれた栄一(子役・小林優仁)。人一倍おしゃべりの剛情っぱりで、いつも大人を困らせていた。ある日、罪人が藩の陣屋に送られてきたことを知った栄一は、近くに住むいとこの喜作(子役・石澤柊斗)らと忍び込もうとたくらむが…。一方、江戸では、次期将軍候補とすべく、水戸藩主・徳川斉昭(竹中直人)の息子、七郎麻呂(子役・笠松基生)を御三卿の一橋家に迎え入れる話が進んでいた。」と紹介されている。

下線の「ある日、罪人が藩の陣屋に〜」の、罪人が秋帆先生で、蘭学嫌いの旗本で目付の鳥居耀蔵が、讒言をもって密貿易や謀反の罪を着せ、秋帆先生は徳丸原調練の翌年に捕縛され、小伝馬町の牢獄に投獄されてしまった。その後、秋帆先生は武蔵国岡部藩に送られ、約10年間陣屋に幽閉されることになる。それが冒頭2枚目の映像で、3枚目のさっぱりした映像は、黒船来航により赦免され、幕府の砲術方に召し抱えられ岡部を後にする際の姿と想像する。

 

いやーそれにしても待ちに待った高島秋帆先生の登場、尺は短いかもしれないが喜ばしいことだ。板橋区民は秋帆先生の書画を収集して25年。総所有数は100本を超え、恐らく個人所有では日本一と思っているが大河出演で世間に認知され、今後仕入れ値が上がってしまうのではないかと危惧している。

 

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「高島平」とは、誰がどんな背景で命名したのか。

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いよいよ今週14日から大河ドラマ「青天を衝け」が放映開始となる。その第1回から、板橋区に馴染み深い洋式砲術家の「高島秋帆」が登場する予定だ。秋帆先生は、長崎で自前で研究し兵装を揃え組織した洋式砲術隊を率い、天保12年(1941年)5月、武州徳丸ヶ原において並み居る幕閣や諸国の役人を前に最新式の砲術を披露し、驚愕させた。徳丸ヶ原に轟いた大砲の咆哮は、後の幕末維新の始まりの合図となったのである。

砲術が披露された「徳丸ヶ原」とは、現在の”板橋区高島平地域”である。もともと荒川の氾濫原として住居に適さず、作物を作っても水害で流される不毛の地とされてきた。そのため、江戸開府以来、徳川将軍の鷹狩や砲術の演習場として利用されていた。今年は秋帆先生が徳丸ヶ原で砲術調練を行ってからちょうど180年の記念の年である。そんな記念の年に大河ドラマで描かれるとは、非常に喜ばしいことである。

さて。その後、徳丸ヶ原は荒川の改修工事により大正時代の終わりころから開墾が進み、昭和に入ってからは東京の消費の7割の米を賄うまでの大田園地帯となった。いわゆる「徳丸田んぼ」である。ところが、高度経済成長の過程で新河岸川の汚染が進み、また、治水対策は進んだけれど数年に一度の巨大台風による大水害時には対応ができず打撃を受けることが続いた。とくに1958年の狩野川台風では壊滅的な被害を受けてしまった。そこでにわかに土地開発の機運が高まり、1961年に日本住宅公団による大規模開発の計画が立ち上がったのである。その過程でいろいろドロドロした問題が起こったが、それらを乗り越え1964年、東京オリンピックの喧騒をよそに最後の田植えと収穫が行われ、広大な徳丸田んぼはその役割を終えた。その後、土地整理事業は、徳丸選出の東京都議会議員・田中熊吉を中心に進められたのである。

話は昨年11月の頃のことに遡る。ある組織から、来年2月に放送予定のNHK「日本人のお名前」という人気番組で、”青天を衝け”の番宣を行う予定があり、高島秋帆関連で板橋区高島平を題材に出題を考えていて、誰が高島平と名付けたのか、ということを知りたいのだがそれについて意見を伺いたい、と板橋区民に問い合わせが来た。

板橋区民は即座に、それは我が生れ故郷、徳丸出身の都議会議員・田中熊吉先生に決まっているであろう、と即答した。しかしである。敵もさる者、そのことは当然承知だが、整理組合の議長として意見を取りまとめて選んだのはわかるが、誰がどんなことから「高島平」という名前を発想したのであるか、それを知りたいのだ。と、朝日新聞記者のごとく突っ込んだ質問をしてきた。熊吉先生は、「徳丸平」や「赤塚平」という候補もあったが、自分が考えた「高島平」に決めたと言っていたが、他にも俺が高島平という名前をつけた、と証言している人物がいるらしいのである。

