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2021年1月

板橋区民、新年早々お詫びして訂正する。〜記憶なんてあてにならない〜

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当ブログを訪れていただいている善男善女の皆様方、明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致し申し上げます。

一週間前は2020年の大晦日でしたが、早いものです。もう松もとれるころですね。年明け、恐れていた緊急事態宣言第二弾が発令されるようで、どうにも困ったものです。我が赤塚郷のスーパーライフへ寄ったところ棚がスカスカで、また買い占めかよいいかげん学習しろや!と毒づきそうになりましたが、1月8日〜18日まで店内改修工事のため閉店するせいとわかりました。赤塚みらべるも同様に閉まっているのでちょっと不便。

最近、内容のない日記雑記のような記事が続いてますが、調査探求は細々と続けておりますのでしばしご猶予を。おまけに緊急宣言のあおりでGoToも延期となるようで、予定していた取材旅行も中止。世の中なかなかうまく運びませんね。

ということで、新年第一弾はお詫びと訂正から。

当ブログでは、しばしば板橋区民の子供の頃の記憶を元にした話題を書きますが、その中でも我が故郷、徳丸を走っていた国際興業バスについては何度か記事にしました。母親いわく板橋区民は子供のころ、道路を走る車を見るとごきげんが良くなるそうで、グズるたびに道路に出てたまに通る車を見に行ったとか、その記憶は今も自分の中に残っている。

子供時代特に好きだったのは、ボンネットの国際興業バスが終点の徳丸本町バス停(現在の西徳通りと不動通りの交差付近)で折り返して宮ノ下の交差点で徳丸通りを左折し東武練馬駅方面へ向かう風景だった。で、その記事の中で「西徳通りは不動通りまでしか通じていなかった。」と書いていたけれど、1960年発行の住宅地図を見ると、道は不動通りを突っ切り西台方面へ伸びているではないか。

冒頭の写真は、平成初めころまであった銭湯・福徳湯の横あたりから東(西台)方向に向けたもので、道の様子は現在とほとんど変わらないようだ。以前、徳丸小学校の校史を読んだ時、開校前は一帯は広大なゴミ捨て場だったと書かれていたので、それも誤った記憶を補填する要因となったのかもしれない。

かように、記憶のみで書いたり話したりするのは危ういものだと、改めて思い知らされた次第なのでありました。

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板橋区民、◯◯警察をやめる。

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とうとうまた緊急事態宣言が発出されました。前回より大幅に感染者が増えているのにだいぶ規制が緩く、果たして効果があるのか疑問ですが、専門家はクリスマスと年末年始の濃厚接触パーティーが原因とみているようで、宣言解除予定の2月7日に答えが出ますね。

最近、1960年度版の住宅地図をネタ元にした記事が続きますがご勘弁を。だって面白いんだもん。

1960年代といえば、まだ赤塚新町から練馬区田柄高松地区にかけて米軍住宅・グラントハイツが存在していた時代だ。冒頭の地図は縮尺や省略が激しくいい加減な地図で、とっくに無くなっているはずの”いわゆる終点・啓志駅”が存在した啓志線の分岐線が記載されているが、それはそれとして、この地図には”グランドハイツ”と表記されている。

もちろん、それは間違いであり”グラントハイツーGrant Hieghtsー”が正しい。板橋区民も、グランドハイツと呼ぶ人やネット上にそうした記載を見つけると、正義を振りかざし「旦那、そりゃ間違いですぜグランドハイツじゃなく‥」とグラントハイツ警察官として厳しく取り締まってきた。

ところがである。

板橋区民も老いたのか近年は好々爺と化し、「もう、グランドハイツでもいいじゃないか。」と心情が変わった。板橋区研究家として、いろいろな住宅地図に接してきたが、市販の地図ではほとんどグランドハイツと表記されており、実体験としても、子供の頃は何の疑問も抱かず周りの大人達が呼んでいたように、グランドハイツと言っていた。テレビで紀行番組などを観ていると、本来の呼称と違い、その土地に根付いた名称が付けられているケースはよくあることだ。古文書を習ったことのある方なら、江戸時代の書物などのふりがなや漢字に、適当な文字が当てられていたことはおわかりかと思う。本当はグラントだけど、グランドでも良いのさ・・。

