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2019年4月

板橋区民、朝ドラを見て思い出す。〜北海道の板橋区。〜

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さすがに桜も散っちゃいましたね。

さて、4月から始まった朝ドラ「なつぞら」で、主人公のクラスメイトの男の子が、戦争末期に東京から来た「拓北農兵隊」の家族であることが明かされ、ここ数日、その過酷な状況がドラマで描かれていた。すでに開墾に適したろくな土地はなく、一緒に入植者した人間は、ほとんどがあきらめて離れてしまったと言う。

「拓北農兵隊」は空襲にさらされる東京都民向けに、疎開の一環として行われた北海道への移住政策だった。同じ区でまとまって移住するのが基本で、板橋区でも、数家族が移住に応じて北海道へ渡り、その開墾の地は「板橋地区」と呼ばれていました。このことについては過去に何度か記事にしたけれど、朝ドラで話題になったので、便乗して再度UPします。

さて、板橋区民のようなモノ好きな人間以外は行くことはないと思いますが、「板橋地区」とは現在のどの辺りに存在したかと言うと、札幌駅バスターミナルから「札幌白陵高校」行きのバスに乗り、札幌白陵高校の一つ手前のバス停で降り、そこから豊平川へ向い2キロ弱の地点にありました。

「板橋地区」は写真にあるとおりの場所にあり、豊平川の氾濫源なのか、周辺には清掃工場や広大な処理場があるばかりで、住宅地や商業地は言うに及ばず農業なども不向きな土地であるかのような印象を受けました。道路は大型ダンプが行き交う危険な道で、1996年に建てられた板橋地区を示す看板も風化が厳しく、朽ち果てる寸前といった趣でした。

詳しくは、看板の説明文を読んでいただきたいのですが、小さすぎて読めな〜い!ので、がんばって書き写します。

「札幌で消滅した地名に『板橋地区』がある。昭和20年(1945)の東京大空襲のため、戦災者北海道開拓教会・東京都・北海道が一般公募した『開拓農兵隊』に応募し、終戦間近の7月6日東京から疎開してきた人々のうち、東京都板橋区の10世帯が、この地域に翌年4月入植した。当初1戸当たり2町3反歩(約2.3ha)の農地割り当てを受けたが、農業経験者は1人もいなかった。その後、農地の追加を受け5〜6haの所有者となったが、水害にも見舞われ、自分の食料を得るのがやっとで、水害のたびの救済事業や内職などでなんとか生活を維持し、開拓は筆舌に尽くせないものがあった。この板橋地区の離農を早めたのは、水害常襲地であったことが第一の要因であるが、『県央自動車道』や札幌市の『環状帯のグリーンベルト構想』による、土地転用への動きが重なったためでもあった。」

 

と書かれています。が、おおよそ、その通りとは思いますが、役所が書いた文書なので、当事者である方々はどんな決意で離れたのかはわかりません。最後の世帯が立ち退いたのは平成の初め頃でした。

現在ですらこんなに殺伐とした土地へ入植を余儀なくされた板橋区民達の嘆きが、今でも聞こえるような、そんな風景に、70年後の板橋区民は、ただただ立ち尽くすのみでした。。

 

以上の記事を書いてUPしましたが、先ほどネット上に次のような興味深い情報を見つけました。なんと朝ドラで描かれた主人公のクラスメートのモデルとなった人物(長じて画家となる)が、板橋区出身の人物だったのです!!

