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2020年11月

板橋区民、どうにかしてくれと嘆く。

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だんだん寒さが増してきましたね。

赤塚郷に住む方は、散歩で光が丘公園へ行くことが多いと思う。赤塚郷なら赤塚公園だろ、というところだが、やはり坂を上り下りするより平坦な道を選ぶのが老人情だ。散歩の途中で光が丘図書館に寄ることもあるが、先日、郷土史のコーナーに、おすすめ本のような感じで「グラントハイツ物語」という本が立て置かれていた。この本は平成3年12月に光が丘新聞社から発行されたもので、板橋区民も昔から知っていた。

久しぶりにその本を手に取り、エピローグ部分を読み改めてため息をつく。この導入部分は本編に入る前の解説の部分で、「練馬区情報公開課の資料を参考にして書いた。」と断りがきがしてある。本編は、グラントハイツで働いていたある日本人の体験談を綴った物語だ。

このエピローグ部分がなんというか、突っ込みどころが満載なのである。成増飛行場は、昭和18年に陸軍省によって買収され、戦後は連合国に接収された。-疾風は沖縄戦参加のため山口県小月飛行場に移動し-ではなく、47戦隊は沖縄戦参加のために都城西飛行場へ移動したが、沖縄が米軍に占領された後に、小月基地に移動したのである。これといった戦果を挙げぬまま、終戦を迎えてしまった。との記述には呆れ果てて反論を書く気も起こらない。成増飛行場上空でB29に体当たり散華した幸軍曹らに申しわけがない。

降伏間もない8月24日、数台のジープに分乗したアメリカ兵・・・連合軍の先遣隊が沖縄から厚木基地に飛行機でやってきたのは昭和20年8月28日だ。連合軍の進駐は、9月2日、東京湾上のミズーリー号で降伏文章に調印が行われてから始まった。練馬区の担当者は、いったい何を確認したのであろうか。学校の日本史の授業はせいぜい明治維新までで、現代までの歴史はほぼすっ飛ばすという悪しき習慣があったが、その弊害だろう。

その名を轟かせた日本陸軍飛行四七戦隊震天制空隊の強者も、一瞬のうちに灰となって消えてしまった。」もはや言葉もないが、震天制空隊機は、中島キー44二式単戦鍾馗が使用されており、終戦時の成増飛行場には存在していなかった。先の文章でも「鍾馗」から「疾風」に改変されたと書いてあるじゃないか。

戦後の話では、「上板橋駅から旧陸軍第一造兵廠(現練馬駐屯地)まで線路が敷かれ、さらに田柄(田柄高校あたり)まで延長された。」とあるが、上板橋駅から練馬倉庫まで側線が敷かれたのは昭和19年であり、最初期のケーシー線(連合国軍側の呼び名はGH線)は現在の秋の陽公園の場所まで延長され、終点は複数に枝分かれしていた。啓志線の名は、グラントハイツの建設を命じた、GHQのヒュー・ジョン・ケーシー少将の名を冠して、愛称として呼ばれていた。(工事を監督した、同姓同名のケーシー中尉も存在している。)旅客用の2両連結のガソリンカーは、池袋駅を起点として運行されたが、最初期の約半年間運行していたに過ぎない。貨物列車は、北池袋にあった西山信号所(現在の埼京線と並行している区間)から東上線に入った。

 

もうね、突っ込みどころが満載で、このエピローグのせいでせっかくの本編も信用できないような感情が湧いてきて読む気にもならないのである。しかも、この本のエピローグ部分は、現在でも様々に引用され続けているのだ。本を書いた作者の方は、練馬区情報公開課の資料を信じて書いたので責められないが、練馬区さんには、専門家が監修したきちんとした戦後史を出版してほしいものだ。

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板橋区民、、GoTo。其のニ。〜遥かなる南西諸島へ〜

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画像がバラバラで申し訳ない。

板橋区民は酔っている。海ぶどうをサカナに宮古島の居酒屋で宮古島ハイボールの3杯目なのだ。

周りには沖縄民謡酒場がたくさんあり、例のサンシンに合わせての歌や踊りが姦しい。どうも板橋区民初上陸の日としてはノリにくいので遠慮した。

今日の宮古島はお昼までは晴れていたが、午後からは南国の島っぽい特有の雨が降ったリやんだりの忙しい天気だった。11月だけど蒸し暑く、久しぶりに汗が噴き出した。

今回の目的についてはまた後日にするけど、明日から天候が不順のようで、果たしてミッションが遂行できるのか不安である。と、〆のおばあのゴーヤチャンプルがきたのでこの辺で。

