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2019年6月

1945年7月10日午前6時35分の悲劇。〜赤塚高射砲陣地、沈黙ス。〜

 令和の御代となり一ヶ月が過ぎました。もうじき梅雨となりますが、近年の天候が東南アジア化してきているようで、災害が心配ですね。

 

昨年秋のこと、我が母校、赤塚第一中学校から新大宮バイパスを挟んで北西側の段丘に展開していた高射砲部隊・下赤塚中隊のことを記事にしました。その後、米軍艦載機による日本空襲について研究をされている、ブログ・「連合国海軍による日本本土攻撃」の主催者さまより、1945年7月10日に赤塚高射砲陣地を急襲した艦載機の作戦行動に関する「アクション・レポート」の提供をいただいたので、その報告書を元に、より詳細な当日の状況を解説します。

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赤塚高射砲陣地は、成増陸軍飛行場防空の目的で、1942年12月に同地に構築された。陣地内には砲座、指揮所、砲側弾薬庫、電気照準具の保護設備、砲側待機所等が半地下もしくは地下に構築され、陣地に隣接した場所には中隊の宿舎が設けられた。下赤塚中隊全体で、160名余が所属していたようである。

1945年7月1日、沖縄や九州攻撃の任務を終え、編成替えを行った米海軍第38任務部隊が、フィリピン・レイテ島の基地を出撃した。目的は、11月に予定された南九州上陸作戦を前に、本州や北海道の基地、軍需工業地帯を空母艦載機によって攻撃することであった。10日早朝、この日の攻撃目標であった関東各地の飛行場へ向け、16隻の空母から一斉に米艦載機が飛び立った。このうち、ヨークタウンおよびシャングリラから出撃したVBFー88中隊とVBFー85中隊計24機が、成増飛行場を目標としていた。

ここで、提供いただいた米海軍の「アクション・レポート」をご覧いただきたい。

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ざっと解説すると、空母ヨークタウン所属のVBF-88中隊と空母シャングリラ所属のVBF-85中隊が、1945年7月10日、ミッション「敵航空基地破壊作戦/成増&調布基地」を遂行。VBF-88中隊は北緯34度、東経142度30分付近の海域から午前5時に発艦、午前9時30分に帰還、とある。ヨークタウン所属中隊機はFG-1D(グッドイヤー社製F4Uコルセア)12機、シャングリラ所属の中隊はF4U-1D 12機である。搭載された爆弾は、VT信管付き260ポンド破片爆弾、通常260ポンド破片爆弾、5インチロケット弾である。

破片爆弾とは、爆弾の周りにベルト状の鉄板をコイルのようにぐるぐると巻きつけたもので、爆発と同時に鉄板が砕け散り、破壊力や殺傷力を高めたものである。これに、VT信管=近接信管(信管内部の真空管から電波を発し、目標の手前で爆発させることができた)を付けて使用した。爆弾を空中で爆破させることにより、無蓋掩体に置かれた飛行機や、半地下の防空壕、胸墻(きょうしょう‥敵弾を避けるために胸の高さまで築いた盛り土)や遮蔽物に隠れた防空砲台の兵士へのダメージを狙っていた。

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空母ヨークタウンの滞在地点は上の海図に記した地点で、空母シャングリラは少し離れた海域にいた。

 

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次は、攻撃の記録である。VBF-88中隊は、成増の他に調布と松戸の基地を攻撃した。攻撃地点に雲は無く、視界は15マイルあった(VBF-85中隊のレポートでは20000フィート上空に雲量2の雲と報告)。攻撃方法は急降下で、爆撃照準にはマーク8型照準機を使用し、高度4000フィート(約1200メートル)から爆弾を投下した。成増上空到達は午前6時36分だった。

目標1は成増飛行場から北東に3500フィート(約1キロ)の地点にあるAA(対空砲陣地)で、2機がVT信管付き破片爆弾とロケット弾を使用し攻撃を行った。このAAは赤塚高射砲陣地と思われ、照準の範囲20’X20’とは6mX6mであり、6基ある高射砲のうちの1基に照準点を定めて攻撃したと考えられる。目標2は飛行場北側にある駐機場で、1機が普通破片爆弾とロケット弾で攻撃した。目標3は飛行場西側の対空砲で、1機が普通破片爆弾とロケット弾で攻撃を行った。以上が成増飛行場に対する攻撃で、目標4以下はヤマガミト?飛行場、松戸飛行場、調布飛行場への攻撃だった。

