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板橋区民、本気出す。2020年残暑。⭐️祝!東武東上線誕生100周年⭐️

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暑い。いや、熱い。アツ過ぎる。家から出れない。エアコンのある部屋から出れない。

ネット上のサイト他でも見かけないが、今年は東上鉄道と東武鉄道が合併し、「東武東上線」が誕生して100周年である。コロナ禍がなければ、盛大にお祝いの行事が開かれたのに・・てなことは東京オリンピック開催の陰に隠れてやっぱり無かっただろう。だからせめて、当サイトだけでもお祝いをしよう。

めでたい。

と言うことで、100周年を鑑み重箱の隅をつついてみたい。

板橋区民には、かねてから忸怩たる思いがある。それは、東上鉄道創立に関わる出来事である。一次資料として引用される東武鉄道発行の社史では、東武鉄道総帥、初代・根津嘉一郎が東上鉄道の社長として創立した、と正史として語られている。これは間違いないことである。そして、本社が川越に置かれたことから、埼玉では、上福岡の豪商・星野仙蔵が、衆議院議員同期の根津嘉一郎の協力を得て東上鉄道を開業させ、東上鉄道株式会社の役員にも収まった。と解説されている。上福岡駅には、星野仙蔵を賞賛する碑も建立されている。

でも、ちょっと待ってほしい。

現在の下板橋駅近くに、「東上鐵道記念碑」が建っていることはご存知であろうか?碑は平成17年度に板橋区登録記念物に指定されている。碑面には、東上鉄道は、板橋区蓮根で醤油蔵醸造業を営んでいた、内田三左衛門が「東奔西走同志ヲ勧説し、万苦百難ヲ排し、開業に導いた」ことが刻まれている。東上鉄道の設立経過については、当ブログ記事で何度か紹介しているけれど、私が信を置いているサイト「東上沿線今昔物語」より一部を引用させていただく。

「川越・東京最短ルートを通る鉄道建設計画は、1895(明治28)年に川越鉄道が開通した頃から矢継ぎ早に出願されるようになる。ここにその代表的なものを上げてみよう。

①毛武鉄道(明治28年8月出願)

②川越鉄道延伸計画(明治28年12月出願。川越鉄道を川越から新河岸川沿いに下り東京市内に入り万世橋に至る)

③中武鉄道(明治29年8月) 

④京越鉄道(明治35年8月提出)

⑤日本興業鉄道(明治35年12月提出)

以上の計画はいずれも不許可あるいは免許失効となり、実現には至らなかった。しかし日本興業鉄道の発起人千家尊賀、内田三左衛門京越鉄道の発起人綾部利右衛門、星野仙蔵は後に東上鉄道の発起人となる。幻の鉄道計画も現実味のある事業へと変化しはじめていた。また、先に述べた綾部利右衛門は川越・仙波河岸の、星野仙蔵は福岡河岸のそれぞれ船問屋の主人であることからもわかるように、東京と川越をダイレクトに結ぶこれらの鉄道計画に、川越商人や新河岸川舟運の船問屋たちは競って発起人として参加した。川越鉄道設立時の冷たい態度から一変したのである。