神田日勝と拓北農兵隊

戦争苛烈を極める昭和20年8月、神田要一一家は板橋区が募集する「拓北開拓団」(第五次拓北農兵隊)に応募し、32戸49名の一員となり7人連れ立って住み慣れた東京練馬を後にしました。神田日勝7歳の夏でした。進むも地獄、止まるも地獄。神田一家が火の海と化す首都を見渡しながら、列挙された募集要項の甘い文言に応じるのは自然の成り行きだったのでしょう。一行は、幾度も米軍の空襲や艦砲射撃に遭いながら終戦前日の8月14日に鹿追村に辿り着いたのでした。神田一家の厳しい開拓生活の始まりでした。前述の募集要項の特典などは殆ど無いに等しく、住む家も無く近隣農家の助力で燕麦(えんばく)がら葺きの粗末な掘っ立て小屋を建て、与えられた「農地」とは名ばかりの巨大な根株が無数に残された荒地を開墾することが一家の農作業の第一歩でした。僅かに配給を受けたものは鍬一丁と鋸一枚であったそうです。「第五次拓北農兵隊」に応募した集団帰農者は、鹿追村戦後開拓団第一号であり、村の人々は彼らを「東京疎開者」と呼び受け入れ態勢を整えて待ち受けましたが、着の身着のままでつぶれた鍋釜を携えた彼等の姿に、涙をこらえることが出来なかったといいます。幼い日勝も、都会生活では想像も出来ない北海道十勝の開拓という環境変化を体験しながら成長していきます。多くの仲間が言語に絶する苦闘の日々に希望を失い離農を余儀なくされる中、家業を継ぎ、度重なる大冷害や凶作など大自然の脅威を乗り越え、社会の不条理なども目の当たりにしながら培った強靭な精神力を武器として、鹿追の大地に根を下ろしたのです。『石井次雄著「拓北農兵隊」戦災集団疎開者が辿った苦闘の記録』『鹿追町史』より。

 

札幌市の板橋地区へ移動した方以外にも、多くの板橋区民が開拓民として北海道へ渡っていたのですね。

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板橋区民、平成最後に「光陰矢の如し」と思う。

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本日は板橋区民アウェーの地、渋谷へ行ってきました。

初めてのNHKホール、ああここで紅白歌合戦をやるのか、とワクワクしながら入りましたが、思っていたよりも小規模、特にステージは意外と狭いんだな、と感じました。

あっ、忘れてましたが今夜はここで井上陽水御大の50周年記念ライブツアーが行われたんです。タイトル名は「光陰矢の如し」〜少年老い易く 学成り難し〜。

奇跡のように前の方の席が取れたのでもうドキドキです。陽水御大もついに70歳の大台を越えられました。

板橋区民が初めて井上陽水を知ったのは、あの大ヒットアルバム「氷の世界」で、1974年の正月に遊びに行った横浜の親戚の一つ年上の従兄弟からでした。「氷の世界」はその1カ月前に出たばかりで、従兄弟は「これはすごいんだぜ〜」と見せびらかし、LPレコードをかけてくれました。板橋区民はどちらかと言うと”かぐや姫”派でしたから、その時は、あまり響きませんでしたが。

定刻通り午後6時30分にライブが始まり、途中15分の休息タイムを入れながらも終了まで往年の名曲を熱唱。特に”少年時代”を生で聞けたのは感激でした。アンコールの”夢の中へ”は総立ちの大盛り上がり、そして”傘がない”でフィニッシュ。さすがベテランのライブでした。

やっぱり、自分の小学校高学年から青春時代までを楽しませてくれたレジェンド達の、生のステージは最高ですね。時代の共有感があります。今年は、もっといろんなライブへ参加してみようかな‥

 

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1942年4月18日。

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いまから77年前の今日、東京は初めての空襲に遭った。

1941年12月8日、日本海軍はハワイのオワフ島真珠湾を奇襲し、米英に対し宣戦を布告した。米国はこの奇襲に対してすぐさま報復を計画し、翌1942年4月18日、本州沿岸五百浬の海上から、ドーリットル中佐を隊長とする陸軍爆撃機16機を発艦させ、東京や京浜地区、名古屋、神戸などを空襲した。初めて外国の爆撃機による攻撃を受けた軍部は、その対応が後手に回り、1機も撃墜できないままに爆撃機の日本上空通過を許してしまった。あわてた軍部は、大急ぎで防空体制の見直しを行い、1週間後には、現在のベトナムに駐屯していた、陸軍新鋭戦闘機・中島キ44二式単戦「鍾馗」の実験部隊であった、独立飛行第47中隊を帝都防空任務に当たらせるべく、内地に呼び戻した。

