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板橋区民、怒りに任せ板橋区を飛び出す。

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雲が多いせいか少し気温が下がりましたね。

前回の記事「祝!東武東上線100周年。」の記事を書いているうち、東上鉄道創立に奮闘した蓮根村の醤油醸造業、内田三左衛門の扱いの低さに対する怒りが湧いてきた。気がつくとこの週末、板橋区民は暑さ日本一を売り物にする熊谷市の図書館へ向かっていたのだった。

”板橋区民は暑さに弱い”このフレーズを繰り返し使っているのだが、そんな板橋区民がなぜ完全アウェイの地、熊谷へ向かったのか。それは、「東上鉄道の創立を成し遂げたのは、川越近在の埼玉人。」という定説に対し、「いったい誰がそんなトンデモ説を広めたのか、その元凶を炙り出す!」そんな負の感情に突き動かされたからだ。サイトにある埼玉県内の図書横断検索機能を使い関係図書を探ると、埼玉県立熊谷図書館が一番関係書籍が揃っていると判断したのだ。どうせ調べるなら一箇所で済ませたい。

まずは日本鉄道豊島線池袋駅(予定)から川越鉄道川越駅までの開業を目指した「京越鉄道」に関する基礎資料本を請求、公開した方の論文をコピーした。私的見解を極力抑え、実資料の紹介をされた素晴らしい論文だ(埼玉史談・第22巻/1974年)。次に手に取ったのは「埼玉の鉄道」。この本は埼玉新聞社から1982年に出版され、埼玉県内のほとんどの図書館に蔵書されている。

「埼玉の鉄道」の著者は老川慶喜氏。当時まだ30代前半の若き学究の徒だった。東上鉄道開業について書かれた部分は多分に埼玉史談掲載の論文に影響を受けていることがわかる。老川氏のご著書より東上鉄道設立の経過を抜粋すると、「明治36年12月23日、千家尊賀ら数名によって東上鉄道株式会社設立の申請がなされた。〜中略〜この東上鉄道設立の申請が認可されたのは明治40年(まま)10月6日であった。しかし、千家尊賀らは明治43年に東武鉄道株式会社の社長根津嘉一郎に東上鉄道を譲り、ここに根津嘉一郎を社長とする東上鉄道株式会社が設立されるに至った。〜後略」

この後は、埼玉史談の論文を下敷きに東上鉄道に出資した株主の地域分布を示し、埼玉県在住者の株主の多さを指摘、そのうちの有力者は”京越鉄道設立に関与”していたことを挙げ、続けて川越の実力者達を紹介、「ともかくも、明治30年代の半ばに京越鉄道株式会社によって計画された川越〜池袋間の鉄道建設は、大正3年に至ってようやく東上鉄道株式会社の手によって実現されたのであった。」と結ばれている。なるほど、元凶はやっぱりこれか。

埼玉県出身の老川氏は立教大学を卒業後、博士課程へ進み「日本資本主義と地方鉄道の展開」で立教大学経済博士となり、関東学園大学の教授、帝京大学の教授、立教大学の教授、跡見学園女子大学の教授を経て現在は立教大学名誉教授の座にある。その間に多くの鉄道関係の書物を出版し、公刊史料作成に関与してこられた。また、1983年に設立された「鉄道史学会」の設立メンバーで、後に会長も務めた。

老川氏は、学究の徒から教授となり論文や著作も出し公刊に名を連ね、学会の重鎮まで務めるまさにトップオブ権威。の一人である。頭に血が上った板橋区民は、老川氏と直接対決するため氏が講演する機会を見つけ、講演で行われる質疑応答の際に手を挙げ質問の程で持論を展開披露し、追求してやり込めてやろうかと考えたが、やめた。それはまさにドンキホーテ、旧日本軍のバンザイ突撃のようなものである。

