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★惜別の辞★ありがとうございました、石原少尉。

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台風9号・10号で被害を受けた方々にお見舞い申し上げます。

北海道釧路市にお住いの、元飛行47戦隊桜隊空中勤務者を務められた石原行雄少尉が去る9月4日に逝去されたとの報をいただいた。行年99歳、8月に白寿を迎えられたばかりであった。

石原少尉は、一番若い将校空中勤務者として47戦隊の第3中隊・桜隊に所属しておられた。初陣は1945年2月16日の米機動部隊空母艦載機による、関東方面日本軍基地壊滅作戦(ジャンボリー作戦)に対する邀撃で、波多野隊長機の僚機として出撃した。千葉県の八街付近の上空を通過中、下方に6機編隊のグラマンを発見し、隊長の合図の元、一斉に優位な位置から急降下射撃を行い、石原氏はグラマンの機体に銃弾が吸い込まれるように命中するのを確認しながら下方に抜けた。初陣で初戦果を挙げたのである。

板橋区民が釧路の石原氏宅を訪れたのは昨年の3月だった。驚くことに、近所に親戚の方がお住いではあったが、自宅にお一人で生活をしておられ、身の回りのことは自分でなされていた。100歳に近いお年ながら、背筋をピシッと伸ばされたお姿は、さすがに元帝国陸軍将校であった矜持を感じさせられた。

戦後、石原氏は教職の道に進み定年まで務められた。逝去の知らせをくれた方は、50年前に高校の教え子でおられた方で、近年まで石原氏が東京へ来ると関東一円の同窓生が集いをするという、大変に生徒に慕われた教師であった。教師という職業柄、戦時中の手柄話は一切封印し、資料もほとんど捨て、記憶からも消して過ごしてこられたが、90歳を迎えられた頃から心境の変化があり、戦時中の事を、周りの人達に話すようになったという。

石原氏は終戦を知覧で迎えられたが、どのような状況で知覧におられたのかはご記憶にないようだった。周辺情報によると、終戦時、特攻隊の振武隊を管轄する第30戦闘飛行集団に所属していたことから、特攻要員として待機しておられたと想像する。昔、ご本人も、一部の方に自分は特攻隊員だったと話していたようである。

板橋区民は、教職に就いてから子供達に戦争の手柄話をするのが好ましくないとして、記憶を封印していたと理解していたけれど、逝去の知らせをしてきた元教え子の方が、石原氏から最近もらった手紙に、「一兵卒から、飛行戦争、特攻隊、軍歴三年の記録も破棄したり隠したりなど・・・本気で逃げたり、過去を語りすぎて米国へ連行される不安におびえ苦しんだ頃もありました。」と書かれてあったと教えていただいた。改めて、真実は一つだけではないのだと思い知らされたのである。

鹿児島市にお住いだった、成増で訓練をした元振武隊員の伊知地氏も、終戦直後、上官から「特攻隊員は連合軍が上陸したら真っ先に捕らえられるので、すぐに田舎へ帰れ」と命令されたとおっしゃっていたことを思い出した。今の世からは想像もできない時代であり、その時の空気は、当事者でなければ到底理解できないであろう。

ほとんどの資料は破棄してしまわれたそうだが、幾葉かの写真は大切に残してこられていた。その中の1枚に成増飛行場で撮影された、戦闘機の残した飛行機雲と吹き流しの写真がある。この光景こそが、若い石原氏の脳裏に刻み込まれた、自身の戦場体験の一コマなのだとおっしゃっておられた。

石原行雄少尉の逝去をもって、板橋区民の把握する成増陸軍飛行場に関係した将校、兵、軍属の方はいなくなってしまった。いつかはこんな日が来るだろうと覚悟はしていたけれど、実際その時が来ると非常に寂しく、これから何方を頼りに進んでいったら良いのか、寂寞とした感情に襲われている。石原少尉、どうぞ安らかに。

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コメント

石原様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
田中

投稿: 田中まこと | 2020年9月 8日 (火) 19時48分

>>田中さま
弔意のコメントをありがとうございました。石原氏の初陣は、敬意を込めてあのように描かせていただきました。

投稿: オーク | 2020年9月 8日 (火) 20時19分

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