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2019年8月

板橋区民、イベントを楽しむ。

連日の猛暑、耐えますか?

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今宵、板橋区民は40年ぶりにいたばし花火大会に来ている。そろそろ、始まるぞ!

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たーまやー

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かーぎゃー

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てなことで、迫力最高!でした。風も涼しく楽しめました。来年はオリンピックの影響で5月開催との事。

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令和元年のお盆休みに入ったので、だらだらと雑談をする。

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暑い、いや熱い。板橋区民は、暑さがとことんニガテである。思考が止まり、やる気スイッチはオフのままとなる。困ったことに、冷房の効いた部屋にいてもただボーッとしたままで、結局頭も体も動かない。それでも腹は減るので、日が落ちて涼しくなってから、ふらふらと赤塚郷の街に出て冷やし中華を求めて彷徨うことになる。冷たくて、酸っぱい。板橋区民は、冷やし中華が好きなのだ。
こうして、赤塚郷周辺の店やコンビニで売っている冷やし中華を求め彷徨い続けた結果、板橋区民の最も好みにあった冷やし中華を発表する。味覚は人それぞれなので、一番だと思った店のみ上げます。では、板橋区民の選ぶベストオブ冷やし中華は・・ドコドコドコドコ‥
「ぎょうざの満洲の冷やし中華」に決定!! 味(しょうゆ)や値段を含めたトータルでダントツの1位だ。
さて、板橋区民は先週、8月1日昼12時5分過ぎに、ラジオの文化放送でO.A.された「くにまるジャパン極」内のくにまるレポーターズに出演し、成増飛行場についての話をした。当日にラジオ局へ出向いてしゃべったわけではなく、先月、詩人のアーサー・ビナード氏と対談した時に収録した音源を編集したものだ。O.A.時間は約20分ほどで、テンポよく編集していただいたため、大変聴きやすい内容となっていた。さすがに放送局のプロフェッショナルな仕事と感心しました。どのくらいの方の耳に届いたかはわかりませんが、東京23区内に特攻隊の基地があったことが伝われば、本望です。
この時期になると、戦争関連の話題がマスコミで取り上げられますが、ここ一週間のテレビ番組欄をざっと見渡しても、NHKを除いて戦争関連の番組は、TBSの関口宏番組とテレ東の池上解説番組しか見当たらない。振り返ってみると、終戦70周年の年以降、民放では戦争関連の番組を流さなくなったと思う。さすがに今年は平成から令和へと元号が変わったから多少は増えるのかな、と期待していたのだけど、惨憺たるありさまだ。その原因は、視聴率がとれない→スポンサーが付かないからで、視聴率がとれない、はすなわち世間の関心が低いためで、結局は国民のせいであり、元号が変わったことで”戦後レジームからの脱却”が加速、もはや戦後は終わった。ということにしたいらしい。
板橋区民は、戦争の話は伝統芸能の継承と一緒で、同じことを飽きずに続けていくことが大事だと思っている。そうでなければ、”戦後が終わった”のではなく、”戦前が始まった”ような気がするのだ。ただし、ここが難しいところだけれど、板橋区民は自衛隊(軍隊)は必要であるとその存在を肯定している。全世界の国が一斉に武器を放棄するようなことが起こらない限り、軍隊をなくすのは無理と考える。しかし、武器を放棄したところで、人間は石器時代のように、石や棍棒を持って戦うものだと思う。だから、実際に戦争になったらこういう事態に陥るのだということを徹底周知すべきなのである。庶民にとっては、戦争は勝っても負けてもろくなことはなく、勝ったところで戦争によって死んだ人間は生き返らないのである。
現在も、日本はお隣の国と揉めている。板橋区民は、赤塚人であり日本の教育を受けて育っているので、お隣は困ったちゃん国と思っている。成増飛行場にも、お隣の国の人々が関わっているエピソードはいくつか残されているけれど、ほとんど触れたことはない。歴史は枯れてから語るもの、とは歴史を学ぶ人ならよく聞く話だ。それゆえ近現代史を研究する人は少ない。板橋区民も最初はピンとこなかったけれど、今はよくわかるし、そのことで悩んだりもする。
例えば、成増飛行場とお隣の国人について記述した場合、こちらは客観的に書いているつもりでも、恐らくあちらは認めないだろう。ホントに難しいことだ。板橋区民があの時代を参考する時に信頼している書物の一つに、作家・山田風太郎氏が著した「戦中派日誌」シリーズがある。これは氏が実際に付けていた戦時中〜戦後にかけての日記をまとめたもので、当時の青年の目を通した世相がよくわかる本だ。この中に、お隣の国人の姿というか、彼らの群像が描写されている場面があり、なぜ彼らが奇異の目で見られていたのかがわかったりする。
昔、板橋区民は在日女性の知り合いがいたけれど、彼らは人間関係が濃いというのか、感情を世間に向けてアピールするような同調圧力を常に受けている。ある時、親族の葬式を終えた後に話を聞かされたが、彼女は自虐的に笑いながら、親戚から「あんた、ちょっとやりすぎじゃない?」と言われちゃったwと話す。あちらにはいわゆる「泣き女」というシステムがあるが、依頼を受け葬式などでオーバーに泣き叫ぶパフォーマンスを行う。彼女はそれこそ道路を転げ回るように泣いたそうだが、ようするに、それ程の感情の高ぶりを周囲に見せなければ周囲から、”冷たい人間だ”との烙印を押されてしまうのだ。そのことの滑稽さもわかっているけれど、同調圧力の空気は、どうしようもないのである。また、特に女性は、在日であっても日本人男性との結婚は決して許されないし、その反対に、日本人女性の嫁を貰うことは歓迎される。ようするに儒教の国なのだ。これは根底に女性蔑視の思想があるんじゃないの?との意見もあるけれど、欧米のレディファーストの視点と似ていなくもない気がする。
もうすぐ74年目の終戦記念日がやってくるが、さて令和元年の今年はどんな風景を見せてくれるのだろうか。天気予報を見る限り、大型台風が上陸するようだけれども。