ドーリットル空襲の後、帝都防空の強化を図るため、市ヶ谷の陸軍航空本部では、宮城上空まで3分で到達できる位置に防空部隊の展開する飛行場設置の計画をおこない、候補地の選定を始めた。そして、いくつかの候補地の中から、防災緑地に指定されていた、現在の練馬区光が丘一帯に飛行場を造ることを決定した。これが後の成増陸軍飛行場であり、1943年8月から突貫工事で建設が始まり、10月に滑走路が完成するとともに、調布飛行場に間借りしていた独立47中隊は飛行47戦隊へと改変され、新造の成増陸軍飛行場を根拠飛行場として配備された。

 

と言うことで、成増飛行場はこのドーリトル空襲がきっかけで誕生したのである。さて、冒頭の写真ですが、この4月10日、ドーリットル空襲に参加した最後の生き残り兵士が死去したとのニュースが流れた。おん歳103才!のリチャード・コール氏で、ドーリットル中佐機の副操縦士であった方だ。空襲時の状況は以下の通り。

ドーリットル中佐機は茨城県から東京上空に侵入し、12:15に空襲を行った。東京陸軍第一造兵廠を目標としていたが、全く無関係の場所を爆撃してしまい、民間人に死傷者を出す。(早稲田中学の校庭にいた4年生の生徒と他1名が死亡、重症者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出た。)中佐機は、その後日本陸軍の九七式戦闘機の追尾を振り切り、海軍厚木基地近くを通過して海上に出た。中国大陸到達時の天候は悪化しており、また中華民国軍飛行場には誘導電波装置が設置されていないため夜間着陸は不可能となり、ドーリットル中佐は落下傘脱出を命じ、午後9時30分(ホーネット発艦より約13時間、飛行距離約3620km)搭乗員は自動操縦の機体から脱出した。

ドーリットル隊の奇襲作戦は米軍にしては無謀な作戦で、陸軍爆撃機B-25を空母から発艦させ、本土空襲ののち中国大陸へ向かい、友軍のいる地域に落下傘で脱出するというものだった。結果、攻撃参加者80名のうち、7名が失われた。

 

この時のドーリットル隊が板橋区の上空を通過したかどうかは微妙だけれど、もし隊長機が目標通り一造(北区に存在)を攻撃していれば、間違いなく板橋区上空を通過していたのでしょう。

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板橋区民、地元旧家からネタを仕入れる。〜ミュージシャン・山下達郎は、赤塚郷で誕生した〜

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桜が終わり、今は藤の花が咲き始めましたね。
先日、赤塚郷でも指折りの旧家の方と話す機会があった。その方をT氏としよう。
T氏は60代後半で、音楽、それもジャズが大好きな方だ。前に、T氏所蔵の厖大なジャズの名盤やCDのコレクションを見せていただいたことがある。残念ながら、板橋区民はBGMとして聞くジャズは好きだが、アーチスト情報などには詳しくなかったので、ほとんどその価値はわからなかった。
そのT氏へ、最近、板橋区民はレジェンドアーチストのコンサートへ足を運ぶようになったんですよ、と言うと、こんな話をしてくれた。
板橋区民が思春期の頃から活動を続け、現在もその人気の衰えないアーチストに山下達郎がいる。山下達郎といえば毎年12月になればどこからともなく聞こえて来る名曲、「クリスマスイブ」が有名ですね。
T氏にはN氏という親戚がいて、N氏は赤塚郷民ならば必ずその名を目にする不動産屋を経営している。N家は、明治の後半に赤塚村の村長を務めた家柄であり、下赤塚駅の開業に尽力もした。そのN氏と山下達郎が中学の同級生で、音楽の話で意気投合し、アマチュア・バンドを結成した。グループは高校進学後も活発な活動を続けたが、高3の年に一時解散状態となった。しかし解散はしたものの、N氏は音楽活動を続け、結局、山下達郎も1969年の秋頃からその集団に参加するようになった。メンバー全員が大学に進学した1972年の春、今までの活動を自主制作のレコードにしてはどうかという提案が出されたのである。
そして、さっそくレコーディングをすることになり、その場所となったのが、N氏家の所有していた倉庫だった。その倉庫は、三園通り沿いの赤塚4丁目側にあったと言う。そこへ、ギター、ベース、ドラム、電気オルガン、ピアノを持ち込み、ヤマハのミキサーを使いステレオ録音を行った。収録曲数はA面B面で12曲、アルバムタイトルはADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」と付けられた。そのアルバムにはしっかりと録音場所として、”S.R.S.(SURFIN' RABBIT STUDIO)東京都板橋区赤塚”と記されている。
アルバム製作枚数は僅か100枚で、ほとんどがタダ同然で配られてしまった。しかし、レコードという形でしっかりと残したため、これをきっかけとして山下達郎のプロミュージシャンとしての活動が始まり、現在まで活躍は続いているのだ。
N氏と山下達郎との交際はいまも続いていて、T氏もN氏に連れられてコンサート中の楽屋へ連れて行ってもらったことがあるという。ちなみに、この100枚しか作らなかったレコードは、いまでは超希少版として100万円を超える値段で市場取引されている。

