« 祝!700回記念!〜目出度い回だが、板橋区民から悲しい報告。〜 | トップページ | 板橋区民、ここ1週間の雑感を述べる。 »

板橋区民の祖父、東京オリンピックで儲け損なう。

1_20191006113801 3_20191006113801 2_20191006113801 4_20191006113801

東京オリンピックまであと10ヶ月。オリンピック開催に合わせ、今年のNHK大河ドラマでは、過去日本がどんなにオリンピックの開催に心血を注いできたのかを描く「いだてん」が題材に選ばれ放映されている。残念ながら、長年大河ドラマの視聴習慣がある層からは受け入れられず、視聴率は苦戦しているようだ。現在「いだてん」は、日本で初めてのオリンピック開催が決まったが、日中戦争の激化、欧州では第二次世界大戦の開戦が危ぶまれる状況で、昭和15年(1940年)に設定された東京オリンピックの開催が危機的となっている状況が描かれている。

しかし、そんな国際状況を深くまで知らない世間一般では、前回のベルリンオリンピックが大変に盛り上がり、国内は東京オリンピック開催に熱狂していた。そして、その熱狂に便乗しようとしていた商売人の一人に、板橋区民の祖父がいた。

板橋区民の祖父(父方)は、明治20年に京都で生まれた。板橋区民が生まれる前に亡くなったので祖父には会ったことがない。後年叔父が京都西陣近くにあった先祖の墓を仕舞った際に残した記録によると、少なくとも天明年間には京都に所在していたようである。詳しい記録はないけれど、安政2年生まれの高祖父(大正5年死去)が、二条城近くの姉小路新町上ルに所在していた江戸時代以来の「柏屋光定」という上菓子司舗で修行をしたようで、後に暖簾分けを許された。「柏屋光定」は代々大峰山の修験道者が主となり、祇園祭の時に特別に販売される菓子を作ってきたが、戦時中に京都の菓子屋に命令された物資統制による廃業令により廃業し、戦後になっても復活できなかった。しかし、最後まで職人として残った方が縁ある人々より柏屋の復活を懇願され、現在に至るまで清水寺近くに「柏屋光貞」として暖簾を守っている。

「柏屋光定」から暖簾分けを許され「柏屋光廣」として京干菓子製造業を行っていた高祖父から店を受け継いだ祖父の兄は、大正9年9月に東京へ進出し、本所林町三丁目で「柏屋光廣」の看板を揚げた。”上菓子司舗”の誇りからか、卸専門で小売商売はしていなかったと思われる。大正12年の関東大震災の折には東京で最大の激甚被害地帯であり店舗は倒壊、その後つてを頼って日本橋蠣殻町に移る。大叔父は、そこで現在でも営業している三原堂に和菓子を卸していた。大叔父が上京した後、京都の店を継いでいた祖父も、昭和3年にまだ赤子であった父を連れ家族そろって先祖代々暮らした京都を後に上京したのである。

上京後、店を持ったのが御徒町で、当時の祖父の名刺の裏に店舗の地図が描がかれているが、店の正確な場所はわからない。祖父も”上菓子司舗”の誇りからか小売を行わず、上野車坂の問屋や、お寺やお茶の家元や大学の教授宅に直接和菓子を卸していたようだ。

当時、板橋区民の父親は幼児であったため御徒町時代の記憶はほとんどなく、長女である叔母に話を聞くと、奉公人も使っておりそれなりに商売をしていたようで、月に一度は全員で箱膳を囲んだと聞く。箱膳は仕出しのトンカツやカレーだったそうである。叔母はこの家で小学生時代を過ごしており、通っていたのは西町尋常小学校(東上野三丁目)で、現在は廃校となっている。卒業生には萩本欽一さんや天海祐希さんがいる。叔母は作家の池波正太郎氏と同級生で、”皆から正ちゃん正ちゃんと慕われて、クラスの人気者だったのよ”と思い出を話していた。

さて、そんな小商いを営んでいた祖父であったが、上京して8年後の昭和11年、東京オリンピックの開催が決まった。そこで祖父は便乗商品「オリムピックゼリー」を考案し、上野松坂屋に売り込みを成功させた。「オリムピックゼリー」は、ゼリーを最中の皮で覆い、表面にオリンピックカラーの5色をそれぞれ色砂糖で塗り、5個一組にしてセロファンの袋に入れ、冒頭の写真のラベルを封入して商品を仕上げた。