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板橋区民、GoTo。〜遥かなる宮古島編其のニ〜

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朝目覚めたらなんか調子が悪い。二日酔いではないが。薬を飲むと後々の行動に支障が出るので我慢する。課せられたミッションを粛々とクリアしなければならないのだ。

相変わらず順番通りに画像がUP出来ないのだが、雰囲気は伝わるかな。今回の宮古島ミッションは、主に旧海軍部隊が構築した壕を探索することである。

しかし甘く見ていた。以前、沖縄本島で探索した壕は、まあメジャー所だったので苦労しなかったのだが、宮古島の壕は訪れる人が少ないせいかたどり着くのが大変な場所が多いのだ。父島のようにガイドが必要かも知れない。

そこで比較的挑みやすい所を選んだのだが、それでも入口がジャンル化していたり、足場が悪かったり蚊の攻撃にあったり、壕の入り口が低く屈んで入るのだが、頭上が剥き出しの岩で頭をぶつけると怪我をする危険状態。しかも真っ暗闇の中を行軍しなきゃならず、そりゃもう苦行の連続であった。

いやいや、兵隊さんは大変である。ご苦労様としか言いようがない。

宮古島は医療体制が脆弱なのでコロナ対策が我が赤塚郷より厳しいけど、飲んで歌ってワイワイがデフォの島なので、難しい所だ。

汗だくの探索を終え、日本で一番南にある温泉へ行ったが、全身倶利伽羅悶々の島のヤンチャな若者が入ってきてギョッとした。昭和の温泉を思い出しましたよ。


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板橋区民、嚙みしめる。

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寒い。風邪を引いてまう。

先日、常夏の島、西南諸島の宮古島から帰還した。さて、なぜこの時期に宮古島へ?

板橋区民の生れ故郷、赤塚郷の徳丸には東京都指定文化財の「旧粕谷家住宅」がある。1820年代に建てられたと推定される茅葺の古民家であるが、オリジナルの場所に存在する古民家は東京23区内ではとても珍しい。

現在は板橋区が土地ごと購入し文化財となり、元の住人の方は住んでいない。板橋区民も子供のころから知っている家で、家が生きていた時代を知っている。この古民家がなぜ昔のままの茅葺の家として残ったのかは、当ブログの記事でも度々取り上げてきた。それは、今から75年前まで生きていた、この家のご当主となるはずの方が残した思いからであった。

その、ご当主となるはずだった粕谷正三さんは赤塚郷きっての秀才で、旧帝大を卒業後一時官吏となったが、時代ゆえに海軍に入り、海軍士官として巡洋艦に乗り込んだ。1943年11月のブーゲンビル島沖の海戦で敵潜水艦による雷撃により大怪我をし、呉の海軍病院で入院加療後、霞ヶ浦で勤務ののち、海軍大尉として沖縄方面部隊に派遣され、1945年6月14日、現在の那覇空港近くの小禄で敵軍に切り込みを繰り返したのち、生き残りの兵と爆雷を囲み自決した。

板橋区民は、10年ほど前から粕谷正三さんの足跡に興味を抱き、調べている。3年前には最後の地である小禄の海軍巌部隊の壕跡を訪れた。粕谷さんは、小禄の陣地に赴任する前、数ヶ月間を宮古島で過ごしており、一体どこにおられたのだろうかと気になっていた。所属していた南西諸島航空隊宮古島派遣隊の編成や人数、任務について等、わからないことだらけだ。ご家族への手紙には、宮古馬に乗っていることや畑を作って作物を自給しているなど、生活周辺の話のみで、どこに駐屯地し、そこが壕であったのか地上の家屋であったのかも不明だ。

これはもう現地へ行くしかないかな、と思っていたが、島嶼部は何かと入用でなかなか踏ん切りがつかなかった。しかし、今年のコロナ禍によりGoToという機会が出来、いささか不謹慎かと思いつつも調査費節約旅行が可能ということで、実行に至ったのである。

てな経緯で宮古島へのGoToが実現したのであるが、ハッキリ言って甘かった。初日に取り合えずは情報収集をと総合博物館に行き、戦跡に詳しい学芸員の方にお会いし経緯を述べ相談したのだが、ピンポイントな回答は得られなかった。地元でしか手には入らない文献も拝見させていただいたけれど、的確な情報とは遭遇が出来なかった。当然ながら軍の一次資料はなく、当時の島民の残した証言集を漁るには時間がなさすぎた。