一方、VBF-85中隊は午前6時45分に成増上空に到達、12機全てが成増飛行場を攻撃した。この攻撃に対する所感は以下のとおり。「3発のVT破片爆弾が南西防壁地域で爆発するのが観察された。 1発が滑走路に隣接する着陸区域で爆発するのが観察された。 3発が飛行場の南東角で観察され、4発は観察されなかったが目標地域に命中したと想定される。 損傷は観察できなかった。 燃えたと見られる飛行機はないが、未確定数の飛行機への損害は想定される。 ロケット弾と弾薬は防壁区域で命中したが、正確な命中は見られなかった。」

他に、鉄道または道路橋に1機がロケット弾で攻撃、1機が飛行場北側にあるラジオ塔をロケット弾で攻撃したが、損傷は与えられなかったようだ。この鉄道とは東上線と思われるが、白子川を挟む谷に架かる鉄橋部分が攻撃を受けたのだろう。

 

「アクション・レポート」には続きとして、今回の作戦についての詳細な報告が付記されている。以下に日本語訳のみ書き記します。

「掃討作戦は午前5時まもなく、本州の犬吠埼約237キロ、成増飛行場の攻撃地点から約350キロの地点から行われた。空中集合ののち、5時15分に進発、掃討隊は高度約4200メートルで海岸線に達した。この時点での速度は約270キロ、HART少佐は防御的な編隊に展開し、スピードを300から320キロに上げ急降下コースをとった。飛行隊は竜ヶ崎の南と大沢の北側を良好な西風を受けながら数マイル過ぎた。午前6時35分、目標に到達。西から東に向け約4200メートル上空から約200メートルまで急降下し、飛行場の北側に位置する目標に爆弾とロケット弾が投下された。すべての飛行機による急降下爆撃でいくつかの目標を攻撃したが、戦果の確認はできなかった。攻撃時の敵対空砲は、中程度の激しさで不正確だった。急降下後は1500メートルまで上昇し、成増飛行場の北18キロの川越上空で集合した。その後、調布飛行場への爆弾投下と砲撃を行うために、HART少佐とSHEFLOE大尉、WOOLWAY大尉の1小隊が南下して攻撃を仕掛けた。SHEFLOE大尉の小隊は、2ヶ所の目標に対し、最初の攻撃で彼らの爆弾を放つことができなかった。そのため、2度目の攻撃の後、松戸飛行場へ向かい、格納庫エリアに爆弾を投下した。戦果は確認できなかった。

この掃討作戦では戦果を観察できなかったが、VT信管付き破片爆弾による戦果を確認することは困難であることを念頭に置く必要がある。照準点は指示通りであり、ダメージをあたえられた可能性はある。敵は現在、飛行場からかなり離れた場所にある分散エリアに、彼らの飛行機を偽装する努力をしている。偽装された防壁は自然な地形を生かして造られている。帰還した小隊長らの結論は、偽装された航空機や設備を適切に確認するには、木枝への砲撃と爆撃を開始しなければならず、急降下爆撃は、明らかに大きな標的または重視された標的に限定されるべきである。」

 

さて、米軍側のレポートに対し、日本軍側の様子はどうであったろうか。それは、前回の当該記事にも載せましたが、下に再掲します。赤塚高射砲陣地の元中隊長による戦後40年目の回想です。

