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2020年6月

鹿、240年振りに板橋区に現れる。

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今日から6月、梅雨の季節も近いですな。

昨日5月31日、鹿が板橋区舟渡で目撃され大騒ぎとなった。以下マスコミの記事より。

「東京・板橋区の河川敷で鹿が目撃され、警察官が出動する騒ぎとなった。警視庁によると、31日午前11時すぎ、板橋区舟渡の荒川河川敷にある野球場で、鹿がいるとの通報が複数寄せられた。目撃した人は「このくらいの子鹿がいた」、「あわてている様子はなく、ゆっくり草を食べている感じ」などと話した。警察官が駆けつけたところ、この鹿は、しばらく河川敷を下流方向に移動し、草の茂みに入ったあと、行方がわからなくなったという。付近には、鹿を飼育している施設などはなく、野生の鹿とみられている。警視庁は、鹿を目撃しても、近づかないよう呼びかけている。」

少し前には、荒川沿いで猪や猿の目撃がニュースになりましたね。もはや狸やハクビシンは日常茶飯事、我が故郷徳丸6丁目でも目撃されている。歴史好きならばご存知のことと思いますが、板橋区には貝塚もいくつか存在し、かつては様々な動物が生息していたことが知られており、加賀からはナウマン象の歯も出土していますね。江戸時代には徳川将軍が度々鹿や鷹狩りに訪れていることが記録されている。中でも三代将軍家光の鹿狩りは大規模に行われ、板橋地域だけで数百頭もの鹿が捕られたのだとか。最後の鹿狩りの記録は天明期前後(1780年代)の徳丸原で、それ以降は文化7年(1810年)に荒川対岸の美女木村で見られた記録を最後に、まもなく鹿の姿は消えてしまったようだ。

と言うことで、舟渡での目撃は240年振り、なワケだけど俄かには信じがたい。ニュースにならなかっただけなんじゃないかと思う。それにしてもこの鹿はどこからやってきたのだろう。奥多摩あたりから山を越えて秩父へ出て荒川沿いにやってきたのだろうか‥う〜ん鹿さんに聞いてみたいところだ。

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⭐️貴重資料は突然に!⭐️〜板橋区民、東上鉄道創立前期のお宝資料GET!!〜

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今週末あたりから梅雨入りっぽいですね。

昨年の4月でしたか、「成増陸軍飛行場終戦時平面図」を入手しましたが、今回はそれ以来の貴重資料GET!です。

東上鉄道株式会社は、現在の東武鉄道東上本線の前身の会社で、開業時の社長は東武鉄道社長の初代・根津嘉一郎が勤めていました。なんで最初から東武東上線ではなかったのかというと、そこには開業に至るまでに一言ではいえないほどの紆余曲折があったからなんですね。いきなりですが縄文時代に例えると、縄文時代は土器型式上の区分から、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられます。東上鉄道の歴史も同じように区分してみましょう。

草創期:明治30年代前半、北豊島郡志村(蓮根)在で醤油醸造業を営んでいた内田三左衛門が、鉄道事業起業を夢見て出雲大社宮司の家柄の千家尊賀と日本興業鉄道(小石川下富坂町 - 高崎間)の開業を目指し、行動を起こす。

早期 :日本興業鉄道計画が絶たれた後、内田三左衛門と千家尊賀は出資人を集め、他数名と新たに東上鉄道を発起。1903年(明治36年)12月23日、逓信省にて東上鉄道の仮免許申請書を提出する。

前期 :東上鉄道は1908年(明治41年)10月6日、東京府北豊島郡巣鴨町字氷川(現・東京都豊島区巣鴨 - 埼玉県入間郡川越町(現・埼玉県川越市 - 比企郡松山町(現・埼玉県東松山市 - 児玉郡児玉町(現・埼玉県本庄市)および群馬県高松市を経て群馬県群馬県渋川町(現・群馬県渋川市)に至る鉄道の敷設仮免許を受けた。

中期 :1911年(明治44年)11月11日に東上鉄道創立総会が開かれ、取締役社長に根津嘉一郎が就き、本社を東京府東京市本所区小梅瓦町(現: 東京都墨田区押上一丁目)の東武鉄道本社に置いた。資本金は450万円。実際の東上鉄道本社は川越に置かれたが、根津嘉一郎が東上鉄道の経営に乗り出すと、本社登記地のみ押上の東武鉄道本社に変更された。

