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2019年10月

祝!700回記念!〜目出度い回だが、板橋区民から悲しい報告。〜

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令和元年10月1日。最近の学校は2学期制が浸透し、この日から新学期が始まることが多い。当ブログもおかげさまで掲載第700回を迎えた。開設してから約11年、超個人的なつまらない記事や自己満足な数々のスクープ記事をお届けしてきた。ちなみにブログタイトルである「板橋ハ晴天ナリ。」は、ブログを始めた時にNHKの大河ドラマとして放映されていた「坂の上の雲」から単純にお借りしたもので、たいした意味はない。ちょうど日露戦争のパートが佳境に入った頃で、勢いで決めただけなのだ。
さて記念すべき700回目、そして年度始めにあたって喜ばしいニュースでも、と思ったけれど人生は忌避こもごも、”禍福は糾える縄の如し”のようで、マイナスな面もまた人生の事実である。
板橋区民が風邪を引き始めた先月中旬、日ごろ貼り巡らせている収集警戒網に、ある情報が引っかかった。それは、成増陸軍飛行場に関わる品が売りに出ていたことだった。令和に入った早々、成増飛行場の終戦直後の平面図を入手したが、それに続いてのお宝ゲットか!と喜んだのもつかの間、結局は板橋区民の元に来ることはなかったのである。
そのお宝とは、成増飛行場に関わった方の遺品であり、肖像写真を中心に階級章や履歴などが配された額縁だった。肖像の主は、成増飛行場を管理していた第43飛行場大隊に所属していた高橋正治中尉。高橋中尉は大正3年生まれ、昭和13年に陸軍士官学校教官となり、19年9月に第43飛行場大隊本部作戦司令部付として成増飛行場に着任した。そして終戦を迎え昭和20年10月31日、市ヶ谷の陸軍航空本部に成増飛行場の残務整理終了の報告を行い、飛行場の最後を看取った方であった。
成増陸軍飛行場は、昭和18年8月より本格的な工事が始まり、10月上旬に主滑走路の舗装を終え仮に完成した。”仮”とは、陸軍の命令が10月に運用開始であったため、突貫工事でとりあえず飛行機の離発着ができるようにしたまでであり、付帯設備がほとんどない状態で、まるで野戦飛行場のような状況であった。工事は引き続き行われ、ようやく完全に完成したのは昭和20年に入ってからだった。その時、完成した飛行場の状況を纏め、航空本部に提出する書類を作成したのが高橋中尉だった。
資料には「軍事極秘」の印が押され厳重に管理されており、終戦が決まり焼却処分されるはずであったが、高橋中尉は戦後も手元に秘匿し、ようやくその存在を公開したのは、平成の初めころであった。これが、成増飛行場に関する唯一の具体的な資料で、残された超一級の一次資料なのである。
今回、高橋中尉の遺品が売りに出ていたけれど、手元にあったであろうこの極秘資料の所在は不明だ。流出元である方には様々な事情があるとは思うけれど、この資料の行方は一体どうなったのか、非常に心配である。処分されていないことを、切に願う次第である。幸い、板橋区民はこの極秘資料のコピーを刈谷氏からお借りして再コピーを所蔵しているし、練馬区発行の書籍にもトレースして掲載されている。だから内容は把握されているけれど、オリジナルの資料が失われるのは悲しい。。
実は、こうして資料が失われるケースは非常に多く、特にお孫さん以降の代になり、祖父の記憶を直接継承していない場合は処分されてしまう傾向にある。せめて、処分する前に地元の資料館や図書館に相談して欲しいのだけれども・・

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板橋区民の祖父、東京オリンピックで儲け損なう。

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東京オリンピックまであと10ヶ月。オリンピック開催に合わせ、今年のNHK大河ドラマでは、過去日本がどんなにオリンピックの開催に心血を注いできたのかを描く「いだてん」が題材に選ばれ放映されている。残念ながら、長年大河ドラマの視聴習慣がある層からは受け入れられず、視聴率は苦戦しているようだ。現在「いだてん」は、日本で初めてのオリンピック開催が決まったが、日中戦争の激化、欧州では第二次世界大戦の開戦が危ぶまれる状況で、昭和15年(1940年)に設定された東京オリンピックの開催が危機的となっている状況が描かれている。

しかし、そんな国際状況を深くまで知らない世間一般では、前回のベルリンオリンピックが大変に盛り上がり、国内は東京オリンピック開催に熱狂していた。そして、その熱狂に便乗しようとしていた商売人の一人に、板橋区民の祖父がいた。

