« 板橋区民、己の最古級の記憶映像を見て泣く。 Vol.−1 | トップページ | 板橋区民、己の最古級の記憶映像を見て泣く。Vol.−3 »

板橋区民、己の最古級の記憶映像を見て泣く。Vol.−2

1966_201907231032012015_201907231029011966_201907231023012015_201907231024011966_201907231023031966_201907231023042015_20190723102301





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

梅雨のトンネルが抜けそうになってきましたね。

 

さて、最古級の記憶映像Vol.−2ですが今回は1966年当時、地元にいた方にしかわからないディープな写真です。冒頭の写真、左側の谷部分は現在の徳石公園だ。中央手前のもやもやっとした緑が、現在では大木に育っている。前谷津川に向かって谷になっているのがおわかりだろうか、”徳丸谷”の幅は広く、前谷津川はそうとうな昔から、おそらくは1000年単位の時代流れているのだろう。徳丸通りの電柱の奥の家は”徳丸屋”というここら辺では唯一のラーメン屋があり、100円玉を握りしめて食べに行った。典型的な中華ラーメンで、今でもたまに食べたいなあと思うときがある。店の端では夏は串団子、冬は今川焼きを販売していて、アイスクリームは通年売っていた。

前谷津川は現在、暗渠化され徳丸石川緑道へと変わったが、1966年当時にはすでに直線化の工事が行われた後であり、それ以前、昭和30年代半ばまではぐねぐねとうねった川筋だった。古老の回想では田んぼが広がり、稲作が行われていたという。板橋区民は天神坂の途中にあった竹やぶからくすねてきた竹で棒高跳びよろしく前谷津川を飛び越える遊びをしていた。川はすでにドブ川で、せいぜいイトミミズくらいしかいなく、それは飼っていたクサガメの餌になった。

次の池の写真、これは長年板橋区民の記憶の中の思い出にしかなく、まさか映像を見られる日が来るとは思わなかった。場所は徳石公園の西側あたりで、昭和30年代の後半から始まった土地改良工事に伴い、一時的に雨水や地下水が溜まってできた幻の池で、数年で消えてしまった。夜寝ていると池で大発生したカエルの鳴き声が聞こえとてもうるさかった。こういった場所は子供のかっこうの遊び場であり、地元の地主軍団の悪ガキ達が、捕まえたカエルの皮を剥いて遊んでいた光景を思い出す。

最後の橋の写真は、徳丸5丁目で、ランドマークが無いので説明し辛いのだが、この橋を越えた後、前谷津川は右(北)方向へ曲がり、現在の石川橋公園へ向かう。しかし、なんというか電柱がなければ明治時代はおろか江戸時代を彷彿とさせる風景ですね。この頃は、茅葺屋根の家がまだ点在していて、子供心にも田舎だなぁと感じていました。たまに来る大山に住んでいた親戚も、なんでこんな田舎に住んでいるんだ、と言っていたっけ。

|

« 板橋区民、己の最古級の記憶映像を見て泣く。 Vol.−1 | トップページ | 板橋区民、己の最古級の記憶映像を見て泣く。Vol.−3 »

携帯・デジカメ」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

またお邪魔します。
上段左の写真のお店は「徳丸屋」と言う名前でしたか。私は夏に姉とかき氷を食べた記憶があります。
上段右の写真には、給水塔が見えますが、その左はお風呂屋さんですか。
池の写真も懐かしいです。でも遊んだ事は無く、近づくと紅梅少の怖いお兄さん達に追い帰えされました。
下段中央の写真では、左方向に進むと、北野小方面に出たでしょうか。
この橋から先は雑木林で、カブト虫やクワガタを採りに行った記憶があります。でも日が暮れると恐怖の領域で、「人さらいが出るよ」とよく親に言われました。将来マンションが出来て、郵便局や信用金庫が出来て、マルエツが出来て、・・・なんて想像も出来ません。
「東京の田舎っぺ」と、昭和4~50年頃まで言われた事を思い出します。

