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2020年8月

板橋区民、東京一高い場所から我が赤塚郷を望む。

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梅雨明けから一気に真夏ですね、涼しい長雨を恨んでましたが懐かしくなりました。。

 

東京都民除外のGoToキャンペーンの腹いせか、本日7日から東京スカイツリーが都民限定の半額キャンペーンを始めた。2012年に完成してから一度も登ったことがなかったので、半額につられて訪れてみました。外出は控えろ、と都知事からお達しが出ているせいか事前の告知が控えめだったのか、スカイツリータウンの超人気ラーメン屋・六厘舎よりも空いてるんじゃないかと思えるくらい、余裕だった。これならソーシャルディスタンスはばっちりだ。

ドキドキしながら地上350mの展望デッキへのエレベーターに乗ると約50秒!あっという間にデッキフロアに到着。おお、東京タワーよりずいぶん大きい。外国人観光客がほとんどいないせいもあるのだろうか、窓からの景色も人の頭越しになることもなく、ゆったりと楽しめた。ただし、天気は良いのだがだいぶガスってるというか、暑さで街が茹っていて蒸気で見えない、てな感じで眺望が良くなかったのが残念だ。我が赤塚郷方面もさっぱり判別がつかなかった。

エレベーターを乗り換え、天空回廊へ。地上451.2mの最高地点に到達、しかしながら靄がかっているのは変わらず遠望はきかない。ところで、回廊を巡りながらふと気がついたのだが、展望台には必ず付き物の双眼鏡がない。おそらく、個人情報保護法のせいなんだろうなあ。双眼鏡の持ち込みは禁止ではないようなので、遠くを見たい方は持参してくださいね。

地上に戻り、せっかく来たんだから「すみだ水族館」も覗いてみた。こちらは残念ながら半額サービスではなかった。そんなに広くはないので期待せずに入ったのだけれど、海月の展示が充実しており、ビジュアルを意識しているようで幻想的なライティングなどが行われており結構楽しめた。あと、夏限定だろうけれど金魚の展示も良かったです。非常にクールで外国人にも人気があるのもうなずけますね。年間パスポートを求める人が多いのもわかる気がする。

 

と、板橋区民がスカイツリーから赤塚郷を眺めている時、スカイツリーのアンテナからは、日本テレビ「ヒルナンデス」番組内で扱われた当ブログ所蔵「豊島園」の映像が全国へ発信されていたのであった。

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板橋区民、導かれる。2020年夏。

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昨夕は短時間でしたが久しぶりの雷豪雨でしたね。

そんな日の午前中、クラクラとする強烈な日差しの下、板橋区民は入間市にいた。ここ、入間市博物館アリットで開催されていた「入間市平和記念資料展」を訪れたのである。

毎年、夏の時期に戦争に関する特別展を行う地方自治体が多くあり、ことさら暑さに弱い板橋区民も気力を振り絞って出向くことにしているのだが、開催期間が短いものでは8月初旬から15日頃まで、長くても夏休み期間中の場合が多く、身体の衰弱を感じる今日この頃の板橋区民には辛い時期である。

入間の展示内容はニュースなどで知ったが、主な展示は沖縄、広島、長崎の三点セットであり、地元入間市に関わる話題は、新発見資料の展示もあったがこんな資料が出ました、程度の解説で物足りなさを感じました。沖縄、広島、長崎の、特に被害に関する展示は昔から連綿と行われてきたことであり、リピートで訪れるにはなかなかの動機が必要だ。もちろん、戦争のことは伝統芸能継承のように繰り返し繰り返し伝えるべきものと思っているけれども。

天上地面から襲い掛かる熱気にふらつきながら博物館にたどり着き、正面で検温と消毒を受け会場へ向かうと、エントランス部分にコンパクトに纏められた入間市と戦争に関わる展示物が置かれていた。そして正面の狭山陸軍飛行場に関する写真のキャプションを見て驚いた。写真の提供者が「堀山久生」となっていたのである。堀山氏はこのブログでも度々取り上げさせていただいた、成増飛行場結成の陸軍特攻・振武隊の隊長であり、今年3月に98歳で惜しくも逝去された。