「忘れもしません。昭和二十年七月十日東の空が漸く明けきった頃、東方地平線上に黒ゴマを撒いた様に数百機の敵艦載機の大編隊が我が陣地めがけて殺到してくるのが望見されました。機影はみるみる大きさを増し、正に雲霞の如き表現があてはまる敵機との死闘が開始されました。赤塚隊各掩帯内の砲座と敵機の壮絶なる一騎打ちが繰り返され始めたのです。時刻をかえり見るいとまなぞ毫もありません。突如上空の雲塊からコルセアの一群が急降下で現れ、数発投下した爆弾の一発が、第五掩帯内の砲座に折悪しく命中し大炸裂音とともに肉片が飛び散り、分隊長狩野辰一軍曹以下九名が壮裂な戦死を遂げ、小隊長ほかが負傷を負ったのであります。あたり一帯土けむりに覆われ視界は全く零の状態となりましたが、戦友は戦いの間をぬって、救出に遺体の収容にあたりました。敵機が去ると同時に戦死者を掩帯付仮眠所内に安置いたし、直ちに手厚く慰霊の通夜にあたった次第であります。朝な夕な寝食を共にし、肉親ともかわらぬ深い絆で生死を誓い合った我が友を一瞬に失った悲しみが満ち溢れ、死体にすがって慟哭するもの、悲嘆の涙にくれるものの中にあって、私もただただ涙がとめどなく流れて断腸の思いで胸がいっぱいでありました。」

 

当記事を書くにあたり快く資料を提供いただいた、ブログ・「連合国海軍による日本本土空襲」主催者さまに、厚く御礼申し上げます。

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板橋区民、あらビックリする。〜ヤマト糊よ、永遠に。〜(発掘追加情報アリ)

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そろそろ梅雨に入る雰囲気ですね。
先週末、こんなニュースが流れた。東大の山崎聡特任准教授や米スタンフォード大学などの研究チームは5月30日、液体のりの主成分・ポリビニルアルコール(PVA)を培養液として使うことで、マウスの造血幹細胞を増殖させることに成功したと発表した。論文は同日、英科学誌「ネイチャー」電子版に掲載された。>

造血幹細胞は赤血球や白血球のもとになる細胞で、白血病をはじめ血液疾患の治療に重要な役割を果たす。通常、造血幹細胞を増殖させる培養液にはウシの血清成分などが使われているが、非常に高価であることが治療や研究においてネックだった。それが今回、安価に入手できる液体のりが培養液に使える可能性が示されたのだ。発表では「白血病を含む血液疾患への次世代幹細胞治療の道を開く」だけでなく、「幹細胞治療へのコスト削減にも大いに貢献する」ことが期待されると結論づけている。今後はヒトの造血幹細胞への応用に向けたさらなる研究が見込まれている。

白血病は身近な病気で、板橋区民の周りでもこの病気に罹った方は何人かいる。来年の東京オリンピックで活躍が期待されている、水泳の池江璃花子選手がこの病気を患い現在闘病中であり、そのことも、このニュースが大々的に報道された原因だろう。

ニュースで取り上げられた”液体のり”の代表商品として紹介されたのが、「アラビックヤマト」で、全国どこでも目にすることができる商品である。製造しているのは「ヤマト株式会社」で、当ブログでも何度か記事にしましたが、この会社と工場はかつて我が故郷、徳丸に存在していた。東武練馬中央病院の北方、徳丸通り沿いにあった工場はすでに無く、マンションへ建て替ってしまったが、アラビックヤマトが開発された1975年には、まだ工場は徳丸にあった。

板橋区民は、この工場が閉鎖された際、隣接の社長宅の敷地にあった創業者の胸像の裏に刻まれた銘文を書き写していた。

「長谷川武雄社長は、明治36年10月29日北海道八雲町に生まれ、昭和3年3月3日、志を抱いて上京、本所区平川橋に於て莫大小製造卸合名会社長谷川惎商店を開業し、業務の拡張と共に店舗を東両国に移す。昭和16年5月1日ヤマト糊の製造に努めた。偶々第二次世界大戦遭い、当時の情勢は事業を縮小するのを止なき至らしめたが機を看るに敏なる氏はここ徳丸町に食品加工業東洋食品工業株式会社を興し時の需要に対応した。終戦後、我国の事務用糊の外国品に劣れるを憂い特許製法を発明し、これが研究に専念し、研鑽5年、昭和25年ついに製糊法の天革新ともいえる、冷糊法による事務用糊の特許製法を発明し、斯界に冠たる優秀品を発売、ヤマト糊の赫々たる名声に全国に普く拡りかくて確固たる販路を拓くに至った。その敏わくて明察による幾多の功績は常に吾々を感激せしめよき先達として敬慕しヤマト糊創立60周年を記念し吾等一同相図りここに肖像を建てて之を顕彰する。 昭和34年11月10日」

