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板橋区民、師走にそわそわする。

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気がついたら12月になっていた。師走ですよ2020年も令和2年も今月で終わりですよ。

と驚くのも、そもそも今年初めにダイヤモンドプリンセス号から始まった日本のコロナ騒動は、収まるどころか三たびの爆発的感染拡大を恐れる事態となってきた。こんなに世の中全ての様子が一変してしまったのは先の世界大戦時以来のことじゃないだろうか。戦後生まれの板橋区民だがここまで悪い影響を受けた年はなかった。

そんな状況の中でも人は生きて行かなくてはならず、身の回りにほんの少しの楽しみやささやかな喜びを求めるのである。板橋区民のささやかな喜びは、レジェンドアーチストのライヴへ参加したり温泉に行ったり板橋区についての資料収集が捗ることであるが、そのいずれもコロナ禍の影響を受け、中止や延期や制限を受けてしまった。

さて、今年は板橋区に関する収集成果もあまり芳しくなかったけれど、最近、久しぶりに戦前の東上線切符を入手した。昭和14年11月8日に大山駅で発券された「金井窪ー池袋」間通用の乗車券である。大山駅の開業は昭和6年8月25日で、写真中央上にある切符は開業約3週間後のものである。旧川越街道沿いに置かれた大山駅であるが、当初は駅付近に人家や商店はほとんどなかったと言う。

大山駅開業から約一ヶ月後の9月27日、下板橋駅との間に「金井窪駅」が誕生した。下板橋駅から400メートルしか離れていない場所だけれど、中山道から分岐した高田道と交差する場所であり、バスが通り映画館もある商店街で、当時は大山駅前よりも栄えていた。が、駅があったのは昭和20年4月までの、僅か14年間で廃止されてしまった。

板橋区史や東武鉄道社史、鉄道雑誌などでは金井窪駅の廃止理由は「昭和20年4月13日の空襲による被災のため」とされている。この日は前日深夜より池袋を中心とした激しい空襲があり、中板橋駅あたりまで被害が及んでいた。板橋区民は20年以上前、東上線の調査をする過程で、第一次資料である公文書を一般人でも閲覧できることを知り、浜松町にあった東京都公文書館や竹橋の国立公文書館に通っていた。そこで目にしたのが、金井窪駅の設置と廃止にかかわる公文書だった。

現在ではネット検索により国立公文書館所蔵の公文書の目録を検索し、画像までは公開されていないけれど当該資料の所蔵場所がわかるようになっている。その資料によれば、もともと金井窪駅は空襲前の4月5日に営業休止を布告されていたのである。これは、戦時中の物資統制政策の一環で、それは鉄道にも及び駅間が短いなど不経済な場合にも適用されていた。

この調査と同じころ、板橋区役所2階にあった情報公開課で資料を漁っていると「板橋区報縮刷版」が置いてあるのを見つけた。早速、戦後第一号からページをめくっていくと、戦時中の思い出話として、空襲の時に金井窪駅に勤務されていた駅員の方の証言が掲載されている記事を発見した。その駅員の方によれば、あたりは一面焼け野原になったが金井窪駅は焼失を逃れた、と証言されていた。空襲直後の15日、金井窪駅は機能を停止したが、空襲時点ではまだ営業していたことがわかった。ようするに、金井窪駅は営業停止を告知されていたが空襲時までは機能しており、被災は逃れていたが結果として空襲の日を境に営業を停止したのである。

後に金井窪駅発行の切符を手に入れた際に、板橋史談会が発行する「板橋史談」誌にこの顛末を執筆し掲載された。そしてその誌面を元にして当ブログ開設当初の2008年に、金井窪駅廃止にまつわる記事をUPした。

http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_857f.html

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