近隣にある、所沢航空博物館には、堀山隊長が寄贈した航空兵装一式が展示されているけれど、入間市の博物館にも資料を寄贈されていたとは不覚にも知らなかった。奇しくも今は隊長初盆の時節である。お前さんもこのくらいの暑さに悲鳴を上げているようじゃ情けないな、しっかりせんかい、と叱咤されたような気がしたのであった。

 

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板橋区民、何度でも練馬区に立つ。

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本日は75回目の終戦記念日ですね。あの日と同じ暑い真夏の日差しが照っています(想像ですが)。終戦記念日とは正確に言うと、1945年8月15日正午よりラジオ放送にて、天皇陛下が前日に録音した、連合国によるポツダム宣言を受け入れるとの方針を、国民に伝えた日である。国際法上では、9月2日に戦艦ミズーリー号上で行われた降伏文書調印により、終戦が確定した。

今年は周年祈念ということで、練馬区立石神井ふるさと文化館より依頼を受け、4年ぶりに成増陸軍飛行場の解説をさせていただきました。最初に話をいただいたのは正月頃のこと、まだコロナは中国の武漢だけで騒いでいた時期だった。会場には三人掛けのテーブルが並び、定員は90名ほどだった。それからわずか数ヶ月後、4月に緊急事態宣言が出て学校や公共施設も閉鎖され、講演会も中止を覚悟した。しかし、コロナにも慣れたのか、社会生活の破綻を恐れ規制は緩められ、6月からは規模が比較的小さく、蜜を避ける配慮のできる施設などは再開した。

全国の博物館や資料館で開催を予定されていた展示会も春期のものは中止、夏期のものから内容を縮小するなどして再開された。講演会も、当初は三人掛けで行われる予定が、蜜を避けるため、一人一テーブルとなり、定員は30名となってしまった。それにより、広報紙などで大々的に告知を行わず、ふるさと文化館内のみにひっそりと告知チラシが貼られ、気がついた人だけが参加できる仕様となってしまったのである。

それでも、ありがたいことに告知が掲示されてから数週間で定員に達し、過日、講演の日を迎えた次第なのであった。毎度のことだけれど、まず、「何を話すか」に頭を悩ませる。話を聞きに来る方がどんなことを聞きたいのか、それがわからない。昨年末の光が丘図書館の時のように、「特攻隊の話をメインにしてください」と依頼されると、ある程度は方針を決められるのだけれど。あれこれ悩んだ末、結局は、何も情報を知らない方に向けて話すことを前提と決めた。しかし、これが結構大変だ。戦後75年も経つと、その時代の常識が通用しなくなるので、何気ない用語でも説明しなければ伝わらないことがある。多少戦時中の話に興味があり、当時のことが書かれた書籍などを読んでいる方々ばかりならまだ良いのだけれど。

それでも、75周年の祈念年なので、近年わかった資料や情報を入れ込みながら年表に沿って話を進めることにして講演を行った。当初の1/3に参加者の数は減ってしまったけれど、それでも会場を見渡すと結構集まっていただけたなあと感じた。小中学校の一クラス分の方々がいらっしゃるのである。冒頭にて、今年3月に逝去された堀山隊長の話と、昨年、釧路のお宅をお尋ねし、お会いした桜隊空中勤務者であった石原少尉のことを語って飛行場の話を始めたのだが、実は大きな誤算が起こっていた。実は直前まで講演は2時間のつもりでいたのだが、90分ですと言われ、えっ、と焦ったのである。急遽30分話を削らなければいけない。やべ〜と思いつつ口調も早口になる。怒濤のごとくしゃべり続けてあっと言う間に90分が過ぎ、あとは配布した資料をごらんくださいと途中で話を切ってしまった。終わった後で、流す予定をしていた成増飛行場唯一の動画(震天制空隊出撃シーン)を上映するのをすっ飛ばしていたことを思い出したが、後の祭りであった。

