2019年8月
令和元年のお盆休みに入ったので、だらだらと雑談をする。
板橋区内に残る戦跡を考察する。Vol.-1
お盆休みにかこつけてすっかり更新をサボってしまいました。
学校の夏休みもそろそろ終わり新学期を迎えるし、新たに「板橋区内に残る戦跡」というカテゴリーを設けることにした。きっかけは、先月、文化放送の番組で対談した、アーサー・ビナード氏が語っていた、「過去にあった戦争の、今はもう隠れてしまった痕跡を探し、その事実に迫る。」という姿勢に影響されてのことだ。
板橋区内を俯瞰してみると、先の戦争の痕跡が今日まで残っているのは、主に陸軍造兵廠のあった地域だけだ。近年、その一部を板橋区が買い上げ、これから史跡公園として整備する計画が進められている。翻るがえって我が赤塚郷地域はどうであろうか。下赤塚高射砲陣地跡はマンションへ、高射砲部隊本部施設跡は某宗教団体の会館となっている。徳丸に点在していた、崖に作られた戦時物資貯蔵庫群も、もはや跡形もない。広大な成増陸軍飛行場跡は、その約8割が練馬区に属しており、板橋区側としては赤塚新町地域の一部が該当しているが、そこは東西に広がる草っ原の副滑走路があり、飛行場時代に存在した施設は、第四中隊・吉野隊という整備中隊の作業場があっただけだ。(現在の赤塚新町公園の場所)
さて、成増飛行場の痕跡は、現在も残っているのだろうか。おそらく、練馬区に問い合わせても「ノー」と言われるだろう。しかし、これだけネット社会が広まった現在では隠し通せるわけもなく、すでにたくさんの情報がネット上にUPされてしまっている。その痕跡とは、現在の光が丘公園赤塚口近くに残る”掩体壕”だ。おそらく、成増飛行場の痕跡を留める、唯一の戦跡だ。なぜその存在が公にされていなかったかというと、その掩体壕は個人所有の土地にあり、周りを住宅に囲まれてしまっていて、私有地に入らないかぎり容易に見学できないからだ。持ち主も近隣の住民も詮索されることを好まず、だから練馬区も存在を教えず、当ブログでもこれまで紹介は控えていた。
掩体壕とは、主に戦闘機を隠匿しておく倉庫のような物で、無蓋掩体と有蓋掩体がある。無蓋掩体は冒頭の写真の右上に写る、おにぎりみたいな形の場所で、周りを土などで壁を築づいて囲い、投下された爆弾の破片から戦闘機を守るようにしている。ただし、敵機からの機銃掃射には意味を持たず、そこで、防御力を高めたのものが、すべてを鉄筋コンクリートで造ったドーム型の有蓋掩体壕なのだ。
成増飛行場には少なくとも20基以上の有蓋掩体壕が造られたが、隠匿する戦闘機の大きさぎりぎりで造られるため、1945年1月以前と以降では大きさが異なる。すなわち二式戦・鍾馗と四式戦・疾風用に分かれる。47戦隊は全機四式戦に機種変更したので、おそらく古い掩体壕は何らかの改良が加えられたかもしれない。冒頭の写真は1945年1月以降に米軍によって撮影された写真で、戦後に作られた道路の部分(川越街道のホンダから右折して光が丘公園赤塚口分岐点へ向かう道路)を太線で書き加えてある。
太線の右側には有蓋掩体壕が2基、真ん中下に1基存在している。現在残っているのは右側のうちの1基で、1945年の写真では解像度が悪く掩体壕は判然としないが、飛行場からの誘導路がよく分かる。1947年9月26日に撮影された写真では、周りを建物で囲まれているが、4月から始まったグラントハイツ建設関係の建物かもしれない。きっと掩体壕も倉庫として使われたのだろう。以降、当ブログでは赤塚新町掩体壕と呼ばさせていただく。
1948年3月29日の写真では赤塚新町掩体壕の周りの建物は撤去されている。グラントハイツの完成は6月なので、すでに役目を終えたのだろうか。1949年9月7日の写真では、周りはすっかり畑地と化している。1955年10月27日になると畑地に住宅が建ち始め、下方の掩体壕横の建物も無くなっている。
米国国立公文書館所蔵の1952年6月5日の写真は斜めから撮影されたもので、風景が立体的に見えてわかりやすい。真ん中を南北に通る道がくの字に湾曲しているように見えるのだが、現在の道は直線であり、混乱する。蔦屋のあたりから歩道が広くなっているので、グラントハイツ返還後に道筋を変えて直線化したのであろうか?1956年8月27日の写真は川越街道側から南方向に向かって撮影された写真だが、現在も残る赤塚新町掩体壕が判別できない。こんもりと小山のように見えなくもないので、土でも盛っているのだろうか。道筋も右方向へ大きくカーブしていて現在の感じと違って見える。最後の写真は練馬区田柄に存在した掩体壕で、ここも野菜や農具の保管所として使われていたのであろうか。