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板橋区内に残る戦跡を考察する。Vol.-1

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お盆休みにかこつけてすっかり更新をサボってしまいました。

学校の夏休みもそろそろ終わり新学期を迎えるし、新たに「板橋区内に残る戦跡」というカテゴリーを設けることにした。きっかけは、先月、文化放送の番組で対談した、アーサー・ビナード氏が語っていた、「過去にあった戦争の、今はもう隠れてしまった痕跡を探し、その事実に迫る。」という姿勢に影響されてのことだ。

板橋区内を俯瞰してみると、先の戦争の痕跡が今日まで残っているのは、主に陸軍造兵廠のあった地域だけだ。近年、その一部を板橋区が買い上げ、これから史跡公園として整備する計画が進められている。翻るがえって我が赤塚郷地域はどうであろうか。下赤塚高射砲陣地跡はマンションへ、高射砲部隊本部施設跡は某宗教団体の会館となっている。徳丸に点在していた、崖に作られた戦時物資貯蔵庫群も、もはや跡形もない。広大な成増陸軍飛行場跡は、その約8割が練馬区に属しており、板橋区側としては赤塚新町地域の一部が該当しているが、そこは東西に広がる草っ原の副滑走路があり、飛行場時代に存在した施設は、第四中隊・吉野隊という整備中隊の作業場があっただけだ。(現在の赤塚新町公園の場所)

さて、成増飛行場の痕跡は、現在も残っているのだろうか。おそらく、練馬区に問い合わせても「ノー」と言われるだろう。しかし、これだけネット社会が広まった現在では隠し通せるわけもなく、すでにたくさんの情報がネット上にUPされてしまっている。その痕跡とは、現在の光が丘公園赤塚口近くに残る”掩体壕”だ。おそらく、成増飛行場の痕跡を留める、唯一の戦跡だ。なぜその存在が公にされていなかったかというと、その掩体壕は個人所有の土地にあり、周りを住宅に囲まれてしまっていて、私有地に入らないかぎり容易に見学できないからだ。持ち主も近隣の住民も詮索されることを好まず、だから練馬区も存在を教えず、当ブログでもこれまで紹介は控えていた。