当日、参加されていた方々、大変申しわけありませんでした。またいつの日か上映できることを願っております。

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板橋区民、本気出す。2020年残暑。⭐️祝!東武東上線誕生100周年⭐️

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暑い。いや、熱い。アツ過ぎる。家から出れない。エアコンのある部屋から出れない。

ネット上のサイト他でも見かけないが、今年は東上鉄道と東武鉄道が合併し、「東武東上線」が誕生して100周年である。コロナ禍がなければ、盛大にお祝いの行事が開かれたのに・・てなことは東京オリンピック開催の陰に隠れてやっぱり無かっただろう。だからせめて、当サイトだけでもお祝いをしよう。

めでたい。

と言うことで、100周年を鑑み重箱の隅をつついてみたい。

板橋区民には、かねてから忸怩たる思いがある。それは、東上鉄道創立に関わる出来事である。一次資料として引用される東武鉄道発行の社史では、東武鉄道総帥、初代・根津嘉一郎が東上鉄道の社長として創立した、と正史として語られている。これは間違いないことである。そして、本社が川越に置かれたことから、埼玉では、上福岡の豪商・星野仙蔵が、衆議院議員同期の根津嘉一郎の協力を得て東上鉄道を開業させ、東上鉄道株式会社の役員にも収まった。と解説されている。上福岡駅には、星野仙蔵を賞賛する碑も建立されている。

でも、ちょっと待ってほしい。

現在の下板橋駅近くに、「東上鐵道記念碑」が建っていることはご存知であろうか?碑は平成17年度に板橋区登録記念物に指定されている。碑面には、東上鉄道は、板橋区蓮根で醤油蔵醸造業を営んでいた、内田三左衛門が「東奔西走同志ヲ勧説し、万苦百難ヲ排し、開業に導いた」ことが刻まれている。東上鉄道の設立経過については、当ブログ記事で何度か紹介しているけれど、私が信を置いているサイト「東上沿線今昔物語」より一部を引用させていただく。

「川越・東京最短ルートを通る鉄道建設計画は、1895(明治28)年に川越鉄道が開通した頃から矢継ぎ早に出願されるようになる。ここにその代表的なものを上げてみよう。

①毛武鉄道(明治28年8月出願)

②川越鉄道延伸計画(明治28年12月出願。川越鉄道を川越から新河岸川沿いに下り東京市内に入り万世橋に至る)

③中武鉄道(明治29年8月) 

④京越鉄道(明治35年8月提出)

⑤日本興業鉄道(明治35年12月提出)

以上の計画はいずれも不許可あるいは免許失効となり、実現には至らなかった。しかし日本興業鉄道の発起人千家尊賀、内田三左衛門京越鉄道の発起人綾部利右衛門、星野仙蔵は後に東上鉄道の発起人となる。幻の鉄道計画も現実味のある事業へと変化しはじめていた。また、先に述べた綾部利右衛門は川越・仙波河岸の、星野仙蔵は福岡河岸のそれぞれ船問屋の主人であることからもわかるように、東京と川越をダイレクトに結ぶこれらの鉄道計画に、川越商人や新河岸川舟運の船問屋たちは競って発起人として参加した。川越鉄道設立時の冷たい態度から一変したのである。

