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2020年9月

板橋区民、心を取り戻し、涙する。〜さようなら豊島園、FINAL DAY.〜

 

2020年8月31日、豊島園が94年間の営業を終了し、閉園した。正直、こんなにも長く続き、人々に愛された施設の最後を見届けるとは思わなかった。これからもごく当たり前のように存在し続けるのだと気にもかけていなかった。

遊園地はこれから解体され、ハリーポッターの施設と災害時の避難場所としての練馬城址公園となる予定だそうだが、それにしても練馬区は大きな宝を失ったようだ。そも100年も続く施設なんてそうそうあるものではないし、豊島園は練馬区のランドマークであったはずで、それが戦争や天災や致命的経営破綻で失われたのではなく、ただ人間の都合によって終了させられたのがもどかしい。愛する人々により大きく育った大木が、無残にも目の前で切り倒されてしまったような気分である。

板橋区民も閉園最終日を見届けるために久しぶりに出向いた。久しぶりにしか行かないのに閉園と決まったら文句を言うワガママな人間、と揶揄するヒトもいるけれど、豊島園という場所は必要であると思っている人は大勢いるだろう。災害時の避難場所として、跡地に巨大なシェルターを建設する訳でもなし、別に遊園地を潰さなくても良いだろう。そのままの方が避難所として、子供達にはうれしいのではないだろうか。

園内は、歩道の整備をやめているのか樹木の根による凸凹が目立ち、雑草も生え放題で荒れた感じを受けた。しかし、至る所に豊島園スタッフによる「さよなら、ありがとう」の気持ちを現した掲示や小物で飾られていたり、そして、何と言っても子供達の笑顔や歓声で溢れていた。そんな優しい空間に身を委ねているうち、普段、面白くなさそうな顔をして暮している板橋区民の心も緩んできた。

午後7時を回ると園内の遊具が次々と終了し始め、あちこちで惜別の歓声と拍手が沸き起こっていた。そして、1971年以来、回転し続けた豊島園を象徴するカルーセルエルドラドのラストランが始まった。そのまわりを大勢の観客が取り囲みその最後を見つめていた。エルドラドが動きを止め、照明が消されるとひときわ大きな拍手と歓声が起こった。午後8時半からはエルドラド正面で閉園のセレモニーが行われ、全スタッフが登場すると、最後に無人のエルドラドがグランド・ラストランを行い、何千人もの人々がその姿を見送った。涙、涙のお別れだった。

蛍の光が流れる中、後ろ髪を引かれながらメインゲートへ行くと、驚くことに、出口には入場できなかった大勢の人が集まり、警察も出る騒ぎとなっていた。豊島園駅に向かう道の両側にはスタッフがずらりと立ち並び、お客さん一人一人に手を振り見送りをしていた。その感動的な光景は、何年か前に訪れた父島を去る際に、二見港を出港するおがさわら丸を見送る島民の光景と重なった。走るおがさわら丸を追いかけ、何艘もの漁船やクルーザーが並走し、手を振ったりパフォーマンスを行う姿は感涙ものだった。

閉園から数日のインターバルを置いたのだが、板橋区民の心に空いた穴はまだ塞がらない。何十年も思い出の中にしかなかったのに、不思議な気持ちである。

 

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豊島園は、まだまだ終わらない。

練馬区のランドマークだった「としまえん」が先月31日に閉園してからまだ一週間も経っていないけれど、すでに園内の施設撤去が進んでいるようだ。これは、他の遊園地に譲渡が決まっていたり、業者向けオークションに遊具施設が出品されているからだそう。自分を含め閉園ロスの方が多くいるようで、SNS上ではまだまだ活発に話題が交わされている。
板橋区民は、数年前に入手した豊島園の最古と思われる映像をYouTube上で公開しているので、マスコミからの使用願いオファーがいくつもあった。実近で覚えているだけでも、日本テレビ「月曜から夜ふかし」 日本テレビ「ヒルナンデス」 テレビ朝日「じゅん散歩」x2回
TBS「あさチャン!」x2回で、今後放送される予定の番組が以下である。
9月6日 TBS「サンデーモーニング」*台風ニュースで飛ばされる可能性あり 
10日 テレビ東京「どうぶつピース!!」 
20日 TBS「噂の!東京マガジン」 
20日 BS-テレビ東京「発見!ニッポンの100年 企業のマル秘 映像タイムズ」