●東上鉄道の出発

1903(明治36)年12月23日、東上鉄道株式会社仮免許申請書が提出された。この時の発起人は日本興業鉄道の発起人でもあった千家尊賀、内田三左衛門の二人以外に、現在の新座市、富士見市、三芳町あたりの資産家・有力者十名が名を連ねている。しかし敷設免許は下りたものの資金集めに難航したようで、結局、福岡村(現上福岡市)の星野仙蔵を頼る。星野は当時衆議院議員を務めており、その議員仲間で東武鉄道社長でもある甲州財閥の総帥、根津嘉一郎を引っ張り出した。1910(明治43)年には根津嘉一郎を含め東武鉄道経営陣から四人が東上鉄道発起人に加わり、東上鉄道創立事務所も本所区の東武鉄道本社内に置かれた。鉄道という金のかかる事業は、やはり地元の資本力のみでは進められない事業なのだ。先に述べた東上鉄道に先行する計画が幻に終わったのも、資本力の不足が大きな原因だった。地元の発起人で監査役として経営陣に加わった星野仙蔵は、地元の上福岡だけでなく鶴瀬、新河岸、川越などで難航する土地確保に尽力した。引又河岸(現志木市)で舟問屋を営んでいた井下田慶十郎も株主に加わり志木駅開設に尽力する。井下田は、死後、その戒名を「交通院慶運東上居士」とするほど東上鉄道開通に情熱を傾けた。星野や井下田、そして内田三左衛門や上野伝五右衛門といった地元資本家は、株数からすれば東武鉄道関係者をはじめとする東京資本に比べて少なかったが、彼ら地元資本家の協力がなければ東上鉄道開通は不可能だったに違いない。実際、彼らの中には家産をも傾けかねないほど情熱を注ぎ込んだものもあったという。」〜以上引用終わり。

素晴らし解説である。思わず引用とは言えないほど引用してしまった。主催者様、ごめんなさい。じつは、このサイトの主催者様とは一度、お会いしたことがある。もう20年近く前、ネット上に個人H.P.が乱立し始めた頃に東上線のH.P.を立ち上げられたが、構成・内容が群を抜いており、交流サイトを通じてオフ会(死語)が開かれた時、川越市にあるお宅へお邪魔したのだ。その時、主催者様が編集の仕事を生業としておられたことを知り、だから文章が素晴らしかったのかと納得した。しかし、その後、氏のH.P.は停止したまま今日に至っている。よって十数年の間記事の更新もなく、今はネット上の情報も昔の比ではなく飛躍的に増え、新発掘資料による訂正もないので、いささか齟齬が出てしまっているのが惜しまれるところだ。昨年初めに掲示板に十数年ぶりに降臨し、元気でいること、H.P.はクラリスワークス(!)で作成したため訂正ができないことなど述べておられた。

さて、いささか話が脱線しました。板橋区贔屓としては、東上鉄道の創立の主導権を握っていたのは、かつて「日本興業鉄道」を画策した内田三左衛門、千家尊賀のグループと断言する。そして、「東上鐵道」の社名を考案したのは内田であると推察する。定説では、「東上」は東京と上州(渋川)を結ぶからとされている。しかし、設立趣意書には、最終的に長岡を終点とすると書かれている。長岡は、「上越」と呼ばれる地域である。下板橋にある碑を文化財に登録する際に調査を担当した、板橋区役所文化財係の学芸員の方に聞いた話だが、私見として、内田三左衛門は、先祖である、上杉謙信の軍師であった宇佐見駿河守定行を敬慕しており、父祖の出身地である上越に鉄道を繋げたかったのではないか、とおっしゃっていた。また、川越市立博物館が東上線の特別展を開催する際に、若干の資料を貸し出したのだが、その時の担当学芸員の方が、東上鉄道の終点である「田面沢駅」周辺に、内田性の家が点在しており、そのあたりの出身ではないか、と話していた。実際、内田三左衛門家は川越から蓮根に移住して来たとする記述もある(出所未確認)。

板橋区民の発掘した資料によれば、東上鐵道創立は、明治41年10月に仮免許状が下付されてから具体的に動き出した。本免許取得並びに東上線開業を目指し、資金集めや土地買収、敷設工事に関わる算段etc、やることは無限にあった。しかしそのメンバーには、日本興行鉄道の同志、千家尊賀の名も、京越鉄道の星野仙蔵ら、川越の有力者たちの名もない。その代わりに、上練馬村の有力者、上野伝五右衛門が加わり、上野が創立委員長となり、内田は副委員長となった。明治36年の創立書申請の頃から事務を担当していた、大泉村の有力者家の青年、見留勝(後に大泉村村長や農協を立ち上げる・本業は工務店)が付けていたメモ帳によれば、「(明治42年)6月1日、東上鉄道株式会社創立事務所を志村内田三左衛門方に移転し即日会所、創立委員会を開く。出席委員(中略)閉会午後九時」と記載されている。

