« 板橋区民の夏、始まる。2019 | トップページ | 板橋区民、何度でも何度でも会いに行く。 »

板橋区民、2019年6月23日に記す。

2316 2300 76

梅雨空が続きますね。

本日から74年前の1945年6月23日は、沖縄での組織的戦闘が終わった日だ。その前々日の21日、九州の都城東飛行場に駐屯していた飛行第47戦隊は、沖縄へ特攻出撃した第26振武隊4機の直掩任務に就き、徳之島西方約65キロ地点で特攻機と別れ、帰途に着いた。そして、奄美大島西方20キロの地点に差しかかった時、突如、上空の雲の中からグラマンの奇襲を受けた。敵の有利な位置からの攻撃に対し、各機はバラバラに雲へ向かい退避行動を行ったが、3機が瞬く間に撃墜されてしまった。しかし、援護をした第26振武隊機は、全機敵艦に突入成功し、米軍の記録では、水上機母艦カーティス大破、水上機母艦ケネス・ワインディング小破、護衛駆逐艦ハロラン小破、中型揚陸艦59号小破と曳航していた駆逐艦バリを沈没させるという大戦果をあげていた。

さて、話がのっけから47戦隊に逸れてしまったが、米軍が沖縄本島に上陸を開始したのは4月1日であった。最初の目標は北飛行場(読谷補助飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)の確保で、その後、米軍は本島北側部分を進撃し、4月22日には制圧を完了した。日本陸海軍は首里や那覇のある南半分を決戦の地としており、主力部隊を置き強固な地下陣地網を敷いて米軍を迎え撃った。この時、まだ米軍の手に落ちていなかった小禄飛行場(現在の那覇飛行場)を守っていたのが、南西諸島海軍航空隊であった。この航空隊は「乙航空隊」と称され、航空機を用いて作戦を実施する「甲航空隊」とは対極であり、基地防衛や輸送・移動用の最低限の航空機しか持たず、航空基地を防衛し、支援システムを保有する陸上部隊であった。 

沖縄本島に展開した南西諸島海軍航空隊は、別名「巌部隊」と呼ばれていた。この「巌部隊」の戦いを個人的に書き留め、終戦まで生き延びたKと言う海軍軍医中尉がいた。戦後、このK軍医中尉の手記を元に、作家・田宮虎彦(1911年〜1988年)が小説として構成し、「沖縄の手記から」と題された本が、1972年に出版された。この本は、平成の半ば頃から現代国語の教科書の題材として使われ、中学・高校の教科書に載り、入学試験にも引用されている。もちろんであるが、引用されたのは本の中の一章で、当間キヨという県立病院の看護婦をしていた若い女性が、日本軍が撤退した後の壕に残され、動くことができない傷病兵を見捨てることができず、K軍医大尉の必死の説得も聞き入れることはなく、やむなく壕を後にした軍医大尉が数週間後に壕へ戻ってみると、そこに白骨化した女性の遺体を発見するという部分だ。

小説は、米軍が沖縄へ上陸した1945年4月から終戦後、9月半ばにK軍医中尉が投降するまでの様子が描かれている。実話を元にしているため、創作の部分は少ないように思われ、非常に読み応えがある。執筆は長期にわたって行われたようで、初出は、雑誌「新潮」1953年3月号に「ある手記から」と題してまずは短編が掲載された。その初出の章は、1945年6月上旬より始まった米軍の小禄飛行場への上陸シーンから始まる。(以下昭和表記)

「‥はっきりした日附けはわからない。六月三日か四日、とにかく六月にはいったばかりの明け方であつた。私は炸裂する艦砲弾の轟音に眠りをやぶられた。(略)いよいよ来たー当然、来るものが来た、と私は考へていた。(略)壕の中が殺気だつていた。遠く近く、艦砲弾は、私たちの陣地に、雨のやうに降りかかつて来る。ニ・三時間、それはつづいた。やがて、その艦砲がぴたっとやんだと思ふと、今度は、轟々と潮騒のやうに押しよせて来る地響きが遠く聞こえて来た。<来たぞぉっ、戦車だっ>その時、壕の中で、誰かが叫んだ。粕谷主計大尉の声だつたやうに思ふ。」

この粕谷主計大尉こそ、我が赤塚郷、板橋区徳丸7丁目におよそ300年前から存在し、昨年3月15日に東京都指定有形文化財・板橋区登録有形文化財に指定された「旧粕谷家住宅」の長子として生まれた人物であった。