以上は板橋区民へオファーが来たものだけなので、他にも豊島園の話題を取り上げる番組はあるのだろう。

知り合いの石神井公園ふるさと文化館の方と話す機会があり、これだけ話題になったのだから豊島園の特別展でも開いたらどうですか?と聞いたら、昔のことを特集するなら良いけれど、近年の部分は「株式会社 豊島園」から映像の使用や資料の貸し出しは許可が出ないだろうから無理ですね、とのことでした。ふるさと文化館の運営主体は公益財団法人練馬区文化振興協会なので、こちらの方へ署名嘆願すれば事が動くかもしれません。小さな遊具や備品などが、館に寄贈されることになれば良いですね。

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★惜別の辞★ありがとうございました、石原少尉。

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台風9号・10号で被害を受けた方々にお見舞い申し上げます。

北海道釧路市にお住いの、元飛行47戦隊桜隊空中勤務者を務められた石原行雄少尉が去る9月4日に逝去されたとの報をいただいた。行年99歳、8月に白寿を迎えられたばかりであった。

石原少尉は、一番若い将校空中勤務者として47戦隊の第3中隊・桜隊に所属しておられた。初陣は1945年2月16日の米機動部隊空母艦載機による、関東方面日本軍基地壊滅作戦(ジャンボリー作戦)に対する邀撃で、波多野隊長機の僚機として出撃した。千葉県の八街付近の上空を通過中、下方に6機編隊のグラマンを発見し、隊長の合図の元、一斉に優位な位置から急降下射撃を行い、石原氏はグラマンの機体に銃弾が吸い込まれるように命中するのを確認しながら下方に抜けた。初陣で初戦果を挙げたのである。

板橋区民が釧路の石原氏宅を訪れたのは昨年の3月だった。驚くことに、近所に親戚の方がお住いではあったが、自宅にお一人で生活をしておられ、身の回りのことは自分でなされていた。100歳に近いお年ながら、背筋をピシッと伸ばされたお姿は、さすがに元帝国陸軍将校であった矜持を感じさせられた。

戦後、石原氏は教職の道に進み定年まで務められた。逝去の知らせをくれた方は、50年前に高校の教え子でおられた方で、近年まで石原氏が東京へ来ると関東一円の同窓生が集いをするという、大変に生徒に慕われた教師であった。教師という職業柄、戦時中の手柄話は一切封印し、資料もほとんど捨て、記憶からも消して過ごしてこられたが、90歳を迎えられた頃から心境の変化があり、戦時中の事を、周りの人達に話すようになったという。

石原氏は終戦を知覧で迎えられたが、どのような状況で知覧におられたのかはご記憶にないようだった。周辺情報によると、終戦時、特攻隊の振武隊を管轄する第30戦闘飛行集団に所属していたことから、特攻要員として待機しておられたと想像する。昔、ご本人も、一部の方に自分は特攻隊員だったと話していたようである。

板橋区民は、教職に就いてから子供達に戦争の手柄話をするのが好ましくないとして、記憶を封印していたと理解していたけれど、逝去の知らせをしてきた元教え子の方が、石原氏から最近もらった手紙に、「一兵卒から、飛行戦争、特攻隊、軍歴三年の記録も破棄したり隠したりなど・・・本気で逃げたり、過去を語りすぎて米国へ連行される不安におびえ苦しんだ頃もありました。」と書かれてあったと教えていただいた。改めて、真実は一つだけではないのだと思い知らされたのである。

鹿児島市にお住いだった、成増で訓練をした元振武隊員の伊知地氏も、終戦直後、上官から「特攻隊員は連合軍が上陸したら真っ先に捕らえられるので、すぐに田舎へ帰れ」と命令されたとおっしゃっていたことを思い出した。今の世からは想像もできない時代であり、その時の空気は、当事者でなければ到底理解できないであろう。

