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2019年9月

板橋区内に残る戦跡を考察する。Vol.-2

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先週、ラジオの文化放送報道特別番組「戦争はあった」に板橋区民が登場し、成増陸軍飛行場の解説をした。番組をナビゲートしたのは、日本在住30年のアメリカ人詩人、アーサー・ビナード氏である。実際に取材を受けたのは7月上旬のことで、そのことは当ブログ上で記事にした。その時、取材を仕切っていた文化放送の記者の方が、成増飛行場の歴史に大いに関心を持ち、28日の番組以外でも使いたいということで、急遽8月1日放送の「くにまるじゃばん 極」内で約20分間の特集を組んでいただいた。
今回の番組「戦争はあった」では、アーサー氏が首都圏各地に残る、戦争の記憶を呼び起こす場所を訪ねて取材し、氏の独特な感性で歴史を読み取る、という作業が行なわれた。当日、番組を聴いて気がついたのだが、冒頭で取り上げた巣鴨プリズン跡(現在のサンシャインシティ)の案内をしたのが毎日新聞の栗原記者で、板橋区民も2年前に取材を受けたことがあり、その時も光が丘を案内した。おそらく、そのことが縁で今回、声がかかったのだろう。(ちなみに栗原記者は大山の出身で、板橋区のことをしばしば記事にしている)
番組内での成増飛行場のパートは約10分間であったが、演出、編集が素晴らしく、とても良く纏まっていた。光が丘駅を出たアーサー氏が、道行く人々にマイクを向け、昔ここには何があったかと問いかける。たいていの人が「アメリカ軍基地のグランハイツ?があったんだっけ」とか「畑でしょ」などと答える。そこから成増飛行場の話となり、帝都防空の目的で造られ空対空の特攻隊がいて沖縄作戦時には艦船特攻隊が訓練を行い云々・・と板橋区民の解説が続く。さて、問題はこの続きだ。
板橋区民と別れたアーサー氏(実際は板橋区民も同行していた)は、光が丘公園にほど近い住宅街の中を歩いていた。立ち止まったアーサー氏は、実はこの場所に過去の戦争の遺跡が埋まっている、と成増飛行場時代に造られた掩体壕の話を始めた。裏話的には、事前調査で文化放送の記者はこの掩体壕の存在を知っていて、その話を盛り込むことをこのコーナーの要としたかったようだ。板橋区民も昔から掩体壕の存在は知っていたが、当ブログの方針としてこのことは記事で取り上げない。と決めていたので、最近まで書いたことはなかった。中にはコメント欄へ掩体壕がありますよと知らせる書き込みをいただいたこともあったけれど、方針上、そのコメントは削除させていただいていた。
なぜ取り上げなかったのか。それは、成増飛行場について調べ始めてから数年が過ぎた頃、終戦後、連合国に接収された後に米軍家族住宅地の建設が始まり、東上線・上板橋駅から練馬倉庫駅まで伸びていた側線を、建築資材運搬用として延長した”啓志線”について深く知りたく、練馬区の図書館で文献を漁っていたところ、ある本が目に付いた。それは、光丘高校に勤務していた先生が、地元・光が丘の歴史に関心を持ち、ついには「光が丘学」という一般市民向け講座を立ち上げ、その講座で使用したテキスト本だった。初版は平成13年(2001.)11月で、平成16年5月に改定版が作られた。その本には成増飛行場についてもたくさんのページが割かれており、その中に掩体壕に触れた部分があり、構造や役割についてひとしきり解説した後、現在は全て破壊され存在していない。と結ばれていた。
