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2020年5月

板橋区民、令和2年G.W.がS.H.週間に変わったので赤塚郷のラーメン屋で和む。

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天気良し。気候良し。に恵まれた令和2年のG.W.ですが、お上からの”家にいろ。”とのお達しで、引きこもっておられる板橋区民の方も多いと思います。緊急事態宣言も5月一杯まで期間が延長されるようで、ホント頭きますね。

インドアに閉じ込められたこの際に読書でも、と思っても図書館は閉まっているし老眼で辛いし‥。勢い、テレビ視聴が多くなりますが、そこで、録画しておいた今週月曜日にテレ東で放映されたドラマ「行列の女神〜らーめん才遊記〜」を観てびっくり!なんと我が赤塚郷の下赤塚駅南口のラーメン屋「じょっぱり」が出ているじゃありませんか。しかも、今をときめく高橋メアリージュン嬢、鈴木京香嬢、黒島結菜嬢が並んで、背脂チャッチャラーメンをすすっているではないか!と、そのドンブリをよく見ると”環七土佐っ子ラーメン”の文字が!!実はこのシーン、なにもじょっぱりでなくても良いと思うのだが、京香嬢の一言で、人気のなくなったラーメン屋を立て直すヒントを得て店を飛び出すシーンに、下赤の老舗「大番ラーメン」も映っている。じょっぱりの店主はもともと土佐っ子で働いていた方なのだが、この店は基本居酒屋である。

不意打ちで驚いたけれど、そういえば昨年末ころに下赤塚駅前でロケをしているとの情報をネットで見たような気がする。まだこの頃はコロナ騒動もなく、平和な日常が続いていたんだなとホロリとしてしまう板橋区民なのであった。

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⭐️祝!板橋イオン(旧サティ)オープン20周年vol.1⭐️〜それは一枚のアンケート用紙から始まった〜

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本日は5月5日、こどもの日だ。通常な世の中ならば、板橋区民は、板橋区立郷土資料館で行われる「こどもの日、鎧着付け体験会」にボランティアとして参加している予定であった。しかし、新型コロナウイルス禍にて非常事態宣言の出されている令和2年のこの年は、施設も閉鎖され、世の中全てにおいて自粛が叫ばれる異常事態の最中にある。不急不要の外出も引き続きしてはならぬ、とお上からのお達しは出ているけれど、日用品の買い物は許されているため、我が赤塚郷で最大規模のショッピングセンターである「板橋イオン」には、今日も善男善女の板橋区民の方々が大勢こられているようだ。(板橋区民;正午まえ直接目視調べ)

東武東上線・東武練馬駅北口、東京都板橋区徳丸2丁目6番地にそびえ立つ「板橋イオン(正式名称:イオン板橋ショッピングセンター)」の前身である「板橋サティ」が、オープンしたのは、21世紀が始まった、2000年5月25日(木)のことであった。

それまでの東武練馬駅北口は、踏切から始まる小規模な商店街と、交差点を下赤塚方面に続く商店街があるだけだった。サティができる前までに存在したチェーン店は、ミスドとスーパー三徳だけだったような記憶がある。(コンビニは記憶にない。)あとは基本、個人商店だったかな。とにかく、「大木伸銅」の大工場と「都立北野高校」が大きなウエートを占め、平日の朝は東武練馬駅へ向かう人と工場勤めと高校生達でごったがえす街だった。だから、休日の風景は閑散としたもので、前にも書いたが、正月などは寒々とした灰色の風景が広がるばかりだった。とにかく、駅前に大工場がデーンとあるようじゃ、ずっとこんなままのしょうもない街なのだと、当時の周辺住民のほとんどは思っていただろう。成増駅北口が大開発された時には、それはそれはうらやましいものだった。

しかし、世の中は変わる。「大木伸銅」は、何かの完成品を組み立てるのではなく、”素材”を製造する工場だった。すでに1970年代の半ばから世界の情勢は変わりつつあり、単純な工業製品を生産する工場は、東南アジアにシフトし、中国も遅ればせながら開放が始まりつつあった。大木伸銅も新座工場を造り、生産も徐々にそちらへ移っていき、1994年に徳丸工場での生産を終了していた。そんな1995年(平成7年)のある日、当時、徳丸1丁目に住んでいた板橋区民のポストに、一枚のアンケート用紙が投げ込まれたのである。