ほとんどの資料は破棄してしまわれたそうだが、幾葉かの写真は大切に残してこられていた。その中の1枚に成増飛行場で撮影された、戦闘機の残した飛行機雲と吹き流しの写真がある。この光景こそが、若い石原氏の脳裏に刻み込まれた、自身の戦場体験の一コマなのだとおっしゃっておられた。

石原行雄少尉の逝去をもって、板橋区民の把握する成増陸軍飛行場に関係した将校、兵、軍属の方はいなくなってしまった。いつかはこんな日が来るだろうと覚悟はしていたけれど、実際その時が来ると非常に寂しく、これから何方を頼りに進んでいったら良いのか、寂寞とした感情に襲われている。石原少尉、どうぞ安らかに。

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板橋区民、初秋の板橋区を駆け抜ける。

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そろそろ涼しくなるらしいけど、ホントかよ!と疑いたくなりますね。

今週初めから、板橋区役所一階ロビーのギャラリーモールにて「板橋区平和宣言35周年記念展示」のパネル展が始まった。板橋区民の元へ、区役所の総務課から成増飛行場の写真借用の依頼が来たので、貸し出しをした。

展示が始まったので、確認のため、コロナ渦下でもあり近づかなかった板橋区役所へ久しぶりに出向いた。それにしても、我が赤塚郷から区役所へ行くのは面倒くさい。練馬区独立の原因の一つが区役所までのアクセスの悪さだった気持ちがよく分かる。途中、上板橋の教育科学館近くにある平和公園内に建設が進んでいる新・板橋区立中央図書館の前を通ったが、計画は順調なようで、外観はほぼ完成時の姿を現したようである。

区役所に着き、早速、ロビーの展示を拝見する。お題が板橋区平和宣言なので、ヒロシマ・ナガサキの原爆被害と核のない世界を目指す取り組みのパネルが並ぶ。その中に板橋区内の戦時中を紹介するパネルがあり、空襲被害を伝えるパネルの対面に成増飛行場のパネル(3枚目の写真)が掲示されていた。

解説文は、これ以上ないくらいの簡素さであったが、実は当初の解説はこうではなかった。写真の確認のために送られてきたのが4枚目の写真で、その文面を見て即座に総務課へ資料を添付し返信メールをした。訂正を申し入れたのは、「47戦隊は1中隊12機x3中隊と予備機を合わせ約40機程度を配備していた。」こと、「貴殿の解説では47戦隊全てが特攻を主務としていたと誤読されるので、書き直していただきたい。」の2点であった。正解は「47戦隊は帝都防空を主務としており、その中から空対空の特攻隊員(震天制空隊)も選ばれた。」である。

なぜこんな解説になったかと言うと、総務省のH.P.の東京都各区の戦時中に関する記述にそう書いてあったからで、担当者はそれをそのままコピーしたのだろうと推察できた。要は総務省のH.P.の説明が間違っているのである。さすがに戦隊全てが特攻を主務とするのは違うと思ったのか訂正されたが、総務省のH.P.には戦隊機の定数については記載はなく、その部分の解説記載は削除されていた。なにを根拠に70機となったのかは、わからない。

板橋区民は、やれやれまたかよ、とため息をついた。せっかく資料を添付したのだが、所詮は市井の一般研究家の送った資料なのである。権威の書いた、あるいは認めた資料に「約40機程度の二式戦が配備されていた」と確認できなければ、訂正されることもなく削除されるのである。まさにお役所の考えることだ。朝日新聞の記者並みにとは言わないけれど、せめて”根拠(=出典)はなにか”とこちらに問い合わせてくれれば良いのになあと、虚しい気分を抱えたまま板橋区役所を後にした。

 

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板橋区民、「としまえん」ではなく「豊島園」の写真をUPする。

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季節の移り変わりを感じる今日この頃。

板橋区民の部屋はタイムカプセルである。江戸時代最初期に我が赤塚郷の一部を所領していた、京都所司代・板倉重宗の書状から、昨日収集したマンスリーとーぶ令和2年9月号まで、有象無象の収集品で溢れている。そんな板橋区民の部屋から、おそらく昭和10年前後に「豊島園」で撮影されたオリジナル紙焼き写真が発見された。これは、一時期豊島園のスポンサードをしていた企業が、豊島園を借り切って行った宣伝興行の記録写真と思われる。