まだ資料の解析が進んでいないのでこれまでとしておくけれど、星野仙蔵を始めとする川越方面の有力者たちとはいつどのような接点を持ったのだろうか?これは想像に過ぎないけれど、仮免許取得に成功した元日本興業鉄道派は、鉄道敷設資金集め等に奔走したが、埼玉県内の土地買収に対し、元京越鉄道派が立ちふさがった。京越派は叡智に長けた実業家である根津嘉一郎を味方につけ、とうとう東上鐵道創立を横取りした。そんな下衆なストーリーが板橋区民の脳裏に浮かぶ。

「歴史は勝者によってつくられる。」東武鉄道社史を眺めると、その言葉が胸に落ちてくる。せめてもの救いは、内田の同志、上野伝五右衛門が東上鐵道の役員として迎えられたことで、東武鉄道もさすがに功績に報いたのだろう。しかし、最大の功労者であった内田三左衛門は財産の全てを失い、地元蓮根村を追われいずこかへ去り、歴史から消えてしまったのである。

祝!東武東上線100周年。あなたが夢を見、種を蒔いた鉄路は、100年経っても大いに発展し今日も走り続けてますよ。

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コメント

ごぶさたしております。
今の時期の気候は年々厳しくなる一方ですが、いかがお過ごしですか。
昨日は、としまえんにおいでになりましたか。

テレビご出演のお話も伺いました。
マツコさんにもお会いしたのでしょうか。

さてこのお話、大変失礼ですが、長岡は「上越地方」ではなく「中越地方」です。
古代に上越から分かれたといいますが、内田が生きた明治時代は「中越」という認識が既に定着していたと考えられます。
宇佐美氏についても簡単に調べましたが、今伝わっている系譜には後世の創作が混じっているようで、その点からも区役所学芸員さんのお話は再考の余地があるように感じられました。
実際は断絶している河内楠木氏の末裔を自称する人が歴史上何人か現れているように、優れた軍略家が平和な時代を生きた武士のアイドルとなっていた事例はいくつかあります。
宇佐美氏も同じようなアイドルのひとりだったのではないかと想像しました。
内田が川越の田面沢付近の生まれという説のほうが、信ぴょう性が高いように思えます。

私は、内田が蓮根在住だったということに着目しています。
もともとの蓮根集落は医王山蓮華寺を中心とした、志村高校の丘の北側一帯です。
今も蓮根一丁目のその地域には、広い敷地の立派なお屋敷がいくつもあります。
蓮根集落から見れば、鉄道敷設を計画する上板橋村は「山向こう」で、明治時代は異なる文化圏だったように思えます。
志村の人は、中山道を生活道路としていたでしょう。
内田は中山道沿いに鉄道を作って新河岸川の舟運を置き換えるよりも、隣村の川越街道沿いの計画を立案したことになり、当時としてはユニークな発想を持っていた印象です。
志村の急こう配を避けたという見方も成り立つでしょうか。

投稿: Windy 41 | 2020年9月 1日 (火) 07時30分

>>Windy 41さま
いつもコメントをありがとうございます。本文はいささか感情的に板橋区側に立って書いておりますので、説明が足らない部分もありました。内田氏が上越を目指した、との話は下板橋駅近くにある碑文にそう記されていることで、学芸員氏も史実はさて置き内田氏の心情(内田氏の信じている歴史観)に立って話されたことと思います。本文では蓮根村を追われ行方をくらませたように描きましたが、内田三左衛門は一時新河岸に移り住み、その後豊島区へ転居したようです。墓も蓮華寺にあり、私はお孫さんを見たことがあります。まだわかりませんが、時系列的には東上鉄道ルートの発想は、川越の舟運を仕切っていた有力者達による京越鉄道の方が先で、内田達もそれに沿っていることから、なにがしかの有利なことがあるのでしょう。

投稿: オーク | 2020年9月 1日 (火) 10時14分

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