もし現代に徳丸ヶ原の跡地に街を造り命名するならば、「高島平」という名前が出てくるであろうか。残念ながら答えはノーと言わざるを得ない。高島秋帆?なにそれおいしいの?と誰もが思うだろう。幕末の洋式砲術家・高島秋帆の名を知るのは幕末の歴史に興味を持ち、積極的に調べる人間でなければ知りえない名前なのだ。残念ながら。

しかしである。秋帆先生の名は、過去においては修身の教科書にも載る国民必修の人物だったのだ。明治22年(1889)、勝海舟は「陸軍歴史」という大作の出版を始めた。日本の近代軍隊の歴史をまとめた本で、その第一巻において「高島秋帆は陸軍の祖である。」と明記し、まるまる一冊を費やして秋帆先生の事績を描いた。この本は陸軍根幹の書となり、その後、陸軍によって秋帆先生の名は利用された。とくに大正時代の世界的な軍縮論議により予算的危機に見舞われた陸軍は、長崎の秋帆旧邸や徳丸原調練で指揮した弁天塚(新高島平駅近くに存在していた)などを史跡に指定させ、あの有名な陸軍大将・秋山好古を訪問させて宣伝に努めたり、いくつもの英雄本が出版された。

そんな時代が1945年の終戦まで続いたが、終戦後は排斥こそ受けなかったが語られることはほとんどなくなってしまった。おそらく”高島平”の名前を出してきた人物は、戦前の教育を受け、地元にそんな高名な人物が来て歴史を作っていったのだという誇りを持ち続けていたのだろう。そして新しい街が高島平と命名され、団地建設も終わり5万人もの人々が生活を始めたころ、板橋区在住のある人物が板橋区の文化財行政のトップとして招かれた。その方は民俗学者としても高名で、晩年の柳田國男の愛弟子でもあった。

後年、ある会議の席上で板橋区の史跡指定についての話し合いが持たれ、開発により消失し高島平駅近くの徳丸ヶ原公園に移設された弁天塚にあった調練記念碑や、調練の際に宿舎が置かれた我が赤塚郷の松月院にある大砲をモチーフにした記念碑が題材に上がった。その席上、普段は温厚なトップが激昂し「俺の目の黒いうちは、絶対に高島秋帆関連の物を史跡にすることは許さん!絶対にだ!」と言い放った。議論はそれで終わりである。

江戸時代にかかわる歴史的記念物を、文化財のトップが議論もさせず声を荒げて忌諱するのはなぜか。それは、そのトップが文化を深く愛する方だったからである。トップは戦争まっただ中に大学時代を過ごした。そして、戦争によって人が文化が破壊されるのを身を以て体験してきたのである。それゆえ、例え防衛のためであってもどんな理由があっても反戦を主眼としていた。理屈ではない。だから、”陸軍の祖”とされた高島秋帆は許せない存在であったのだ。

現在では秋帆先生関連の物は史跡に認定されている。戦争を直接経験した世代が表舞台を去ったからともいえるが、冷静な議論ができる時代になったともいえるだろう。戦争は、政治の問題だ。政治をしっかり見張ることが大事だと思うのである。

 

ここで終わると「高島平は誰が名付けたのか」の結論が出てないままですね。当時の会議録が残っていれば良いのだけれど、発見されていないようだ。もうすぐ「日本人のお名前」が放映されるけれど、果たして取り上げられるのかどうか注視しよう。

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板橋区民、ワクワクが止まらなくなる。

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暖かくて、風が強い。春近しですな。

大河ドラマ「青天を衝け」の放映開始日が近づき、連日番宣攻勢が激しい。しかし、(当然だが)主役の渋沢栄一と徳川慶喜の邂逅部分がクローズアップされ、残念ながら我らが高島秋帆先生が登場する映像は、第二軍に押しやられている。

それでも秋帆先生は、”根本的なことに気付いている人”としてドラマでは扱われるようで、板橋区民は放送を心から楽しみにしている。願わくば序盤シーンだけでは無く、幕末の末に幕府砲術方として活躍している姿も登場させて欲しい。

お願いします!!

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板橋区民、「青天を衝け」を観て高速感想を述べる。

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いよいよ大河ドラマ「青天を衝け」が始まった。

高速感想なので高島秋帆先生の登場場面だけ書きますが、冒頭、出演者タイトル順はなんと最後の方で期待が膨らむ。36分で岡部藩の代官に連れられて岡部の陣屋への連行シーン。ひれ伏す村人の前を罪人用の唐丸籠で護送されているけど、高島家は身分は町人ですが長崎の名門家として十万石に匹敵する財をなした家なのでこんな扱いはありえない。ここらへんがドラマのお約束ですな。見所はラスト10分、少年の渋沢栄一が陣屋に忍び込み秋帆先生との邂逅シーン。なんと秋帆先生がオランダ語でぶつぶつ言っている。こ、これは斬新だ。砲術はシーボルトから習ったと最新の説が採択されたのも喜ばしいこと、その説の原本は板橋区立郷土資料館に所蔵されている。

ドラマの最後、秋帆先生は栄一少年に向かいこの国は誰が守れるのかと問う。雷に打たれたような栄一・・正直、秋帆先生がこんなにクローズアップされるなんて感涙ものだ。是非、ご視聴あれ!!