それは、「東武練馬駅北口地区のまちづくりに関するアンケート」と題されたチラシで、そこには、大木伸銅工場の移転に伴う東武練馬駅北口の新たな街づくりを計画する旨が記されていた。板橋区民はこのチラシを見て、「ついにこの時が来たか!」と感動したことを覚えている。ちょうどそのころ、「板橋区を趣味として生きる。趣味は板橋区。」と心に決めていたので、取り敢えず、集められる資料は収集し、この街の変化を記録しようと走り出したのだった。

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⭐️祝!板橋イオン(旧・板橋サティ)開業20周年vol.2⭐️〜開業へ向けて、地域住民の思いとは。〜

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早々の第二弾。前回のアンケート調査の結果をUPする。

板橋区役所内部で粛々と検討されていた「東武練馬駅北口開発計画」が動き出し、1995年に該当区域の住民へアンケート調査のチラシが投函された。アンケート結果では、やはり駅前とあってバスやタクシーのロータリーや商業施設を望む声が半数以上と多かった。翌年には新聞にも載り、商業施設を核とした計画であることが地域民達に知れることになった。成増の様に大きな商業施設が出来、それは東武練馬駅とも結ばれ、踏切の大混雑も解消される。そんな街になると、住民達の期待も大きく膨らんだ。そう、この時までは。。

 

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⭐️祝!板橋イオン(旧・板橋サティ)開業20周年vol.3〜すべては弱者のために〜

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「あの薄暗い東武練馬駅北口に、大型商業施設がやってくる!」「駅前が一気に明るくなる!」「21世紀の夜明けぜよ!」1998年早々、徳丸人達は、大木伸銅工場跡に「(仮)板橋サティ」が進出するというニュースに沸き立った。しかしである。その後、住人達の頭に冷水を浴びせる出来事が起こった。1月下旬の日経新聞に、1本のリーク記事が出たのである。それはマイカルSCに建設に伴う周辺地域経済へ及ぼす影響について報じたものだった。その直後から住民のポストには怪文書、いや、建設阻止のチラシが舞い込んだのである。

「弱者を守れ。」

それは、能天気に大型商業施設進出に喜ぶ板橋愚民に対して放たれた強烈なパンチであった。

東武練馬駅北口から交差点西側の道路沿いには、個人経営の商店が規模は小さいけれど、ずらりと並んでいた。思い出すに、ケーキ屋本屋肉屋薬屋乾物屋靴屋八百屋魚屋和菓子屋写真屋レコード屋スーパーetc、一通りの店は揃っていた。あまり目立たなかったのは、南口の北町商店街の規模が余りに大きかったからだ。「(仮)板橋サティ」が開業すれば、これらの商店は壊滅的な影響を受けることは確実だ。サティには大型の駐車場も併設されるので、交通渋滞が起こることも懸念された。特に駅周辺一帯は、歴史的に土地整理開発が行われなかったため、幅の狭い道路しかなかった。このままでは、子供や老人や弱者の方々を守れない。

大型商業施設建設による問題は、昭和の時代から全国各地で起こっていたことだが、さて、資本主義と弱者を守る方々との戦いは、どのような決着を見たのだろうか、果たして「(仮)板橋サティ」の建設はスムーズに進んだのだろうか。。

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⭐️祝!板橋イオン(旧・板橋サティ)開業20周年vol.4⭐️〜2020.S.H.期間特別公開写真〜

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ここでちょっとBreak Time.

今までことあるごとに板橋イオンができる前まで、東武練馬駅北口は地味で”灰色の街”だったと書いてきましたが、それもすでに20年以上昔の話。知らない方には想像できない風景であり、古くからの住人の記憶からも薄れつつある景色でもある。そこで、秘蔵の写真を公開しましょう。

これは大木伸銅工業徳丸工場の全景空撮写真で、撮影された年代を推察すると、左下の白い建物は東武練馬中央病院で、昭和42年3月竣工。斜め前の畑には現在ファミマがありますね。中央病院ができた時は、畑にいきなり白いビルが出現して驚いた記憶がある。当時はここら辺りまでが畑の限界線だった。その右手端に徳丸湯の煙突と建物の一部が写っており、ここは現在パチンコ屋だ。北口交差点の現在ミスドのあるビル(すし清)が建設の途中で、東上線のホームも10両編成以前の時代であることから、おそらくは1975年前後と思われる。

