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戦後75周年祈念稿 〜ある徳丸人の最後〜

Img_15927_1_1_thumb 0338 Photo_20200614073901 Photo_20200614070902摩文仁の丘に建つ祈念碑

夏が迫っていると実感しますね。

75年前の昨日、すなわち昭和20年6月13日、沖縄守備軍の海軍司令官であった太田実少将が、那覇市と豊見城の境にある海軍司令部壕内にて部下6名と共に自決した。その翌日14日夜半、現在の那覇空港近くにあった海軍巌部隊司令部本部壕で、大群で押し寄せる米軍に対抗していた日本海軍兵士たちは最後の切り込み突撃を行い、壕内に残った動けない傷病兵を除き、ほぼ全滅した。その中に、最後の最後に切り込み突撃を指揮した、徳丸出身の海軍将校がいた。その人物とは、現在の徳丸7丁目の旧家に生まれ育った、粕谷正三大尉である。

粕谷正三大尉は、大正8年8月、江戸時代に徳丸村の名主を務めていた粕谷家に、父・直右衛門と母・なみの次男として生まれた。
正三さんは大変優秀な人物で、紅梅小学校在学中に転校し、開成中学を学年トップで卒業して一高から東京帝国大学法学部政治学科に入学(故・中曽根康弘元総理の1年後輩)した。在学中に高等文官試験に合格し、台湾総督府に任ぜられるが、その直後の昭和17年9月29日に海軍主計見習尉官に採用され、海軍経理学校に入学した。昭和18年1月、経理学校を卒業した正三さんは海軍主計中尉に任ぜられ、巡洋艦・阿賀野乗組みを命ぜられた。阿賀野は昭和17年10月に竣工し、第10戦隊(水雷戦隊)の旗艦となった。18年11月のブーゲンビル島沖海戦に参加した直後、12日朝に米軍潜水艦の魚雷が命中し、その時の爆発により重傷を負い内地送還となり呉海軍病院で入院・療養した。

昭和19年2月、傷の癒えた正三さんは、鹿島海軍航空隊付きとなり海軍主計大尉に任ぜられた。同年10月、南西諸島海軍航空隊分隊長に補せられ、宮古島基地(宮古島にいた記録が残っていないが、周辺の資料により断定)に赴任した。そして、昭和20年1月、南西諸島海軍航空隊本部副官(航空参謀・棚町整大佐の副官)として、米軍が目前に迫る沖縄本島へ移動する。沖縄本島の南西諸島海軍航空隊本部は、通称「巌部隊」と呼ばれ、本島南西部にある小禄(おろく)海軍飛行場を根拠基地としていた。ちなみに、小禄飛行場は現在の那覇空港であり、当時の位置としては現在、自衛隊の使用している部分にあたる。米軍の空襲はすでに前年の10月から始まっており、正三さんはその合間を縫って小禄の寿山に構築された巌部隊司令部本部壕に赴任した。このとき、一帯に設けられた巌部隊の壕には、約3500名の兵員がいた。

3月23日、米軍は54万の大軍と1500隻の艦船で沖縄本島を包囲し、26日から猛烈な艦砲射撃を開始した。4月1日、米軍は本島中部の読谷、北谷海岸から上陸を始めた。5月末までに那覇市内、そして首里を占領した。6月4日、とうとう米海兵隊は小禄飛行場の西側の鏡水から戦車部隊を擁し上陸してきた。激戦は続いたが、巌部隊はじりじりと追いつめられていった。太田司令官自決を知った粕谷大尉は、翌14日夜半、最後まで残った主計科および各科の生き残りの兵30数名を率いて壕を出、小禄雙ヶ丘に展開する米軍に斬り込んだ。数度の攻撃をくり返した後、とうとう負傷者ばかりとなってしまう。粕谷大尉は、もはやこれまでと残った兵を集め車座となり、自ずから対戦車地雷の信管を叩き、散華した。行年、25歳だった。

戦争が終わり、世の中も落ち着いてきた昭和24年6月14日のこと、ひとりの元海軍将校が徳丸の粕谷家を訪れた。粕谷家では戦争が終わっても戻らない正三さんの消息を探し、昭和21年春に旧海軍省に出かけた。そして、そこで初めて粕谷正三主計少佐(死亡後昇進)が沖縄本島で戦死していたことがわかったのである。優秀で自慢の家族を失い、悲しみの縁にいた粕谷家は、その年の11月、ようやく正三さんの葬儀を済ませた。粕谷家を訪れたのは、かつて巌部隊で正三さんと戦友であった金子軍医大尉だった。その日は、粕谷少佐の4回目の命日であった。太田司令官自決の後、総員斬り込み突撃の命令が出されたが、金子軍医大尉は、衛生兵3名を率いて壕内に残り、身動き出来ない重傷者や、負傷して戻ってくる兵士の治療にあたれと上官から言い渡され、壕に留まり終戦まで生き延びた。粕谷大尉とは旧知の間柄で、車座になって地雷を爆発させた時に、負傷しながら壕へ戻ってきた兵士から、粕谷大尉の最後を知らされたのだった。金子大尉は、戦後数年して、徳丸の粕谷家まで正三さんの最後の様子を伝えようとやってきたのだった。

粕谷大尉は、巡洋艦・阿賀野勤務時、ブーゲンビル島沖海戦にて負傷し、呉の海軍病院に入院していた。怪我がある程度癒えた昭和19年1月、懐かしの徳丸に1ヶ月ほど帰京し療養した。その折、ふと家族にこんな言葉を漏らしていた。「俺は死んでも靖国神社には行かぬ。この家の棟に留まって皆を守るよ‥」

粕谷家が、現在も昔の姿のままに残っているのも、正三さんの言葉を信じ続けた粕谷家の方々の信念の賜物なのである。

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コメント

赤一中の同級生に粕谷くんというのがいました。えらく大きなお屋敷に住んでいましたが血縁の方だったのでしょうかね。

投稿: 鵜住居 | 2020年6月16日 (火) 10時20分

>>鵜住居さま
コメントをありがとうございます。特定はいたしませんが、粕谷家は江戸時代以来の古い家で、分家も何家かあります。

投稿: オーク | 2020年6月16日 (火) 11時02分

こんにちは、以前なめじいさんの事で書込みしました。
徳丸7丁目に40年住んでます。

もとは粕谷尹久子さんが経営していた日本そば店も5月に解体されてしまい。
景色が変わってしまいました。

あの茅葺の家にはそのような歴史があったんですね。
粕谷尹久子さんはまだお元気にしているのでしょうか。

投稿: たろう | 2020年7月21日 (火) 14時42分

>>たろうさま

コメントをありがとうございます。現在、古民家は板橋区が所有し、創建当時の姿に復元しましたが、そこに住んでおられた一族の生活の跡は感じにくくなってしまいました。”なぜ古民家は残ったのか”という証は、地元の方々に伝え残されると良いのですが。元の住人の方は他県に引っ越され、近年は来られることは無くなりましたということでお察しくださいませ。

投稿: オーク | 2020年7月21日 (火) 15時24分

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