投稿: ひでぼう | 2019年7月24日 (水) 19時54分

>>ひでぼうさま
コメントをありがとうございます。そうです、夏はかき氷もやってましたね。給水塔はわりと最近まで残っておりましたが今は内科医院になってしまいました。煙突は黄金湯で昭和36年開業と聞きます。池のことを憶えておられる方がいてうれしいです。紅梅小の怖いお兄さん達とはまさに地主の悪ガキ連中ですな。下段の場所は左方向へ道路を辿るとお伊勢坂の途中にぶつかり、最終的には赤一中を右に見つつ赤塚三丁目郵便局へ出ます。記事中、田舎田舎とど田舎扱いしておりますが、地方に親戚のない私はここで育って良かったと思っております。

投稿: | 2019年7月24日 (水) 21時39分

Vol.-2の掲載をありがとうございます。再度お邪魔させて頂きます。

黄金湯さん近くの給水塔の辺りの件ですが、現在では確かに内科医院が建っていますが、内科のほかに整形外科、眼科もすぐ隣にあり、近隣の特に高齢の方にとっては、駅近くまで出なくても数科の医療が受けられるようになったのだな、と前を通るたびに感じておりました。時代の流れですね。
いつの間にか出来て、いつのまにか消えた池に関しては、私の実家の近くにも同じような例がありまして、いとこのお兄さんがおたまじゃくしを捕ってきて、「おたまじゃくしのお腹ってこんなんだったんだなー」と思った記憶があります。
また、お伊勢坂から徳丸三郵便局に至る道に関して、現在のおいせ坂バス停の近くに、『きくちやさん』と呼んでいた駄菓子屋さんがありまして、私たち女子はそこで売っている色とりどりの千代紙やシールに心を奪われ、10円玉を握りしめて通った覚えがあります。また、きくちやさんのお向かいあたりに製麺をされているお家があって、麺を天日に干しているのを見かけたりもしていました。
昔の写真を見ると、いろいろなことが思い出されます。長文、失礼いたしました。

投稿: Izumi | 2019年7月26日 (金) 12時18分

>>Izumiさま
コメントをありがとうございます。手持ちの昭和44年度版の住宅地図を見ると、もともとのお伊勢坂はこの橋から続く道で、現在のミニストップ?と交差する部分は土地整備事業で出来たものですね。坂の途中には「菊池うどん」が確認できました。近隣の駄菓子屋さんは制覇していたつもりでしたが、そこは知りませんでした。赤一中の近くにお風呂屋さんもあったようですが、内緒で自転車で赤一中へ行った時に校舎裏の道路に駐輪してましたが全く記憶にありません。。

投稿: | 2019年7月26日 (金) 17時04分

オーク様、初めまして宜しくお願い致します。
とても懐かしい写真で、またカラーという事も有り一気に当時の事が蘇りました。
このラーメン屋は昭和50年代まで営業していたと思います。
コンビニもない時代このような店は貴重でしたね。

この近所にスーパーたてやまがオープンした時は便利に成りました。
今は駐車場に成り歳月を感じます。
TBSラジオの毒蝮の中継が有り、また藤田まことのはぐれ刑事純情派のロケが有り見に行きました。

この場所から少し上の四葉に警察犬の訓練所が有った事はご存知ですか?
警察犬の名を有名にしたアルフ号がいました。
今思うと信じられない位何も無かったですよね・・

投稿: 卯年 | 2019年9月30日 (月) 23時38分

>>卯年さま
コメントをありがとうございます。ラーメン屋は昭和の時代まででしたっけ、当時の看板娘さんはたまに板橋イオンでお見かけしますね。はぐれ刑事は、徳石公園横に赤色の渋谷行き東急バスが止まっていて、なんだこれは?と思っていたら徳丸通りへの緑道の階段を上る藤田まことさんの姿があり、おお、と思った記憶があります。訓練所の記憶はありませんが、いまは笹目橋近くの新河岸川沿いにありますね。

投稿: オーク | 2019年10月 1日 (火) 08時42分

またお邪魔します。
オーク様は練馬区の北町商店街の昔をご存知でしょうか?
先日久しぶりに商店街を通ったら変貌に驚きました。
商店街では無く成り住宅地に成っていたからです。

