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2019年7月

板橋区民、夏を感じる。2019・その2

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今年の梅雨は”長い”と感じますね。
前回、同じテーマで記事を書きましたが、それは、行きつけの無人野菜販売所に大好物の”枝豆”が並ぶと夏を感じる、と言う話でした。
実は、もう一つ夏を感じることがあるのだが、それは、8月の終戦記念日前後の時期に企画される戦争関連についての協力依頼だ。当ブログでは、アジア・太平洋戦争(大東亜戦争のことを最近ではそう呼ぶらしい。)時代の板橋区についての記事をupすることが多い。特に、現在の練馬区光が丘地域に存在した「成増陸軍飛行場」については力を入れている。そのせいで、ネットで当ブログの記事を見たマスコミや自治体など様々な機関から質問をいただいたり、掲示写真の貸し出しの依頼が増えるのがちょうど今頃なのだ。
先日はラジオの文化放送より依頼があり、成増飛行場について知りたいので、コンタクトできないかと連絡があった。8月下旬O.A.の予定の番組内の一部で成増飛行場のトピックスを取り上げたいとのことであった。
板橋区民としては成増飛行場のことを取り上げていただくことに否はないので、承諾の返事をした。番組のナビゲーターはアメリカ人のアーサー・ビナードという方が担当するので、彼も同席するとのことだった。
・・アメリカ人ねえ。。まあ、戦争の相手国の目線でこちらのことを語ろうとするのかな、どうせ当時の日本側の事情もよく分からないだろうし、成増の部分は10分程度の時間配分ということで通り一遍の年表解説くらいでいいか、と思いながら待ち合わせに指定した光が丘図書館へ向かったのである。
図書館へは20分以上前に着いたが、郷土史のコーナー近くのテーブルで、外人と日本人が重ねた資料を熱心に見ている姿があったので声をかけると、正に待ち合わせ人である文化放送の記者氏とMr.アーサー氏であった。図書館内なので小声で挨拶を交わし、郷土史コーナーにパネル展示してある成増飛行場の全体図を指差して、まっ、こんな感じの飛行場ですと解説を始めた。しかしいくら小声のつもりでも図書館に来ている人は敏感になっており、ちらちらとこちらを伺う視線も気になるので表にでた。
表に出であらためてお二人と挨拶を交わした。アーサー氏は1967年、アメリカ・ミシガン生まれでニューヨーク州のコルゲート大で英文学を学び、基本的には”詩人”を名乗っておられる。大学卒業後来日し、そのまま日本人の奥様と結婚し、約30年近く日本で暮らしている。アーサー氏は細面な方で、今日は光が丘まで自転車でやってきていた。光が丘へは、NHK講座の英語講師として何度も来たことがあるそうだ。
表へ出て、図書館と体育館の間にある、「平和の碑」の前へ移動した。まずはこの碑のいわれを説明しようとすると、すぐにアーサー氏は碑の解説文を読み始めた。なんと漢字と平仮名片仮名混じりの文面をすらすらと読み進めてゆくではないか。日常会話程度は当たり前と思っていたけれど、とんでもない方だった。
板橋区民はアーサー氏とは初対面であり、背景も全く存じ上げなかったが、別れ際に名刺代わりにいただいたご著書を持ち帰って拝読してみると、いまから4年前、戦後70年にあたる2015年から番組絡みで戦争体験者や関連の方々へのインタビューを重ねてこられ、真珠湾攻撃に参加した搭乗員、強制移住させられた日系人、樺太にいた方や硫黄島、沖縄戦で生き延びた兵士、駆逐艦「雪風」乗組員、広島長崎の原爆被災者、GHQで働いていた方などなど、時にはガダルカナル島へまでも取材に行っておられ、有名人も、ちばてつや先生、高畑勲氏始め錚々たる方々と会い、板橋区民など足元にも及ばない方であることを知った。
成増陸軍飛行場は、1942年4月のドゥリトル空襲がきっかけとなり企画され、12月までには現在の光が丘一帯が候補地に決まり翌1943年夏に建設工事が開始、10月に主滑走路完成、12月下旬までに飛行第47戦隊が移動。以降激しい訓練により10名以上が事故死し、1944年11月より本格的なB-29対空戦闘が始まり、空対空特攻隊である「震天制空隊」結成、6名が特攻死、1945年5月下旬に47戦隊は九州方面へ移動、1月頃から沖縄方面特攻隊「振武隊」の訓練基地を兼ね、5月上旬から成増にて振武隊の編成も行われた。6月以降はあまり飛行機の離発着も行われず終戦を迎えた。その後、連合軍に接収され米軍家族住宅「グラントハイツ」となり、1974年に返還、現在の光が丘公園と高層団地群の街へと生まれ変わり現在に至っている。
と、まあ以上の大雑把な歴史を踏まえアーサー氏への解説とした。詳細は省きますが、さすがアーサー氏は詩人だけあり、「光が丘はのどかな農村地帯、特攻隊のいた飛行場、アメリカの基地など三層の歴史の上に存在しているんですね。」と感想を述べておられた。
この記事を書いているちょうど今の時間、文化放送ではアーサー氏の番組がO.A.されており、板橋区民のiMacに繋いだスピーカーからは先日お会いしたアーサー氏の軽快な語りが流れている。さて、成増飛行場についてアーサー氏がどんなことを感じたのか、O.A.の日が楽しみである。

