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板橋区民、さっそくナゾの写真を前に二晩悩む。

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先日、板橋区民が譲り受けた学校アルバム群の中に、「北野の50年」という1989年に発行された都立北野高校(現・板橋有徳高校)開校50周年の記念誌があった。創立時の年表を読むと、創立認可は1939年(昭和14年)1月、「東京府立第12高等女学校」という名称であった。設立場所は赤坂区青山北町(青山師範学校付属小学校旧校舎)で、最寄りの原宿駅から徒歩15分である。翌年1940年3月に、板橋区徳丸102番地に新校舎設置が決まり、1941年4月に新校地まで徒歩遠足を実施した。そして同年9月から徳丸での授業が始まった。

年表を読むうち、いつもながらの長年の思い違いに気がついた。設立当初は「東京府立第12高等女学校」であり、戦後、男女共学の新制高校となった時に「都立北野高校」に名称変更されたとインプットしていたが、年表によれば、1941年の4月に「東京府立北野高等女学校」、1942年の東京都制への移行により同年7月に「東京都立北野高等女学校」と校名が変更された。なんと、徳丸で開校した時にはすでに”北野高校”であったのだ。ちなみに徳丸3丁目にある北野小学校は、6丁目の北野神社の飛び地に開校したのでその名が付けられたが、北野高校の名は「城の武蔵の地」から採られた名である。

さて、パラパラとページをめくると、初めて見る写真が載っていた。それは目次ページに掲載されたモノクロ写真で、おそらくは開校当時に撮影された物と思われるが、冒頭掲載写真の右上に写る建物は新校舎だろう。それにしても、うーん、これはどこのド田舎で撮影された写真なのか、まさか東京のしかも35区内には見えないローカルさだ。

てなことはさておき、冒頭の写真はどこから捉えた風景なのだろうか、いままで徳丸の昔の風景写真を少なからず見てきた板橋区民だが、このアングルは初めてで、撮影位置がピンとこない。単純に考えれば、写真の右手台地上に校舎があり、左手が低地で開けた土地ならば、学校の西側にある東武練馬駅の踏切から紅梅小学校まで続く「徳丸通り」付近から捉えた風景と推察できる。低地は徳丸2丁目から西台方面かしらね。

しかしである。現在の徳丸通り沿道を思い浮かべても、こんなアングルで望める場所は思いつかないし、こんなローカルな風景は想像もつかない。徳丸の古老の回願で、東武練馬駅開業の頃は前谷津川(現在の石川緑道)から駅まではほとんど人家がなかったとか、創立時の在校生の回願に、学校の周辺には農家が2〜3軒しかなかった、とあるようにまったくの田舎風景だったのだろうが、一向にピンとこない。

で、二晩悩んだ結果、徳丸通りの徳丸2丁目と3丁目の境あたりにある、セブンイレブンの対面西側の徳丸地域センターから昆虫公園方向の高台辺りから見た風景ではないかと推察した。徳丸通りは江戸時代から存在する村道であり、大正時代の終わりに、徳丸地域センター付近から道路を掘り下げ切り通し作り、その時に出た土砂を使い前谷津川を通る直線の築堤を構築した。冒頭の3枚目の写真は、戦前の北野女学校の生徒たちが学校近くの露頭の地層見学をしている写真である。場所は定かではないが、学校の周辺だろう。当時すでに成増露頭は有名であったが、成増露頭は荒川が削った巨大な規模の露頭なので違うと思われる。

こうした、道路の傾斜を緩くするために作った切り通しは、当初はこのような高低差(崖)ができるけれど、本当の田舎ならばいざしらず、後に住宅地として大変化をする土地の場合、道路に面する崖は長い年月とともにマンション建設などの宅地開発により大幅に削られ、道路と同じ高さになるのはよくあることで、そう考えるとこの撮影地点は徳丸地域センター辺りから昆虫公園の高台から見た風景なのかな、と推測したのだが、実はまだしっくりきていない。どなたか、どうぞ新たな視点でご教授をお願い申し上げます。

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コメント

>冒頭の3枚目の写真は、戦前の北野女学校の生徒たちが学校近くの露頭の地層見学をしている写真である。場所は定かではないが、学校の周辺だろう。

 オーク 様 いつも貴重な画像のご紹介と、すてきなコメントに感謝です。
この露頭ですが、北野(現 板橋有徳)高校の北東側の絶壁ではないでしょうか。女学生たちが地層の観察をしている場所は、北野高校時代には、階段で下っていくことができて、バレーボールのコートになっていました。今はマンションがたっていますが、かつては高校の校庭として使われていました。昔の「博物学」、今でいう「地学」の野外実習を校内で行っていたのかと推察しました。
 縄文時代の6000年前には、筑波山の手前には大海原がひろがる風光明媚な景勝地だったのかな、と夢想しています。

投稿: JE1RXD | 2021年1月26日 (火) 01時18分

>>JE1RXDさん
コメントをありがとうございます。なるほど、高校の東や北東側は丘の縁で、とくに北東側は急斜面なので可能性は大きいですね。当時の東武練馬は、すでに繁華街だった池袋から電車でわずか20分の所なのに、自然に恵まれた教育環境の良い場所であったことが伺えます。想像されるように、縄文時代には海を見下ろす岬だったのかもしれません。

投稿: オーク | 2021年1月26日 (火) 09時53分

>翌年1940年3月に、板橋区徳丸102番地に新校舎設置が決まり、1941年4月に新校地まで徒歩遠足を実施した。そして同年9月から徳丸での授業が始まった

練馬区史現勢編には「昭和四年一二月に東上線が電化、その二年後昭和六年一二月に東武練馬駅がやっとで
き、昭和九年(1934年)現在の都立北野高校が徳丸に開校され、乗降客も多くなった。」とあります。

どっちが正解なのか、その女学校の前にあったのか???

投稿: | 2021年1月26日 (火) 19時29分

>>名無しさま
コメントをありがとうございます。手抜きをしてウィキから引用しましたが、女学校設立の順番です。
1933年(昭和8年)- 東京府立第九高等女学校 = 東京都立多摩高等学校(東京都青梅市)
1936年 - 東京府立第十高等女学校 = 東京都立豊島高等学校(東京都豊島区)
1938年 - 東京府立第十一高等女学校 = 東京都立桜町高等学校(東京都世田谷区)
1939年 -(昭和14年) 東京府立第十二高等女学校 = 東京都立北野高等学校(東京都板橋区)
今回参考にしたのは、都立北野高校が編集した「北野の50年」からの引用です。私自身も北野高校が廃校となった時に創立時の実写真や資料を見ましたが、当方ブログ記載の歴史で間違いありません。それらの資料は現在、板橋区立郷土資料館が所蔵しております。行政刊行の区史は第一次資料として信用されますが、間違いは散見されます。

投稿: オーク | 2021年1月26日 (火) 21時10分

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