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2021板橋区田遊び強化週間終わる。

先週から天候が安定しませんね。
通常の年ならば我が赤塚郷の神社では田遊びが行われますが、今年はコロナ禍の緊急事態宣言下ということで徳丸北野神社、赤塚諏訪神社では、保存会の方々のみで規模を縮小して神社に奉納する形式をとり、異例の昼開催で行われました。こんな異常事態は先の戦争中以来のことでしたが、伝統の灯りは消すことなく粛々と行われたようです。
と言う事態であるので板橋区民も今年は残念ながら見学を遠慮いたしました。が、もう一つ、2月10日に赤塚氷川神社で行われる<田遊び>は正式なものでは無く、国指定重要無形文化財にも登録されておらず、見学自粛の告知も行われなかったので今年も見届けました。赤塚氷川神社の田遊びは、先の戦争中に中断したことにより継承が途絶え、所作の記録もされていなかったことから戦後も復活しませんでしたが、20年ほど前に地元氏子有志の方々によりどんど焼きをし、そのまわりを獅子が3周する形式で行われております。
来年は通常の状態に戻ることを切に願います。コロナ禍退散!

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板橋区民、高島秋帆先生と似たような境遇となる。

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不覚である。普段の体調管理を怠り、我が赤塚郷のクリニックで診察を受け、翌日の診断で大病院へ行けと言われ直ぐに手配、その翌朝、赤塚郷外の広岡郷にある大手有名病院へ行き紹介状を出すと、すぐにERへ行けと言われ、何それと思いながらたどり着くと問答無用で衣服を剥がされ、まるでF1ピットのように医師たちがそれぞれ同時に血圧、股のリンパ、腕から採血と点滴やら数々の注射がなされた。

それらの処置が終わると、堂々とした女医先生が現れ「あんた、なんでもっと早く来なかったの?このままじゃ3〜4時間で死ぬよ」と強烈なパンチ。すぐに右膝下をメスで開け何やら突っ込まれて薬剤を入れてるのか、悪い体液を抜いてるのかの処置(医師と機械が邪魔と麻酔で動けず未確認)

もう一生分くらいの各種注射と点滴、ストレッチャーに乗せられ移動する天井風景など、まるでテレビドラマのような世界を一気に体験しました。無常にも家に戻れず、術後安静と部屋から電話が出来るとのことで、秋帆先生のごとく板橋陣屋へ幽閉されました。いつまで入ってなきゃならないのか、とほほです。


善男善女の板橋区民の皆様方、今から思えば兆候はうすうす感じておりましたが、病魔は突然牙を剥きますのでご自愛下さいませ。


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板橋区民「青天を衝け」第三回高速感想を述べる。

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今回の大河ドラマ「青天を衝け」は、なかなか評判が良さげですね。映像の色調もgoodです。

我らが秋帆先生の登場シーンは、黒船が浦賀沖に姿を現したことにより江戸湾の防御を急遽固める為、江川担庵の強力なプッシュにより遂に砲術指南役として召抱えが決まり、岡部の陣屋を後にする場面で、その道中"偶然"渋沢栄一と出会す。

オランダ語を諳んじることもできる天才・秋帆先生は、10年前に言葉を交わした栄一のことを覚えていて、6歳の栄一が発した"俺がこの国を守る"という言葉に勇気づけられたと、乗っていた馬から降りて栄一の肩を叩きながら、お前も励めよ、と激賞して去って行った。

これが限界か。いや、よくぞ秋帆先生を描いてくれたと感謝しなくてはならない。幽閉中も砲術指南を求め密かに訪ねてくる諸藩の人への指導や、子供達相手に開いた塾の話を入れてくれなんて贅沢は言ってはイケナイ。

実際は、長崎に残った息子の浅五郎の元に幕末の志士たちが砲術の教えを乞いに訪れ、中でも土佐藩の池辺啓太は目録を授かり、坂本龍馬や中岡慎太郎などに高島流砲術を指南している。近年、血判付き名簿が発見されてニュースになり、当ブログでも紹介しました。

以上、高速感想を述べましたが何せ資料もない病室で書いておりますので駄文ご容赦を。

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