令和元年の8月も終わるので雑談をする。
8月最終日。月毎に最終日はあるのだが、12月31日の次ぎくらいに8月31日が感慨深く思えるのは、子供の頃の夏休みの感覚が残っているからなのかなあ。
この日、旧高島平第七小学校跡地で防災フェアが行われた。警察、消防、自衛隊ほか、電気水道などライフラインにつながる企業が出展してのフェアだ。このフェアに関しては今週初めにニュースになっていたが、それは、毎度のことながら自衛隊の出展と車両の展示はするなという強いクレームが市民から寄せられているというニュースだった。
今朝のニュース番組でも、盛んに九州や中国地方の豪雨災害の様子を伝えており、自治体の要請により災害派遣された自衛隊が住民救助や道路復旧などの活動に従事する様子が流れていた。それらを目にすると、防災の啓蒙活動する場への参加を阻止する活動は、いただけないように思える。クレームの結果か、展示車両もアメ車のハマーに似た高機動車と偵察バイクのみ、ブースにも配布物や災害地での自衛隊の活動を知らせる資料などいっさい置かれず、空の机が置かれているだけという状況だった。その様子を見て、子供にヘルメットを被せてバイクに乗せ記念写真を撮るだけなのか?災害に対してどんな意味のある展示なんだ?と思わざるをえない。この場にいる自衛隊員はいったいどんな気持ちで立っているのであろうか。
思い出すのは昨年12月に板橋区の郷土資料館で行われた「いたばし大交通展」のフィールドワークとして開催された”啓志線の歴史を辿る”のことだ。板橋区民はその講師役を仰せつかり、話をするなら初期の啓志線の終点である旧練馬倉庫駅のあった練馬自衛隊でするのが良いだろうと軽い気持ちで企画し、自衛隊と段取りをして協力をいただいた。ところがだ。フィールドワーク開催の告知と参加募集の知らせが広報いたばしに載った途端、自衛隊の敷地内でそんなことを行うのはけしからん!との強い抗議が資料館や区役所に押し寄せたのだ。別に自衛隊の広報を行う目的ではないのにもかかわらず、だ。啓志線の痕跡は、すでに練馬自衛隊の敷地内にしか残っていないのである。すったもんだの結果、フィールドワークは実施できたけれど、非常に後味の悪い物となった。なによりも、講師である板橋区民自身のモチベーションが著しく低下したのは否めない。
旧高島平第七小跡ではこんなこともあった。この場所では、毎年10月に高島平まつりが行われている。そのまつりには、我が板橋区の誇る「西洋流火術鉄砲隊保存会」が協力し、火縄銃の空砲演武を披露していた。西洋流火術鉄砲隊は、幕末の高島平(徳丸原)にて、高島秋帆率いる日本初の西洋式砲術隊が、幕閣や全国から集まった諸藩重役達の前で最新の砲術を披露したことに因んで設立された保存会である。その保存会が古の高島流砲術を、現代になって”高島平”の地名にまでなったまさにその場所で、地元の方々に披露するのはもっとも原点なことであるはずだ。ところがだ。一市民が「音がうるさい!」とクレームを付けてきた。感覚や感情は人それぞれである。演武にはたくさんの人々が集まった。西洋流演武の時間は約15分間、各人が5発空砲を撃つ。確かに空砲発砲はうるさい。砲術は、音と煙幕も重要な要素だ。年に一度、高島平まつりの日に15分間しか行われないのだが、クレームにより結果として、鉄砲隊保存会はまつりから追い出されてしまったのである。他の場所ならともかく、発祥の地である高島平から追い出されることは、保存会の存在そのものを否定されたような気がしてしまう。高島平民は、歴史なんてどうでも良いとでも思っているのだろうか、とさえ感じた出来事だった。
・・と、昔の怒りに任せて書きなぐってしまったが、高島平警察署の裏には病院があり、まつりで何が行われるのかを知らずに入院している患者の中には、不快感を持った方々もおられたことだろう。ただでさえ音の反響が大きくなる高層団地内で行うには、無理があったのかもしれない。
なんてことで、かように世の中はままならないとの結論を持って、8月の〆としたい。
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