粕谷主計大尉こと粕谷正三は、大正8年8月、江戸時代に徳丸村の名主を務めていた粕谷家に、父・直右衛門と母・なみの次男として生まれた。正三さんは大変優秀な人物で、紅梅小学校在学中に転校し、開成中学を学年トップで卒業して一高から東京帝国大学法学部政治学科に入学(中曽根康弘元総理の1年後輩)した。在学中に高等文官試験に合格し、台湾総督府に任ぜられるが、その直後の昭和17年9月29日に海軍主計見習尉官に採用され、海軍経理学校に入学した。昭和18年1月、経理学校を卒業した正三さんは海軍主計中尉に任ぜられ、巡洋艦・阿賀野乗組みを命ぜられた。阿賀野は昭和17年10月に竣工し、第10戦隊(水雷戦隊)の旗艦となった。18年11月のブーゲンビル島沖海戦に参加した直後、12日朝に米軍潜水艦の魚雷が命中し、その時の爆発により重傷を負い内地送還となり呉海軍病院で入院・療養した。昭和19年2月、傷の癒えた正三さんは、鹿島海軍航空隊付きとなり海軍主計大尉に任ぜられた。同年10月、南西諸島海軍航空隊分隊長に補せられ、宮古島基地(宮古島にいた記録が残っていないが、周辺の資料により断定)に赴任した。そして、昭和20年1月。粕谷正三大尉は、南西諸島海軍航空隊本部副官(航空参謀・棚町整大佐の副官)として、米軍が目前に迫る沖縄本島へ移動する。

小説の引用を続ける。

「(略)七時近い頃であった。戦車は遠くで一斉にとまると、同時にその戦車砲がパッパッと火を噴きはじめた。(略)だが、それも日没前になると、火蓋をとじて、一斉にあとへひいていつた。その日が攻撃が終わった訳であつた。(略)しかし、その眠りも翌朝六時前から、私たちの陣地に落下してくる艦砲のダ、ダアーンと炸裂する響きでやぶられる。(略)戦車砲で、私たちの火器をうちつぶしてしまふと、戦車のかげからアメリカ兵が姿をみせた。私たちの方から小銃でうちかけると、アメリカ兵は戦車のうしろに、さっと、身をかくして、また戦車砲で応射をはじめた。そんなことをくりかへしているうち、私たちの陣地からは、真裸になつた兵隊が、三・四人で爆雷をかかへて壕から飛び出していつた。えつさ、えつさといふ決死のその掛声が、不気味に私の耳にも聞こえて来るやうになつた。(略)

(6月14日、総員切り込みの命令が下りる。)‥壕内で飯が炊かれた。握り飯が、斬り込みに行く兵隊たちにくばられた。最初に下士官以下五十名をひきつれた部隊長が、天皇陛下萬歳を叫びながら飛び出していつた。それから、つぎつぎに、三・四十人づつの下士官や兵隊たちが整備長以下の士官につれられて壕を出ていつた。そして、最後に、残った兵隊たちを、粕谷主計大尉がひきいて、切り込みに出た。
粕谷主計大尉は、南方作戦で火傷した左手を、壕の入口まで見送った私に、ニ三度ふつてみせて、「あとをたのむ」といふと、かすかに白い歯をみせて笑った。私が挙手の礼をかへすと、大尉は、そのままくるりと私に背をむけ、指揮刀(徳丸の実家から持ってきた家宝の備前長船)を合掌するやうにかかげ持つたかと思ふと、「天皇陛下萬歳」とひと声叫んで、壕の外の闇にのまれていつた。」

その後の粕谷正三さんのことを、見送ったK軍医中尉は知ることになる。

「‥ある夜、私とならんで、花火のやうな照明弾をながめていた森野という主計兵が、私の耳に口をよせると、ささやきかけるやうな声で、「軍医中尉、聞こえるでせう」と、いひかけて来た。森野は、あの最後の切り込みの夜、粕谷主計大尉に引率されて出て行つた兵であつた。私は、その森野から、粕谷大尉たちが、幾度も斬りこみをくりかへしたあとで、生き残つたものたちばかりが真中に爆雷を囲んで車座になり、一緒に自決した話をきかされていた。森野はその時の傷跡を顎から頬にかけて残していた。私は部隊の士官のうち、兵科は違つたが粕谷大尉と親しくしていたので、その話を聞かされてから、森野に何となく親しみおぼえるやうになつていた。(略)」

 

K軍医中尉こと、金子軍医中尉は戦争が終わるまで生き延びた。そして世の中の落ち着いた昭和24年6月のある日、金子氏は徳丸の粕谷家を訪ね、粕谷主計大尉の最後の様子をご家族に伝えたのであった。

粕谷正三さんは、巡洋艦・阿賀野勤務時、ブーゲンビル島沖海戦にて負傷し、呉の海軍病院に入院していた。怪我がある程度癒えた昭和19年1月、懐かしの徳丸に1ヶ月ほど帰京し、療養した。その折、ふと家族にこんな言葉を漏らしていたと言う。「俺は死んでも靖国神社には行かぬ。この家の棟に留まって皆を守るよ‥」

その正三さんの言葉が、今日、有形文化財「旧粕谷家住宅」として残った所以なのである。

 

追記:掲出写真の3枚目は、粕谷大尉が最後の切り込みに出た、小禄の寿山巌部隊司令部本部壕出入り口。(板橋区民撮影)

   1972年に出版された「沖縄の手記から」では、粕谷大尉の名前は三上大尉へと変えられている。

 

 

|

« 板橋区民の夏、始まる。2019 | トップページ | 板橋区民、何度でも何度でも会いに行く。 »

携帯・デジカメ」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 板橋区民の夏、始まる。2019 | トップページ | 板橋区民、何度でも何度でも会いに行く。 »