空撮は天気の良い日に行われたようで工場の白い建物が目立つけれど、全体に灰色の街といったイメージがおわかりいただけるだろう。工場敷地内の建物で一番古いものは、2本並んで立つ煙突の左手、換気扇の3つある灰色の建物(第二圧延工場)で、昭和17年の建設だ。それより古いのが工場をぐるりと取り巻く塀で、創業当初の昭和8年に建設されたもの。正門前、徳丸湯の煙突の隣の白い建物は大木伸銅工場の本部で、現在も変わっていない。ほとんどの方は板橋イオンの建物はイオンのものと思うだろうけれど、大木伸銅が土地と建物を賃貸管理しているのである。

 

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板橋区民、令和2年S.H.週間も終わったので赤塚郷のラーメン屋を想像しながら和む。

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すでに夏ですね。

録画しておいたテレ東ドラマ「行列の女神〜らーめん才遊記〜」第四回を観た。今回は若いラーメン好きの兄ちゃんが、資金も無いのにラーメン屋をやりたいという内容だった。相談所に出した履歴によると、兄ちゃんが住んでいるのは「板橋区東成増」で尊敬するラーメン屋は成増にある「北の味噌松」。もちろん住所もラーメン屋も架空の存在だ。

さて、金が無いのにどうやって開業するのか‥その回答は、夜しか営業しない居酒屋などの店を借りて昼に営業すること。店主が太っ腹なら礼金敷金もとられず光熱費水道代も込みで格安で借りられるのだ。まっ、ドラマのストーリーはさて置き、問題は借りることになった店のシーンである。このシーンを見たとき、板橋区民の板橋アンテナが即反応した。これは板橋区内のニオイがプンプンする。頭に即浮かんだのは、「上板橋」のワード。さっそくストリートビューで探すと、おお!ここだ!ドンピシャやん!てなことで、ロケの店はときわ通りのモスとパチンコ屋の間の道を北に行ったところにある、おそらく現在は営業していない店舗だと確認できた。ロケ地選びのセンスを見ると、このドラマはおそらく基本設定がときわ台だったドラマ「三匹のおっさん」チームが製作しているのだろう。先日、「三匹のおっさん」に出演されていた俳優の志賀廣太郎氏が亡くなられましたね。。もう続編が見られないかもしれないのは残念です。

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君は、板橋区ナンバーを知ってるか。

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マスクしながら外出していたら頬に赤いブツブツが。汗疹なのかマスクに不審な成分が入っていたのかどっちだろう‥

今週初めから、車両用のいわゆるご当地ナンバーの発行が始まった。ネット上で我が板橋区ナンバーの人気はどうかとググって見ると、練馬ナンバーの方が良かった、との声が目立つようだ。バブル時代の頃はいろいろな物が「勝ち組負け組」で評価の対象になったものだが、車両ナンバーに関してはカースト最上位が品川ナンバーで、練馬もそんなに悪くはなかったと記憶する。それは練馬ナンバーが新宿区や豊島区も含んでいたせいであり、以前は陸運局(車検場)の所在地がナンバー地名として冠されていたのである。

それにしても、練馬区がいいとか足立区よりまし、とか地域名ばかり話題になるのはいただけない。板橋区民は何年か前にご当地ナンバーができると聞いた時に、どうせ板橋区公認マスコットキャラのリンリンちゃんを貼り付けただけのナンバーになるんだろ?としか思わなかったが、先月、ナンバーの見本が板橋区役所のロビーで展示されていた時に現物を見て、お、なんか可愛いじゃん、との第一印象をもった。それもそのはず、この板橋ナンバーのデザインは、あのインダストリアルデザイナーの水戸岡悦治氏が手がけたものなのだ。

水戸岡悦治氏は板橋区在住でデザイン事務所も区内にある。JR九州の個性的な車両をデザインしたことで全国的に有名になり、数多くの駅舎や電車やバスのデザインを手掛けておられ、2015年にオープンした板橋区役所の南館も水戸岡氏のデザインである。もはや人間国宝と言っても良いお方なのだ。”板橋区ナンバー?何それダサイ〜”と言うような無知な輩には、胸を張って対抗しようではないか。

