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1942年4月18日。

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いまから77年前の今日、東京は初めての空襲に遭った。

1941年12月8日、日本海軍はハワイのオワフ島真珠湾を奇襲し、米英に対し宣戦を布告した。米国はこの奇襲に対してすぐさま報復を計画し、翌1942年4月18日、本州沿岸五百浬の海上から、ドーリットル中佐を隊長とする陸軍爆撃機16機を発艦させ、東京や京浜地区、名古屋、神戸などを空襲した。初めて外国の爆撃機による攻撃を受けた軍部は、その対応が後手に回り、1機も撃墜できないままに爆撃機の日本上空通過を許してしまった。あわてた軍部は、大急ぎで防空体制の見直しを行い、1週間後には、現在のベトナムに駐屯していた、陸軍新鋭戦闘機・中島キ44二式単戦「鍾馗」の実験部隊であった、独立飛行第47中隊を帝都防空任務に当たらせるべく、内地に呼び戻した。

ドーリットル空襲の後、帝都防空の強化を図るため、市ヶ谷の陸軍航空本部では、宮城上空まで3分で到達できる位置に防空部隊の展開する飛行場設置の計画をおこない、候補地の選定を始めた。そして、いくつかの候補地の中から、防災緑地に指定されていた、現在の練馬区光が丘一帯に飛行場を造ることを決定した。これが後の成増陸軍飛行場であり、1943年8月から突貫工事で建設が始まり、10月に滑走路が完成するとともに、調布飛行場に間借りしていた独立47中隊は飛行47戦隊へと改変され、新造の成増陸軍飛行場を根拠飛行場として配備された。

 

と言うことで、成増飛行場はこのドーリトル空襲がきっかけで誕生したのである。さて、冒頭の写真ですが、この4月10日、ドーリットル空襲に参加した最後の生き残り兵士が死去したとのニュースが流れた。おん歳103才!のリチャード・コール氏で、ドーリットル中佐機の副操縦士であった方だ。空襲時の状況は以下の通り。

ドーリットル中佐機は茨城県から東京上空に侵入し、12:15に空襲を行った。東京陸軍第一造兵廠を目標としていたが、全く無関係の場所を爆撃してしまい、民間人に死傷者を出す。(早稲田中学の校庭にいた4年生の生徒と他1名が死亡、重症者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出た。)中佐機は、その後日本陸軍の九七式戦闘機の追尾を振り切り、海軍厚木基地近くを通過して海上に出た。中国大陸到達時の天候は悪化しており、また中華民国軍飛行場には誘導電波装置が設置されていないため夜間着陸は不可能となり、ドーリットル中佐は落下傘脱出を命じ、午後9時30分(ホーネット発艦より約13時間、飛行距離約3620km)搭乗員は自動操縦の機体から脱出した。

ドーリットル隊の奇襲作戦は米軍にしては無謀な作戦で、陸軍爆撃機B-25を空母から発艦させ、本土空襲ののち中国大陸へ向かい、友軍のいる地域に落下傘で脱出するというものだった。結果、攻撃参加者80名のうち、7名が失われた。

 

この時のドーリットル隊が板橋区の上空を通過したかどうかは微妙だけれど、もし隊長機が目標通り一造(北区に存在)を攻撃していれば、間違いなく板橋区上空を通過していたのでしょう。

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