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板橋区民、会いに行く。梅雨の最中。

6月下旬からずーっと曇りのち雨が続きますね。

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久々の記事ですが、もうしわけない。板橋区民は、アウェーの地、渋谷にいる。

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で、NHKホールへやってきたワケだが、初、山下達郎コンサートへの参加だ。前に記事にしたけど、達郎と我が赤塚郷には、並々ならぬ関係があるのだ。それは、達郎が大学生の頃、初めてレコードディングを行なったのが、赤塚4丁目の三園通り沿いにあった倉庫なのである。

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今宵は残念ながら3階のしかも一番後方の席なのだが、初山下達郎をゆっくり堪能しよう。


いや〜終わりました、実に3時間10分!の大サービスコンサートでした。生クリスマスイブに感動し、竹内まりあメドレーからのハイティーンブギ〜アトム〜アンパンの流れはそう来たか!と驚かせてくれました。そしてなぜ山下達郎コンサートのチケットが取り辛いのかが分かりました。もうね、サービス精神と感謝に溢れたショーなんですよ。また行きたいなぁ‥

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板橋区民、己の最古級の記憶映像を見て泣く。 Vol.−1

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いくらなんでも梅雨が長すぎる。

 

天気の悪い日が続き、気分も憂鬱になりますね。そんな最中、板橋区民の大好物である昔の映像、しかも自分自身の記憶している最古級の時期の映像を見る機会を得た。撮影されたのは1966年の晩秋ころであろうか。

最初の写真は、川越街道を走る国際興業のボンネットバスだ。場所は成増のファミレス、ビッグボーイあたりかな。この頃はまだ戦前の匂いが残っていたことだろう。当時の板橋区民は赤塚郷内で遊びまくってはいたが、まだ自転車にも乗れない時で、成増は行動範囲外であったのでまったく記憶がない。自転車に乗れるようになってから、漫画本を買いに成増へ行くようになった。贔屓にしていた本屋は、西側の踏切を渡ってすぐにあったと記憶する。

お次は川越街道の長元から大東文化大学あたりまでを抜ける松月院通りにあった「四ツ葉町」のバス停だ。現在は、成増方向へ紅梅小学校を過ぎてしばらくまっすぐに進み、途中で徳丸石川通りを紅梅公園の方へ右折するコースとなってしまったため廃止されてしまったが、スーパーのマルエツの対面あたりにあったのだろうか。板橋区民は板橋区内の古いバス停を50枚くらい所蔵しているけれど、そのバス停がいつ頃から使用されたのかわからなかった。写真のバス停とは違い広告が入っているので、少なくとも1966年以降なのだろう。ちなみに”山恵”とは漬物製造会社で、タクアンや福神漬を作っていた。現在は埼玉県へ引っ越したと聞いている。