 

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⭐️祝!板橋イオン(旧・板橋サティ)開業20周年vol.5⭐️〜さらに大木伸銅工場を深掘る。〜

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こう暑いと外出自粛制限されてなくても外出したくないですね。

前回は、大木伸銅工場周辺の空撮写真を紹介しました。では今回は工場自体の解説をしましょう。当ブログでも昔記事にしたことがありますので、おさらいも兼ねます。昭和時代の会社パンフレットによれば、事業を始めたのは大正13年(1924年)11月、練馬北町で黄銅棒の製造を開始、とあります。練馬区の古い資料では車軸(荷車などの)を製造していたと記されています。練馬北町と言えば、旧川越街道沿いには下練馬宿があり、江戸時代から人家商店が点在していました。宿場の庄屋をしていたのが代々・大木金兵衞を名乗っていた大木家で、その始祖は江戸時代初期とも中世時代の豊島氏家臣だったとも伝わる古い家です。そのため、北町を始め周辺地域には大木という旧家が点在しています。ただし、数百年も経つ間に分家が増え、同じ姓を名乗っていても血の薄い濃いが存在しますが、大木伸銅の大木家は血の薄い大木家だと、血の濃い大木家筋の方から聞いた事があります。

大木伸銅は関東大震災直後に創立、うまく世の中の需給に乗り昭和初めには軍への納入も行われ、現在の東武練馬南口のフェンテ一帯に工場を建てます。従業員の通勤のため東武練馬駅が開業し(土地は大木本家のもの)、日中戦争で勢いに乗り昭和8年10月には合資会社となり徳丸側に新たに大工場を建てるに至ります。冒頭の写真は、昔の都立北野高校の前身である東京府立第十二高等女学校(昭和14年青山に創立)の生徒が、府下の板橋区徳丸町に出来る新校舎建設予定地を、遠足を兼ねて訪れた時にスナップされたもの。(昭和15年頃)

一面の畑の畦道を東に向かい粛々と進む女学生の列。この畔道は、おそらく現在の徳丸通りから板橋有徳高校へ続く道の原風景と思われる。後方にうっすらと見える家や高い木の続く所が徳丸通りだろう。左手にはすでに敷地いっぱいに建つ大木伸銅所の工場群が見える。この頃は軍の支配下(将校在中)に置かれた軍需工場で、迫り来る米英開戦を前提に大増産に励んでいた時代だ。新川越街道には、陸軍第一造兵廠の練馬倉庫(現・練馬自衛隊)も作られ、工場で作られた製品が運び込まれた。

さて、この工場では何を生産していたのだろうか。それは会社名にあるけれど、そも「伸銅」とはなんぞや?とのことで、それが掲出のパンフ写真に載ってますね。すなわち金属製の棒や管や板など、そこから派生する釘やボルトやパイプ管etc、ようするにあらゆる工業製品の元となる素材を製造する工場だったわけです。戦時中も空襲から逃れたおかげでその後の朝鮮戦争特需や、高度成長期の波に乗れたわけですが、やがて東南アジアの工業が勃興し品質が上がり値段も下がり、そこへ中国の工業が力を増してくるに従い、日本国内の素材産業は斜陽時代を迎え、ついに大木伸銅工業徳丸工場も役割を終え、跡地には大ショッピングセンターが、という歴史の流れがあるわけです。

 

余談ですが、昭和20年4月13日に練馬北町周辺が空襲に遭いましたが、狙われたのは造兵廠練馬倉庫といわれておりますが、徳丸の一角もピンポイントで標的にされたとの噂もあります。それは、東武練馬駅東側の踏切から少し先のマンション地に存在した理研の工場で、これはあくまで板橋区民の想像ですが、理研は戦時中原子爆弾の開発をしており、主な研究所は本郷にあり、素材開発工場も本郷、足立、荒川にあったが4月13日の空襲で同じく焼かれ、米軍はあらかじめ情報を得ていたとも言われている。もしかすると、理研徳丸工場も米軍に知られ狙われたのかも、なんてね。

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⭐️祝!板橋イオン(旧・板橋サティ)開業20周年vol.6⭐️〜立ち上がれ、地モピー達よ!〜

