



暖かいのは良いんだけど鼻がムズムズしますね。
当ブログ「板橋ハ晴天ナリ。」も、おかげさまで開設から約10年近く経ちました。今回は、初期のスタイルでお送りします。
この写真の場所、赤塚郷民ならどこだかわかりますね。我が赤塚郷、徳丸本村の中心地です。わからない方に説明すると、東武練馬駅前から続く徳丸通りが松月院通りとぶつかったところ、名門・紅梅小学校や安楽寺がある場所ですね。
鉄道などの交通網が発達した現代では、駅を中心として考えてしまいがちですが、近代以前は街道であれば宿場町、農村であれば神社仏閣とか庄屋や名主の屋敷があるところが、おおむね中心地とされます。(強引ですが)
その徳丸本村の中心地にランドマークとしてそびえ立っていたのが、この「火の見櫓」でした。2003年の写真は、撤去の噂を聞きつけて撮影したもので、このあとすぐに安楽寺の会館建設のために70年余に渡るお役目を終えました。と言っても、この火の見櫓がいつ建てられたのか、この記事を書くにあたって資料を確認しようと思いましたが、たしかずっと前に文献からコピーしといたんですが‥見あたらない‥
最初の写真は、この火の見櫓が落成した時のもので、撮影は昭和7年(1932年)10月とある。残念ながら建設時のエピソードはこの冊子の中では触れられてないけれど、記憶では、東京市内で使われていた物を払い下げてもらい、大八車に分散させて村民など皆でえっちらおっちらと運んできた、らしい。
この冊子「明治の徳丸を語る」は、板橋区民のヴァイブルであり、明治27年(1894年)12月に徳丸本村で生まれ本村で結婚し、昭和63年(1988年)7月に亡くなられた、”冠城とり”さんの思い出話を聞き取り調査し、「板橋史談」に2年あまり連載された後に冊子として纏められたものだ。
板橋区民は、古老の方の話を聞くのは好きだけれど、正直、あそこは昔山だったとか林だったとか茶畑が広がっていたとかこの道はなかったとか前谷津川で魚を獲ったとか茅葺屋根の家ばかりだった‥なんてことを聞かされても、「ふーん、まあ昔ならそうだろうなあ。」なんて無感動な感想しか浮かばないような、汚れた大人になってしまった。
しかし、冠城とりさんは違う。子供であった明治時代の徳丸の様子を、昨日のように語れるハイパーサイメシア(超記憶 症候群)な方だった。残念ながら板橋区民は実際にお会いしたこともなく、話をじかに聞く機会もなかった。
これは、昭和60年代に東京都の民謡調査が行われ、その過程で冠城とりさんを見出し、とりさんの記憶を記録に留めた国立歴史民俗博物館の先生の力も大きい。こんな機会でもなければ、皆の目に触れるような形では残らなかっただろう。
話を徳丸の火の見櫓に戻しますが、冊子には設置時の経過は載ってないと書いたけど、明治・大正のころの安楽寺の話に、「境内に入るとでっかい椋の木があり、この木に半鐘がぶらさげてあり火事になると村中に響くようについた。しかし、火の見櫓が出来ると切り倒された。」とあります。見通しが悪いので周辺の高い木を切っちゃったんでしょうね。その話の続きで、「寺の東座敷二間を駐在所に貸してあった。」なんてことがでてくる。
2003年の写真、火の見櫓の隣のに住宅がありますが、ここは駐在所でした。いわゆる社宅併用の交番で、田舎でよく見かけるスタイルだった。いつ寺から移動したのかわからないけど、松月院通りが出来て(拡幅整備)からだから昭和10年前後だろうか。
この火の見櫓、板橋区民が小学生の頃、登ってみたくてしょうがなかったが、たまに消防団員の子供が登った話を聞くと羨ましくてしかたがなかった。とり壊すときにチャンスがあれば、と思ったけれどタイミング悪くその機会を逃してしまいました。。
さて、撤去された火の見櫓はどこへ‥現在は、先端部分のみが板橋区立郷土史料館の入り口裏で、木立に囲まれひっそりと佇んでおります。しかし、説明板もないので見た人はなんじゃこりゃとしか思わないでしょう。隣の新藤楼の玄関には説明板はありますが、この場所はギリギリため池公園の敷地なので放置なんでしょうねえ。中途半端ですな。
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