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板橋区民、朝ドラを見て思い出す。〜北海道の板橋区。〜

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さすがに桜も散っちゃいましたね。

さて、4月から始まった朝ドラ「なつぞら」で、主人公のクラスメイトの男の子が、戦争末期に東京から来た「拓北農兵隊」の家族であることが明かされ、ここ数日、その過酷な状況がドラマで描かれていた。すでに開墾に適したろくな土地はなく、一緒に入植者した人間は、ほとんどがあきらめて離れてしまったと言う。

「拓北農兵隊」は空襲にさらされる東京都民向けに、疎開の一環として行われた北海道への移住政策だった。同じ区でまとまって移住するのが基本で、板橋区でも、数家族が移住に応じて北海道へ渡り、その開墾の地は「板橋地区」と呼ばれていました。このことについては過去に何度か記事にしたけれど、朝ドラで話題になったので、便乗して再度UPします。

さて、板橋区民のようなモノ好きな人間以外は行くことはないと思いますが、「板橋地区」とは現在のどの辺りに存在したかと言うと、札幌駅バスターミナルから「札幌白陵高校」行きのバスに乗り、札幌白陵高校の一つ手前のバス停で降り、そこから豊平川へ向い2キロ弱の地点にありました。

「板橋地区」は写真にあるとおりの場所にあり、豊平川の氾濫源なのか、周辺には清掃工場や広大な処理場があるばかりで、住宅地や商業地は言うに及ばず農業なども不向きな土地であるかのような印象を受けました。道路は大型ダンプが行き交う危険な道で、1996年に建てられた板橋地区を示す看板も風化が厳しく、朽ち果てる寸前といった趣でした。

詳しくは、看板の説明文を読んでいただきたいのですが、小さすぎて読めな〜い!ので、がんばって書き写します。

「札幌で消滅した地名に『板橋地区』がある。昭和20年(1945)の東京大空襲のため、戦災者北海道開拓教会・東京都・北海道が一般公募した『開拓農兵隊』に応募し、終戦間近の7月6日東京から疎開してきた人々のうち、東京都板橋区の10世帯が、この地域に翌年4月入植した。当初1戸当たり2町3反歩(約2.3ha)の農地割り当てを受けたが、農業経験者は1人もいなかった。その後、農地の追加を受け5〜6haの所有者となったが、水害にも見舞われ、自分の食料を得るのがやっとで、水害のたびの救済事業や内職などでなんとか生活を維持し、開拓は筆舌に尽くせないものがあった。この板橋地区の離農を早めたのは、水害常襲地であったことが第一の要因であるが、『県央自動車道』や札幌市の『環状帯のグリーンベルト構想』による、土地転用への動きが重なったためでもあった。」

 

と書かれています。が、おおよそ、その通りとは思いますが、役所が書いた文書なので、当事者である方々はどんな決意で離れたのかはわかりません。最後の世帯が立ち退いたのは平成の初め頃でした。

現在ですらこんなに殺伐とした土地へ入植を余儀なくされた板橋区民達の嘆きが、今でも聞こえるような、そんな風景に、70年後の板橋区民は、ただただ立ち尽くすのみでした。。

 

以上の記事を書いてUPしましたが、先ほどネット上に次のような興味深い情報を見つけました。なんと朝ドラで描かれた主人公のクラスメートのモデルとなった人物(長じて画家となる)が、板橋区出身の人物だったのです!!

神田日勝と拓北農兵隊

戦争苛烈を極める昭和20年8月、神田要一一家は板橋区が募集する「拓北開拓団」(第五次拓北農兵隊)に応募し、32戸49名の一員となり7人連れ立って住み慣れた東京練馬を後にしました。神田日勝7歳の夏でした。進むも地獄、止まるも地獄。神田一家が火の海と化す首都を見渡しながら、列挙された募集要項の甘い文言に応じるのは自然の成り行きだったのでしょう。一行は、幾度も米軍の空襲や艦砲射撃に遭いながら終戦前日の8月14日に鹿追村に辿り着いたのでした。神田一家の厳しい開拓生活の始まりでした。前述の募集要項の特典などは殆ど無いに等しく、住む家も無く近隣農家の助力で燕麦(えんばく)がら葺きの粗末な掘っ立て小屋を建て、与えられた「農地」とは名ばかりの巨大な根株が無数に残された荒地を開墾することが一家の農作業の第一歩でした。僅かに配給を受けたものは鍬一丁と鋸一枚であったそうです。「第五次拓北農兵隊」に応募した集団帰農者は、鹿追村戦後開拓団第一号であり、村の人々は彼らを「東京疎開者」と呼び受け入れ態勢を整えて待ち受けましたが、着の身着のままでつぶれた鍋釜を携えた彼等の姿に、涙をこらえることが出来なかったといいます。幼い日勝も、都会生活では想像も出来ない北海道十勝の開拓という環境変化を体験しながら成長していきます。多くの仲間が言語に絶する苦闘の日々に希望を失い離農を余儀なくされる中、家業を継ぎ、度重なる大冷害や凶作など大自然の脅威を乗り越え、社会の不条理なども目の当たりにしながら培った強靭な精神力を武器として、鹿追の大地に根を下ろしたのです。『石井次雄著「拓北農兵隊」戦災集団疎開者が辿った苦闘の記録』『鹿追町史』より。

 

札幌市の板橋地区へ移動した方以外にも、多くの板橋区民が開拓民として北海道へ渡っていたのですね。

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