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⭐️祝!板橋イオン(旧サティ)オープン20周年vol.1⭐️〜それは一枚のアンケート用紙から始まった〜

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本日は5月5日、こどもの日だ。通常な世の中ならば、板橋区民は、板橋区立郷土資料館で行われる「こどもの日、鎧着付け体験会」にボランティアとして参加している予定であった。しかし、新型コロナウイルス禍にて非常事態宣言の出されている令和2年のこの年は、施設も閉鎖され、世の中全てにおいて自粛が叫ばれる異常事態の最中にある。不急不要の外出も引き続きしてはならぬ、とお上からのお達しは出ているけれど、日用品の買い物は許されているため、我が赤塚郷で最大規模のショッピングセンターである「板橋イオン」には、今日も善男善女の板橋区民の方々が大勢こられているようだ。(板橋区民;正午まえ直接目視調べ)

東武東上線・東武練馬駅北口、東京都板橋区徳丸2丁目6番地にそびえ立つ「板橋イオン(正式名称:イオン板橋ショッピングセンター)」の前身である「板橋サティ」が、オープンしたのは、21世紀が始まった、2000年5月25日(木)のことであった。

それまでの東武練馬駅北口は、踏切から始まる小規模な商店街と、交差点を下赤塚方面に続く商店街があるだけだった。サティができる前までに存在したチェーン店は、ミスドとスーパー三徳だけだったような記憶がある。(コンビニは記憶にない。)あとは基本、個人商店だったかな。とにかく、「大木伸銅」の大工場と「都立北野高校」が大きなウエートを占め、平日の朝は東武練馬駅へ向かう人と工場勤めと高校生達でごったがえす街だった。だから、休日の風景は閑散としたもので、前にも書いたが、正月などは寒々とした灰色の風景が広がるばかりだった。とにかく、駅前に大工場がデーンとあるようじゃ、ずっとこんなままのしょうもない街なのだと、当時の周辺住民のほとんどは思っていただろう。成増駅北口が大開発された時には、それはそれはうらやましいものだった。

しかし、世の中は変わる。「大木伸銅」は、何かの完成品を組み立てるのではなく、”素材”を製造する工場だった。すでに1970年代の半ばから世界の情勢は変わりつつあり、単純な工業製品を生産する工場は、東南アジアにシフトし、中国も遅ればせながら開放が始まりつつあった。大木伸銅も新座工場を造り、生産も徐々にそちらへ移っていき、1994年に徳丸工場での生産を終了していた。そんな1995年(平成7年)のある日、当時、徳丸1丁目に住んでいた板橋区民のポストに、一枚のアンケート用紙が投げ込まれたのである。

それは、「東武練馬駅北口地区のまちづくりに関するアンケート」と題されたチラシで、そこには、大木伸銅工場の移転に伴う東武練馬駅北口の新たな街づくりを計画する旨が記されていた。板橋区民はこのチラシを見て、「ついにこの時が来たか!」と感動したことを覚えている。ちょうどそのころ、「板橋区を趣味として生きる。趣味は板橋区。」と心に決めていたので、取り敢えず、集められる資料は収集し、この街の変化を記録しようと走り出したのだった。

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