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ゴールデンウィークは、赤塚郷から始まった。(4年ぶり3回目)

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G.W.も始まろうというのにお天気がイマイチですね。

昨晩放送されたNHK「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」で”ゴールデンウィークの名付け親が判明。”というネタを取り上げていた。これについては過去何度か当ブログで記事にしましたが、せっかくなので一部修正して再掲します。

 

1951年(昭和26年)5月5日(土)、同じ原作を大映と松竹が同じ題名で映画化した「自由学校」が同時に封切られ、大映版の方は会社創業以来の興行成績を記録した。正月映画やお盆映画に匹敵するヒット作が出たことに気をよくした当時の大映常務取締役の松山英夫が、この時期を「ゴールデンウィーク」と名付けて宣伝に利用したのが定着し、一般にも使われるようになったのが始まりとされている。

「自由学校」は朝日新聞に1950年5月26日~同年12月11日に連載された獅子文六による長編小説である。獅子文六は当時の人気作家の一人で、その作品の多くが映画化されており、この作品については松竹と大映の両方が映画化権を得たことで競作となった。
 ストーリーは、自由が欲しいという理由で会社を辞めた五百助(松竹:佐分利信、大映:小野文春)が妻の駒子(松竹:高峰三枝子、大映:木暮実千代)に家を追い出され、ルンペン暮らしの末に和解して家に戻るまでを描いたものである。

この映画「自由学校」の大映版、実は我が赤塚郷で撮影されている。(‥全編ではないですが。)

主人公夫婦は、空襲の激しくなった都心を離れ、郊外の農村地帯へ疎開して来た設定だ。戦後になっても、まだ農家の離れに住んでいる。その、最寄駅が下赤塚駅なのだ。(映画内では駅名を武蔵間駅と変えられている。)撮影に使った農家も、おそらく赤塚の農家だろう。昭和50年頃まで、茅葺の大きな農家はあたりまえのように存在していた。

映画に登場する”下赤塚駅”の駅前風景は、さすがに70年前だけあって今とは全然違うけど、でも、よく見ると理解できると思う。特に駅横の踏切のカットは、カーブの様子や北側が低くなっている感じは現在と変わらない。それと、手前に写る旗、なんだかわかります?古い人には懐かしく、若い人には意味がわからんですね。これは踏切警手が電車の接近や通過を知らせてる風景です。昔の踏切は”手動”で踏切の開け閉めをしてたんですよ。

映画が撮影された頃は、まだ北口は無くて駅舎は南口だけだった。佇まいの古さから、昭和5年(1930年)12月29日に開業した初代駅舎と思われる。2枚目の写真左手の”ハヤシ薬局”は雑居ビルになったけど、ダイナマイト酒場の隣に今もある。奥の大きな日本家屋は、現在、1階が「すき屋」で2階が居酒屋「はなの舞」が入ったビルだけど、建物の角度が同じで、形も今と似ていますね。