●東上鉄道の出発

1903(明治36)年12月23日、東上鉄道株式会社仮免許申請書が提出された。この時の発起人は日本興業鉄道の発起人でもあった千家尊賀、内田三左衛門の二人以外に、現在の新座市、富士見市、三芳町あたりの資産家・有力者十名が名を連ねている。しかし敷設免許は下りたものの資金集めに難航したようで、結局、福岡村(現上福岡市)の星野仙蔵を頼る。星野は当時衆議院議員を務めており、その議員仲間で東武鉄道社長でもある甲州財閥の総帥、根津嘉一郎を引っ張り出した。1910(明治43)年には根津嘉一郎を含め東武鉄道経営陣から四人が東上鉄道発起人に加わり、東上鉄道創立事務所も本所区の東武鉄道本社内に置かれた。鉄道という金のかかる事業は、やはり地元の資本力のみでは進められない事業なのだ。先に述べた東上鉄道に先行する計画が幻に終わったのも、資本力の不足が大きな原因だった。地元の発起人で監査役として経営陣に加わった星野仙蔵は、地元の上福岡だけでなく鶴瀬、新河岸、川越などで難航する土地確保に尽力した。引又河岸(現志木市)で舟問屋を営んでいた井下田慶十郎も株主に加わり志木駅開設に尽力する。井下田は、死後、その戒名を「交通院慶運東上居士」とするほど東上鉄道開通に情熱を傾けた。星野や井下田、そして内田三左衛門や上野伝五右衛門といった地元資本家は、株数からすれば東武鉄道関係者をはじめとする東京資本に比べて少なかったが、彼ら地元資本家の協力がなければ東上鉄道開通は不可能だったに違いない。実際、彼らの中には家産をも傾けかねないほど情熱を注ぎ込んだものもあったという。」〜以上引用終わり。

素晴らし解説である。思わず引用とは言えないほど引用してしまった。主催者様、ごめんなさい。じつは、このサイトの主催者様とは一度、お会いしたことがある。もう20年近く前、ネット上に個人H.P.が乱立し始めた頃に東上線のH.P.を立ち上げられたが、構成・内容が群を抜いており、交流サイトを通じてオフ会(死語)が開かれた時、川越市にあるお宅へお邪魔したのだ。その時、主催者様が編集の仕事を生業としておられたことを知り、だから文章が素晴らしかったのかと納得した。しかし、その後、氏のH.P.は停止したまま今日に至っている。よって十数年の間記事の更新もなく、今はネット上の情報も昔の比ではなく飛躍的に増え、新発掘資料による訂正もないので、いささか齟齬が出てしまっているのが惜しまれるところだ。昨年初めに掲示板に十数年ぶりに降臨し、元気でいること、H.P.はクラリスワークス(!)で作成したため訂正ができないことなど述べておられた。

さて、いささか話が脱線しました。板橋区贔屓としては、東上鉄道の創立の主導権を握っていたのは、かつて「日本興業鉄道」を画策した内田三左衛門、千家尊賀のグループと断言する。そして、「東上鐵道」の社名を考案したのは内田であると推察する。定説では、「東上」は東京と上州(渋川)を結ぶからとされている。しかし、設立趣意書には、最終的に長岡を終点とすると書かれている。長岡は、「上越」と呼ばれる地域である。下板橋にある碑を文化財に登録する際に調査を担当した、板橋区役所文化財係の学芸員の方に聞いた話だが、私見として、内田三左衛門は、先祖である、上杉謙信の軍師であった宇佐見駿河守定行を敬慕しており、父祖の出身地である上越に鉄道を繋げたかったのではないか、とおっしゃっていた。また、川越市立博物館が東上線の特別展を開催する際に、若干の資料を貸し出したのだが、その時の担当学芸員の方が、東上鉄道の終点である「田面沢駅」周辺に、内田性の家が点在しており、そのあたりの出身ではないか、と話していた。実際、内田三左衛門家は川越から蓮根に移住して来たとする記述もある(出所未確認)。

板橋区民の発掘した資料によれば、東上鐵道創立は、明治41年10月に仮免許状が下付されてから具体的に動き出した。本免許取得並びに東上線開業を目指し、資金集めや土地買収、敷設工事に関わる算段etc、やることは無限にあった。しかしそのメンバーには、日本興行鉄道の同志、千家尊賀の名も、京越鉄道の星野仙蔵ら、川越の有力者たちの名もない。その代わりに、上練馬村の有力者、上野伝五右衛門が加わり、上野が創立委員長となり、内田は副委員長となった。明治36年の創立書申請の頃から事務を担当していた、大泉村の有力者家の青年、見留勝(後に大泉村村長や農協を立ち上げる・本業は工務店)が付けていたメモ帳によれば、「(明治42年)6月1日、東上鉄道株式会社創立事務所を志村内田三左衛門方に移転し即日会所、創立委員会を開く。出席委員(中略)閉会午後九時」と記載されている。