注)莫大小=メリヤス 隅田地域で盛んであった産業で、壁紙を接着する際にでんぷん系の接着材を使用した。徳丸に移った時は食品加工の会社であったが、これは、戦時中、糊の原料が手に入らず、糊の製造技術を生かして乾燥野菜などを作り、海軍に納入していた。

 

今回のことで、ヤマト株式会社は「一部報道について」と題して自社H.P.に以下のコメントを発表した。

「昨日(5月30日)から一部報道機関において話題となっている弊社液体のり『アラビックヤマト』におきまして、東京大学を中心とした研究チームは通常の販売経路において液体のり『アラビックヤマト』を購入、研究素材として使用され、画期的な研究結果を出されました。液体のりの使用目的と異なる使用方法ではありますが、最先端医療技術に関与して、病気に苦しんでおられる方を含め社会貢献の一助となれる事は社員一同大変喜ばしい限りであります。」と製造会社として喜びを表した。

同社は「愛され続けている『アラビックヤマト』を今後ともどうぞよろしくお願いいたします」としている。

 

さて、先月のこと、”遺跡発掘最新情報”として、成増5丁目のマンション建設現場から、奈良から平安時代にかけてと思われる横穴墓が発見された話をUPした。近隣の和光市や北区からはすでに同時期の横穴墓は見つかっており、板橋区では今回が初めての発見だった。墓には人骨が残っていたとのことで続報を待っていたが、もう少し詳しい情報を得た。今回見つかった墓は、崖をくり抜いた横穴式で、床面には石が敷き詰められていた。この石の上に遺骸が置かれたために、人骨が現在まで残ったらしい。墓は何度か再利用され、先に埋葬して人骨化した遺骸を脇に寄せ、新たに遺骸を安置したそうで、脇には2〜3体分の人骨が重なっていた。見つかった墓は2つあり、そのうちの一つには志木あたりで見つかる凝灰岩を利用した”仕切り”がされていた。この方式は古墳時代によく見られた形式らしい。残念ながら土器片や金属片などの遺品は発見されなかったので、詳しい年代は不明とのこと。しかし、今後、発見された人骨が詳しく分析されれば、特定ができるかもしれない。いずれ出るであろう報告書を楽しみに待ちたい。

 

 

 

 

 

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板橋区民、限りなき参加する。〜あの頃は、空も飛べたのに・・〜

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梅雨入り前の酷暑の日、板橋区民は武道館へ出かけた。

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今回のレジェンドアーチストは「アリス」である。「アリス」は1981年に活動を休止したが、たまに再集結し、今年は6年ぶりに活動を再開した。板橋区民にとっては青春時代を共に過ごしたグループである。初めて行ったコンサートが、今から40年前!に同じ武道館で行われたコンサートであった。確かその時、CMソングとして大ヒットした「君の瞳は一万ボルト」がお披露目されたんだっけ。ああ、そう言えばこのときのツアータイトルも「限りなき挑戦」だったよなあ。。

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さて、メンバー全員が70歳を迎えたアリス、存分に楽しもう!

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コンサートはジャスト2時間半で終了、休息時間なしで突っ走った。往年のアリスサウンドは健在で、特に大ヒット曲の”チャンピオン”はチンペイさんソロコンサートでは何十回と聴いたが、やはりアリスとしての楽曲で聴くと迫力が違う。アンコール最後の曲、”さらば青春の時”で、ああ、40年前もこの曲がラストだったよなあ・・とフラッシュバックした。3人が舞台から去り、さて、帰ろうと階段を上りかけると、俄かに拍手がわき起こった。なんと3人がステージへ舞い戻り、2度目のアンコールに応えたのである。曲はグループ初期の名曲、”明日への賛歌”だった。板橋区民は感動し、ただただ立ち尽くすのみであった。。

 

 

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おまけ。

これは40年前の武道館コンサートの時に買ったアリスTシャツを着て飛び上がる板橋区民である。あの頃は軽々と空を飛べたのに、今では脚立を登るのさえおぼつかない体たらくとなってしまいました。。