板橋区民の祖父(父方)は、明治20年に京都で生まれた。板橋区民が生まれる前に亡くなったので祖父には会ったことがない。後年叔父が京都西陣近くにあった先祖の墓を仕舞った際に残した記録によると、少なくとも天明年間には京都に所在していたようである。詳しい記録はないけれど、安政2年生まれの高祖父(大正5年死去)が、二条城近くの姉小路新町上ルに所在していた江戸時代以来の「柏屋光定」という上菓子司舗で修行をしたようで、後に暖簾分けを許された。「柏屋光定」は代々大峰山の修験道者が主となり、祇園祭の時に特別に販売される菓子を作ってきたが、戦時中に京都の菓子屋に命令された物資統制による廃業令により廃業し、戦後になっても復活できなかった。しかし、最後まで職人として残った方が縁ある人々より柏屋の復活を懇願され、現在に至るまで清水寺近くに「柏屋光貞」として暖簾を守っている。

「柏屋光定」から暖簾分けを許され「柏屋光廣」として京干菓子製造業を行っていた高祖父から店を受け継いだ祖父の兄は、大正9年9月に東京へ進出し、本所林町三丁目で「柏屋光廣」の看板を揚げた。”上菓子司舗”の誇りからか、卸専門で小売商売はしていなかったと思われる。大正12年の関東大震災の折には東京で最大の激甚被害地帯であり店舗は倒壊、その後つてを頼って日本橋蠣殻町に移る。大叔父は、そこで現在でも営業している三原堂に和菓子を卸していた。大叔父が上京した後、京都の店を継いでいた祖父も、昭和3年にまだ赤子であった父を連れ家族そろって先祖代々暮らした京都を後に上京したのである。

上京後、店を持ったのが御徒町で、当時の祖父の名刺の裏に店舗の地図が描がかれているが、店の正確な場所はわからない。祖父も”上菓子司舗”の誇りからか小売を行わず、上野車坂の問屋や、お寺やお茶の家元や大学の教授宅に直接和菓子を卸していたようだ。

当時、板橋区民の父親は幼児であったため御徒町時代の記憶はほとんどなく、長女である叔母に話を聞くと、奉公人も使っておりそれなりに商売をしていたようで、月に一度は全員で箱膳を囲んだと聞く。箱膳は仕出しのトンカツやカレーだったそうである。叔母はこの家で小学生時代を過ごしており、通っていたのは西町尋常小学校(東上野三丁目)で、現在は廃校となっている。卒業生には萩本欽一さんや天海祐希さんがいる。叔母は作家の池波正太郎氏と同級生で、”皆から正ちゃん正ちゃんと慕われて、クラスの人気者だったのよ”と思い出を話していた。

さて、そんな小商いを営んでいた祖父であったが、上京して8年後の昭和11年、東京オリンピックの開催が決まった。そこで祖父は便乗商品「オリムピックゼリー」を考案し、上野松坂屋に売り込みを成功させた。「オリムピックゼリー」は、ゼリーを最中の皮で覆い、表面にオリンピックカラーの5色をそれぞれ色砂糖で塗り、5個一組にしてセロファンの袋に入れ、冒頭の写真のラベルを封入して商品を仕上げた。

松坂屋に納入することで祖父は大いに発奮したが、折悪しく店舗のある土地一帯がオリンピック目当てのホテルの建設が決まり、移転を余儀なくされてしまった。現在の文京区西片2丁目に移転したのは昭和13年のことで、この年の7月に東京オリンピックが開催中止となる。松坂屋に卸せなくなった大量の「オリムピックゼリー」を抱えた祖父が、自転車の荷台に商品を乗せて売り歩いていた姿を、息子である叔父は覚えていた。

俯瞰してみれば、祖父達は戦争にこそ行かなかったが、関東大震災や大恐慌(祖父は京都の不景気により上京を決意したらしい)、戦争の間接的な影響による移転や戦時中の物資統制による商売の廃業と、歴史の流れに翻弄された人生であった。大叔父も、一番脂の乗った時期を関東大震災により奪われ、その後は商いを広げることはせず、昭和19年に亡くなった。大叔父は大酒飲みで、三原堂に和菓子を納めた帰りの家までの間に、商品の代金としてもらったお金を飲み代に使い果たしてしまうこともしばしばであったらしい。茨城県出身の奥さんが、日本橋白木屋の前でピーナッツ売りの屋台を引いて生活を支えていたと聞いたことがある。