後期 :会社設立後直ちに本免許を申請し、1912年(大正元年)11月16日東京府東京市小石川区大塚辻町(現・東京都文京区大塚から群馬県群馬郡渋川町に至る鉄道の本免許状が下付された。さらに同月30日に東京府北豊島郡巣鴨村大字池袋字宮ノ下から同村大字巣鴨字向原(現・東京都豊島区東池袋)に至る軽便鉄道、1914年(大正3年)4月18日に埼玉県入間郡川越町から田面沢村に至る軽便鉄道の敷設がそれぞれ免許された。以上の免許に基づき、1914年(大正3年)5月1日池袋 - 田面沢間(池袋 - 下板橋間2.2kmおよび川越町 - 田面沢間2.3kmは軽便鉄道、下板橋 - 川越町間29kmは私設鉄道)が開通し、旅客・貨物運輸営業を開始した。開業にあたり鉄道省から蒸気機関車3両、高野登山鉄道から蒸気機関車2両、客車13両、貨車を35両をそれぞれ購入し、東武鉄道から機関車を借り入れた。

晩期:1920年(大正9年)4月7日に両社長間で合併の仮契約を結び、同年4月27日に合併を決議、翌4月28日に東武鉄道社長根津嘉一郎が鉄道大臣に「東武東上合併認可申請書」を提出し、同年7月22日までに開業線池袋 - 坂戸町間40.6kmと未開業線坂戸町 - 高崎間62.8kmの一切をもって東武鉄道と合併する旨の業務引き継ぎが行われ、同年7月27日の東武鉄道による会社合併登記をもって東上鉄道は解散した。同年9月の鉄道大臣認可により合併業務が完了した。これに伴い、東上鉄道路線は東武鉄道東上本線となった。合併に際しては、東上鉄道の1株当たり東武鉄道の1株を割り当てる5:5の対等合併が行われた。

入手した資料は歴史の前期にあたる物で、特に謎の多い時期である。さて、何が謎なのか。それは、明治44年に開かれた東上鉄道創立総会までに、最初に東上鉄道計画に加わった面子が、上練馬村の議員、上野伝五右衛門以外すべて姿を消してしまっていたのである。特に、最初に企画を立て、全財産を投げ出し、東西奔走粉骨砕身した内田三左衛門は何故、いなくなったのか。一般には、内田は資金集めに窮し、実業家の根津嘉一朗が手を貸すことを条件に、東上鉄道事業から手を引くことを承諾した、とされている。かっこよく言えば、内田は自分の進退を賭して東上鉄道開業の夢を実現させたのである、となるのだけれど、現実はどうだったのか。根津の策略に引っかかり東上鉄道開業への夢を奪われてしまったのかも、なんて可能性もなくはないのである。ピストル堤に強盗慶太、歴史は常に勝者によって上書きされるものなのだから。

この資料は、東上鉄道前期時代、敷設仮免許が下りた頃から帳簿整理等で参加していたある青年が所蔵していた物で、この青年はのちに現在の練馬区の、ある大きな町のお大尽となる人物で、若年の頃からその才能の片鱗が伺われる。注目されるのは、明治42年6月1日から11月頃にかけての創立賛同者達の動きを、日記形式で書き留めたメモ(冊)を残していたことだ。この中に、内田らが東上鉄道事業から追われた秘密を探るヒントが隠されているかもしれない。わくわく。

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板橋区民、梅雨に入ったのでたまには広岡郷のことを思い出す。

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蒸し蒸しジメジメした日が続いてますね。

東京アラートも一旦取り下げられ、自粛もステップ3へと回復しました。騒動以来、映画館へ行っていないので大画面で映画を観たいなあ。昭和の後半くらいまでは広岡郷の板橋や志村、大山には映画館がいくつもありましたが、令和の現代は、我が赤塚郷の徳丸にしかありませんね。うろ覚えですが、もうすぐ池袋にはIMAXレーザーの巨大爆音映画館が誕生するようで楽しみです。

さて、今回は久しぶりに都電志村線の写真をUPします。場所的には電停・板橋区役所前しかわかりませんので、とくにコメントは控えます。

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戦後75周年祈念稿 〜ある徳丸人の最後〜

Img_15927_1_1_thumb 0338 Photo_20200614073901 Photo_20200614070902摩文仁の丘に建つ祈念碑

夏が迫っていると実感しますね。

75年前の昨日、すなわち昭和20年6月13日、沖縄守備軍の海軍司令官であった太田実少将が、那覇市と豊見城の境にある海軍司令部壕内にて部下6名と共に自決した。その翌日14日夜半、現在の那覇空港近くにあった海軍巌部隊司令部本部壕で、大群で押し寄せる米軍に対抗していた日本海軍兵士たちは最後の切り込み突撃を行い、壕内に残った動けない傷病兵を除き、ほぼ全滅した。その中に、最後の最後に切り込み突撃を指揮した、徳丸出身の海軍将校がいた。その人物とは、現在の徳丸7丁目の旧家に生まれ育った、粕谷正三大尉である。