掩体壕とは、主に戦闘機を隠匿しておく倉庫のような物で、無蓋掩体と有蓋掩体がある。無蓋掩体は冒頭の写真の右上に写る、おにぎりみたいな形の場所で、周りを土などで壁を築づいて囲い、投下された爆弾の破片から戦闘機を守るようにしている。ただし、敵機からの機銃掃射には意味を持たず、そこで、防御力を高めたのものが、すべてを鉄筋コンクリートで造ったドーム型の有蓋掩体壕なのだ。

成増飛行場には少なくとも20基以上の有蓋掩体壕が造られたが、隠匿する戦闘機の大きさぎりぎりで造られるため、1945年1月以前と以降では大きさが異なる。すなわち二式戦・鍾馗と四式戦・疾風用に分かれる。47戦隊は全機四式戦に機種変更したので、おそらく古い掩体壕は何らかの改良が加えられたかもしれない。冒頭の写真は1945年1月以降に米軍によって撮影された写真で、戦後に作られた道路の部分(川越街道のホンダから右折して光が丘公園赤塚口分岐点へ向かう道路)を太線で書き加えてある。

太線の右側には有蓋掩体壕が2基、真ん中下に1基存在している。現在残っているのは右側のうちの1基で、1945年の写真では解像度が悪く掩体壕は判然としないが、飛行場からの誘導路がよく分かる。1947年9月26日に撮影された写真では、周りを建物で囲まれているが、4月から始まったグラントハイツ建設関係の建物かもしれない。きっと掩体壕も倉庫として使われたのだろう。以降、当ブログでは赤塚新町掩体壕と呼ばさせていただく。

1948年3月29日の写真では赤塚新町掩体壕の周りの建物は撤去されている。グラントハイツの完成は6月なので、すでに役目を終えたのだろうか。1949年9月7日の写真では、周りはすっかり畑地と化している。1955年10月27日になると畑地に住宅が建ち始め、下方の掩体壕横の建物も無くなっている。

米国国立公文書館所蔵の1952年6月5日の写真は斜めから撮影されたもので、風景が立体的に見えてわかりやすい。真ん中を南北に通る道がくの字に湾曲しているように見えるのだが、現在の道は直線であり、混乱する。蔦屋のあたりから歩道が広くなっているので、グラントハイツ返還後に道筋を変えて直線化したのであろうか?1956年8月27日の写真は川越街道側から南方向に向かって撮影された写真だが、現在も残る赤塚新町掩体壕が判別できない。こんもりと小山のように見えなくもないので、土でも盛っているのだろうか。道筋も右方向へ大きくカーブしていて現在の感じと違って見える。最後の写真は練馬区田柄に存在した掩体壕で、ここも野菜や農具の保管所として使われていたのであろうか。

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で、どうも気になったので現在の地図で確認して見ると、TSUTAYAの駐車場あたりから光が丘公園赤塚口方向にかけて、不自然な三角緑地帯が広がっているので、先の空中写真を参考に黄色線を書き加えて見ると、おお、やっぱり現在の道はグラントハイツ返還後に直線化されたのだと確信できた。うむうむ。
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ちなみにこの写真はTSUTAYAの駐車場横の信号のところから撮影したパノラマ写真で、左手が赤塚口へ向かう直線道、右の歩道部分が、かつてくの字に折れて行ったカーブ道の方向と思われる。

 

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令和元年の8月も終わるので雑談をする。

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8月最終日。月毎に最終日はあるのだが、12月31日の次ぎくらいに8月31日が感慨深く思えるのは、子供の頃の夏休みの感覚が残っているからなのかなあ。