他にも疎開先の農家から飛び出した五百助が駅まで向かうシーンや、雑木林で暴漢に襲われるシーン(コメディタッチ)なんかもありますが、いったいどこのド田舎なんだ?というロケーションで、撮影場所は見当もつかないけれど、でも赤塚郷のどこかなのは間違いない。それは、この、どこのド田舎なんだ?という雑木林の風景を、遥か昔の子供時代に、自分は確かに見ているからだ。

 

 

この回「大型連休のおなまえ」が、明日、4月27日午前10時05分からNHK総合で再放送されるので、観ていない方はどうぞ。放送中、大映版の赤塚郷撮影シーン2カットが一瞬ですが映ります。(農家の屋内と畑地を歩くシーン。)

 

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板橋区民、平成最後の日にBest of お宝 in Heisei を選ぶ。

とうとう「平成」最後の日がきましたね。板橋区民が”趣味・板橋区”宣言をして、板橋区及び周辺地域の資料収集を始めたのは、平成が始まってすぐのことでした。以来、自分の興味の赴くままに蒐集や研究を行い、昨年秋には地元郷土資料館でその一部が展示され、一定の成果を上げたと感じております。ただし、それらは輸送関係の資料のみであり、それは蒐集品のごく一部に過ぎない。そこで、平成の大晦日にちなみ、板橋区民の中で、これが数ある蒐集品の中で一番かなと思うお宝を発表します。

 

それでは、ドコドコドコドコドコ‥‥‥‥。ジャーン!

 

発表します! Best お宝・オブ・ザ・平成は‥‥。

 

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「成増陸軍飛行場関連資料」に決定!!

 

お宝は、終戦50周年の年、平成7年(1995.)より調査を始めた成増陸軍飛行場に関する資料で、当時の関係者へのインタビュー動画を始め、お預かりした手記や手紙、複写した写真、その他etc、を含める関連資料群だ。

現在の赤塚新町、練馬区田柄、光が丘地域に存在した成増飛行場については、ごく一部のことしか伝わっておらず、いまだによくわかっていない。当時の直接的な資料は、写真や防衛庁図書館に所蔵されている統計的な資料の他には、第43飛行場大隊におられた方が終戦時に処分をせず、平成の初めまでひた隠しにしていた1945年3月時点の成増基地をまとめたガリ版刷りの極秘資料が一冊あるだけだ。

その極秘資料は、おそらくは陸軍航空本部提出用に作成されたもので、飛行場の組織や基地周辺の体制などについては詳しく書かれているが年表などはなく、どんな経過で飛行場が作られ運用されていたかまではわからないのである。

飛行場の資料は進駐軍が来るまでに焼却処分されてしまったので、関係者の方が持ち出した資料が奇跡的に見つかる以外に望めない。兄弟飛行場である調布飛行場は、その建設が開戦前に東京府により行われたため、一次資料は東京都公文書館に残っているが、成増飛行場は開戦後に陸軍主導で設置されたため残っていないのである。

冒頭の写真地図は、米軍が空襲用のターゲットとして作成した成増陸軍飛行場と周辺を捉えた空中写真で、分析された情報も書き込まれている。最初の地図は1944年に作成されたもので、まだ情報が足りないのか「TAKAMATSUCYO AIRFIELD」と書かれている。2枚目の地図は1945年1月に作成されたもので、こちらでは「NARIMASU AIRFIELD」と変更されている。書き込まれた情報は詳細で、間違っている箇所もあるけれど、概ね正確だ。驚くのは送電線まで載っており、すでに戦闘機や小型爆撃機での空襲も想定しているのではないかと思われるのである。

 

これらの地図は板橋区民が蒐集したものだけれど、よくこんなピンポイントなお宝が手に入ったものだと、我ながらその奇遇さに感動する。明日から、”令和”時代が始まるけれど、さらに貴重なお宝が目の前に現れることを楽しみに待ちたいものです。

それでは、良い改元記念日を!

 

 

 

 

 

 

 

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