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2019年2月

2019年・平成最後の「田遊びまつり」強化週間始まる!

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2月に入りましたが、急に春めいてきましたね。


正確には来週ですが、今年も国指定重要無形文化財である赤塚郷最大の行事、「田遊びまつり」が行われる週がやってまいりました。舞台や民俗芸能大会ではなく、祭りが綿々と続いていた現地で見ることが出来るという年に一度の貴重な機会です。

「田遊びまつり」は、一年間の農作業の様子を神さまの前で演じ、その年の豊作を願うまつりで、正確に言えば”神事”ではなく、「ホラ」と呼ばれる構成員が奉納する行事です。近年はインバウンドとかなんとかで外国人の姿もよく見かけますね。平成最後の「田遊びまつり」、興味を持たれた方は是非、お出かけください。

2月10日  赤塚氷川神社 15時30分ころから10分程度→どんど焼きのまわりを3周する。

2月11日  徳丸北野神社 18時ころから

2月13日  赤塚諏訪神社 19時ころから

詳しい情報は板橋区のHPを参照願います。(#赤塚氷川神社の田遊びは、国指定ではないので載っておりません。)
以前は、地元民から見た独自情報もUPしてましたが、コメント欄に「それはお前の主観の押し付けだろう」などと指摘がありましたので、情報のみであしからず。

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/003/003809.html


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板橋区民、平成最後の赤塚氷川神社田遊びまつりを見届ける。

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 雪が降らなくてよかったですね。

さて、我が赤塚郷では”田遊びまつり強化週間”が始まった。本日はその初日であり先陣を切って「赤塚氷川神社の田遊びまつり」が行われた。

赤塚氷川神社の田遊びは、一説によると先の大戦時にまつり行事が途絶え、戦後になっても完全復活をすることはなく、道具のみが伝承されていたという。それを、近年になってから形だけ復活させたもので、どんど焼きの周りを3周するだけなのでほんの10分くらいで終わってしまう。最近は残り火で餅を焼いて集まった子供たちに振舞っており、子供には好評のようだ。

今年は獅子の中に氏子である消防団の方が入ったので、スーパー戦隊のようになってしまいました。


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板橋区民、平成最後の徳丸北野神社田遊びまつりを見届ける。

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雪にならずに良かったですね。

平成最後の北野神社田遊びまつりは、ちょー寒い中、無事執り行われました。風がなかったのがせめてもの救いでした。。例年通りたくさんの方々が見学に訪れていましたね。パッと見、外人さんの姿は少なかったようでした。板橋区民の隣で朝日新聞のカメラマンが撮影してましたので、購読されている方はお見逃しなく。


大トリ、赤塚諏訪神社の田遊びの日も厳しい寒さのようですが、せめて風が吹きませんように。。


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板橋区民、平成最後の赤塚諏訪神社田遊びまつりを見届ける。

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 板橋区民の願いが通じたのか、今夜は風もなく比較的暖かい夜になりましたね。

さて、平成最後の田遊びまつり強化週間の大トリ、赤塚諏訪神社の田遊びが行われました。つい先ほど撮影した写真を速攻でUPしちゃいます。諏訪神社の田遊びは全般に暗い場所で行われるので、撮影するのは苦労します。板橋区民もそうですが、周りでは照明を焚いていたりストロボを使ったりするので影響を受けてしまい、写真の歩留まりが悪いです。

氷川神社も諏訪神社も、どんど焼きで中心に立てた竹の棒が倒れた方角で吉兆を占うのですが、いずれの結果も見届けておりませんので、今年はどの方角に倒れたのか気になります。。


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板橋区民、誕生日を心待ちにする。ワクワク。

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 日ごとに春めいてきましたね。


もうすぐ板橋区民の誕生日がやってくる。ああ、こんなに自分の誕生日の日を心待ちにするのは何十年ぶりのことだろう。。

平成31年3月5日。東久留米市に、関東エリア最大級の温泉施設、「スパジアムジャポン(スパジャポ)」がオープンする。

そのスペックが凄い。(以下宣伝サイトよりコピペ)

東京都東久留米市に大型スーパー銭湯「SPADIUM JAPON」がオープンします!!
グランドオープンは2019年3月5日(火)。場所は、東久留米市の上の原地区で、大規模な再開発がされているエリアです。400台の大型駐車場があるので、車での来店もバッチリ対応。公共交通機関を使う場合は、西武池袋線「東久留米」駅からバスで約7分です。

5階建ての大型の施設で、関東エリア最大級のスーパー銭湯となります!!お風呂では美肌効果のある天然温泉が楽しめる他、炭酸泉やサウナなど全11種類が楽しめ、また、岩盤浴エリアでは漫画3万冊が読み放題、リクライニングシートやカフェもあるので一日ゆっくり楽しめます!!その他にも、飲食スペースやマッサージなど付帯施設も充実!!