頭を切り替え、島内で発見された壕を見学することにしたが、これがまた苦行であった。宮古島市は戦跡の調査が進んでいるのだけれど、南国の島であり、絶えず保守をしていないとすぐにジャングルと化してしまい、メジャー処の壕であってもニョキニョキした南国特有の植物に阻まれ、藪漕ぎをしながら分け入ったり、トーチカなどは絶壁の途中に設営してありこれまた藪に覆われた急峻な道を登らねばならず、11月とはいえ蚊などの虫の攻撃や蜘蛛の巣と戦い、そしてやっとたどり着いた壕の入り口は狭く、這いつくばって入らねばならなかったり、当然ながら壕の中は真っ暗闇で、懐中電灯頼りで進もうにも帰り道がわかるのかとの恐怖に襲われながら行軍するという苦行であった。もう少し年をとったら、体力気力的にとてもじゃないが訪れることが出来なかっただろう。

いやはや、それにしても壕を掘った兵隊さんや使役させられた島民のご苦労は計りしれないと思い知りました。あのねっとりとした南国の気候の中での壕生活は、さぞかし苦痛であったろうと身をもって実感させられたのである。

調査最終日に、図書館で文献を探そうと宮古島市未来創造センターという、ごく最近できた恐ろしくモダンな建物を訪れたのだけれど、沖縄戦の書物ばかりで、宮古島の本がとても少なく当てが外れてしまった。飛行機の時間もあってあまり長居できず、後ろ髪を引かれる思いで図書館を後にしなければならなかった。

 

こうして我が赤塚郷に帰還したのであるが消化不足は否めず、やはり文献資料は沖縄本土で漁った方が良いのではないかと思い至り、早速GoTo旅行サイトで沖縄行きの予定を組んだ板橋区民なのであった。割安で調査に行けるのは、今しかないのだ。

 

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縁の下の板橋区民、2020年11月。

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秋晴れの好天が続き、野菜が安くなりましたね。

今週月曜日の朝日新聞夕刊に、高島平と赤塚、徳丸の一部地域を紹介する特集記事が掲載された。「まちの記憶」と題された連載シリーズで、選ばれた街の地域史を深掘りする。

板橋区民は、コロナ禍緊急事態宣言で揺れていた4月〜6月の時期に、練馬区光が丘地域の特集記事のおり取材に協力をした。その時の記者の方とのやりとりで、光が丘団地もすごいけれど、我が板橋区の高島平地域も歴史的にはとてもすごいんですよ、と宣伝をしておいた。この記者氏は団地に興味があり、以前も多摩の団地を取材したと言う。

その時のロビー活動が幸いして、今回の記事へと繋がったのである。板橋区民自身は前回の光が丘で登場したので、こんどは取材先の推薦をさせていただいた。記事中に登場している、板橋区立郷土資料館の学芸員氏と西洋流火術鉄砲隊保存会と高島平新聞である。大体の歴史とポイントを記者氏にレクチャーし、取材は10月に入ってから行われた。

前に新聞記者とのやりとりの大変さをブログ記事でお伝えしたが、取材対象の方々も「なんだあのしつこさは」と苦情ではないけれど根掘り葉掘りの根拠を求める質問攻めに辟易とされたようだ。例えば、絵地図に書き込まれている赤塚溜池公園の梅の木の数について、板橋区のHP上では200本とあるけれど、実検分するとそんなにあるとは思えないがどういうことだ?との質問があった。

ぶっちゃけると、そんな実証資料はなく、昔、赤塚城址一帯の土地を所有していた古老が梅を植え、城址の梅と溜池周りの梅が全部で200本くらいある(実際数えたわけでは無い)と30数年前に板橋区が出版した書物上で証言した数字を、今持って使用しているのである。板橋区役所としては面倒なことを問い合わされたわけで、話し合いの結果150本となったのである。

そして、この赤塚城址だけれど実は衝撃的なことが記載されている。客観的な言い方をすると、存在自体が疑い深く、発掘調査でも城のあった証拠はなく、武蔵千葉氏が治めていたことを示す古文書も存在していない(未発見)のである。あるのは”あってもおかしくはない。”という状況証拠だけだ。ああ、書かれちゃったか。寝た子を起こすなよ、といった感がしますね。中世時代の赤塚郷は謎が多く、だからこそ歴史オタクの方々の想像力を買い、いろんな解釈があるゆえに時に大問題となることがある。

世の中には事実を追求されると困ることがいくらでもあり、新聞社もそれはわかっているけれど、追求のさじ加減と記事として出る結果にその新聞社の姿勢が垣間見えるのである。

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