 

ちなみに、Grant Hieghtsとはアメリカ合衆国第10代大統領であり、明治10年に大統領経験者として初めて日本を訪れたグラント将軍の名前を冠している。まだ未見だけれど、上野公園には来日記念碑が建っているそうである。米軍成増住宅にこの名称を付けたのは、建設を命じたGHQのケーシー中将と推測されている。アメリカというか欧米では、人物の名前を戦艦や基地や空港などに使うことが多い。最初に代々木に作った占領軍住宅地はワシントンハイツと名付けられたが、それは、アメリカ初代大統領の名前である。

ではなぜ、成増住宅にはグラント将軍の名前を付けたのか。最初に日本を訪問した大統領だったからなのか。それも十分な理由として挙げられるけど、単に友好的な名前を付けたとは素直に思えないのだ。ケーシー中将は、マッカーサーの副官としてフィリピンで日本軍と戦ってきた人物だ。戦勝国の占領軍として日本に乗り込み、GHQの中で建設大臣の役割を命じられた。そして、日本各地の土地を取り上げ、アメリカ合衆国の土地として利用を開始したのだ。(ちなみに、現在でも横田基地などの住所はカリフォルニア州である。)

板橋区民の調査では、住宅地が計画された初期の頃にはすでにグラントハイツの名称は決まっていた。なぜグラント将軍の名を採ったのか、その経過の記録や証言は見つかっていないので、あくまで推測するしかないのだが、当時ケーシー中将は米国陸軍工兵司令部の幹部だった。上司のマッカーサーも工兵隊の出身である。そして、グラント将軍は米国陸軍工兵隊出身として、初めて合衆国大統領となった人物なのである。

てなワケで、最初の住宅地には初代大統領の名前、そして次に作った成増住宅には、陸軍の大先輩の名称を冠したのではないかと考察するのである。

 

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板橋区民、緊急事態宣言下なので新春放談をする。2021。

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再び緊急事態宣言が発布されてから一週間が経ちましたが、我が赤塚郷では夜はともかく昼の様子は緊急宣言以前とあまり変わらないような気がしますね、と書いた後、下赤塚駅前マックをのぞくとお昼時なのにガラガラだったので影響はあるのかな?交番前交差点ではウーバーイーツ銀輪部隊が行き交っていました。

もともと板橋区民は寒さ(暑さも)がニガテで、時期的にあまり活動的ではなく郷に篭ってじっとしているので、頭にふと浮かんだことを題材に雑談といきます。

数年前、確かときわ台駅が改修される時だったか、駅近くの蕎麦屋で元東武博物館名誉館長の花上嘉成氏と会食する機会があった。花上氏は高卒で東武鉄道に就職し、現業からたたき上げ北千住駅長まで務め、その後東向島駅高架下に開業した東武博物館の初代館長に就任、退任後も名誉館長として奉職し、お会いした時には完全に退職された直後だった。平成7年に板橋区立郷土資料館で開催された東上線の展示の際に、氏のお宅の縁の下に保管されていた、かつて東上線で使用されたフライングトージョー号他大量のHM類が発掘されたのは思い出深い。

この時は、ときわ台駅が東武宇都宮線の南宇都宮駅とクリソツであるという話をしに来られたと記憶するが、会食の際、前から気になっていた疑問を尋ねてみた。

区民「昔、鉄道雑誌に載っていた、花上氏提供の米軍兵士を運ぶ啓志線列車の写真ですが、あれはどういうシュチュエーションなのでしょうか?