最後は東武練馬から徳丸通りを北へ向かって坂を下った宮ノ下交差点付近である。中心部分は、前谷津川によって削られた”徳丸谷”にかかる築堤で、1925年ころに徳丸通りを掘削した土を盛って造られた。高島平建設工事が始まる頃まではあまり交通量がなかったので、道路の端には歩道もなくガードレールが続き、その下は蓋のされていない側溝があり、子供心には怖い道だった。当時酔っ払って落ちた人もいたことだろう。梅雨の時期になるとガードレールの裏にびっしりとカタツムリが発生していたっけ。

前にも書いたことがあるけれど、この徳丸通りには、宮ノ下交差点を右折し、不動通りまでのバスが走っており、当時、板橋区民の乗ったボンネットバスが右折の時に運転を誤り、左側車輪が側溝に落ちてしまったことがあった。一番前の席で運転手の後ろに張り付いていた板橋区民は、衝撃で鉄の手すりに頭をぶつけしこたま大きなたんこぶを作ってしまった。この写真は、ちょうどその頃のものなのである。

 

追記

明治時代に生きた古老が残した話に、徳丸通りは森に覆われ、昼なお暗い場所があったとあるけれど、板橋区民の最古級の記憶にもそれは残っている。写真中央奥の方に写っているのがその森の風景である。

 

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板橋区民、己の最古級の記憶映像を見て泣く。Vol.−2

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梅雨のトンネルが抜けそうになってきましたね。

 

さて、最古級の記憶映像Vol.−2ですが今回は1966年当時、地元にいた方にしかわからないディープな写真です。冒頭の写真、左側の谷部分は現在の徳石公園だ。中央手前のもやもやっとした緑が、現在では大木に育っている。前谷津川に向かって谷になっているのがおわかりだろうか、”徳丸谷”の幅は広く、前谷津川はそうとうな昔から、おそらくは1000年単位の時代流れているのだろう。徳丸通りの電柱の奥の家は”徳丸屋”というここら辺では唯一のラーメン屋があり、100円玉を握りしめて食べに行った。典型的な中華ラーメンで、今でもたまに食べたいなあと思うときがある。店の端では夏は串団子、冬は今川焼きを販売していて、アイスクリームは通年売っていた。

前谷津川は現在、暗渠化され徳丸石川緑道へと変わったが、1966年当時にはすでに直線化の工事が行われた後であり、それ以前、昭和30年代半ばまではぐねぐねとうねった川筋だった。古老の回想では田んぼが広がり、稲作が行われていたという。板橋区民は天神坂の途中にあった竹やぶからくすねてきた竹で棒高跳びよろしく前谷津川を飛び越える遊びをしていた。川はすでにドブ川で、せいぜいイトミミズくらいしかいなく、それは飼っていたクサガメの餌になった。

次の池の写真、これは長年板橋区民の記憶の中の思い出にしかなく、まさか映像を見られる日が来るとは思わなかった。場所は徳石公園の西側あたりで、昭和30年代の後半から始まった土地改良工事に伴い、一時的に雨水や地下水が溜まってできた幻の池で、数年で消えてしまった。夜寝ていると池で大発生したカエルの鳴き声が聞こえとてもうるさかった。こういった場所は子供のかっこうの遊び場であり、地元の地主軍団の悪ガキ達が、捕まえたカエルの皮を剥いて遊んでいた光景を思い出す。