まだ資料の解析が進んでいないのでこれまでとしておくけれど、星野仙蔵を始めとする川越方面の有力者たちとはいつどのような接点を持ったのだろうか?これは想像に過ぎないけれど、仮免許取得に成功した元日本興業鉄道派は、鉄道敷設資金集め等に奔走したが、埼玉県内の土地買収に対し、元京越鉄道派が立ちふさがった。京越派は叡智に長けた実業家である根津嘉一郎を味方につけ、とうとう東上鐵道創立を横取りした。そんな下衆なストーリーが板橋区民の脳裏に浮かぶ。

「歴史は勝者によってつくられる。」東武鉄道社史を眺めると、その言葉が胸に落ちてくる。せめてもの救いは、内田の同志、上野伝五右衛門が東上鐵道の役員として迎えられたことで、東武鉄道もさすがに功績に報いたのだろう。しかし、最大の功労者であった内田三左衛門は財産の全てを失い、地元蓮根村を追われいずこかへ去り、歴史から消えてしまったのである。

祝!東武東上線100周年。あなたが夢を見、種を蒔いた鉄路は、100年経っても大いに発展し今日も走り続けてますよ。

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板橋区民、怒りに任せ板橋区を飛び出す。

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雲が多いせいか少し気温が下がりましたね。

前回の記事「祝!東武東上線100周年。」の記事を書いているうち、東上鉄道創立に奮闘した蓮根村の醤油醸造業、内田三左衛門の扱いの低さに対する怒りが湧いてきた。気がつくとこの週末、板橋区民は暑さ日本一を売り物にする熊谷市の図書館へ向かっていたのだった。

”板橋区民は暑さに弱い”このフレーズを繰り返し使っているのだが、そんな板橋区民がなぜ完全アウェイの地、熊谷へ向かったのか。それは、「東上鉄道の創立を成し遂げたのは、川越近在の埼玉人。」という定説に対し、「いったい誰がそんなトンデモ説を広めたのか、その元凶を炙り出す!」そんな負の感情に突き動かされたからだ。サイトにある埼玉県内の図書横断検索機能を使い関係図書を探ると、埼玉県立熊谷図書館が一番関係書籍が揃っていると判断したのだ。どうせ調べるなら一箇所で済ませたい。

まずは日本鉄道豊島線池袋駅(予定)から川越鉄道川越駅までの開業を目指した「京越鉄道」に関する基礎資料本を請求、公開した方の論文をコピーした。私的見解を極力抑え、実資料の紹介をされた素晴らしい論文だ(埼玉史談・第22巻/1974年)。次に手に取ったのは「埼玉の鉄道」。この本は埼玉新聞社から1982年に出版され、埼玉県内のほとんどの図書館に蔵書されている。

「埼玉の鉄道」の著者は老川慶喜氏。当時まだ30代前半の若き学究の徒だった。東上鉄道開業について書かれた部分は多分に埼玉史談掲載の論文に影響を受けていることがわかる。老川氏のご著書より東上鉄道設立の経過を抜粋すると、「明治36年12月23日、千家尊賀ら数名によって東上鉄道株式会社設立の申請がなされた。〜中略〜この東上鉄道設立の申請が認可されたのは明治40年(まま)10月6日であった。しかし、千家尊賀らは明治43年に東武鉄道株式会社の社長根津嘉一郎に東上鉄道を譲り、ここに根津嘉一郎を社長とする東上鉄道株式会社が設立されるに至った。〜後略」

この後は、埼玉史談の論文を下敷きに東上鉄道に出資した株主の地域分布を示し、埼玉県在住者の株主の多さを指摘、そのうちの有力者は”京越鉄道設立に関与”していたことを挙げ、続けて川越の実力者達を紹介、「ともかくも、明治30年代の半ばに京越鉄道株式会社によって計画された川越〜池袋間の鉄道建設は、大正3年に至ってようやく東上鉄道株式会社の手によって実現されたのであった。」と結ばれている。なるほど、元凶はやっぱりこれか。