粕谷正三大尉は、大正8年8月、江戸時代に徳丸村の名主を務めていた粕谷家に、父・直右衛門と母・なみの次男として生まれた。
正三さんは大変優秀な人物で、紅梅小学校在学中に転校し、開成中学を学年トップで卒業して一高から東京帝国大学法学部政治学科に入学(故・中曽根康弘元総理の1年後輩)した。在学中に高等文官試験に合格し、台湾総督府に任ぜられるが、その直後の昭和17年9月29日に海軍主計見習尉官に採用され、海軍経理学校に入学した。昭和18年1月、経理学校を卒業した正三さんは海軍主計中尉に任ぜられ、巡洋艦・阿賀野乗組みを命ぜられた。阿賀野は昭和17年10月に竣工し、第10戦隊(水雷戦隊)の旗艦となった。18年11月のブーゲンビル島沖海戦に参加した直後、12日朝に米軍潜水艦の魚雷が命中し、その時の爆発により重傷を負い内地送還となり呉海軍病院で入院・療養した。

昭和19年2月、傷の癒えた正三さんは、鹿島海軍航空隊付きとなり海軍主計大尉に任ぜられた。同年10月、南西諸島海軍航空隊分隊長に補せられ、宮古島基地(宮古島にいた記録が残っていないが、周辺の資料により断定)に赴任した。そして、昭和20年1月、南西諸島海軍航空隊本部副官(航空参謀・棚町整大佐の副官)として、米軍が目前に迫る沖縄本島へ移動する。沖縄本島の南西諸島海軍航空隊本部は、通称「巌部隊」と呼ばれ、本島南西部にある小禄(おろく)海軍飛行場を根拠基地としていた。ちなみに、小禄飛行場は現在の那覇空港であり、当時の位置としては現在、自衛隊の使用している部分にあたる。米軍の空襲はすでに前年の10月から始まっており、正三さんはその合間を縫って小禄の寿山に構築された巌部隊司令部本部壕に赴任した。このとき、一帯に設けられた巌部隊の壕には、約3500名の兵員がいた。

3月23日、米軍は54万の大軍と1500隻の艦船で沖縄本島を包囲し、26日から猛烈な艦砲射撃を開始した。4月1日、米軍は本島中部の読谷、北谷海岸から上陸を始めた。5月末までに那覇市内、そして首里を占領した。6月4日、とうとう米海兵隊は小禄飛行場の西側の鏡水から戦車部隊を擁し上陸してきた。激戦は続いたが、巌部隊はじりじりと追いつめられていった。太田司令官自決を知った粕谷大尉は、翌14日夜半、最後まで残った主計科および各科の生き残りの兵30数名を率いて壕を出、小禄雙ヶ丘に展開する米軍に斬り込んだ。数度の攻撃をくり返した後、とうとう負傷者ばかりとなってしまう。粕谷大尉は、もはやこれまでと残った兵を集め車座となり、自ずから対戦車地雷の信管を叩き、散華した。行年、25歳だった。

戦争が終わり、世の中も落ち着いてきた昭和24年6月14日のこと、ひとりの元海軍将校が徳丸の粕谷家を訪れた。粕谷家では戦争が終わっても戻らない正三さんの消息を探し、昭和21年春に旧海軍省に出かけた。そして、そこで初めて粕谷正三主計少佐(死亡後昇進)が沖縄本島で戦死していたことがわかったのである。優秀で自慢の家族を失い、悲しみの縁にいた粕谷家は、その年の11月、ようやく正三さんの葬儀を済ませた。粕谷家を訪れたのは、かつて巌部隊で正三さんと戦友であった金子軍医大尉だった。その日は、粕谷少佐の4回目の命日であった。太田司令官自決の後、総員斬り込み突撃の命令が出されたが、金子軍医大尉は、衛生兵3名を率いて壕内に残り、身動き出来ない重傷者や、負傷して戻ってくる兵士の治療にあたれと上官から言い渡され、壕に留まり終戦まで生き延びた。粕谷大尉とは旧知の間柄で、車座になって地雷を爆発させた時に、負傷しながら壕へ戻ってきた兵士から、粕谷大尉の最後を知らされたのだった。金子大尉は、戦後数年して、徳丸の粕谷家まで正三さんの最後の様子を伝えようとやってきたのだった。