松坂屋に納入することで祖父は大いに発奮したが、折悪しく店舗のある土地一帯がオリンピック目当てのホテルの建設が決まり、移転を余儀なくされてしまった。現在の文京区西片2丁目に移転したのは昭和13年のことで、この年の7月に東京オリンピックが開催中止となる。松坂屋に卸せなくなった大量の「オリムピックゼリー」を抱えた祖父が、自転車の荷台に商品を乗せて売り歩いていた姿を、息子である叔父は覚えていた。

俯瞰してみれば、祖父達は戦争にこそ行かなかったが、関東大震災や大恐慌(祖父は京都の不景気により上京を決意したらしい)、戦争の間接的な影響による移転や戦時中の物資統制による商売の廃業と、歴史の流れに翻弄された人生であった。大叔父も、一番脂の乗った時期を関東大震災により奪われ、その後は商いを広げることはせず、昭和19年に亡くなった。大叔父は大酒飲みで、三原堂に和菓子を納めた帰りの家までの間に、商品の代金としてもらったお金を飲み代に使い果たしてしまうこともしばしばであったらしい。茨城県出身の奥さんが、日本橋白木屋の前でピーナッツ売りの屋台を引いて生活を支えていたと聞いたことがある。

 

板橋区民の父親や叔父は、戦後サラリーマンとしての人生を全うした。高度成長期を支え、バブルの時代に定年を迎えたが、一番幸福な時代を過ごせたのではないだろうか。(叔父は戦争で兵士として支那に渡ったが戦闘には会わなかった)さてその一世代下の板橋区民は、将来の人からどんな判断を下されるのだろうか、なんだか不安である。

 

 

 

|

« 祝!700回記念!〜目出度い回だが、板橋区民から悲しい報告。〜 | トップページ | 板橋区民、ここ1週間の雑感を述べる。 »

携帯・デジカメ」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

台風の影響はありませんでしたか。
白子川が危ないという情報は夕方から出ていましたが、22時すぎに風雨が急速に収まって静かになり、さて寝ようとしたところでスマホから警報が大音量で鳴ったのは参りました。台地も低地も一緒くたにするのは一考の余地があると思います。NHKのアプリでは、中心が中野方面から来て清水町付近を通過して、赤羽方面へ抜けていったようで、板橋区の歴史で初めてではないでしょうか。

記事のお話はテレビ番組の「ファミリーヒストリー」のようですね。有名人ならばメディアが取材してくれますが、一般人は縁者が記録していかない限り散逸してしまいます。三原堂は人形町の本店ですか。三原堂といえば本郷三丁目の交差点を思い出します。毎日泣きながら交差点を渡り、店の前を歩いていたほろ苦い時期がありました。

稼いだお金を全部飲んでしまったという豪傑話は、昔の人にはつきものですね。今後はもう、やりたくてもできない時代になるでしょう。

柏屋さんの略図で、「薬局」は現在の多慶屋、「銀行」は三菱東京UFJ銀行かと思われます。路地の本数が変わっていないとすれば、昭和通り沿いビル裏手の駐車場あたりかと推定されます。

投稿: Windy 41 | 2019年10月15日 (火) 16時11分

>>Windy 41さま
コメントをありがとうございます。嵐にもかかわらずぐっすり寝入っていたところに警報で起こされ、散々でした。進路上、板橋区付近を通るかなと思っていましたが、本当に通って行ったとは凄いですね。注視していなかったのは不覚でした。
祖父達が暮らした本所林町や牡蠣殻町(人形町)、御徒町や西片は和菓子職人が集まっていた地域のようです。昔、文京ふるさと館では和菓子屋の展示をしたことがあったかと記憶します。御徒町の家はご推察のあたりと思いますが、生前の叔母に案内してもらいましたが、思い出すことが出来ませんでした。

投稿: オーク | 2019年10月15日 (火) 17時30分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 祝!700回記念!〜目出度い回だが、板橋区民から悲しい報告。〜 | トップページ | 板橋区民、ここ1週間の雑感を述べる。 »