 

板橋区民の父親や叔父は、戦後サラリーマンとしての人生を全うした。高度成長期を支え、バブルの時代に定年を迎えたが、一番幸福な時代を過ごせたのではないだろうか。(叔父は戦争で兵士として支那に渡ったが戦闘には会わなかった)さてその一世代下の板橋区民は、将来の人からどんな判断を下されるのだろうか、なんだか不安である。

 

 

 

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板橋区民、ここ1週間の雑感を述べる。

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東日本に大災害をもたらした超大型台風19号が板橋区を襲ってから一週間。NHKは未だにL地仕様で災害情報を報じ続けている。

我が赤塚郷では大きな災害は起こらなかったけれど、板橋区には東京23区初の大雨災害警報が出され、明け方に枕元のスマホから大音量の緊急情報が鳴り飛び起きたり、大きな被害はないけれど近所の庭木が道路に倒れていたり小さな被害はそこそこあったようだ。当ブログのコメント欄に情報を寄せていただいた方によると、台風の中心は板橋区の清水町あたりを通り赤羽に抜けたらしいとのことで、これは1942年の4月に関東の東海上の米空母から飛び立った米陸軍爆撃機B-24、通称ドゥリトル隊の一番機であるドゥリトル中佐の乗機が日暮里から板橋区ギリギリを飛行していった時以来の出来事に匹敵する事態であったのだろう。

台風が来ている間、当ブログへのアクセスが急激に上がり、普段は150アクセス程度なのだが、上陸の日は900アクセスを超え、一番人気の記事は「決定☆板橋区の最高&最低標高地点!!」だった。そのおかげで当ブログへの認知度が上がったようで、ここ一週間は他の記事も読まれ始め、1日300アクセスから500アクセスの日が続いている。

もともと板橋区は武蔵野台地の北東端に位置し、台地を大きく削る荒川や、そこに流れ込む前谷津川などの中小河川も多く、板橋区のど真ん中には石神井川が流れ、水害に遭いやすい土地だった。とくに荒川の水害はひどく、現在の高島平一帯は100年ほど前までは開発も進まず、あまり人の住まない地域でした。劇的に変わったのは新河岸川の開削と荒川の直線化に伴う堤防の建設が完成した昭和の初期でしたが、それでも昔を思い出したかのように、数年に一度は水害に見舞われていた。

最初の写真は、東武練馬駅のホームを背にして現在の不動通りを北(高島平)方向に撮影したもので、写真に写るのは府立第十二高等女学校(現・板橋有徳高校)の生徒たち、左手側に建設中の新校舎の棟上げ式に参加後、遠足気分で遊んでいる様子だ。当時の仮校舎は青山にあったので、東武練馬のド田舎さに驚いたことだろう。ここには小川が流れており、両岸の様子から相当な年月にわたって削られてきたことが想像出来る。2番目の写真は有徳高校のテニスコートあたりから高島平方面を望んだ景色。荒川の氾濫原の広大さがよくわかる。

3番目の写真は徳丸通りから現在の前谷津川緑道を西方向に望んだもので、煙突は現在マンション化した黄金湯。まだ前谷津川が直線化される以前の昔の姿で、一度氾濫するとこの写真の範囲はすべて水没する。この地域は通称・徳丸谷と言われていて、長年の間に前谷津川によって削られたもの。最後の写真は徳丸通りの築堤で、この左右(南北)にある台地を削った土で作られている。この築堤ができる前は、前谷津川が氾濫すると水が引くまで数週間、1ヶ月もの間道路が分断されてしまい、徳丸の住人は非常に困っていた。工事が完成したのは1925年のことだった。

 

今回の台風19号は、予想されていたよりも風速も降水量も少なかったために、かろうじて板橋区内に大きな災害をもたらさなかったようだが、高島平地域では、主に緑道になっている部分の地下に作られた水を貯める水路の存在が災害を防いだともいえる。しかし、想定外の雨量で内水氾濫が起こった場合、どこまで耐えられるのか不安は尽きない。

 

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板橋区民、音楽の秋がスタートする。其の一

久しぶりに板橋区民は有楽町の国際フォーラムAへやってきた。久しぶりのコンサート参加である。今回のレジェンドは‥

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井上陽水御大である。デビュー50周年のツァーが好評で、秋シーズンも開催されることになったのである。

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春のNHKホールでは奇跡の前方席で堪能できたが、今回は2階席後方でステージからは遠い。まっ、その方がステージ全体の動きが見えるのでそれを楽しむことにしよう。