昔の賑わいを知っている者にとっては何だか寂しく成りました。
昭和の頃は個人商店のみでしたから今はネットで済み仕方が無いのでしょうね。
時計のオオクボ、書店の大貫、金物屋の宗政、燃料屋の矢作など色々有りました。

今はスーパータカラヤですが昔は西友でした。
スーパーがとても珍しく画期的な時代でしたね。
その2階に時計屋、ワコール、家具屋、小物雑貨、洋服が入ってお洒落な空間でした。
西友の隣には北町フードセンターが有りそこで全部買えました。
八百屋、肉屋、魚屋、総菜屋、和菓子の秩父屋などが有りました。

最後まで営業していた魚屋の大昌、洋服タオルのドリームさんは50年営業されたんですね。
仕方が無いのですが昔を知っている者としては何だか物悲しい気持ちに成りました。

投稿: 卯年 | 2019年10月18日 (金) 21時30分

>>卯年さん
コメントをありがとうございます。子供時代に母親に連れられて行ったのは不動通りにあった”徳丸マーケット”でしたが、正月用品などは北町商店街へ行きました。母親曰く、人がすれ違えないほどの賑わいだった、と回想しております。私がよく利用したのは、南口の今は自転車駐輪場やトモズのあるビル(昔はバッティングセンター)で、レコードレンタルの友&愛へ行きました。たしか2階はしまむらが入ってましたね。その頃の写真は「板橋ハ晴天ナリ。東武練馬 1979年」でグーグル画像検索すればいろいろと出てきます。

投稿: オーク | 2019年10月18日 (金) 22時34分

またお邪魔します。
不動通りの徳丸マーケット覚えています。
そこではパン屋に良く買い物に行きました。
今なら珍しく有りませんがそのパン屋は食パンを好みの大きさに切って貰えました。
確か1980年頃まで営業していたのでは?
半分がコンビニに成って3年後には商店は消えた様に思いますが。

不動通りも商店が無くなり住宅地に成りました。
文房具のいとう屋にノートや雑貨を買いに行く事が楽しかった。
今は建物がマンションに成り2年前に閉店しました。
銭湯の北野湯に行き、帰りはうなぎ屋の大作でビールを飲んだものです。
何だか昭和も平成も遠く成って行きますね。

投稿: 卯年 | 2019年10月22日 (火) 23時01分

>>卯年さま
コメントをありがとうございます。そうですか、いとう屋はなくなりましたか。私の実家の近くには天神坂の下あたりと宮の下交差点のところに小さな文房具屋があり(両方共同級生の家)ましたが、いとう屋は品揃えが豊富だったのでよく利用しました。北野湯も廃業してしまい、後はブラジル食堂くらいですかね(最近確認しておりませんが)。

投稿: オーク | 2019年10月23日 (水) 07時05分

またお邪魔します。
今日不動通りで48年も経営していたトンカツの親和さんが閉店しました。
思えば子供の頃から有るの当り前で店の前を通っていましたね。
開店したのは昭和46年、1971年に成ります。
オーナーは資生堂パーラーで修業し当時ではお洒落な店だったと思います。
今と違いトンカツは高級品でした。

今年に入り休みが多く成りそろそろと思っていましたが・・・
子供の頃に今は亡き両親と食べに行った事が昨日の事のように思い出されます。
今と違い外食は贅沢な時代でした。
時代の流れですが少し寂しく成りました。

投稿: 卯年 | 2019年12月16日 (月) 19時15分

>卯年さま
いつもコメントをありがとうございます。昔から営業していた店がなくなるのはさみしいことですね。私は不動通りはあまり通らない生活でしたので、トンカツの親和は利用したことはありませんでした。ストリートビューで確認しましたが、行っておけば良かったなと思いました。昨年廃業した北野湯の備品の一部は郷土資料館が引き取りましたので、いつか展示されるかもしれません。

投稿: オーク | 2019年12月16日 (月) 21時31分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 板橋区民、己の最古級の記憶映像を見て泣く。 Vol.−1 | トップページ | 板橋区民、己の最古級の記憶映像を見て泣く。Vol.−3 »