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板橋区民、どうにかしてくれと嘆く。

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だんだん寒さが増してきましたね。

赤塚郷に住む方は、散歩で光が丘公園へ行くことが多いと思う。赤塚郷なら赤塚公園だろ、というところだが、やはり坂を上り下りするより平坦な道を選ぶのが老人情だ。散歩の途中で光が丘図書館に寄ることもあるが、先日、郷土史のコーナーに、おすすめ本のような感じで「グラントハイツ物語」という本が立て置かれていた。この本は平成3年12月に光が丘新聞社から発行されたもので、板橋区民も昔から知っていた。

久しぶりにその本を手に取り、エピローグ部分を読み改めてため息をつく。この導入部分は本編に入る前の解説の部分で、「練馬区情報公開課の資料を参考にして書いた。」と断りがきがしてある。本編は、グラントハイツで働いていたある日本人の体験談を綴った物語だ。

このエピローグ部分がなんというか、突っ込みどころが満載なのである。成増飛行場は、昭和18年に陸軍省によって買収され、戦後は連合国に接収された。-疾風は沖縄戦参加のため山口県小月飛行場に移動し-ではなく、47戦隊は沖縄戦参加のために都城西飛行場へ移動したが、沖縄が米軍に占領された後に、小月基地に移動したのである。これといった戦果を挙げぬまま、終戦を迎えてしまった。との記述には呆れ果てて反論を書く気も起こらない。成増飛行場上空でB29に体当たり散華した幸軍曹らに申しわけがない。

降伏間もない8月24日、数台のジープに分乗したアメリカ兵・・・連合軍の先遣隊が沖縄から厚木基地に飛行機でやってきたのは昭和20年8月28日だ。連合軍の進駐は、9月2日、東京湾上のミズーリー号で降伏文章に調印が行われてから始まった。練馬区の担当者は、いったい何を確認したのであろうか。学校の日本史の授業はせいぜい明治維新までで、現代までの歴史はほぼすっ飛ばすという悪しき習慣があったが、その弊害だろう。

その名を轟かせた日本陸軍飛行四七戦隊震天制空隊の強者も、一瞬のうちに灰となって消えてしまった。」もはや言葉もないが、震天制空隊機は、中島キー44二式単戦鍾馗が使用されており、終戦時の成増飛行場には存在していなかった。先の文章でも「鍾馗」から「疾風」に改変されたと書いてあるじゃないか。

戦後の話では、「上板橋駅から旧陸軍第一造兵廠(現練馬駐屯地)まで線路が敷かれ、さらに田柄(田柄高校あたり)まで延長された。」とあるが、上板橋駅から練馬倉庫まで側線が敷かれたのは昭和19年であり、最初期のケーシー線(連合国軍側の呼び名はGH線)は現在の秋の陽公園の場所まで延長され、終点は複数に枝分かれしていた。啓志線の名は、グラントハイツの建設を命じた、GHQのヒュー・ジョン・ケーシー少将の名を冠して、愛称として呼ばれていた。(工事を監督した、同姓同名のケーシー中尉も存在している。)旅客用の2両連結のガソリンカーは、池袋駅を起点として運行されたが、最初期の約半年間運行していたに過ぎない。貨物列車は、北池袋にあった西山信号所(現在の埼京線と並行している区間)から東上線に入った。

 

もうね、突っ込みどころが満載で、このエピローグのせいでせっかくの本編も信用できないような感情が湧いてきて読む気にもならないのである。しかも、この本のエピローグ部分は、現在でも様々に引用され続けているのだ。本を書いた作者の方は、練馬区情報公開課の資料を信じて書いたので責められないが、練馬区さんには、専門家が監修したきちんとした戦後史を出版してほしいものだ。

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