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会場は満員で、グッズ売り場にも人だかりが出来、50年経っても人気は変わらない。これがレジェンドたる所以である。

 

 

 

コンサートは10分遅れで始まり、途中15分の休憩を挟んで午後8時50分に終了した。セットリストは春とほとんど変わらなかったけれど、アンコールの”夢の中へ”は相変わらず最高の盛り上がりで、名曲”傘がない”での〆もピタリだった。しかし、”傘がない”も50年近く前の曲だけれど、全然色あせないのが凄いなあ‥

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板橋区民、音楽の秋がスタートする。其の二

今日はまずまずの秋空ですね。

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板橋区民は今さいたま新都心におりますが、ツールドさいたまやら最近流行りのマルシェ?をやっていたり大変な賑わいだ。

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もちろん、板橋区民の目的はそれらではない。

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目的は今をときめく、Superflyのコンサートである。

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グッズ売り場も凄い人、流石に若者も多いけど、意外に子供連れも目につく。

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高い位置の席だけど、スタンディングしなくて済みそうだ。オジサンは辛いのだ。

Superflyは現在放映中の朝ドラ主題歌を歌っているが、板橋区民が今日のチケットを取ったのは6月だだったので、決してミーハーではないのだ。

 

16時30分に始まったコンサートは19時に終了した。いやー凄かった。まず、舞台の映像演出が素晴らしかった。そして何よりボーカルの越智志帆サンの圧倒的な歌唱力と、小さな身体にヒラヒラのロングドレスを纏い、クルクル舞い踊るその姿に感動した。ただ、中盤に中弛みを防ぐためか魂レボリューションなどDoctor X系の拳振り上げヘッドバンキング曲の連続は、オジサンには拷問に近いものだった。いや、盛り上がりはいいんだけどね。つくづくアリーナ席でなくて良かった。アンコールのラストは、朝ドラテーマ曲のフレアでシメであった。おそらく、年末の紅白で歌われることだろう。

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板橋区民、掩体壕を手にいれる。

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しかし雨が多い。スーパーへ行っても野菜の元気がありませんね。。

 

この8月に、板橋区民が出演した文化放送のラジオ番組でご一緒した詩人のアーサー・ビナードさんの言葉に触発され、赤塚新町の住宅街にひっそりと埋もれている「掩体壕」の行く末が気になっているのだが、まず、それがどんな物であるのかをビジュアルでご理解いただけるように、手先の器用な知人にジオラマ模型の制作を依頼した。

先日、その模型の掩体壕が完成したとの連絡があり、それが上の写真である。元となったキットが海軍用の掩体壕なので若干仕様が違うのだが、全体の雰囲気が伝われば良しとした。成増にあった個体は入り口上部の凹凸がなく曲線の仕様で、後ろの部分もなだらかな感じで終わっている。例えれば、お椀型ではなく、直接火にくべる弥生式土器を半分にしたような型をしていた。

「掩体壕」は敵の航空機による攻撃から人員や物資を守るための施設である。基本的には幾筋もの鉄筋を組んで形を作った骨組みをコンクリートで固めたもので、資材が少なくて済み、さらに強度を得られるようにカマボコ型をしている。全体が覆われている物を”有蓋掩体壕”、側壁の土塁だけの物を”無蓋掩体壕”と呼ぶ。

掩体壕はアジア太平洋戦争時代だけに使われた物ではなく、現代でも航空自衛隊基地に設置されている。掩体壕は頑丈に作られているため、いまも戦時中の物が残っており、全国に50基以上が現存しているようである。東京では、調布飛行場で使用されていたのが5基存在し、中でも味の素スタジアム近く、国道20号線に隣接した府中市白糸台の掩体壕は、府中市が購入して整備を行い、指定文化財として保存されている。

成増飛行場には、少なくとも10基ほどの有蓋掩体壕が存在したが、赤塚新町掩体壕を除いて約20年前までにすべて破壊されてしまった。戦後、飛行場跡は連合軍に接収され、グラントハイツと命名された米軍の家族住宅となり、1974年に日本へ返還されたのちは、広大な公園と高層団地群からなる「光が丘」の街が誕生した。2度の大建設工事を経た結果、成増飛行場時代を示す遺跡はこの掩体壕だけとなってしまった。東京23区内唯一の陸軍防空飛行場として存在し、特攻隊の訓練基地とも使われた歴史の生き証人として、保存整備を訴えていきたい。

 

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