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夏が来たかと思ったら今度は梅雨ですか。

前回、前々回とインターバルを置きましたが、実質、vol.3の続きとなります。大木伸銅工業徳丸工場廃止により、東武練馬駅北口地区再生計画が動き出した。早速、板橋区役所は地域住民に対し、アンケートを取るなど再開発に関して準備を始めた。しかし、大木伸銅側としては、行政がしゃしゃり出て、そんな悠長な事をされたら機会損失が大きくなってしまう。そして「事業化のスケジュールに時間がかかりすぎる。財政上の理由で、土地も一部売却する。」との理由で大資本「マイカル」と組み、単独で開発を行うと通達。それが、反対運動に火をつけたのである。早速、黒船「板橋サティ」襲来に対し、地元近隣商店会を中心に”弱者を守れ”を旗印に反対運動が沸き起こり、地域の新聞でも大きく取り上げられた。なんといっても広告主様方を守らなければいけませんから。

運動を起こすには、政党や議員の力を借りる。これはセオリーである。なぜなら、議員は選挙で選ばれた住民の代表だから。個人で抗議しても権力者には、だから何?と言われるだけである。そこで、板橋サティ進出に対し疑問を持つ方々の声に応え、”弱者を守る”ことを是とする議員の方々が立ち上がった。さすが反対運動のプロである、次々と手を繰り出した。ただし、注意深くチラシを読むと、弱者に対する配慮についてを強く求め、開発自体は止める姿勢ではないのかな、とも読める。

しかし、マイカルもマイカルで、これまでの事業のやり方の転換期を迎えようとしていた。そして、思わぬ落とし穴が待ち受けていたのである。

 

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⭐️祝!板橋イオン(旧・板橋サティ)開業20周年vol.7⭐️〜マイカルの危機。どうなる?サティ建設。〜

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明日、東京の緊急事態宣言解除の可否が判断されるようですが、社会が正常に動き出してくれないとホント困ります。

 

1998年、大木伸銅は東武練馬駅北口一帯の開発に協力することを断念、マイカルと組み、単独開発の道を歩みます。企業側の立場にたてば、板橋区のみならず南口側の練馬区や北町商店会や東武鉄道と一緒になって開発を進めたら、何年、いや何十年かかるかわからないし、下手をすると公共のために土地の一部を提供せねばならず、大損する可能性もあるわけで、冗談じゃない!といった気持ちだったかもしれない。もともと東武練馬駅一帯の土地はワイら大木一族の土地やねん!後から住み始めて商売始めてなに言うとんねん!と思っていたのかどうかは定かではありませんが、地域住民のために理想的な開発を行い、みんなで幸せになろう(はあと)なんて優しい世界は幻想に過ぎなかったのだ。

しかーしである。その単独開発すら危うくなる事態が勃発したのである。1999年2月8日、マイカルは財テクの失敗により保有する株式が650億円もの含み損を抱えていたことが発覚した。が、実際にはそれ以上、株はすでに1084億円もの評価損が発生していた。その結果、拡大路線イケイケドンドンの会長派と、軌道修正を進める社長派との争いが起こった。そして、軍配は社長派に上がり、10月13日、会長は退任に追い込まれてしまったのだ。会長の退任同日、マイカルは8月の中間決済を発表し、創業以来初の減収減益となったことを発表した。そして、リストラを加速し赤字店の閉鎖と新規出店の絞り込みを決めたのである。

さて、新規開発予定であった東武練馬の板橋サティ計画は宙に浮くのか、運命やいかに・・(って開業するのはわかってるじゃん)。結局、答えとしては、大木伸銅は土地をマイカルに売却することはなく、建物も自前で建設しそれをマイカルに賃借する、という方法を選んだのである。マイカルにしても、多額の資金を投ずる必要もないし、地元とのイザコザも大家に任せる道を選んだのですね。

 

てなことで、後は建設反対派との現実的な条件闘争に移るだけとなった。

 

 

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⭐️祝!板橋イオン(旧・板橋サティ)開業20周年vol.8⭐️〜さあ、建設へ向かってGo!〜