花上「あの写真は、朝鮮戦争時に出兵兵士を一度米軍基地に集め、軍装を整えて九州他の出撃基地へ送り出す、そんな状況の1コマです。」

区民「グラントハイツは家族住宅なので、そこへ兵士を送るのは不思議なのですが?」

花上「ああ、あれね。記憶違いだね。朝霞のキャンプ・ドレイク基地に向かう写真ですな。てへぺろ。」

 

以上、あっさりと訂正されました。記憶違いはよくあることです。責めちゃいけません。板橋区民もしょっ中なことですが、影響力が違いますねん。

花上氏はとてもざっくばらんな方で、こんなことまで話していいのか?とこちらが心配するほどのぶっちゃけトークをされ、それゆえ氏の講演会は楽しく、ファンも多い。蕎麦屋での雑談でも「東武鉄道の復活蒸気機関車・大樹は私が企画して実現させたんだ、」という苦労話を面白おかしくしてくださった。氏は今年80の齢を越えられると思いますが、いつまでもお元気でいただき、東武鉄道の歴史を語る生き字引としてご活躍されることを願います。

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板橋区民、ある店の最初と最後を見届ける。

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週末は嵐のようですね。春近し。

長引くコロナ禍で企業、個人にかかわらず商店街にある路面店の閉店が相次いでいる。

我が故郷、東武練馬駅近くにある板橋区民の知人の店も、今月をもって閉店してしまう。もっとも、コロナ禍が直接の原因ではなく、何年も前から店を閉めたいと言っていたのだが閉店作業が面倒くさく、ずるずると倉庫のような感じで借りていたのだが、ちょうど契約が切れる月でもあるし、コロナ禍にも押され、とうとう店を閉める決断したのである。

お店は写真屋さんで、この地に開店したのは1970年代の後半、当時から板橋区民も知り合いであったので、最初の頃から店に出入りをしていた。店先に掲示していた証明写真のモデルも板橋区民が務めていたのである。時が流れ、デジカメが主流となりDTPの注文が減るとともに現像焼付けの機械を処分してからはパートを置くほどのこともないので、倉庫兼事務所のような形での営業が10年以上続いていた。そのせいで近所を通る人にとっては、”常にシャッターの閉まっている不思議な店”となってしまったのだ。商店街にはそんな一見、やる気のなさそうな不思議な店があり、最近はそれをネタにした”つぶれない店”的なテレビ番組も作られていますね。

初代のおやじさんはもう20年くらい前に亡くなられているが、戦前のオリエンタル写真学校(のちの小西六=コニカ、と言っても平成生まれにはわからないかな)を卒業後、徴兵されて中国大陸へ送られ、ソ満国境付近で写真偵察隊として敵陣の撮影をし、荒野の戦場に立てた暗室テントで現像引き伸ばしを行い、その写真は敵陣地攻略作戦に使用された。

戦後は調布でオンリーさん(米軍人とその日本人彼女)の記念写真を撮っていたが、昭和20年代半ばに新制の都立北野高校(今の都立有徳高校)の写真屋さんとなり、その後、まきば幼稚園や志村高校、田柄高校や練馬高校、北町中学校など近隣の学校を顧客として営業してきた。だから小売の写真業をしなくても良かったのだが、二代目が一緒にやることになり、カラー自現機を入れる都合もあって東武練馬に店を構えることになったのだ。ちなみに板橋区民の幼稚園のアルバムも、初代おやじさんが撮影した物である。

もう40年以上の付き合いであり、閉店する流れもわかるのだけれど、やっぱり寂しい。ふといろいろな思い出が交差する。二代目は光が丘団地に住んでおり、息子さんが女優の上戸彩ちゃんと保育園からの幼馴染で、デビュー当時のまだフィルムが主流だった頃は、得体の知らない店に現像に出して流出されるのを避けるため、プライベートの現像プリントはこの店で行っていた。志村高校の卒業生である俳優の寺田農さんは、若い頃、北町に住んでいた初代おやじさんの家へよく麻雀をしにきていたそうだ。

 

今後、いつまでこのコロナ禍が続くのか、終わりの見えない日々で心が折れ、廃業を決めてしまう店も出てしまうかもしれないけれど、本当に悲しい。苦しいのは飲食店だけじゃないんだが、どうにかしろとマスクを外して叫びたい。

