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板橋区内に残る戦跡を考察する。Vol.-2

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先週、ラジオの文化放送報道特別番組「戦争はあった」に板橋区民が登場し、成増陸軍飛行場の解説をした。番組をナビゲートしたのは、日本在住30年のアメリカ人詩人、アーサー・ビナード氏である。実際に取材を受けたのは7月上旬のことで、そのことは当ブログ上で記事にした。その時、取材を仕切っていた文化放送の記者の方が、成増飛行場の歴史に大いに関心を持ち、28日の番組以外でも使いたいということで、急遽8月1日放送の「くにまるじゃばん 極」内で約20分間の特集を組んでいただいた。
今回の番組「戦争はあった」では、アーサー氏が首都圏各地に残る、戦争の記憶を呼び起こす場所を訪ねて取材し、氏の独特な感性で歴史を読み取る、という作業が行なわれた。当日、番組を聴いて気がついたのだが、冒頭で取り上げた巣鴨プリズン跡(現在のサンシャインシティ)の案内をしたのが毎日新聞の栗原記者で、板橋区民も2年前に取材を受けたことがあり、その時も光が丘を案内した。おそらく、そのことが縁で今回、声がかかったのだろう。(ちなみに栗原記者は大山の出身で、板橋区のことをしばしば記事にしている)
番組内での成増飛行場のパートは約10分間であったが、演出、編集が素晴らしく、とても良く纏まっていた。光が丘駅を出たアーサー氏が、道行く人々にマイクを向け、昔ここには何があったかと問いかける。たいていの人が「アメリカ軍基地のグランハイツ?があったんだっけ」とか「畑でしょ」などと答える。そこから成増飛行場の話となり、帝都防空の目的で造られ空対空の特攻隊がいて沖縄作戦時には艦船特攻隊が訓練を行い云々・・と板橋区民の解説が続く。さて、問題はこの続きだ。
板橋区民と別れたアーサー氏(実際は板橋区民も同行していた)は、光が丘公園にほど近い住宅街の中を歩いていた。立ち止まったアーサー氏は、実はこの場所に過去の戦争の遺跡が埋まっている、と成増飛行場時代に造られた掩体壕の話を始めた。裏話的には、事前調査で文化放送の記者はこの掩体壕の存在を知っていて、その話を盛り込むことをこのコーナーの要としたかったようだ。板橋区民も昔から掩体壕の存在は知っていたが、当ブログの方針としてこのことは記事で取り上げない。と決めていたので、最近まで書いたことはなかった。中にはコメント欄へ掩体壕がありますよと知らせる書き込みをいただいたこともあったけれど、方針上、そのコメントは削除させていただいていた。
なぜ取り上げなかったのか。それは、成増飛行場について調べ始めてから数年が過ぎた頃、終戦後、連合国に接収された後に米軍家族住宅地の建設が始まり、東上線・上板橋駅から練馬倉庫駅まで伸びていた側線を、建築資材運搬用として延長した”啓志線”について深く知りたく、練馬区の図書館で文献を漁っていたところ、ある本が目に付いた。それは、光丘高校に勤務していた先生が、地元・光が丘の歴史に関心を持ち、ついには「光が丘学」という一般市民向け講座を立ち上げ、その講座で使用したテキスト本だった。初版は平成13年(2001.)11月で、平成16年5月に改定版が作られた。その本には成増飛行場についてもたくさんのページが割かれており、その中に掩体壕に触れた部分があり、構造や役割についてひとしきり解説した後、現在は全て破壊され存在していない。と結ばれていた。
しかし、そのページの欄外で、”公式にはすべて失われたことになっているが、実は赤塚新町に残っている”と打ち明け、実際に取材を試みたところ、持ち主から公開不可との強い拒絶に会ったことが触れられていた。掩体壕の上には住居があり、その回りも個人住宅に囲まれ、近づくには私道に踏み込まなければならない。そのことで、近隣に迷惑がかかってしまうことを恐れた持ち主が公開を拒んだ気持ちはよくわかった。板橋区民もその意を汲み、紹介をしてこなかったのである。しかし、その静寂を破ったのが、今日のインターネットの普及・発達だった。2000年代初期にネットへのADSL接続サービスが始まったころ、ネット普及率は50%に達していたが、その頃はスマホも存在せず、パソコン自体も一般家庭にはそれほど普及していなかった。
それが、2008年のiphone発売をきっかけとし、ネット上の情報が莫大に膨れ上がった。ネット辞書のウイキペディアも、当初は、どこの誰かもわからないネット住民が書いた辞書なんぞ信用できるか!と非難轟々だったけれど、今ではすっかり認知された感がある。時代の変化により、静かに住宅街に埋もれていた掩体壕の存在も、世間やマスコミに簡単に知られるようになってしまった。
まっ、だからと言って近隣住民たちが迷惑に思っていることを承知している板橋区民が、”時代の流れでしょうがないよね”と趣旨を変え、自ら情報を解禁してしまってもいいのか?良心が痛まないのか?と自分自身に問うようになっていった。その、答えを与えてくれたのが、アーサー氏であったのだ。
番組は、池袋の風景から始まる。池袋は30年前、初めて日本へ来たアーサー氏が最初に住んだ街だった。馴染みのある池袋の街を歩き、サンシャインシティの一角にある、東池袋中央公園に着く。その公園内にある巣鴨プリズン跡を示す碑の前で、案内役の新聞記者から話を聞くアーサー氏。そこは、多くの戦犯が処刑された場所だった。その後、先ほど述べた光が丘駅の情景へと進む。赤塚新町の掩体壕近くの路上で歩を止めたアーサー氏は、流暢な日本語で、そして小声でつぶやく。「戦犯を収容し、処刑を行った巣鴨プリズンの跡は”サンシャインシティ”と言う名が、多くの若者の命を奪った特攻隊の基地だった成増飛行場の跡には”光が丘”と言う名が付けられた。両方とも、眩しい光で過去の暗い歴史を覆い隠そうとしているのではないか。過去の戦争を、なかったことにしたいのだろうか。」さすがに、詩人である。
この問いかけは、板橋区民の心に響いた。現在、成増飛行場の痕跡を残すものは、この掩体壕のほかに存在していない。今後、何らかの手を差し伸べ、持ち主の方や近隣に住む方々の理解と同意を得、土地を取り上げられたかつての住人の苦しみ、飛行場空襲の際に亡くなった近隣の方々、そして、成増で結成され、訓練を受け特攻に散った若い兵士達のことを忘れず、してはならない戦争への戒めとして、後世に伝え残す記念碑となることを、板橋区民は切に願うのである。

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