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板橋区民、己の最古級の記憶映像を見て泣く。 Vol.−1

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いくらなんでも梅雨が長すぎる。

 

天気の悪い日が続き、気分も憂鬱になりますね。そんな最中、板橋区民の大好物である昔の映像、しかも自分自身の記憶している最古級の時期の映像を見る機会を得た。撮影されたのは1966年の晩秋ころであろうか。

最初の写真は、川越街道を走る国際興業のボンネットバスだ。場所は成増のファミレス、ビッグボーイあたりかな。この頃はまだ戦前の匂いが残っていたことだろう。当時の板橋区民は赤塚郷内で遊びまくってはいたが、まだ自転車にも乗れない時で、成増は行動範囲外であったのでまったく記憶がない。自転車に乗れるようになってから、漫画本を買いに成増へ行くようになった。贔屓にしていた本屋は、西側の踏切を渡ってすぐにあったと記憶する。

お次は川越街道の長元から大東文化大学あたりまでを抜ける松月院通りにあった「四ツ葉町」のバス停だ。現在は、成増方向へ紅梅小学校を過ぎてしばらくまっすぐに進み、途中で徳丸石川通りを紅梅公園の方へ右折するコースとなってしまったため廃止されてしまったが、スーパーのマルエツの対面あたりにあったのだろうか。板橋区民は板橋区内の古いバス停を50枚くらい所蔵しているけれど、そのバス停がいつ頃から使用されたのかわからなかった。写真のバス停とは違い広告が入っているので、少なくとも1966年以降なのだろう。ちなみに”山恵”とは漬物製造会社で、タクアンや福神漬を作っていた。現在は埼玉県へ引っ越したと聞いている。

最後は東武練馬から徳丸通りを北へ向かって坂を下った宮ノ下交差点付近である。中心部分は、前谷津川によって削られた”徳丸谷”にかかる築堤で、1925年ころに徳丸通りを掘削した土を盛って造られた。高島平建設工事が始まる頃まではあまり交通量がなかったので、道路の端には歩道もなくガードレールが続き、その下は蓋のされていない側溝があり、子供心には怖い道だった。当時酔っ払って落ちた人もいたことだろう。梅雨の時期になるとガードレールの裏にびっしりとカタツムリが発生していたっけ。

前にも書いたことがあるけれど、この徳丸通りには、宮ノ下交差点を右折し、不動通りまでのバスが走っており、当時、板橋区民の乗ったボンネットバスが右折の時に運転を誤り、左側車輪が側溝に落ちてしまったことがあった。一番前の席で運転手の後ろに張り付いていた板橋区民は、衝撃で鉄の手すりに頭をぶつけしこたま大きなたんこぶを作ってしまった。この写真は、ちょうどその頃のものなのである。

 

追記

明治時代に生きた古老が残した話に、徳丸通りは森に覆われ、昼なお暗い場所があったとあるけれど、板橋区民の最古級の記憶にもそれは残っている。写真中央奥の方に写っているのがその森の風景である。

 

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コメント

ごぶさたしております。
「山恵入口」広告つきの停留所表示板は1972年11月以降のものと考えられます。
現在と同じく「赤02」「下赤03」と記されているためです。

バス系統の頭に起点・終点の駅名から1~2文字を取ってつけるようになったのは都電の撤去計画が現在の荒川線以外で完了した1972年11月12日からで、都営と国際興業など民間会社で統一規格にしました。それ以前は2桁~3桁の数字のみで各社独自につけていたとみられます。

四ツ葉町停留所は移転していたのですね。昔の状況を知らないため、赤02はなぜ紅梅小学校の先でわざわざ曲がって迂回するのか謎でした。(昨年の大交通展東上線講演の日も、そこで道に迷って遅刻しました。)かつては直進していたと伺い、納得できました。

国際興業バスのボンネットは仲宿付近で都電の窓から見た覚えがあります。小さかったため靴を脱いで窓枠にしがみつくポーズを取っていたと記憶しています。

投稿: Windy 41 | 2019年7月21日 (日) 10時19分

>>Windy 41さま
コメントをありがとうございます。バス停表示の件、ありがとうございます。1972年と言えば板橋区内の住居表示も大幅に変更された時期ですね。私の住んでいた所も徳丸本町から徳丸に変わりました。松月院通りは、新大宮バイパスの所で旧道と分かれます。現在コメダとかユニクロのある通りは、見渡す限りの畑や林だった場所でした。

投稿: | 2019年7月21日 (日) 11時37分

いつも楽しみに拝見しております。久々にコメントを書かせていただきます。

それこそ、50年近くも前の話ですが、現在の四葉のどこかで、巨大な漬物樽を見た記憶があります。
それは、屋内で作業をされていたのですが入り口が開け放たれていて、大人の身長よりも高い漬物樽がいくつか
見えました。今でも時々思い出すのですが、「昔、四ツ葉町で漬物樽を見たな・・・」程度の不確かな記憶でした。

子供の頃は、自分の家の近所で遊ぶことが多かったですが、時々探検と称して、友達とこっそり遠出したこともあったので、
その時に見たのでしょうか・・・。”山恵”さんのように、漬物製造所の軒先だったのか、あるいは農家の離れか何かだったのか。
今となっては場所も特定出来ませんが、今回の記事を拝見して懐かしく思い出した次第です。

投稿: Izumi | 2019年7月21日 (日) 21時07分

>>Izumiさま
コメントをありがとうございます。四葉は漬物を製造する農家が多くありました。なかでも山恵さんは規模が大きく”工場”の規模だったと記憶します。Vol.-2も予定しておりますのでお楽しみに。

投稿: | 2019年7月21日 (日) 21時26分

お久しぶりでございます。
徳丸の昔の写真は、何時も楽しく拝見させていただいています。
宮下交差点付近の写真では、まだ西徳通りが、写真左側、西方向に延びていない頃なのでしょうか。
それとも画像の関係でその様に見えるのかな?交差点角にあった、徳丸モータースが見当たらないので。
もし、写真左側に通りが延びていれば、その先はお風呂屋さんで、「なめじいさん」出没ポイントでしたね。
写真中央の森も、北野神社と牧場、そして紅梅小の記憶が蘇ります。

投稿: ひでぼう | 2019年7月22日 (月) 23時34分

>>ひでぼうさま
コメントをありがとうございます。宮ノ下交差点ですが、この映像の頃は黄金湯方向の道は存在しています。逆(東)方向は不動通りまでです。森のあった部分は最近また風景が激変してしまいました。

投稿: | 2019年7月23日 (火) 09時36分

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