最後の橋の写真は、徳丸5丁目で、ランドマークが無いので説明し辛いのだが、この橋を越えた後、前谷津川は右(北)方向へ曲がり、現在の石川橋公園へ向かう。しかし、なんというか電柱がなければ明治時代はおろか江戸時代を彷彿とさせる風景ですね。この頃は、茅葺屋根の家がまだ点在していて、子供心にも田舎だなぁと感じていました。たまに来る大山に住んでいた親戚も、なんでこんな田舎に住んでいるんだ、と言っていたっけ。

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板橋区民、己の最古級の記憶映像を見て泣く。Vol.−3

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いきなりの夏!しかも台風来襲!そして今日は土用の丑の日!赤塚郷の皆様は本日うなぎを召し上がるのでしょうか?板橋区民は一昨日食べたので、胃にも暑さにもやさしい梅粥(”う”で始まるし)にしますかね。しかし、それにしても近年のうなぎの価格高騰はすごい。先日、亀戸駅近くの京葉通り沿いにある鰻屋の前を通りかかった時、”土用の丑の日、天然うな重7100円”!!!!の張り紙を見た。日本橋とかの店ではなく、老舗かもしれないけれど国道沿いのごく庶民的な構えの店だ。さすがに板橋区民には無理な値段である。いや、見栄を貼ればまあ季節もんだし年に一度と思えば、、と言うこともないけど‥ 前に、成田に住んでいる知り合いと食事をする際、せっかく成田に来たしうなぎでも、と提案すると、ばかいっちゃいかんよ、飯に鰻が乗っかってるだけじゃないか、そんな金出すんならフレンチレストランでコースを頼んだ方がリッチな気分だろ。と言われ確かになあと同感した次第だ。それでも板橋区民は鰻が好きなのでどうしても食べたい。そこでスーパーで買うのだが、もはや中国産でも結構なお値段である。東武練馬のハナマサプラスは比較的大きなうなぎ一匹990円とがんばっているけれど、昨年より小ぶりなのは否めない。他の店は昨年から100円〜200円値段が上がっている。

・・うなぎの話に熱くなってしまった。

記憶映像Vol.−3、今回は下赤塚駅前の写真である。板橋区民は1966年の頃の下赤塚駅周辺には全く縁がなかったので、当時の記憶は無い。現在の赤塚中央通りが整備されたのは昭和30年代の初めころ。もともと赤塚地区の中心地は松月院あたりで、赤三中の場所には赤塚村の役場があった。

最初の写真は、踏切を背に北口交番あたりから撮影したもの。丹頂鶴型の電話ボックスが懐かしいですね。下赤塚駅北口改札が出来たのは戦後になってからで、最初の入り口は踏切横、現在靴の修理屋になっている部分で、よく見ると今でもそっくりそのまま残っている。2番目の写真の奥の大きな建物は、板橋区役所赤塚支所と赤塚記念公会堂で、現在はパチンコ屋や洋服屋が入ったビルが建っているが、出来た当時はボーリング場だった。ボーリングブームが始まったのは万博の頃だったと記憶している。その隣には阿弥陀湯という風呂屋があった。

3番目の写真は2番目の位置から少し右(北)へカメラを振って撮ったものだけれど、ブティックと庚申塔の風景は、基本、現在とほとんど変わっていない。これはおそらく、ブティックのオーナーさんがきちんと面倒を見ていらっしゃっているからだろう。この庚申塔は、宝暦4年(1755年)12月に建立されたもので、東武練馬方面への道が整備される前は、もっと踏切り寄りにあったと言う。赤塚中央通りの元の道は少なくとも270年前にはあったのだろうけれど、赤塚6丁目のウエルシアとの交差部分(バーミヤン方面の地下鉄出入り口横へ続く)が鎌倉街道なので、中世戦国時代はそちらの方がメイン道だったのだろう。歴史本を見ると、上杉謙信の部隊が小田原城攻めの際に、赤塚大堂あたりに広がっていた大伽藍を焼き尽くして鎌倉街道を進軍して行ったと解説されています。

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