
こう暑いと外出自粛制限されてなくても外出したくないですね。
前回は、大木伸銅工場周辺の空撮写真を紹介しました。では今回は工場自体の解説をしましょう。当ブログでも昔記事にしたことがありますので、おさらいも兼ねます。昭和時代の会社パンフレットによれば、事業を始めたのは大正13年(1924年)11月、練馬北町で黄銅棒の製造を開始、とあります。練馬区の古い資料では車軸(荷車などの)を製造していたと記されています。練馬北町と言えば、旧川越街道沿いには下練馬宿があり、江戸時代から人家商店が点在していました。宿場の庄屋をしていたのが代々・大木金兵衞を名乗っていた大木家で、その始祖は江戸時代初期とも中世時代の豊島氏家臣だったとも伝わる古い家です。そのため、北町を始め周辺地域には大木という旧家が点在しています。ただし、数百年も経つ間に分家が増え、同じ姓を名乗っていても血の薄い濃いが存在しますが、大木伸銅の大木家は血の薄い大木家だと、血の濃い大木家筋の方から聞いた事があります。
大木伸銅は関東大震災直後に創立、うまく世の中の需給に乗り昭和初めには軍への納入も行われ、現在の東武練馬南口のフェンテ一帯に工場を建てます。従業員の通勤のため東武練馬駅が開業し(土地は大木本家のもの)、日中戦争で勢いに乗り昭和8年10月には合資会社となり徳丸側に新たに大工場を建てるに至ります。冒頭の写真は、昔の都立北野高校の前身である東京府立第十二高等女学校(昭和14年青山に創立)の生徒が、府下の板橋区徳丸町に出来る新校舎建設予定地を、遠足を兼ねて訪れた時にスナップされたもの。(昭和15年頃)
一面の畑の畦道を東に向かい粛々と進む女学生の列。この畔道は、おそらく現在の徳丸通りから板橋有徳高校へ続く道の原風景と思われる。後方にうっすらと見える家や高い木の続く所が徳丸通りだろう。左手にはすでに敷地いっぱいに建つ大木伸銅所の工場群が見える。この頃は軍の支配下(将校在中)に置かれた軍需工場で、迫り来る米英開戦を前提に大増産に励んでいた時代だ。新川越街道には、陸軍第一造兵廠の練馬倉庫(現・練馬自衛隊)も作られ、工場で作られた製品が運び込まれた。
さて、この工場では何を生産していたのだろうか。それは会社名にあるけれど、そも「伸銅」とはなんぞや?とのことで、それが掲出のパンフ写真に載ってますね。すなわち金属製の棒や管や板など、そこから派生する釘やボルトやパイプ管etc、ようするにあらゆる工業製品の元となる素材を製造する工場だったわけです。戦時中も空襲から逃れたおかげでその後の朝鮮戦争特需や、高度成長期の波に乗れたわけですが、やがて東南アジアの工業が勃興し品質が上がり値段も下がり、そこへ中国の工業が力を増してくるに従い、日本国内の素材産業は斜陽時代を迎え、ついに大木伸銅工業徳丸工場も役割を終え、跡地には大ショッピングセンターが、という歴史の流れがあるわけです。
余談ですが、昭和20年4月13日に練馬北町周辺が空襲に遭いましたが、狙われたのは造兵廠練馬倉庫といわれておりますが、徳丸の一角もピンポイントで標的にされたとの噂もあります。それは、東武練馬駅東側の踏切から少し先のマンション地に存在した理研の工場で、これはあくまで板橋区民の想像ですが、理研は戦時中原子爆弾の開発をしており、主な研究所は本郷にあり、素材開発工場も本郷、足立、荒川にあったが4月13日の空襲で同じく焼かれ、米軍はあらかじめ情報を得ていたとも言われている。もしかすると、理研徳丸工場も米軍に知られ狙われたのかも、なんてね。
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