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板橋区民の夏、始まる。2019

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板橋区民は、枝豆が大好物である。困ったことに、枝豆の前ではサルになる。あればあるだけ食べてしまうのだ。。
久しぶりの記事が枝豆で申し訳ない。が、夏の風物詩なので書かずにはおられないのである。
板橋区民の贔屓は、川越街道と笹目通りの交差付近にある無人販売所だ。平成のはじめ頃までは、我が故郷、徳丸6丁目の無人販売所でも売っていたのだが、今では赤塚郷内では見かけなくなってしまった。
トウモロコシと枝豆は、獲れたてが一番うまい。販売所では午前中に収穫した新鮮な代物を昼から並べて売る。それを即買いしてさっと茹でて喰う‥これはもう最高のご馳走なんだな。。
これから7月の初週あたりまでが枝豆の販売期間なので、短い期間だけれど存分に味わうことにしよう。

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板橋区民、2019年6月23日に記す。

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梅雨空が続きますね。

本日から74年前の1945年6月23日は、沖縄での組織的戦闘が終わった日だ。その前々日の21日、九州の都城東飛行場に駐屯していた飛行第47戦隊は、沖縄へ特攻出撃した第26振武隊4機の直掩任務に就き、徳之島西方約65キロ地点で特攻機と別れ、帰途に着いた。そして、奄美大島西方20キロの地点に差しかかった時、突如、上空の雲の中からグラマンの奇襲を受けた。敵の有利な位置からの攻撃に対し、各機はバラバラに雲へ向かい退避行動を行ったが、3機が瞬く間に撃墜されてしまった。しかし、援護をした第26振武隊機は、全機敵艦に突入成功し、米軍の記録では、水上機母艦カーティス大破、水上機母艦ケネス・ワインディング小破、護衛駆逐艦ハロラン小破、中型揚陸艦59号小破と曳航していた駆逐艦バリを沈没させるという大戦果をあげていた。

さて、話がのっけから47戦隊に逸れてしまったが、米軍が沖縄本島に上陸を開始したのは4月1日であった。最初の目標は北飛行場(読谷補助飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)の確保で、その後、米軍は本島北側部分を進撃し、4月22日には制圧を完了した。日本陸海軍は首里や那覇のある南半分を決戦の地としており、主力部隊を置き強固な地下陣地網を敷いて米軍を迎え撃った。この時、まだ米軍の手に落ちていなかった小禄飛行場(現在の那覇飛行場)を守っていたのが、南西諸島海軍航空隊であった。この航空隊は「乙航空隊」と称され、航空機を用いて作戦を実施する「甲航空隊」とは対極であり、基地防衛や輸送・移動用の最低限の航空機しか持たず、航空基地を防衛し、支援システムを保有する陸上部隊であった。 

沖縄本島に展開した南西諸島海軍航空隊は、別名「巌部隊」と呼ばれていた。この「巌部隊」の戦いを個人的に書き留め、終戦まで生き延びたKと言う海軍軍医中尉がいた。戦後、このK軍医中尉の手記を元に、作家・田宮虎彦(1911年〜1988年)が小説として構成し、「沖縄の手記から」と題された本が、1972年に出版された。この本は、平成の半ば頃から現代国語の教科書の題材として使われ、中学・高校の教科書に載り、入学試験にも引用されている。もちろんであるが、引用されたのは本の中の一章で、当間キヨという県立病院の看護婦をしていた若い女性が、日本軍が撤退した後の壕に残され、動くことができない傷病兵を見捨てることができず、K軍医大尉の必死の説得も聞き入れることはなく、やむなく壕を後にした軍医大尉が数週間後に壕へ戻ってみると、そこに白骨化した女性の遺体を発見するという部分だ。

小説は、米軍が沖縄へ上陸した1945年4月から終戦後、9月半ばにK軍医中尉が投降するまでの様子が描かれている。実話を元にしているため、創作の部分は少ないように思われ、非常に読み応えがある。執筆は長期にわたって行われたようで、初出は、雑誌「新潮」1953年3月号に「ある手記から」と題してまずは短編が掲載された。その初出の章は、1945年6月上旬より始まった米軍の小禄飛行場への上陸シーンから始まる。(以下昭和表記)