●温泉データ   循環
[ 泉質 ] ナトリウム - 塩化物・炭酸水素塩温泉 (低張性・弱アルカリ性・温泉)
[ 源泉温度 ] 37.8℃ [ 湧出量 ] 180 L/min
[ 効能 ] 神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔症、冷え症、病後回復期、疲労回復、健康増進

源泉名「武蔵野温泉」のあるこの一帯は、武蔵野台地と呼ばれています。地下の地層構造は、2,300年前〜258万年前に形成された上総層群と1,200万年前〜280万年前に形成された下層群”三浦層群”が分布。

上総層群の層厚は約1,300メートルあり、良好な温泉貯留槽となり、その下の三浦層群では、温泉が岩盤の亀裂の中に貯留されています。武蔵野温泉では1,500メートルを掘削。主に1,200〜1,500メートル間の地層域から温泉を採取し汲み上げ、泉温は37.8度で、毎分180リットルの透明の湯を湧出しています。

●お風呂施設
露天岩風呂、炭酸風呂、電気風呂、壺湯ほか全11種類

●その他の施設
お食事処、岩盤浴、マッサージなど

板橋区民は、開業日が待ちどうしくて先日下見に行ってきました。最寄り駅は西武池袋線東久留米駅だけれど、スパジャポは駅から北方向に離れた場所にあるため、川越街道基準で見ると関越道を過ぎて新座市と東久留米市の境にあり、板橋区民の愛するサイスポ(みずほ台)やお風呂の王様志木店よりは近くに位置している。まだ赤塚郷からの最適解のルートを見つけていないけれど、車・バイクなら30分くらいだろう。(成増からは約10キロ)

かつて赤塚新町にあった「お風呂の王様光が丘店」が閉店してから8ヶ月。悲しみに暮れていた板橋区民の心に、希望の灯がともった。赤塚郷からはちょっと遠いけど、どんな温泉が体験出来るのか、オープンを心待ちにしよう!!

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板橋区民、平成も終わるので初心に帰る。

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 暖かいのは良いんだけど鼻がムズムズしますね。


当ブログ「板橋ハ晴天ナリ。」も、おかげさまで開設から約10年近く経ちました。今回は、初期のスタイルでお送りします。


この写真の場所、赤塚郷民ならどこだかわかりますね。我が赤塚郷、徳丸本村の中心地です。わからない方に説明すると、東武練馬駅前から続く徳丸通りが松月院通りとぶつかったところ、名門・紅梅小学校や安楽寺がある場所ですね。
鉄道などの交通網が発達した現代では、駅を中心として考えてしまいがちですが、近代以前は街道であれば宿場町、農村であれば神社仏閣とか庄屋や名主の屋敷があるところが、おおむね中心地とされます。(強引ですが)

その徳丸本村の中心地にランドマークとしてそびえ立っていたのが、この「火の見櫓」でした。2003年の写真は、撤去の噂を聞きつけて撮影したもので、このあとすぐに安楽寺の会館建設のために70年余に渡るお役目を終えました。と言っても、この火の見櫓がいつ建てられたのか、この記事を書くにあたって資料を確認しようと思いましたが、たしかずっと前に文献からコピーしといたんですが‥見あたらない‥

最初の写真は、この火の見櫓が落成した時のもので、撮影は昭和7年(1932年)10月とある。残念ながら建設時のエピソードはこの冊子の中では触れられてないけれど、記憶では、東京市内で使われていた物を払い下げてもらい、大八車に分散させて村民など皆でえっちらおっちらと運んできた、らしい。

この冊子「明治の徳丸を語る」は、板橋区民のヴァイブルであり、明治27年(1894年)12月に徳丸本村で生まれ本村で結婚し、昭和63年(1988年)7月に亡くなられた、”冠城とり”さんの思い出話を聞き取り調査し、「板橋史談」に2年あまり連載された後に冊子として纏められたものだ。

板橋区民は、古老の方の話を聞くのは好きだけれど、正直、あそこは昔山だったとか林だったとか茶畑が広がっていたとかこの道はなかったとか前谷津川で魚を獲ったとか茅葺屋根の家ばかりだった‥なんてことを聞かされても、「ふーん、まあ昔ならそうだろうなあ。」なんて無感動な感想しか浮かばないような、汚れた大人になってしまった。

しかし、冠城とりさんは違う。子供であった明治時代の徳丸の様子を、昨日のように語れるハイパーサイメシア(超記憶 症候群)な方だった。残念ながら板橋区民は実際にお会いしたこともなく、話をじかに聞く機会もなかった。
これは、昭和60年代に東京都の民謡調査が行われ、その過程で冠城とりさんを見出し、とりさんの記憶を記録に留めた国立歴史民俗博物館の先生の力も大きい。こんな機会でもなければ、皆の目に触れるような形では残らなかっただろう。

話を徳丸の火の見櫓に戻しますが、冊子には設置時の経過は載ってないと書いたけど、明治・大正のころの安楽寺の話に、「境内に入るとでっかい椋の木があり、この木に半鐘がぶらさげてあり火事になると村中に響くようについた。しかし、火の見櫓が出来ると切り倒された。」とあります。見通しが悪いので周辺の高い木を切っちゃったんでしょうね。その話の続きで、「寺の東座敷二間を駐在所に貸してあった。」なんてことがでてくる。

2003年の写真、火の見櫓の隣のに住宅がありますが、ここは駐在所でした。いわゆる社宅併用の交番で、田舎でよく見かけるスタイルだった。いつ寺から移動したのかわからないけど、松月院通りが出来て(拡幅整備)からだから昭和10年前後だろうか。

この火の見櫓、板橋区民が小学生の頃、登ってみたくてしょうがなかったが、たまに消防団員の子供が登った話を聞くと羨ましくてしかたがなかった。とり壊すときにチャンスがあれば、と思ったけれどタイミング悪くその機会を逃してしまいました。。


さて、撤去された火の見櫓はどこへ‥現在は、先端部分のみが板橋区立郷土史料館の入り口裏で、木立に囲まれひっそりと佇んでおります。しかし、説明板もないので見た人はなんじゃこりゃとしか思わないでしょう。隣の新藤楼の玄関には説明板はありますが、この場所はギリギリため池公園の敷地なので放置なんでしょうねえ。中途半端ですな。


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