 

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板橋区民、宝の山を手にいれる。

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前回の続きである。

東武練馬にある板橋区民の長年の知り合いの店が、今月を持って閉店することになった。コロナ禍が直接の原因ではないが、後押しとなった。40数年も営業していたので、物が増え処分が手間となりずるずると今日に至ったのである。

実は、お店は一度引っ越しをしており、元の店は大家である大木金兵衞家が新たにマンションを建てる為に立退かねばならなくなり、数十メートル先の並びに新たに建ててくれた所に移ったのだ。業種は東武練馬近辺にある学校を得意先とした写真屋だったので、店の屋根裏には古い卒業アルバムやフィルムが大量に残されていた。一度引っ越した際にも、初代おやじさんが撮影したガラス乾板(フィルム以前に使われていたもの)やアルバム類はある程度処分していたが、1960年代以降のものは残していた。

今回、店を退去するにあたって、少なくとも昭和時代のアルバム類は全て処分するということで、板橋区民が一部を譲り受けた。アルバムにはその時代の空気が閉じ込められており、貴重な資料なのである。掲示のモノクロ写真は、1960年代の北野高校のアルバム内からの一枚だが、高校東側の不動通りを見下ろす崖で撮影した写真で、写真右手の煙突は数年前に廃業した「北野湯」で、後方にうっすら見える半島は、徳丸6丁目の高台と思われる。

 

人物の写る写真の公開にあたってはもはや許可の取りようもなく、当時高校生の方々も、現在は後期高齢者に差し掛かるお歳であるので、ご容赦をお願いしたい。(もしも不都合があれば連絡をしてください)今後、折を見て貴重な青春写真をUPしていきますので、お楽しみに。

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板橋区民、さっそくナゾの写真を前に二晩悩む。

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先日、板橋区民が譲り受けた学校アルバム群の中に、「北野の50年」という1989年に発行された都立北野高校(現・板橋有徳高校)開校50周年の記念誌があった。創立時の年表を読むと、創立認可は1939年(昭和14年)1月、「東京府立第12高等女学校」という名称であった。設立場所は赤坂区青山北町(青山師範学校付属小学校旧校舎)で、最寄りの原宿駅から徒歩15分である。翌年1940年3月に、板橋区徳丸102番地に新校舎設置が決まり、1941年4月に新校地まで徒歩遠足を実施した。そして同年9月から徳丸での授業が始まった。

年表を読むうち、いつもながらの長年の思い違いに気がついた。設立当初は「東京府立第12高等女学校」であり、戦後、男女共学の新制高校となった時に「都立北野高校」に名称変更されたとインプットしていたが、年表によれば、1941年の4月に「東京府立北野高等女学校」、1942年の東京都制への移行により同年7月に「東京都立北野高等女学校」と校名が変更された。なんと、徳丸で開校した時にはすでに”北野高校”であったのだ。ちなみに徳丸3丁目にある北野小学校は、6丁目の北野神社の飛び地に開校したのでその名が付けられたが、北野高校の名は「城の武蔵の地」から採られた名である。

さて、パラパラとページをめくると、初めて見る写真が載っていた。それは目次ページに掲載されたモノクロ写真で、おそらくは開校当時に撮影された物と思われるが、冒頭掲載写真の右上に写る建物は新校舎だろう。それにしても、うーん、これはどこのド田舎で撮影された写真なのか、まさか東京のしかも35区内には見えないローカルさだ。

てなことはさておき、冒頭の写真はどこから捉えた風景なのだろうか、いままで徳丸の昔の風景写真を少なからず見てきた板橋区民だが、このアングルは初めてで、撮影位置がピンとこない。単純に考えれば、写真の右手台地上に校舎があり、左手が低地で開けた土地ならば、学校の西側にある東武練馬駅の踏切から紅梅小学校まで続く「徳丸通り」付近から捉えた風景と推察できる。低地は徳丸2丁目から西台方面かしらね。