そんな行動を起こしても、写真でお見かけする温厚な老川氏は「ご高説拝聴いたしました。貴重な話をありがとうございます、今後の参考にさせていただきます。」と丁寧に対応しお引き取り願われるだろう。本音は「お前さんは、俺の土俵に上がれるようになってからモノを言え。」と否されるだけだ。昔のドラマ、「踊る大捜査線」で、若い青島刑事に対して定年間際の先輩刑事、和久さんが言った言葉「正しいことをしたかったら、偉くなれ」その通りである。

板橋区民のような市井の一般庶民研究者には、世間に対する自説の披露機会はほとんどない。現代では、せいぜいコミケか自分のブログかH.P.上で鼻息を荒くするしかない。そんなオタクの集まりや電子チラシの裏論文など、権威の世界では歯牙にもかけられないのである。今更大学で研究生活を送ることは難しいし、せめてどこかの学会に入会させていただき、論文を書き学会の大会で発表し、権威者に名前や顔を覚えてもらうしかないのだが、そんなことが面倒くさい庶民研究者には、晴れの舞台は用意されていないのだ。まっ、自業自得ですが。

昔、旧石器時代の研究者が捏造事件を起こし大スキャンダルとなったが、その人物もいわゆる”主流派”ではなく、それから一般研究者の肩身はいっそう狭くなってしまった。まだ関係者が職務に実在しているのではっきり書けないが、前にある区が発行した「区史」に関わる記述で、ある史学で有名な大学の関係者が、この説は間違っているから訂正をしろ、と区役所に執拗にクレームをつけてきた。そのクレームをつけた人物は、ある新聞社を味方につけ、それは新聞記事沙汰となってしまった。事なかれ主義の区役所は困惑し、事態の収拾に走ったが非常に後味の悪い出来事だった。これは初期対応を間違った、というか、プライドとプライドのぶつかり合いが一因でもある。その記述とは戦国時代に近い中世時代の事で、史料が非常に少なく、いろんな解釈ができるものであった。区史の編纂では、歴史の権威(大学の教授など)を長に据え、その権威が集めた人々がチームを作って史料を検討し何度も議論を重ねて執筆を行い、刊行される。だから一次史料としても信頼されるのである。そこへただ一介の研究者が物申すなどまったく不埒な行為なのだ。最初に対応した区側の担当者は、クレームを付けてきた人物の長く伸びた鼻をへし折り面子を完全に潰してしまった。そこでその人物は、権力者側に不当な扱いを受け、恥をかかされたと件を新聞社に持ち込んだ。権力の監視と横暴追求を第一義に掲げるマスコミは、その訴えに乗り話が大きくなってしまったのだ。

一般人の研究者ってコワイ。博物館や資料館には、自説と違う訂正しろ、と訴える自称研究者が押しかけるのは日常茶飯事である。

板橋区民も、成増飛行場の話を人前で披露することがあるけれど、その際に、こんな話があると教えていただくことがある。ありがたく拝聴させていただくが、中には、承認欲求からか自説でマウントを取ろうとしているのか、挑戦的な感じを受ける時がある。証拠や根拠を求めると、人から聞いた話だと言われる。まあ、75年以上前の戦時中の話なので伝言なのはしかたないし、なるべく状況証拠を集めて判断するしかない。しかし、板橋区民は警戒する。もし、この方の説を採用してブログに書いたり講演で話したら、「あいつは俺の話を盗んだ。」と吹聴されかねない、と恐れるのである。その人物の背景を知り、しっかり話し合いをし許可を頂けなければ採用できないのだ。

老川氏の東上鉄道設立に関する話は、埼玉を切り口とした立場で書かれているし、京越鉄道撤退後に起こった日本興業鉄道や東上鉄道の創立は、京越鉄道の案をパク、いや、参考にしている面があるかもしれないので、まあ仕方ないかなとも思えるけれど、内田三左衛門達の奮闘は碑にもきっちり残っているし、そのことにほとんど触れないような描き方は説明が足らないと思わざるを得ない。ここまで書き、ようやく板橋区民の怒りも、少しは治まってきた。

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