埼玉県出身の老川氏は立教大学を卒業後、博士課程へ進み「日本資本主義と地方鉄道の展開」で立教大学経済博士となり、関東学園大学の教授、帝京大学の教授、立教大学の教授、跡見学園女子大学の教授を経て現在は立教大学名誉教授の座にある。その間に多くの鉄道関係の書物を出版し、公刊史料作成に関与してこられた。また、1983年に設立された「鉄道史学会」の設立メンバーで、後に会長も務めた。

老川氏は、学究の徒から教授となり論文や著作も出し公刊に名を連ね、学会の重鎮まで務めるまさにトップオブ権威。の一人である。頭に血が上った板橋区民は、老川氏と直接対決するため氏が講演する機会を見つけ、講演で行われる質疑応答の際に手を挙げ質問の程で持論を展開披露し、追求してやり込めてやろうかと考えたが、やめた。それはまさにドンキホーテ、旧日本軍のバンザイ突撃のようなものである。

そんな行動を起こしても、写真でお見かけする温厚な老川氏は「ご高説拝聴いたしました。貴重な話をありがとうございます、今後の参考にさせていただきます。」と丁寧に対応しお引き取り願われるだろう。本音は「お前さんは、俺の土俵に上がれるようになってからモノを言え。」と否されるだけだ。昔のドラマ、「踊る大捜査線」で、若い青島刑事に対して定年間際の先輩刑事、和久さんが言った言葉「正しいことをしたかったら、偉くなれ」その通りである。

板橋区民のような市井の一般庶民研究者には、世間に対する自説の披露機会はほとんどない。現代では、せいぜいコミケか自分のブログかH.P.上で鼻息を荒くするしかない。そんなオタクの集まりや電子チラシの裏論文など、権威の世界では歯牙にもかけられないのである。今更大学で研究生活を送ることは難しいし、せめてどこかの学会に入会させていただき、論文を書き学会の大会で発表し、権威者に名前や顔を覚えてもらうしかないのだが、そんなことが面倒くさい庶民研究者には、晴れの舞台は用意されていないのだ。まっ、自業自得ですが。

昔、旧石器時代の研究者が捏造事件を起こし大スキャンダルとなったが、その人物もいわゆる”主流派”ではなく、それから一般研究者の肩身はいっそう狭くなってしまった。まだ関係者が職務に実在しているのではっきり書けないが、前にある区が発行した「区史」に関わる記述で、ある史学で有名な大学の関係者が、この説は間違っているから訂正をしろ、と区役所に執拗にクレームをつけてきた。そのクレームをつけた人物は、ある新聞社を味方につけ、それは新聞記事沙汰となってしまった。事なかれ主義の区役所は困惑し、事態の収拾に走ったが非常に後味の悪い出来事だった。これは初期対応を間違った、というか、プライドとプライドのぶつかり合いが一因でもある。その記述とは戦国時代に近い中世時代の事で、史料が非常に少なく、いろんな解釈ができるものであった。区史の編纂では、歴史の権威(大学の教授など)を長に据え、その権威が集めた人々がチームを作って史料を検討し何度も議論を重ねて執筆を行い、刊行される。だから一次史料としても信頼されるのである。そこへただ一介の研究者が物申すなどまったく不埒な行為なのだ。最初に対応した区側の担当者は、クレームを付けてきた人物の長く伸びた鼻をへし折り面子を完全に潰してしまった。そこでその人物は、権力者側に不当な扱いを受け、恥をかかされたと件を新聞社に持ち込んだ。権力の監視と横暴追求を第一義に掲げるマスコミは、その訴えに乗り話が大きくなってしまったのだ。