看板にある「レートクリーム」は、平尾賛平商店が販売していた化粧品で、かつて東京に存在した日本の化粧品メーカーである。1878年に開業し、1954年に廃業した。化粧品のレートブランドを立ち上げ、世に知られていた。「lait」とはフランス語で「乳」を意味する語であり、フランス語を化粧品名にした日本初の企業であった。

一枚目の写真は武蔵野電車の豊島園駅頭で、なかなか珍しい写真と思われる。戦前の駅前の写真は見た記憶がない。2枚目は入り口付近の写真と思われるが、現在のメインゲートあたりの風景とは違うような気がするのだけれど他の場所なのだろうか。3枚目は名物・ウォーシューターと「大遊舟池」の風景。4枚目は、プールの横にあった「シャワーの塔」の下のにあった階段前で演じられた、バレイがオベラの出し物だろうか、とてもモダンな感じですね。さて写真はもう一枚ある。

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それは、当時の豊島園の花形、ウォーターシュートのボートが着水した瞬間を捉えた写真だ。なんという躍動感!当時としたら画期的な素晴らしい写真だ。きっと船頭さんは子供達にとって憧れの存在だったろう。板橋区民の所蔵する1929年に撮影された豊島園の動画では、船頭が派手にジャンプするパフォーマンスはしていなかったようで、自然に変化していったのだろう。そして、とうとう船頭がわざと池に落ちるパフォーマンスへと進化したと記録にある。

「としまえん」が閉園してから半月が過ぎた。どうやら本格的な撤去作業も始まったようである。 大正時代の最初の園主である藤田好三郎は、豊島園開業の理念としてこんな言葉を残している。「営利に走らぬ豊島園、それはどこまでも小さい皆様の豊島園だからで御座います」果たして秋の空の雲の上から、翁はどんな思いで閉園してしまった豊島園を覗いているのだろうか‥

 

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板橋区民、プライベートを切り売りする。⭐️区民の最古の豊島園写真発掘!⭐️

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暑くなったり涼しくなったり天気がぐずついたり、季節の変わり目を実感しますね。

前回の記事で、板橋区民の部屋から発掘された1930年代の「豊島園」写真を紹介しましたが、同時に、板橋区民の幼少の砌のアルバムが出土した。1960年代から1970年代半ばまでの記録が貼ってあるが、写真を撮られた当時の記憶はほとんどない。

最初は区民生後5ヶ月の写真で、生まれてはじめて豊島園を訪れた時の物だろう。撮影場所を当時の園内パンフで探したが、イマイチ特定できない。高台であることはわかるのだが、どこだろう? 前に、国立国会図書館に所蔵されている最古の住宅地図本(1962年発行)で、我が故郷の徳丸地域を探索したことがあり、そこには当時すでに徳丸本町のバス停(現在の不動通りと西徳通りのぶつかるところ)が存在していて、たしか終点は豊島園だったと思う。バスは国際興業のボンネットバスで、女性の車掌さんが同乗していた。

真ん中の写真は、戦前からある「豆自動車」。当時の学生バイトさんは律儀に学生服を着用していたことがわかる。所員さんのジャンパーの「TOSHIMAEN」とか「MIDGET CAR」表記などを見ると、駐留米軍のお客さんも多く訪れていたのだろう。3枚目は売店での写真で、ずらりと並んだ缶ジュースが懐かしい。まだプルトップ以前の缶で、缶には飲み口の穴を開けるギミックが付属していた。日本軍機の模型がつる下がっていたり、奥の方にあるのは水筒だろうか、見ていて飽きない。

板橋区民も、豊島園とは長い付き合いだったんだなあと、改めて歴史を感じた次第なのでした。

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板橋区民、音楽の秋が始まる。2020

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本日からエンタメ関係のコロナ規制が一段と解除された。

そんなわけで、早速、東京国際フォーラムで開催されるMISIAのコンサートへやってきた。コロナ対策でキャパを半分にして、曲数も少ないけれど、殆どのライブがキャンセルになる中、良くぞやってくれる、と感謝感激だ。

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ステージは2部制になっていて、板橋区民は20時の回に参戦だ。館内は強力換気中で煙が舞っている。

 

21時20分終了、全9曲のまるで食事の出ないディナーショーのようなコンサートだったけれど、久しぶりに参加したMISIAのパフォーマンスは感動ものでした!