しかし、そのページの欄外で、”公式にはすべて失われたことになっているが、実は赤塚新町に残っている”と打ち明け、実際に取材を試みたところ、持ち主から公開不可との強い拒絶に会ったことが触れられていた。掩体壕の上には住居があり、その回りも個人住宅に囲まれ、近づくには私道に踏み込まなければならない。そのことで、近隣に迷惑がかかってしまうことを恐れた持ち主が公開を拒んだ気持ちはよくわかった。板橋区民もその意を汲み、紹介をしてこなかったのである。しかし、その静寂を破ったのが、今日のインターネットの普及・発達だった。2000年代初期にネットへのADSL接続サービスが始まったころ、ネット普及率は50%に達していたが、その頃はスマホも存在せず、パソコン自体も一般家庭にはそれほど普及していなかった。
それが、2008年のiphone発売をきっかけとし、ネット上の情報が莫大に膨れ上がった。ネット辞書のウイキペディアも、当初は、どこの誰かもわからないネット住民が書いた辞書なんぞ信用できるか!と非難轟々だったけれど、今ではすっかり認知された感がある。時代の変化により、静かに住宅街に埋もれていた掩体壕の存在も、世間やマスコミに簡単に知られるようになってしまった。
まっ、だからと言って近隣住民たちが迷惑に思っていることを承知している板橋区民が、”時代の流れでしょうがないよね”と趣旨を変え、自ら情報を解禁してしまってもいいのか?良心が痛まないのか?と自分自身に問うようになっていった。その、答えを与えてくれたのが、アーサー氏であったのだ。
番組は、池袋の風景から始まる。池袋は30年前、初めて日本へ来たアーサー氏が最初に住んだ街だった。馴染みのある池袋の街を歩き、サンシャインシティの一角にある、東池袋中央公園に着く。その公園内にある巣鴨プリズン跡を示す碑の前で、案内役の新聞記者から話を聞くアーサー氏。そこは、多くの戦犯が処刑された場所だった。その後、先ほど述べた光が丘駅の情景へと進む。赤塚新町の掩体壕近くの路上で歩を止めたアーサー氏は、流暢な日本語で、そして小声でつぶやく。「戦犯を収容し、処刑を行った巣鴨プリズンの跡は”サンシャインシティ”と言う名が、多くの若者の命を奪った特攻隊の基地だった成増飛行場の跡には”光が丘”と言う名が付けられた。両方とも、眩しい光で過去の暗い歴史を覆い隠そうとしているのではないか。過去の戦争を、なかったことにしたいのだろうか。」さすがに、詩人である。
この問いかけは、板橋区民の心に響いた。現在、成増飛行場の痕跡を残すものは、この掩体壕のほかに存在していない。今後、何らかの手を差し伸べ、持ち主の方や近隣に住む方々の理解と同意を得、土地を取り上げられたかつての住人の苦しみ、飛行場空襲の際に亡くなった近隣の方々、そして、成増で結成され、訓練を受け特攻に散った若い兵士達のことを忘れず、してはならない戦争への戒めとして、後世に伝え残す記念碑となることを、板橋区民は切に願うのである。