「‥はっきりした日附けはわからない。六月三日か四日、とにかく六月にはいったばかりの明け方であつた。私は炸裂する艦砲弾の轟音に眠りをやぶられた。(略)いよいよ来たー当然、来るものが来た、と私は考へていた。(略)壕の中が殺気だつていた。遠く近く、艦砲弾は、私たちの陣地に、雨のやうに降りかかつて来る。ニ・三時間、それはつづいた。やがて、その艦砲がぴたっとやんだと思ふと、今度は、轟々と潮騒のやうに押しよせて来る地響きが遠く聞こえて来た。<来たぞぉっ、戦車だっ>その時、壕の中で、誰かが叫んだ。粕谷主計大尉の声だつたやうに思ふ。」

この粕谷主計大尉こそ、我が赤塚郷、板橋区徳丸7丁目におよそ300年前から存在し、昨年3月15日に東京都指定有形文化財・板橋区登録有形文化財に指定された「旧粕谷家住宅」の長子として生まれた人物であった。

粕谷主計大尉こと粕谷正三は、大正8年8月、江戸時代に徳丸村の名主を務めていた粕谷家に、父・直右衛門と母・なみの次男として生まれた。正三さんは大変優秀な人物で、紅梅小学校在学中に転校し、開成中学を学年トップで卒業して一高から東京帝国大学法学部政治学科に入学(中曽根康弘元総理の1年後輩)した。在学中に高等文官試験に合格し、台湾総督府に任ぜられるが、その直後の昭和17年9月29日に海軍主計見習尉官に採用され、海軍経理学校に入学した。昭和18年1月、経理学校を卒業した正三さんは海軍主計中尉に任ぜられ、巡洋艦・阿賀野乗組みを命ぜられた。阿賀野は昭和17年10月に竣工し、第10戦隊(水雷戦隊)の旗艦となった。18年11月のブーゲンビル島沖海戦に参加した直後、12日朝に米軍潜水艦の魚雷が命中し、その時の爆発により重傷を負い内地送還となり呉海軍病院で入院・療養した。昭和19年2月、傷の癒えた正三さんは、鹿島海軍航空隊付きとなり海軍主計大尉に任ぜられた。同年10月、南西諸島海軍航空隊分隊長に補せられ、宮古島基地(宮古島にいた記録が残っていないが、周辺の資料により断定)に赴任した。そして、昭和20年1月。粕谷正三大尉は、南西諸島海軍航空隊本部副官(航空参謀・棚町整大佐の副官)として、米軍が目前に迫る沖縄本島へ移動する。

小説の引用を続ける。

「(略)七時近い頃であった。戦車は遠くで一斉にとまると、同時にその戦車砲がパッパッと火を噴きはじめた。(略)だが、それも日没前になると、火蓋をとじて、一斉にあとへひいていつた。その日が攻撃が終わった訳であつた。(略)しかし、その眠りも翌朝六時前から、私たちの陣地に落下してくる艦砲のダ、ダアーンと炸裂する響きでやぶられる。(略)戦車砲で、私たちの火器をうちつぶしてしまふと、戦車のかげからアメリカ兵が姿をみせた。私たちの方から小銃でうちかけると、アメリカ兵は戦車のうしろに、さっと、身をかくして、また戦車砲で応射をはじめた。そんなことをくりかへしているうち、私たちの陣地からは、真裸になつた兵隊が、三・四人で爆雷をかかへて壕から飛び出していつた。えつさ、えつさといふ決死のその掛声が、不気味に私の耳にも聞こえて来るやうになつた。(略)

(6月14日、総員切り込みの命令が下りる。)‥壕内で飯が炊かれた。握り飯が、斬り込みに行く兵隊たちにくばられた。最初に下士官以下五十名をひきつれた部隊長が、天皇陛下萬歳を叫びながら飛び出していつた。それから、つぎつぎに、三・四十人づつの下士官や兵隊たちが整備長以下の士官につれられて壕を出ていつた。そして、最後に、残った兵隊たちを、粕谷主計大尉がひきいて、切り込みに出た。
粕谷主計大尉は、南方作戦で火傷した左手を、壕の入口まで見送った私に、ニ三度ふつてみせて、「あとをたのむ」といふと、かすかに白い歯をみせて笑った。私が挙手の礼をかへすと、大尉は、そのままくるりと私に背をむけ、指揮刀(徳丸の実家から持ってきた家宝の備前長船)を合掌するやうにかかげ持つたかと思ふと、「天皇陛下萬歳」とひと声叫んで、壕の外の闇にのまれていつた。」