今回のコンサートは、医療従事者を支援するためのもので、収益の一部はチャリティーとして使われるとのこと。ちなみにMISIAの両親、姉妹は医者なので、その苦労が身にしみているそうだ。ステージ構成は9人のジャズ奏者のみで、実にシンプルだったが、その分、ヴォーカルMISIAの歌声を堪能できた。でも、コロナで自粛しているのか、いつもの圧巻なホイッスルヴォイスは少し抑え気味だったようだ。前方席を占める信者観客達も、最初こそコロナ禍でのライブにどう反応したら良いのか戸惑いが見られたが、最後はオールスタンディングで大声援、蜜なんて関係ねー、ってな感じで盛り上がり、そんな観客の様子に、MISIAも涙を見せていました。

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板橋区民、音楽の秋が始まる。2020。2夜目

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MISIAライブ東京国際フォーラム2夜目。

昨夜の公演の興奮も覚めやらず、あれは夢だったんだ、いや夢ではないと確かめに来たのだ。

なんて。

たまたまチケットが2日分取れてしまったのだが、2回もこれて良かった。

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今宵の席はちょっと遠いけど、MISIAのホイッスルボイスは充分届くさ。


昨夜と同じ21時20分終了。ラストアンコールの九州弁全開「好いとっと」で大盛り上がりでした。ジャズ曲一曲が昨日と違うセトリだったかな。


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板橋区民、板橋区の南端でコロナ退散を叫ぶ。

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台風が逸れて良かった。。

世の中、コロナ禍のせいで一変してしまったが、板橋区民もモロに影響を受けてしまい、困ったもんだの状況が続いております。それに加えて先週までの暑さですっかり歩かなくなり、このままでは歩き方を忘れるんじゃないかと不安にかられたので、徘徊を始めた。

板橋区民は、徘徊するにも目標が必要で、光が丘公園の平和の碑だったり徳丸原公園に建つ徳丸原調練の碑を目標にして歩いたりする。今回は、板橋区の最南端にある熊野神社で、いま巷で話題のアマビエ様の御朱印をいただくと言う目的を設けた。さすがに我が赤塚郷から約池袋までの往復はキツイので、下板橋駅で下車し谷端川緑道から歩くコースを設定した。

きっちり整備された緑道を、なるべくスッスと歩く。買い物に行く時のようにグダグダ歩くのはダメだ。旧金井窪駅の方向へ5分くらい歩いたときに左足親指に疼痛が走った。全然使わず硬くなった運動靴に巻き爪気味の親指が当たって痛むのだ。これはまずいなと思いながら川越街道と山手通りの交差点に出る。熊野神社はそのすぐ近くに鎮座している。

さて御朱印をいただこうと社務所へ行くと先客が一人。しかしすぐに神職の方が書きあがった御朱印を持ってきたので、次に受付することができた。おそらく天気の良い休日ならば、行列ができていることであろう。ここ熊野神社のアマビエ御朱印は、朱印帳の4ページを使う巨大な印で、直筆のアマビエ様が描かれており、東京都内では他に類がないそうで、ありがたい御朱印なのである。描いてる方が若い方なので、こんな発想も浮かぶのだろう。他にも、夏バージョンとか、金文字仕様とかいろいろなアイデアデザインの御朱印が用意されている。すべてフリーハンドなので味わい深い出来である。決して下手くそなんて恐れ多いことを言ってはいけない。

神社を後にし、川越街道沿いに進む。親指の痛みが増してきた。大山を過ぎ、弥生町から旧道に入った。ぽつぽつと建つ古い個人商店の閉店を告げる張り紙が悲しい。環七を越え南常盤台に入り天祖神社で一拝し、1945年6月10日の空襲時に爆弾の破片が当たった跡の残る狛犬の写真を撮っていると、前方から歩いて来る女性に声をかけられた。それは旧知の女性宮司さんで、國學院大を首席で卒業し、卒業時には総代で挨拶するなど大変な才女の方である。今、大学で4つのコマを担当していて、リモート授業の収録をしてきた所なのよとおっしゃっていた。そういえば大きな荷物を抱えていて、これもコロナの影響で大変である。件の熊野神社のアマビエ様御朱印の話をすると、ウチも疫病退散の古い版木が出てきたからそれを刷って、先日の例大祭で氏子の方々にお配りしたワ、とおっしゃっていた。