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板橋区民、戦跡に立つ。

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残暑、厳しいっスね。せまりつつある台風のせいかな。

そんな残暑厳しい中、板橋区民は東京都東大和市に残る「戦災変電所」を見学した。おかげさまで当ブログを開設してから12年余、コメント欄を通じて有益な情報をいただいたり、コメントをきっかけにメールのやりとりを続けている方もいる。その中に、ごく初期の頃にコメント欄を通じて、板橋区民の書いた記事をご自分が執筆している本に載せたいと申し出てきた女性がいた。今回、その方から変電所の見学をするので、一緒にどうですか、とお誘いをいただいた。

この「戦災変電所」の存在は昔から有名であり、1993年まで所有する企業が使用を続けていた。その後、市へ有償譲渡され、文化財に指定され現在に至っている。建物の管理は、休止状態だった以前の保存会が戦後70年をきっかけに新たに復活し、毎月第二日曜日に見学案内を行っている。ただし他の日でも、保存会の都合がつけば特別に見学させていただける場合もあり、今回は特別に案内をしていただいた。

以前から見学をしたいと思っていた板橋区民は、一も二もなくこの話に飛びつき、当ブログを通じて知遇を得た方々(戦争時の研究をしていたり興味を持つ方)などに連絡をした所、数名の方から参加の希望いただいた。中には板橋区立郷土資料館の学芸員氏や私の敬愛するブログ「連合国海軍により日本本土攻撃」の主催者氏も来てくださった。氏はそのスキルを生かして、この変電所を空襲した艦載機部隊の行動記録を調べて資料を作ってくださり、どこから侵入して攻撃したかを解説いただいた。

参加者の中で一番の若手は、最近、当ブログを訪れてくれていた21才の女性で、わざわざ2日間かけて岐阜県の山奥から駆けつけてくれた。いつか板橋区民がこの世を去ってからも、40年近くの未来を生き続けるであろう若い方に話を直接伝えられるのは、大事な機会である。見学会を企画した方も、自分の知り合いである民間研究者の方を数名誘ってこられ、普段孤独に研究をしている身としては、なかなか直接は出会わない方と知り合う機会をいただき、ありがたかった。

見学会の集合は、午後1時と暑もピークの時間だった。最初は建物の中に入り、用意された椅子に腰掛けての座学から始まった。当然冷房なんてないので、中も暑い。板橋区民も更年期のお年頃なので、たちまち汗が滝のように噴き出す。保存会の方は、暑いさなか遠方から来た見学者をもてなそうと、力を込め知っていることはすべて話そうとサービスをしてくれ、熱を込めて解説をする。板橋区民はもうダウン寸前であった。座学が終わると、建物内に掲示してあるパネルをを巡りながらまた解説を伺った。

変電所の内部には、撃ち込まれ貫通した機銃の弾痕がそこかしこに残り、当時もしも中に人がいたならば、さぞ恐ろしかったろうと容易に想像できた。穴を通して差し込む残夏の太陽の光が、眩しかった。一通り中を巡り、建物の表へ出た。あらためて弾痕の跡を眺めると、”ハチの巣のよう”という表現そのものだ。ただただスゲーなあ、と口を開けて眺めるだけの板橋区民だったが、一緒に参加した研究家の方からは、これは100メートル以下の低空からグラマンの片翼3連装の12.7ミリ機銃で、建物を避けるため機体を捻りながら飛びつつ射撃した跡だな、とか、これは徹甲弾の跡か、などマニアックな会話が聞こえてくる。

2時間を超える見学会の後、参加の若い女性が岐阜へとんぼ帰りするというので、せっかく話を聞ける機会だからと玉川上水駅へ向かう途中にあるガストへ寄り休息を取りつつ、オジさんたちが実際に会って直接話を聞いた、戦時中に兵士として戦った人達の体験談をレクチャーした。普段、そんな話を若い女性にする機会がないオジさん方が、ここぞとばかりに一斉に語ったので、結局彼女の心にどんなことが残ったのかは定かではないが、岐阜のお嬢さんは朗に手を振りながらモノレールの人となった。

 

国内には今でも多くの戦跡が残っているけれど、公的な機関による保存が始まったのは、わりと最近になってからである。板橋区民も戦跡巡りは好きであり、過去には小笠原や沖縄に残る戦跡を訪ねたりしている。特に父島には沈んだ貨物船や山の中には墜落した米軍艦載機の残骸や日本軍の車両、高射砲や探照灯などなど戦跡の宝庫だ。しかし、すべては時の過ぎるままに置かれ、朽ち果てて消滅するのも時間の問題と思われる。まあこれも自然な歴史かとおもわないではないけれど、未来に生きる人々は残念がるのではないかと想像する。

 

 

来年は、東大和市がホストとなり、全国的な戦跡保存運動の大会が開かれるそうで、赤塚新町掩体壕の保存を願う板橋区民も、ぜひ参加させていただきたいと思っている。

 

 

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板橋区民、浴場跡に立つ。

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台風の影響も去り、秋めいてきたような気持ちもする今日この頃。