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寒い日が続きますね、32年ぶりだそうです。

東武練馬駅北口再生事業が頓挫し、大木伸銅工業徳丸工場跡地を中心とした単独開発が決定されました。板橋区民は法律に疎いのでわかりませんが、大店法等はクリアになり法的には建設は許可されたのでしょう。「板橋サティ建設反対!」の幟も「考える会」へと変わり、建設ありきの権利闘争へと運動も変化しました。最初に反応した東武練馬駅前の商店会を始め近隣地域の商店会の声はどうなったのでしょうか?何がしかの手打ちがあったのでしょうか?板橋区民はその経過を知りません。現実に起こったことは、その頃、北口商店街から肉屋とお茶屋さんが消え、マクドナルドと庄屋がオープンしました。すでに内部崩壊は始まっていたようです。

「考える会」のチラシの文言には、「考える会」は協定をきちんと守らせて、住民の皆さんの一人ひとりの悩みを解決するように交渉しますが、皆さんのご要求のすべてを代弁する事は不可能です。とクギが刺されております。なんだかもやもやしますが、野放しに大規模建設工事はさせない、住民の皆さんの代わりに私たちが監視を行います。と言う事ですかね。

 

このころ、ノンポリ板橋区民は、もう幾つ寝ると板橋サティオープン♪ なんて鼻歌をうたいながら開業を指折り楽しみに待っていました。が、実はその裏で、板橋区民はある行動を開始していました。

 

 

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⭐️祝!板橋イオン(旧・板橋サティ)開業20周年vol.9⭐️〜いよいよプレオープンの日が来た。〜

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我がポストにもついにアベノマスクと給付金用紙が配られました。アベノマスクは2020年の記念品としてコレクションしておきます。

祝!板橋イオン(現正式名称;イオン板橋ショッピングセンター)の記事をちまちま書いていたら、プレオープン日が過ぎてしまいましたので前回の引きの部分は、後日に回します。

なんだかんだありましたが、約1年半に及ぶ建設大工事は終わり、板橋サティは、2000年5月25日にグランドオープンを迎える事に決まりました。徳丸民悲願の大ショッピングセンターの開業だ。しかも、映画館まである。一ヶ月ほど前から周辺地域に新しくできる店やサティ内に入る専門店スタッフの求人が始まり、中に入る店の概要もわかってきた。一番最初に利用開始されたのは、一階に開業する富士銀行(現・みずほ銀行)で、元は南口の旧川越街道、石観音対面の現・ローソンの場所にあった。

サティオープン日は、混雑を避けるために平日の木曜日に設定され、その前の23日(火曜日)に、関係者向けの披露会が行われる事になった。パーティーは駐車場に臨時に設けられた場所で盛大に行われ、実は、板橋区民もその中に潜入していたのである。その理由はまたあとで。

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⭐️祝!板橋イオン(旧・板橋サティ)開業20周年⭐️vol.10〜いよいよグランドオープン!歓喜に沸く東武練馬北口。〜

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2000年(平成12年)5月25日、いよいよ「板橋サティ」はグランドオープンの日を迎えた。まさに20年前の今日である。

あの日の事は、まるで昨日のことのように覚えている。板橋区中の青空を集めたような快晴の下、東武練馬駅北口一帯には平日にもかかわらず、早朝から板橋区民達がわんさかわんさかと押し寄せていた。反対運動もあったけれど、大型ショッピングセンター開業を心待ちにしていたサイレント民達は、こんなにもいたのである。そこで、オープン当日、板橋区民が撮影した動画を、あれから20年経った2020年5月25日、緊急事態宣言全面解除記念を兼ねて大公開します!

ここに、20年前のあなたが映っているかもしれません!それでは、板橋サティスターティン!(微妙に古い)

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★板橋区民、悲しみに耽る。★〜堀山隊長、お世話になりました。〜

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来週から、世の中が普通に戻れば良いのですが。

先日、知人より連絡があり、練馬区光が丘在住で、成増陸軍飛行場を根拠とする飛行第47戦隊隷下で編成された、元・第194振武隊長、堀山久生中尉が、3月21日に逝去されたことを知りました。寂97歳。堀山氏の生前のご厚誼に深く感謝いたしますとともに、ご冥福をお祈りいたします。

[以下、過去に書いた記事より抜粋]