 

親指の痛みがさらに増したので、北口のMacで一休みし、後は東上線でショートカットして我が懐かしの赤塚郷へ戻ったのであった。

 

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板橋区民の御朱印帳。未完。

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天気が悪く土鍋が乾かない。

秋もそろそろ本番に向かい、新米の季節がやってきた。コロナ禍で家食の機会が多くなり、糖質制限も気になるので、玄米食に変えようと思い立った。どうせなら土鍋で炊いてみるかと購入したが、ネットで調べると使用までにいろいろな儀式が必要なことがわかった。まずは重曹で鍋を煮詰め、乾燥し、最初にお粥を炊く。土から生成されているので、こんな手順を経てようやく使えるようになるのだそうだ。

先日、板橋区南端にある熊野神社で頂いた、アマビエ様の御朱印を紹介した。熊野神社には印刷したお札もあるけれど、直筆で書いていただくには御朱印帳持参とあるので、使いかけの御朱印帳を取り出した。

使いかけには理由があり、表紙には「豊島八十八ヶ所納経帳」とある。これは、20年ちょっと前、まだ現在のような御朱印ブームが来る以前に、「東京遍路 豊島八十八ヶ所霊場案内」という本を見かけ、板橋区内の多くの寺院(真言宗)が参加していることを知り、全部廻ってみるかと企画し遍路を始めたのであった。

まず最初に訪れたのは、霊場第1番の「安養院」で、最寄りはときわ台駅。板橋区内ではおそらく最大の敷地規模のりっぱな寺院だ。題字の記載をお願いしてみると、快く応じてくださった。こうしてお遍路ワークを始めたわけだが、四国遍路のように泊まり歩きながら廻るわけではなく、いちいち自宅から出発するので、遠いところにある場合は最寄駅まで公共交通機関を使った。

東京都内や周辺部を廻る三十三ヶ所や八十八ヶ所巡りは、明治の日露戦争直後に創設され、御朱印収集が当時のブームとなった。しかし、昭和の時代には廃れてしまった。これは戦時下や終戦直後の混沌とした空気や、その後の高度経済成長やバブルといった時代が関係しているのであろうか。現在のブームはリーマンショック以降に起こったと書いている本もある。こういった御朱印集めはスタンプラリー的な楽しみもあり、また義務感も生じてきて、御朱印帳が埋まると次はここだ、ここを廻ると効率が良い、ここでは地元のグルメ店にも寄ってみようかと面白さが増してくる。

寺院は、基本的には静かな場所である。特に、商店街などから離れた場所にある、およそ名物となるようなものがない寺院は、お彼岸などの時期を除いては、なおさらに人の出入りは少ない。そんな所にある寺院は、たいてい辿り着くのに苦労し(何時間も歩いたりするわけじゃないが)、果たして社務所に人はいるのだろうかと不安になりつつ訪れる。ある時、そんな閑静な場所にある寺院へ行き、社務所へ声をかけると人がいた。ほっと安心し、御朱印帳を差し出し、御朱印をお願いすると、その方から「チッ」という小声が漏れ、面倒くさそうに私の朱印帳を持って奥へと消えた。しばらく待たされた後、ようやく朱印帳を受け取ることができ、お参りをしてその寺院を出た。その時、正直、疲労も相まって不愉快な感情が浮かんできてしまうのを抑えられなかった。

そんなことが何度か続き、結局、20数箇所訪れたところで廻るのをやめてしまった。最初は熱中しており気にもしなかったが、寺院によってあからさまに迷惑そうにされた感じを受けることが度々あった。どんな事情があるのかはわからないが、普段、人も訪れないルーティーンに慣れ、信徒でもない興味本位と思しき人間が差し出す御朱印帳に、わざわざ墨と朱印を準備し、書かなければいけない鬱陶しさがそうした態度に出るのであろうか。そんなようなことで、一気に熱は冷めてしまったのである。(当然だが安養院さんや蓮沼の南蔵院さんのようにウェルカムな寺院もあるけれど。)

