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板橋区民、ここ1週間の雑感を述べる。

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東日本に大災害をもたらした超大型台風19号が板橋区を襲ってから一週間。NHKは未だにL地仕様で災害情報を報じ続けている。

我が赤塚郷では大きな災害は起こらなかったけれど、板橋区には東京23区初の大雨災害警報が出され、明け方に枕元のスマホから大音量の緊急情報が鳴り飛び起きたり、大きな被害はないけれど近所の庭木が道路に倒れていたり小さな被害はそこそこあったようだ。当ブログのコメント欄に情報を寄せていただいた方によると、台風の中心は板橋区の清水町あたりを通り赤羽に抜けたらしいとのことで、これは1942年の4月に関東の東海上の米空母から飛び立った米陸軍爆撃機B-24、通称ドゥリトル隊の一番機であるドゥリトル中佐の乗機が日暮里から板橋区ギリギリを飛行していった時以来の出来事に匹敵する事態であったのだろう。

台風が来ている間、当ブログへのアクセスが急激に上がり、普段は150アクセス程度なのだが、上陸の日は900アクセスを超え、一番人気の記事は「決定☆板橋区の最高&最低標高地点!!」だった。そのおかげで当ブログへの認知度が上がったようで、ここ一週間は他の記事も読まれ始め、1日300アクセスから500アクセスの日が続いている。

もともと板橋区は武蔵野台地の北東端に位置し、台地を大きく削る荒川や、そこに流れ込む前谷津川などの中小河川も多く、板橋区のど真ん中には石神井川が流れ、水害に遭いやすい土地だった。とくに荒川の水害はひどく、現在の高島平一帯は100年ほど前までは開発も進まず、あまり人の住まない地域でした。劇的に変わったのは新河岸川の開削と荒川の直線化に伴う堤防の建設が完成した昭和の初期でしたが、それでも昔を思い出したかのように、数年に一度は水害に見舞われていた。

最初の写真は、東武練馬駅のホームを背にして現在の不動通りを北(高島平)方向に撮影したもので、写真に写るのは府立第十二高等女学校(現・板橋有徳高校)の生徒たち、左手側に建設中の新校舎の棟上げ式に参加後、遠足気分で遊んでいる様子だ。当時の仮校舎は青山にあったので、東武練馬のド田舎さに驚いたことだろう。ここには小川が流れており、両岸の様子から相当な年月にわたって削られてきたことが想像出来る。2番目の写真は有徳高校のテニスコートあたりから高島平方面を望んだ景色。荒川の氾濫原の広大さがよくわかる。

3番目の写真は徳丸通りから現在の前谷津川緑道を西方向に望んだもので、煙突は現在マンション化した黄金湯。まだ前谷津川が直線化される以前の昔の姿で、一度氾濫するとこの写真の範囲はすべて水没する。この地域は通称・徳丸谷と言われていて、長年の間に前谷津川によって削られたもの。最後の写真は徳丸通りの築堤で、この左右(南北)にある台地を削った土で作られている。この築堤ができる前は、前谷津川が氾濫すると水が引くまで数週間、1ヶ月もの間道路が分断されてしまい、徳丸の住人は非常に困っていた。工事が完成したのは1925年のことだった。

 

今回の台風19号は、予想されていたよりも風速も降水量も少なかったために、かろうじて板橋区内に大きな災害をもたらさなかったようだが、高島平地域では、主に緑道になっている部分の地下に作られた水を貯める水路の存在が災害を防いだともいえる。しかし、想定外の雨量で内水氾濫が起こった場合、どこまで耐えられるのか不安は尽きない。

 

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