しかしである。現在の徳丸通り沿道を思い浮かべても、こんなアングルで望める場所は思いつかないし、こんなローカルな風景は想像もつかない。徳丸の古老の回願で、東武練馬駅開業の頃は前谷津川(現在の石川緑道)から駅まではほとんど人家がなかったとか、創立時の在校生の回願に、学校の周辺には農家が2〜3軒しかなかった、とあるようにまったくの田舎風景だったのだろうが、一向にピンとこない。

で、二晩悩んだ結果、徳丸通りの徳丸2丁目と3丁目の境あたりにある、セブンイレブンの対面西側の徳丸地域センターから昆虫公園方向の高台辺りから見た風景ではないかと推察した。徳丸通りは江戸時代から存在する村道であり、大正時代の終わりに、徳丸地域センター付近から道路を掘り下げ切り通し作り、その時に出た土砂を使い前谷津川を通る直線の築堤を構築した。冒頭の3枚目の写真は、戦前の北野女学校の生徒たちが学校近くの露頭の地層見学をしている写真である。場所は定かではないが、学校の周辺だろう。当時すでに成増露頭は有名であったが、成増露頭は荒川が削った巨大な規模の露頭なので違うと思われる。

こうした、道路の傾斜を緩くするために作った切り通しは、当初はこのような高低差(崖)ができるけれど、本当の田舎ならばいざしらず、後に住宅地として大変化をする土地の場合、道路に面する崖は長い年月とともにマンション建設などの宅地開発により大幅に削られ、道路と同じ高さになるのはよくあることで、そう考えるとこの撮影地点は徳丸地域センター辺りから昆虫公園の高台から見た風景なのかな、と推測したのだが、実はまだしっくりきていない。どなたか、どうぞ新たな視点でご教授をお願い申し上げます。

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板橋区民、追加で手にいれた宝の山を目の前にし恍惚となる。

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東武練馬の知人の引っ越し作業が佳境となり、最後の砦である天井裏の物置場が開封された。そして、その奥からお宝資料が出てきたとの連絡をいただいたので、さっそく背取りのために店に駆けつけた。

出てきたのは板橋区民の大好物である古写真の数々で、紙焼き写真からネガ類、4X5版のフィルムやブローニーフィルムが一般化する前まで使われていたガラス乾板まで、戦前から昭和30年代にかけての貴重なお宝の数々である。これらは基本、卒業アルバムに使用するために撮影された物で、旧・北野高校に関する写真がほとんどだった。

なかでも目を引いたのは、北野高校と周辺地域のプリント写真を結合したパノラマ写真で、なんとそこには開発直前の「不動通り」の姿が映っているではないか!!これは凄い!今まで、部分的に写っている写真は何葉かあったけれど、全景を俯瞰出来るアングルで撮影された写真は初めて見た。

さっそく分析を始めるが、撮影場所は、現在のイオンスタイル板橋の母屋と隣接する駐車場棟との間くらいから。撮影時期は、北野高校の横に都営住宅が建っているので戦後数年経ってからであり、1948年3月に撮影された米軍空中写真にも建物は写っていない。1953年(昭和28年)3月設立のまきば幼稚園が無いので、それ以前の間までに撮影されたと思われる。この後、昭和30年代後半にはもうびっしりと住宅が立ち並ぶ風景となるので、急激に宅地化されたことがわかる。不動通りの部分を拡大したが、徳丸1丁目から西台3丁目、三田線西台駅方向の高島平までが遠望できる。おそらくは、この写真が明治や江戸時代の徳丸風景を偲べる最後の頃の姿だろう。(北野高校のある台地は大木の茂る林だったが)

 

これらの資料は、60年以上の歳月を天井裏でひっそりと眠っていた物で、今回のコロナ禍が後押しとなって陽の目を見た。もし、板橋区民の元に来なければ、人知れず捨てられてしまった貴重な歴史であっただろう。サルベージできて良かった。本当に良かった。

 

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