昨今の状況がどうなのかはわからないが、特にコロナ禍のこんな時代でもあるし、寺社の方々も積極的に対応をしていただければ良いな、と思う。先日の熊野神社では、若い方が担当しておられるせいか、御朱印受領後すぐにSNS上にUPした所、ご参拝ご苦労様でしたとの返信ツイートがスマホにあった。

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板橋区民、ヌイグルミに向かって話しかける。

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コロナ禍の影響でメンヘラ状態になったわけではありません。

8月31日をもって、練馬区のランドマークであり、たくさんの人々から愛された「豊島園」が94年の歴史に幕を閉じた。特に最後の一ヶ月間の閉園フィーバーは凄かった。30年近く前には、来園者の減少に悩んだ末に”自虐CM”を作り続けた時代もあったが、巨大スクリーンの映画館ができたり、温泉施設を経営したり、近年はわりと経営は順調だったと聞く。特に夏は東京都内屈指の規模のプールや花火などのイベントで賑わっていた。

閉園後もとしまえんグッズの販売は、ゲートに近い園内の木馬の会事務所で続けられている。この事務所は戦前から残る施設で、当初は「古城レストラン」として営業していたものだ。その販売も本日(9月27日)をもって終了し、一般の人達が園内に入れるのも最後の日となる(グッズ販売はネット上で継続される)。最近のニュースでも、としまえんのプール存続署名運動が盛り上がっていると報道されていた。正直、今後は企業や行政が閉園後のプロジェクトを粛々と進め、反対運動もどうなるのかな、と思ったりもしたが、意外に善戦しているのではないか、と感じている。

板橋区民は、様々な物を収集しているけれど、それは主に板橋区に関する資料やグッズであり、練馬のグッズは昭和23年よりも前の物でなければ触手がわかない。しかし、部屋を見渡すと一つだけ練馬区グッズが飾られている。それが冒頭のヌイグルミだ。残念ながら愛称がわからないのだが、ダイコンをモチーフにした(鼻はキャベツか?)ヌイグルミである。首?から下げられているメダルを読むと、「70TH ANNIVERSARY Toshimaen Exposition in Nerima」とある。

これは、少々歴史的な背景を説明しなくてはならない。1979年から東京都知事を務めていた鈴木俊一知事は、1970年に開催された大阪万博で事務総長理事を務めた経験があった。万国博の会場選定において、当初から鈴木は首都圏開催を主張しており、最後まで東京にこだわっていた。そんな鈴木も高齢となり、自身の知事在職中に、果たせぬ夢であった「首都圏での博覧会開催」をどうしても実現させたいという強い希望から、1988年2月、東京での万国博覧会開催に意欲を見せた。しかし、バブル崩壊後の1995年に行われた都知事選で、都市博反対を旗印に勝利した青島幸男は、都議会の開催決議を覆して都市博を中止に追い込んだ。すでに様々なグッズや入場券の販売も行われていたが、全てが無駄に終わり、東京都は610億円の損失を出してしまった。

翌年の1996年、としまえんで「とし博」と題したイベントが行われた。言うまでもなく、この時期に博覧会が行われるはずだったことに対する皮肉で、CMには三波春夫が出演していた。このダイコンのヌイグルミは、その年の豊島園開園70年に引っ掛け「練馬のとしまえん博覧会記念」として販売された、いかにも「としまえん」らしいグッズなのだ。

 

2枚目の写真は、一緒に飾っている「板橋区のひとみちゃん」とのツーショットだ。1988年〜1994年にかけて少年マガジンに連載されていたギャグマンガ「激烈バカ」に出てくるキャラクターで、手に根性焼きの跡が大量にある犬である。(しかし、板橋や練馬にはこんなヌイグルミしかないのか)それはそれとして、ちょっと斜めから世の中を眺める皮肉好きの「豊島園」は、閉園に際してどんな感想(皮肉)を持ったのか、聞いてみたいものだ。

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