この日、旧高島平第七小学校跡地で防災フェアが行われた。警察、消防、自衛隊ほか、電気水道などライフラインにつながる企業が出展してのフェアだ。このフェアに関しては今週初めにニュースになっていたが、それは、毎度のことながら自衛隊の出展と車両の展示はするなという強いクレームが市民から寄せられているというニュースだった。

今朝のニュース番組でも、盛んに九州や中国地方の豪雨災害の様子を伝えており、自治体の要請により災害派遣された自衛隊が住民救助や道路復旧などの活動に従事する様子が流れていた。それらを目にすると、防災の啓蒙活動する場への参加を阻止する活動は、いただけないように思える。クレームの結果か、展示車両もアメ車のハマーに似た高機動車と偵察バイクのみ、ブースにも配布物や災害地での自衛隊の活動を知らせる資料などいっさい置かれず、空の机が置かれているだけという状況だった。その様子を見て、子供にヘルメットを被せてバイクに乗せ記念写真を撮るだけなのか?災害に対してどんな意味のある展示なんだ?と思わざるをえない。この場にいる自衛隊員はいったいどんな気持ちで立っているのであろうか。

思い出すのは昨年12月に板橋区の郷土資料館で行われた「いたばし大交通展」のフィールドワークとして開催された”啓志線の歴史を辿る”のことだ。板橋区民はその講師役を仰せつかり、話をするなら初期の啓志線の終点である旧練馬倉庫駅のあった練馬自衛隊でするのが良いだろうと軽い気持ちで企画し、自衛隊と段取りをして協力をいただいた。ところがだ。フィールドワーク開催の告知と参加募集の知らせが広報いたばしに載った途端、自衛隊の敷地内でそんなことを行うのはけしからん!との強い抗議が資料館や区役所に押し寄せたのだ。別に自衛隊の広報を行う目的ではないのにもかかわらず、だ。啓志線の痕跡は、すでに練馬自衛隊の敷地内にしか残っていないのである。すったもんだの結果、フィールドワークは実施できたけれど、非常に後味の悪い物となった。なによりも、講師である板橋区民自身のモチベーションが著しく低下したのは否めない。

旧高島平第七小跡ではこんなこともあった。この場所では、毎年10月に高島平まつりが行われている。そのまつりには、我が板橋区の誇る「西洋流火術鉄砲隊保存会」が協力し、火縄銃の空砲演武を披露していた。西洋流火術鉄砲隊は、幕末の高島平(徳丸原)にて、高島秋帆率いる日本初の西洋式砲術隊が、幕閣や全国から集まった諸藩重役達の前で最新の砲術を披露したことに因んで設立された保存会である。その保存会が古の高島流砲術を、現代になって”高島平”の地名にまでなったまさにその場所で、地元の方々に披露するのはもっとも原点なことであるはずだ。ところがだ。一市民が「音がうるさい!」とクレームを付けてきた。感覚や感情は人それぞれである。演武にはたくさんの人々が集まった。西洋流演武の時間は約15分間、各人が5発空砲を撃つ。確かに空砲発砲はうるさい。砲術は、音と煙幕も重要な要素だ。年に一度、高島平まつりの日に15分間しか行われないのだが、クレームにより結果として、鉄砲隊保存会はまつりから追い出されてしまったのである。他の場所ならともかく、発祥の地である高島平から追い出されることは、保存会の存在そのものを否定されたような気がしてしまう。高島平民は、歴史なんてどうでも良いとでも思っているのだろうか、とさえ感じた出来事だった。

・・と、昔の怒りに任せて書きなぐってしまったが、高島平警察署の裏には病院があり、まつりで何が行われるのかを知らずに入院している患者の中には、不快感を持った方々もおられたことだろう。ただでさえ音の反響が大きくなる高層団地内で行うには、無理があったのかもしれない。

 

 

なんてことで、かように世の中はままならないとの結論を持って、8月の〆としたい。

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