粕谷大尉は、巡洋艦・阿賀野勤務時、ブーゲンビル島沖海戦にて負傷し、呉の海軍病院に入院していた。怪我がある程度癒えた昭和19年1月、懐かしの徳丸に1ヶ月ほど帰京し療養した。その折、ふと家族にこんな言葉を漏らしていた。「俺は死んでも靖国神社には行かぬ。この家の棟に留まって皆を守るよ‥」

粕谷家が、現在も昔の姿のままに残っているのも、正三さんの言葉を信じ続けた粕谷家の方々の信念の賜物なのである。

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板橋区民、新聞紙上で練馬区を案内する。

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緊急事態宣言も開け、世の中も少しずつ動き出した感があります。テレビの散歩系番組などもそろそろ復活するのかな?

そんな世の中の動きもあり、板橋区民は朝日新聞デビューを果たしました。3年前に毎日新聞デビューしましたので、残るは読売、東京新聞ですかね。緊急事態宣言開けに掲載ということは、当然、取材時は緊急事態宣言期間のまっただ中でした。朝日新聞記者とのファーストコンタクトは4月中旬、取材はG.W.に入ってすぐのことで、下赤塚駅隣接のコメダで記者と会いました。この時期はすべての博物館資料館図書館が閉まってましたので、記者の方も資料探しに苦労されておりました。

普通に生活しているとマスコミに取材される機会はほぼ無いので、記者という人種とは接点がなく取材とはどんなことをされるのか想像できないと思いますが、まあ大変です。今回の記事では、実際に会うこと3回(一回あたり4時間くらい)、その後は電話3時間、メールやりとり20回以上と濃厚接触状態。聞かれる事は実際の記事を1とすると周辺情報が9といった感じですか。とにかく、話したことの根拠と裏付け証拠を執拗に求められます。もう最後の方では「テメーの知りたい事をこっちに全部調べさせんな!」とブチ切れそうになりました。記者の方も「あれ?専門家を名乗るなら当然知っててしかるべきことでは?」と無言の脅迫をしてきます。もうね、ホント追い詰められますわ。

例えば、47戦隊員による対B29特攻戦果についてはこんなやり取りでした。 記者「一番最初は震天制空隊の見田伍長ですが、どんな状況で?」 区民「千葉から海に出る直前に体当たりですね。」 記「具体的に。」 区「コースとしては銚子あたりで離脱するのでその辺りでは。」 記「誰か見てたんですか?」 区「真崎隊が追ってましたから。」 記「で、体当たりして撃墜したのですか?」 区「ダメージは与えましたが、その後真崎隊により撃墜されました。」 記「じゃあ見田伍長が撃墜したわけじゃないんですね?」 区「そっそれは‥」。 記「では幸軍曹ですが、成増飛行場の上空で体当たりをして朝日新聞社のカメラマンにより撮影されたと聞きましたが?」 区「新聞に載った写真は成増からですが実際は新宿あたりの上空ですかね。」 記「幸軍曹が体当たりして撃墜したのですよね?」 区「ダメージを受け梯団から脱落した所を友軍機によりとどめを刺され千葉上空で撃墜されました。」 記「では幸軍曹が撃墜したのではないんですね?」 区「ぐむむ‥」。 記「では粟村准尉ですが、銚子から海に出て体当たりしたとのことですが、誰か目撃してましたか?」 区「同じ中隊で震天制空隊員でもある鈴木曹長が目撃し、読売報知新聞記者に一部始終を話してますね。」 記「はあ?特攻隊員が体当たりしないで見てたんですか?」 区「て、てめえ‥」。 記「その後、鈴木曹長も茨城で特攻死して乗機が川から引き上げられたとか?」 区「銃撃を受け蜂の巣のようになったエンジンが引き上げられたんです。」 記「それって体当たり前に撃墜されたのでは?で、B29はどこに落ちたんですか?」 区「体当たりしたと報告されてますが‥」。 記「坂本曹長は体当たりして機体から投げ出され、落下傘降下して陸軍病院近くに落ちて助かりましたね。」 区「そうです。震天制空隊員は爆弾抱えて特攻するわけでは無いので助かる場合もあります。」 記「体当たりされたB29は撃墜されたのですか?」区「どこに落ちたのかまでは‥」。 記「吉沢中尉も特攻隊員では無いのに体当たりした?」 区「体当たりして落下傘降下しましたが、縛帯が傷つき体が抜け墜落死しました。」 記「で、撃墜したB29はどこに落ちたんですか?」 区「いやだからそれは‥」 記「じゃあ撃墜された確かな記録は無い?」 記「結局、47戦隊員が特攻して撃墜したB29は無いってことですよね?」 区「はぁ?貴様いいかげんにしろ!英霊を愚弄する気か!」。