その後の粕谷正三さんのことを、見送ったK軍医中尉は知ることになる。

「‥ある夜、私とならんで、花火のやうな照明弾をながめていた森野という主計兵が、私の耳に口をよせると、ささやきかけるやうな声で、「軍医中尉、聞こえるでせう」と、いひかけて来た。森野は、あの最後の切り込みの夜、粕谷主計大尉に引率されて出て行つた兵であつた。私は、その森野から、粕谷大尉たちが、幾度も斬りこみをくりかへしたあとで、生き残つたものたちばかりが真中に爆雷を囲んで車座になり、一緒に自決した話をきかされていた。森野はその時の傷跡を顎から頬にかけて残していた。私は部隊の士官のうち、兵科は違つたが粕谷大尉と親しくしていたので、その話を聞かされてから、森野に何となく親しみおぼえるやうになつていた。(略)」

 

K軍医中尉こと、金子軍医中尉は戦争が終わるまで生き延びた。そして世の中の落ち着いた昭和24年6月のある日、金子氏は徳丸の粕谷家を訪ね、粕谷主計大尉の最後の様子をご家族に伝えたのであった。

粕谷正三さんは、巡洋艦・阿賀野勤務時、ブーゲンビル島沖海戦にて負傷し、呉の海軍病院に入院していた。怪我がある程度癒えた昭和19年1月、懐かしの徳丸に1ヶ月ほど帰京し、療養した。その折、ふと家族にこんな言葉を漏らしていたと言う。「俺は死んでも靖国神社には行かぬ。この家の棟に留まって皆を守るよ‥」

その正三さんの言葉が、今日、有形文化財「旧粕谷家住宅」として残った所以なのである。

 

追記:掲出写真の3枚目は、粕谷大尉が最後の切り込みに出た、小禄の寿山巌部隊司令部本部壕出入り口。(板橋区民撮影)

   1972年に出版された「沖縄の手記から」では、粕谷大尉の名前は三上大尉へと変えられている。

 

 

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板橋区民、何度でも何度でも会いに行く。

梅雨の晴れ間。

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板橋区民はまたまたやって来た。埼玉スーパーアリーナ!

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楽聖・小田和正アンコールツアーへ。

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本日の席はステージの裏の方だけど、花道には近いので小田さん近くに来てくれるかな。

 

 

午後6時45分に”会いに行く”で始まったコンサートは午後9時40分まで行われた。今回のさいたまスーパーアリーナでは映像収録が行われたので、いつもより少し長い時間となった。”キラキラ”ではオンステージ席に勢い余ってダイブして右腕を負傷したり、アンコール最後に歌われるバンドスタッフとのアカペラ曲”また会える日まで”では、観客の振るサイリュームの動きがバラバラだったため使うのをやめさせ再度歌い直しをした。そのお礼なのか曲が終了し、誰もがもう終わりと思っていたら引き上げようとするバンドメンバーをまた戻し、なんと”会いに行く”をさらに歌い出して会場は大盛り上がりでした。

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板橋区民、徹底的に会いに行く。

天候が荒れてきましたね。

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そんな天候もなんのその、板橋区民はまたまたまた埼玉スーパーアリーナへやってきた。今夜は、レジェンド・小田和正の関東方面ラストコンサートだ。

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昨晩とほとんど変わらない席位置だけど、だいぶ前の方なので花道を行く小田さんが良く見えそうだ。

 

午後6時35分に始まったコンサートはぴったり3時間で終了した。昨夜の反省があったのか、小田さんも無理をせずに駆け抜けた。アンコールの挨拶で声を詰まらせ涙ぐんだのは以外だった。小田さんが感極まった姿をステージ上で見せると、敏感な人はもう小田さんはコンサートをやらないのではと落ち込んでしまうからだ。スーパースターは辛いなあ。。