一般人の研究者ってコワイ。博物館や資料館には、自説と違う訂正しろ、と訴える自称研究者が押しかけるのは日常茶飯事である。

板橋区民も、成増飛行場の話を人前で披露することがあるけれど、その際に、こんな話があると教えていただくことがある。ありがたく拝聴させていただくが、中には、承認欲求からか自説でマウントを取ろうとしているのか、挑戦的な感じを受ける時がある。証拠や根拠を求めると、人から聞いた話だと言われる。まあ、75年以上前の戦時中の話なので伝言なのはしかたないし、なるべく状況証拠を集めて判断するしかない。しかし、板橋区民は警戒する。もし、この方の説を採用してブログに書いたり講演で話したら、「あいつは俺の話を盗んだ。」と吹聴されかねない、と恐れるのである。その人物の背景を知り、しっかり話し合いをし許可を頂けなければ採用できないのだ。

老川氏の東上鉄道設立に関する話は、埼玉を切り口とした立場で書かれているし、京越鉄道撤退後に起こった日本興業鉄道や東上鉄道の創立は、京越鉄道の案をパク、いや、参考にしている面があるかもしれないので、まあ仕方ないかなとも思えるけれど、内田三左衛門達の奮闘は碑にもきっちり残っているし、そのことにほとんど触れないような描き方は説明が足らないと思わざるを得ない。ここまで書き、ようやく板橋区民の怒りも、少しは治まってきた。

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2020年8月も終わるので雑談をする。〜成るか板橋区選出内閣総理大臣〜

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あ〜暑い、いや熱いなあああ。。。

8月ももう末、気候も熱いですが先週末の安倍総理大臣による突然の辞任会見で、政治の世界も熱くなってきました。ちなみに辞任会見は終戦の詔と同じで辞任をすると発表しただけで、まだ正式に辞任したわけではない。

で、目下次の総理大臣の席をめぐって政界は水面下で、マスコミは大騒ぎをしている。何せ2012年12月就任以来、7年8ヶ月ぶりのことである。総理の任期はあと1年あるので、後継の総理大臣は自民党から選ばれるのであるが、マスコミ人事で筆頭は石破元幹事長、以下は岸田政調会長や菅官房長官らの名前が挙がっている。マスコミとしては気に入らないが、その他には河野防衛省、稲田幹事長代行がいるけれど、我が板橋区選出の大物衆議院議員、下村博文先生も次期総理候補として名前が挙がっている。

下村博文先生は、群馬県出身で早稲田大学在学中から学習塾「博文館」を開設、早稲田の雄弁会の幹事長を務めたことから政治の世界を志す。1989年に都議会議員選挙で当選、1996年に自民党から衆議院議員選挙に出馬して当選し清和会に加入、そこで自民党青年局長をしていた安倍氏と出会い、以来、安倍氏の腰巾、いや忠実な配下として働いてきた。その功績が認められ、2012年には文部科学大臣に任命され入閣を果たす。現在は自民党選挙対策委員長の職務にある。

板橋区民の感想だけれど、博文先生は常に安倍総理の部下であった為、マスコミの餌食にされ散々叩かれてきた。衆議院議員選挙当選8回を誇る実力者だけれど、モリカケ問題その他、常に安倍氏の盾となり泥水を飲まされてきた感が強い。もしも次の総裁候補に立ち、万が一選ばれた場合はマスコミ総出で大バッシングが起こり、引き摺り下ろされる姿が見える。コロナで総攻撃を受ける石田純一氏と重なるのである。

博文先生は国政の議員であるので、あまり板橋区内でお姿を見かけることはなかったけど、冒頭の写真にあるように、今年の徳丸北野神社の田遊びに現れた。毎年田遊びの現場に行くけれど、お姿を拝見した記憶はない。選挙対策委員長になったから、支持者の引き締めを行う目的もあったのかもしれない。さて、混沌としてきた次期総理大臣選び、いったい誰が選ばれるのか、市井の板橋区民も大いにその行方に関心を寄せている。

 

 

ところで、板橋区民もとうとうフェイスブックやツイッターを始めることにした。身近な情報を得たり発信するには、SNSをもっと利用する方が良いと思ったからで、フェイスブックでは「板橋区民オーク」、ツイッターでは「板橋区民@オーク」という名でアカウントを設けました。どうぞ皆様方のご支援を、よろしくお願い申し上げます。明日は、「としまえんラストデー」の様子をお送りする予定です。

 

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