板橋区民は温泉が好きだ。人生の最後は、温泉に浸かりながら終わっても良いと思っている。至高であると信仰する泉質は、硫化水素臭の充満する(危険)白濁の硫黄泉である。別府の明礬温泉、万座温泉、奥鬼怒温泉郷、白骨温泉、鹿の湯etc‥がそれらに値する。(草津温泉も良いけど熱すぎるのが難点) 我が赤塚郷から一番近い白濁硫黄泉は、箱根の強羅温泉か栃木の喜連川早乙女温泉だけれどいずれも遠方にあるので、普段は近場の温泉かスーパー銭湯へ出かけることになる。板橋区民の独断で選ぶなら、さやの湯処、スパディオ、サイスポ、スパジャポ、極楽和光、王様志木、ちょっと遠いけど三郷のめぐみの湯がラインナップに上がる。

板橋区民が一番利用していたのは、赤塚新町にあった「おふろの王様光が丘店」だけれど、悲しいかな昨年6月に閉館してしまい、建物は壊されてしまった。あれから一年有余、跡地には板橋区内にもいくつか店舗を持つ、中堅スーパーチェーンのコモディイイダが建てられた。店内を覗くと什器類の設置もほぼ終わっているようで、オープンも間近だろう。

さて、我が赤塚郷には、今から約90年前にもスーパー銭湯が存在していた。それが「兎月園浴場」である。当時のパンフレットには、「アルミニウム含有の鉱泉」と泉質の紹介がされている。鉱泉は秩父方面ではよく見かけるが、成増あたりで削掘すると極楽和光のような黒湯か茶色っぽい塩化物泉の古代海水由来の温泉が出ると思われるので、当時の温泉の基準はわからないけど、井戸水を無理やり鉱泉に仕立て上げた感がしないでもない。

兎月園の大浴場は、パンフレット絵図の池の湖畔右手真ん中にあった。現在は住宅が密集する地域(練馬区旭町3-2あたり)だが、土地が一段低くなっているので、ここにはかつて池があったんだ、と意識して周りを眺めると、往時の風景が想像できるかもしれない。当時、対面の大滝を眺めながら浸かる温泉には、さぞかし癒されたことだろう。

 

 

もしもこの大浴場が現在まで残っていたなら、間違いなく都内屈指の温泉として紹介されるだろうし、板橋区民も足繁く通うだろうなあ。。

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スーパー戦線異常アリ。in 赤塚郷

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不覚にも板橋区民は風邪を引いていた。本格的な風邪は今年はじめてのことだった。治るまで約10日間を要し、先週の連休はずっと床に伏せるという状況であった。年々治りが遅くなるのは、加齢によるものだろうか‥

 

板橋区民が床に臥せっている間も世の中は進む。連休中にはiPhone11の販売開始があった。この機種はカメラ部が3眼となり、超広角サイズで撮影できるようになった。感覚的には、デジタルズームも含めれば24㎜〜400㎜くらいをカバーしているような感じで、板橋区民は2年前にiPhoneXに機種変更したが、この超広角の画角に惹かれてしまった。すごいのは、動画撮影でもこの画角は維持されることで、これで動画撮影する時の不満はほぼ無くなった。旧機種も結構高値で下取りしてもらえるし、消費税も上がるので買い換えてしまったのである。

もう一つの出来事は、かつて板橋区民の愛した「おふろの王様・光が丘店」の跡地に出来た「コモディイイダ・赤塚新町店」が26日にオープンしたことだ。新店舗は平屋で、なぜ上層階を作らなかったのか不思議だが、マーケティングの結果と定期借地権の問題なのだろう。早速iPhone11proで撮影してみたが、一枚目は旧来の画角、二枚目は超広角である。いや〜実に良いなあ。店内は平置きのスペースが多く、ゆったりした印象だ。パンも自前で焼いているようで、自家製の出来立てカレーパンが実にうまそうであった。

新店舗の裏には駐車場があり、赤塚郷で駐車場付きのスーパーはライフか板橋イオンくらいしかない(マルエツ四葉店は規模が小さすぎる)ので、それなりに集客力はあるかもしれない。板橋区民も早速カード会員となり、オープン記念価格で並んでいたシャインマスカット(なんと750円!)を床払いの褒美に購入しました。

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