 

世の中にネットが台頭して以来、新聞を購読している人が激減し、また、情報の速さなどでネットに頼るケースが多いですが、新聞記者は、自分の書いた記事について、校閲室や同僚記者による校閲を経て疑問点をぶつけられ、それらに答えられなくてはならず、徹底的に調べることを要求されます。これが新聞記事の信用できる所似で、他人の目を通さず、だらだらと自分の(妄想かもしれない)考えや意見を簡単に発信できるネット空間とはそこが違うところです。

こちらも、新聞記者の厳し追求のおかげで、今までなんとなく流していたことや、だいたいこんなものだろうとあやふやに説明してきたことに改めて向き合わされ、勉強になりました。やっぱりね、表に出て他人からの厳しい意見や批判を受け、それらを乗り越えてこそ本物になるんです。学会で論文を発表するのと同じですね。

 

 

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板橋区民、都道府間移動制限解除直前記念に温泉で憩う。

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緊急事態宣言が明けてから3週間、世の中の動きも戻りつつある‥と思っていたら、都道府県間移動自粛が解除されるのは19日からでした。

板橋区民は温泉が好きだ。特に硫黄臭(硫化水素臭)漂う白濁した源泉溢れるお湯をこよなく愛している。・・ああ、このフレーズを書くのはいつ以来のことであろうか・・

我が赤塚郷から一番近い白濁硫黄泉地は、箱根の強羅か栃木の早乙女温泉あるいは日光湯元温泉、または直通バスが出ている草津温泉か。あ、源泉では無いけど、草加市の健康センターは草津直送の濃縮源泉を使っていたっけ。しかしいずれも簡単に出かけられる場所にはないので、普段は近場の温泉で寛いでいる。

しかしである。この一連のコロナ騒動で、板橋区民の唯一の憩いの時間が奪われてしまったのである。緊急事態宣言が明けてからは板橋区内の温泉も営業が再開し、早速、さやの湯処などへ出向いたが、それでもまだ体は満たされない。そこで、国内移動宣言中なのについうっかり新大宮バイパスで荒川を越え、前から気になっていた大宮にある「湯けむり横丁」へ寄ってしまった。イイワケに過ぎないが、「湯けむり横丁」はバイパス沿いにあり、赤塚郷からは道路一本ドアtoドアで行けるので許してね。

いや〜「湯けむり横丁」はなかなかの物ですな。広い。そして2時間700円という格安メニューも用意されていて、温泉だけを楽しむには十分だ。道中には、チェーンのファミレス焼肉ステーキマック吉野家すき家松屋かつや日高屋リンガーハット花月etcなんでもあり、食事処に困らない。もちろん館内にも大食事処もある。肝心の温泉は「ナトリウム塩化物泉」であまり特徴はないけれど、広々とした露天にはいくつものゆったりした湯船があり、しかも大半が板橋区民好みのぬる湯で、心の底からリラックスできた。ホント久しぶりに心と体が弛緩していく気分を味わえたのである。

いままで板橋区民ランキングは、1位「サイスポ」2位「さやの湯処」3位「王様志木」であったが、「大宮湯けむり横丁」も上位にランクインだ。

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板橋区民、2020年の夏が来る。コロナなんかに負けないんだ。

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規制が一段と緩み道路も混み出しましたが、感覚的にはまだ3割くらいしかコロナ前の生活に戻ってないような気持ちです。

板橋区民は、子供の頃から枝豆が大好きで、あればあれだけ食べてしまうという病的な性癖を持つ。枝豆で最上な物は、それは産地や種類ではなく、何よりも獲れたてであることだ。それを満たすには直売所へ行くしかないけれど、赤塚郷に道の駅があるわけもなく、四葉のJAにも枝豆は置いていない。平成の半ば頃までは徳丸の無人直売所で見かけることはあったけれど、今はそれもない。で、見つけたのが成増の隣の和光市の直売所だ。だいたい6月下旬から7月半ば頃までが販売時期で、この時期になると板橋区民はソワソワするのである。枝豆は人気商品で、すぐに売り切れてしまうので、入手するのはなかなか困難だ。購入したら直ぐに湯搔き、このためにストックしてある特別な塩(釜茹でとか天日干しとかの高級品)でいただくのだ。まさに夏の旬を感じる瞬間なのである。

本日、2020年初枝豆をゲットした。争奪戦の末、たったひと束しか手に入らなかったけどいたしかたない。あと何回入手できるかわからないが、板橋区民の暑い、いや熱い戦いが今年も始まったのである。

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