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板橋区民、冷静に分析する。

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6月も終わりですが梅雨らしい天気が続きますね。
板橋区民は今年3月の初め、元帝都防空飛行第47戦隊第3中隊桜隊所属の将校空中勤務者であった石原少尉とお会いした。石原少尉は幹候11期で、操縦者としては経験が浅く、本格的な戦闘に参加したのは1945年2月16日に行われた、アメリカ側で言うところの「ジャンボリー作戦」が最初だった。
「ジャンボリー作戦」とは、米軍の硫黄島上陸を前にして行われた、関東地方を中心とした日本陸海軍基地を米空母艦載機によって掃討する作戦だ。桜隊は朝食の後に出撃、千葉の八街付近で米F6Fグラマン6機を眼下に発見、上空有利な位置から1〜2撃を加え、全機撃墜するという大戦果を収めた。
‥と言うのが現在まで語られている事だ。この話を大きく取り上げたのは戦史家の渡辺洋二氏で、氏は1980年代の初め頃に元47戦隊の空中勤務者等を訪ね、この日の空戦の様子を聞き取った。渡辺洋二氏は日本側や米軍の資料も丹念に調べて誌上に発表するため、信頼度も高い方だ。板橋区民も昔から著作を読み、勉強させていただいていた。
さて、今年は2019年、元号も令和の御代に変わった。平成を通して世の中に大きな影響を与えたのは、何と言ってもインターネットの急速な発達だろう。昔は”ウイキペディア?そんなシロウトサイトに書いて有ることなど信用できないわ”なんてことが常識だったけれど、いまではそんな声もかき消された感がある。検索サイトやグーグルマップの無い時代にはいまさら戻れないだろう。そのおかげで、ちょっと前までは専門家でなければできなかった学術的な調査も、やる気があれば素人でも相当な所まで調査が可能な時代となった。
前振りが長くなったけれど、インターネットの時代になって、あらためて1945年2月16日の八街上空の戦闘を検証してみよう。問題は、桜隊は本当にF6Fを6機撃墜したのか、ということだ。渡辺洋二氏のご著作でも、実はこの点については日本側の記録と、桜隊隊員の聞き取りのみで描いている。
昔、板橋区民は47戦隊本部勤務で、空中勤務者から戦闘詳細を聞き取り、戦闘報告書を作成していた宇都木少尉にこんな話を聞いた事がある。「各戦闘機の戦果はね、敵機に向けて機銃を撃ったらそれは撃墜、という判定にされていたんだよ。」実際、石原少尉から伺った話でも、「敵機に向けて射撃をしたけれど、一撃しただけで脱出したので地上に激突するのは見ていない。」とのことであった。
敵機撃墜の戦果報告が実際よりも多く報告されるのは日本側ばかりではなく、それは米軍側でも同じだ。ではどうやって真実を確かめればいいんだろう‥それを調べる方法の一つは、未帰還機の確認だ。これは、日米共に確実にカウントしている。ネット上に公開されている「POW研究所」というサイトでは、日本空襲における米側の損失機の研究が行われ、未帰還の爆撃機や艦載機の詳細な情報が載せられている。その情報を参考に、2月16日に6機以上のF6F未帰還機を出した米空母と所属中隊を調べると、「USSベニングトン・VF-82中隊の6機」のみであった。
この結果を、米空母艦載機による日本空襲の戦闘詳報を調査されている「連合国海軍による日本本土空襲」のブログ主催者さまに尋ねてみると、この日、VF-82中隊は厚木方面を攻撃しているので該当しないのでは、とのことであった。それではと、5機〜3機未帰還となったケース(エンタープライズ、ハンコック、ホーネット、レキシントン、ランドルフ、ワスプ)はどうであろうとお尋ねしてみると、数が多いのでちょっと待ってね、と暖かいお言葉をいただいており、現在調査中だ。(主催者さまに感謝)
渡辺洋二氏が調査されていた時代は、国会図書館の憲政資料室にある膨大なマイクロフィルムの中から該当の米軍戦闘報告書を探し出さねばならず、また憲政資料室に所蔵されているものは全てではないので、さらにアメリカの公文書館でも探さなくてはならなかった。現在のような調査方法は、インターネットがなければできないことであり、ほんとうにありがたい時代になったものだ。啓志線の調査も同じである。
”桜隊がF6Fを6機撃墜した。”という話の真実も、いずれ解明される日が来るだろう。

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