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⭐️貴重資料は突然に!⭐️〜板橋区民、東上鉄道創立前期のお宝資料GET!!〜

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今週末あたりから梅雨入りっぽいですね。

昨年の4月でしたか、「成増陸軍飛行場終戦時平面図」を入手しましたが、今回はそれ以来の貴重資料GET!です。

東上鉄道株式会社は、現在の東武鉄道東上本線の前身の会社で、開業時の社長は東武鉄道社長の初代・根津嘉一郎が勤めていました。なんで最初から東武東上線ではなかったのかというと、そこには開業に至るまでに一言ではいえないほどの紆余曲折があったからなんですね。いきなりですが縄文時代に例えると、縄文時代は土器型式上の区分から、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられます。東上鉄道の歴史も同じように区分してみましょう。

草創期:明治30年代前半、北豊島郡志村(蓮根)在で醤油醸造業を営んでいた内田三左衛門が、鉄道事業起業を夢見て出雲大社宮司の家柄の千家尊賀と日本興業鉄道(小石川下富坂町 - 高崎間)の開業を目指し、行動を起こす。

早期 :日本興業鉄道計画が絶たれた後、内田三左衛門と千家尊賀は出資人を集め、他数名と新たに東上鉄道を発起。1903年(明治36年)12月23日、逓信省にて東上鉄道の仮免許申請書を提出する。

前期 :東上鉄道は1908年(明治41年)10月6日、東京府北豊島郡巣鴨町字氷川(現・東京都豊島区巣鴨 - 埼玉県入間郡川越町(現・埼玉県川越市 - 比企郡松山町(現・埼玉県東松山市 - 児玉郡児玉町(現・埼玉県本庄市)および群馬県高松市を経て群馬県群馬県渋川町(現・群馬県渋川市)に至る鉄道の敷設仮免許を受けた。

中期 :1911年(明治44年)11月11日に東上鉄道創立総会が開かれ、取締役社長に根津嘉一郎が就き、本社を東京府東京市本所区小梅瓦町(現: 東京都墨田区押上一丁目)の東武鉄道本社に置いた。資本金は450万円。実際の東上鉄道本社は川越に置かれたが、根津嘉一郎が東上鉄道の経営に乗り出すと、本社登記地のみ押上の東武鉄道本社に変更された。

後期 :会社設立後直ちに本免許を申請し、1912年(大正元年)11月16日東京府東京市小石川区大塚辻町(現・東京都文京区大塚から群馬県群馬郡渋川町に至る鉄道の本免許状が下付された。さらに同月30日に東京府北豊島郡巣鴨村大字池袋字宮ノ下から同村大字巣鴨字向原(現・東京都豊島区東池袋)に至る軽便鉄道、1914年(大正3年)4月18日に埼玉県入間郡川越町から田面沢村に至る軽便鉄道の敷設がそれぞれ免許された。以上の免許に基づき、1914年(大正3年)5月1日池袋 - 田面沢間(池袋 - 下板橋間2.2kmおよび川越町 - 田面沢間2.3kmは軽便鉄道、下板橋 - 川越町間29kmは私設鉄道)が開通し、旅客・貨物運輸営業を開始した。開業にあたり鉄道省から蒸気機関車3両、高野登山鉄道から蒸気機関車2両、客車13両、貨車を35両をそれぞれ購入し、東武鉄道から機関車を借り入れた。

晩期:1920年(大正9年)4月7日に両社長間で合併の仮契約を結び、同年4月27日に合併を決議、翌4月28日に東武鉄道社長根津嘉一郎が鉄道大臣に「東武東上合併認可申請書」を提出し、同年7月22日までに開業線池袋 - 坂戸町間40.6kmと未開業線坂戸町 - 高崎間62.8kmの一切をもって東武鉄道と合併する旨の業務引き継ぎが行われ、同年7月27日の東武鉄道による会社合併登記をもって東上鉄道は解散した。同年9月の鉄道大臣認可により合併業務が完了した。これに伴い、東上鉄道路線は東武鉄道東上本線となった。合併に際しては、東上鉄道の1株当たり東武鉄道の1株を割り当てる5:5の対等合併が行われた。

入手した資料は歴史の前期にあたる物で、特に謎の多い時期である。さて、何が謎なのか。それは、明治44年に開かれた東上鉄道創立総会までに、最初に東上鉄道計画に加わった面子が、上練馬村の議員、上野伝五右衛門以外すべて姿を消してしまっていたのである。特に、最初に企画を立て、全財産を投げ出し、東西奔走粉骨砕身した内田三左衛門は何故、いなくなったのか。一般には、内田は資金集めに窮し、実業家の根津嘉一朗が手を貸すことを条件に、東上鉄道事業から手を引くことを承諾した、とされている。かっこよく言えば、内田は自分の進退を賭して東上鉄道開業の夢を実現させたのである、となるのだけれど、現実はどうだったのか。根津の策略に引っかかり東上鉄道開業への夢を奪われてしまったのかも、なんて可能性もなくはないのである。ピストル堤に強盗慶太、歴史は常に勝者によって上書きされるものなのだから。

この資料は、東上鉄道前期時代、敷設仮免許が下りた頃から帳簿整理等で参加していたある青年が所蔵していた物で、この青年はのちに現在の練馬区の、ある大きな町のお大尽となる人物で、若年の頃からその才能の片鱗が伺われる。注目されるのは、明治42年6月1日から11月頃にかけての創立賛同者達の動きを、日記形式で書き留めたメモ(冊)を残していたことだ。この中に、内田らが東上鉄道事業から追われた秘密を探るヒントが隠されているかもしれない。わくわく。

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