堀山隊長は、昭和20年3月30日、明野教導飛行師団天竜分教所で乙種学生を終了し、作戦補充要員となった。そして5月10日、堀山隊長と同期2名に「第16飛行団附」の命令が下った。「赴任時は別命する」との指示で天竜分教所で待機していたが一向に電報はこない。しびれを切らせた堀山隊長らは明野本校に照会電報を打った。すると、「何故赴任せぬか」との返電がきた。5月21日、3人は茨城県筑西市の下館飛行場へ向かった。翌22日、下館の16飛行団に赴き団長の山田邦雄中佐に申告すると、中佐は不快そうにこう言い放った。「諸官に来て貰ったのは承知の通り、特攻隊長要員である。然るに赴任してこない。また身辺の整理をして来た気配もない。もっての他である。」と睨みつけられた。団長室を追い出された3人は、幕僚室の野田少佐を訪ねた。訳も分からず野田少佐に子細を説明すると、「そうか、明野のやりそうな(特攻を明示しない)ことだ」と頷いていた。この時点まで、堀山隊長らは特攻要員となっていたことを知らなかったのだ。すでに16飛行団では編成は進み、振武隊長は残り1名あれば良くあとは明野に戻れ、と言われてしまう。3人は、「こんな恥をかかされ明野には帰れない、団に置いてくれ」と野田少尉に食い下がるが、1名以外は市ヶ谷の第30戦闘飛行集団に行って指示を受けろと言われ、23日、堀山隊長は他1人と市ヶ谷に出向いた。ところが、市ヶ谷でも編成は終わったと告げられ、納得出来ないふたりは編成名簿を見せてもらい、必死に探すと成増編成に隊長2名欠員との記述を発見、その(第193・194)振武隊長に志願し、それが認められた。こうして2人は意気揚々とトラックに乗り込み、成増陸軍飛行場に向かったのであった。そして、成増で他の隊員が集まるのを待ったが、乗機の四式戦が来ないことと、配属の47戦隊が都城へ転進したため1週間後に館林飛行場に移動した。その後、堀山隊長らは本土決戦要員に回されたため、第193・194振武隊は出撃をせず館林で終戦を迎える。

戦後、堀山氏は母校の慶応大学に復学・卒業し、大手重工会社を定年まで勤め上げた。定年後は陸軍航空隊の戦友会活動に積極的に協力し、りっぱな本も出版されるなど多大な貢献をなされた。光が丘に居住したのは偶然のことだったそうで、板橋区民も何度かお宅にお邪魔をし、貴重な話をお伺いしたり、ある時は知覧の特攻資料館の学芸員の方を案内したことがあった。本をお出しになった後、もう戦時中のことはこれで終わりにし、これからはご自身の先祖のことを調べたいとおっしゃり、成増に関係した振武隊の資料などを惜しみなく板橋区民に託していただいた。

 

上に掲げたお写真は、8年前の春、堀山隊長から「おい、俺の遺影用の写真を撮ってくれよ」と頼まれ、桜咲き誇る光が丘公園で撮影した一コマ。笑顔を作るのが得意ではないとおっしゃっていた。さすが元帝国陸軍将校の言である。合掌。

NHKアーカーイブスで公開されている堀山隊長の証言。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001130274_00000

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板橋区民、緊急事態宣言が解除されたので板橋区内のラーメンを愛でる。

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いろいろな場所で再コロナがクラスター発生してるようで、今後の行方が心配です。

録画したテレ東ドラマ「行列の女神〜らーめん才遊記〜」を観ていたら、また板橋区のキーワードが出てきた。フードコンサルタントの若い兄ちゃんが、かつて担当したラーメン屋店主が黙って店を売ってしまい、他の場所で新しく店を始めたというのでその場所を調べていたところ、会社の先輩から教えてもらったシーン。渡された紙には「板橋中央1-46-6」と記されていた。もちろん架空の住所であるが、おそらく板橋駅のある板橋周辺であろうと見当をつけ、板橋区民センサーをフルに使い検索を続けると‥ありました!たぶんこの「らーめん玉彦」だろう。ただ、残念ながらこの場所は板橋区との境(店裏に埼京線が走っている)で、正確には北区滝野川7丁目だ。板橋区民はまだ訪れたことはないけれど、つけ麺やトマトラーメンやカレーラーメンなどいろいろな種類のメニューがあり、ネット上の評判も良さそうなので、機会があったら行ってみたい。店は板橋駅から1分もかからない場所にあるのだが、我が赤塚郷からはいささか遠いのが難点だなあ・・

 

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