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2019年1月

板橋区民、平成に別れを告げに行く。

 皆様方、明けましておめでとうございます。我が赤塚郷も、穏やかな年明けを迎えました。

明けて平成31年、新年になってすぐに安部首相より、本年4月1日に新元号発表、5月1日より新元号発布との声明があった。
そんなことで板橋区民は、平成にお別れを言うために元日は夜更かしを控え、本日早起きをして皇居へ向かったのである。

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有楽町線で桜田門駅に着いたのは午前7時30分、駅のトイレはすでに長蛇の列であった。桜田門口を出ると桜田門は封鎖されているではないか。警備の警官に聞くと二重橋正面へ回れと言う。しかたがないので急ぎ足で向かうとすでに東京駅方向へ長蛇の列が続いているではないか。これはいつもよりすごいぞ。

おしくらまんじゅう状態で並ぶこと1時間。ようやく列は進みセキュリティーチェックの場へ移動。そこからまたおしくらまんじゅう状態で待つこと約1時間。開門予定時間より少し早い9時15分に列はようやく前進を始めた。後ろを振り向くとものすごい数の群衆が押し寄せているではないか。

ぎゅうぎゅう詰めのまま二重橋に近づくと、規制ロープの外側に撮影クルーが。よく見ると池上彰氏が中継か何かしているようだ。そんな光景を横目にしながら列は皇居の中へ、すでにアリーナは半分以上埋まっている。さて、戦いはこれからである。

一般参賀へ行ったことがある方はわかると思いますが、皇族方が並ぶ姿を拝謁するのは至難の技だ。超おしくらまんじゅう状態はそのまま、皇族方が姿をあらわすと、「天皇陛下ばんざーーーい!」の声とともに一斉に日の丸の旗が振られ、そこへカメラ・スマホ・タブレットが頭上高く掲げられる。後ろからは「見えねーぞ!」「カメラ下げろや!」「帽子脱げ!」「押すんじゃねー!」「うおーーー!」etc‥もう怒号渦巻くカオスの世界が展開されるのである。それは毎回毎度おなじみの風景で、もうこれも含めて一般参賀なのだと達観している。

と、まるで無法地帯のごとくに表現したけれどそれはあくまで最初と最後だけで、天皇陛下のお言葉が始まると一斉に旗は降ろされ、みな静かに聴き入るのである。さすが日本人ですな。

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今上天皇陛下のお言葉は、最後の新年一般参賀だからと言っても特別なこともなく、いつも通り、世界と日本国民の安寧を祈る、とのお言葉のみであった。板橋区民はいつも一般参賀は初詣のつもりで出かける。それは、天皇陛下が宮司の頂点に位置する方と思うからなのであるが、その割に写真を撮ることに熱心なのは、これは性(さが)なのである。


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板橋区民、赤塚郷の部分日食を撮る。

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 今日は寒いですね。

気づかなかった方々もおられたかもしれませんが、本日午前、部分日食があった。(左画像から9時31分、10時6分・最大、10時41分撮影。)

部分日食は2016年にも観測されたが、当ブログでは2012年の金環日食の時に写真をUPした。この時は太陽と月がほぼ重なり、その瞬間あたりが薄暗くなってとても神秘的だった。日本では実に932年ぶりのことだったらしい。

今回は太陽の約30%が欠ける日食だったので、暗くなったという感じはなく、また、我が赤塚郷では薄い雲がかかりあまりクリアには観測できませんでした。残念。

次の日食は、今年12月26日に「日入帯食(にちにゅうたいしょく)」が見れるそうだ。あまり聞いたことのない名称だけれど、太陽が欠けたままの状態で沈んでいくとのことで、我が赤塚郷で観測するのは厳しいかもしれないですね。

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板橋区民、昭和を撮る。

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 松の内も過ぎ、お正月気分も抜けましたね。

今年は平成31年。本日1月7日は、昭和天皇がお隠れになってからちょうど30年目にあたる。

板橋区民が天皇崩御のニュースを聞いたのは、ニューヨークにいた時だった。テロ事件で崩壊したワールドトレードセンタービルにほど近い場所で、日本で速報が発表されてすぐに、こちらのラジオでも一報が流れた。その日の夜は、現地のテレビでも特集が放映され、翌朝のニューヨークタイムスなど新聞の一面も昭和天皇死去が大きく取り上げられていた。WW2当時の元首で最後まで存命であったのだから、それはそうだろう。

という状況だったので、板橋区民は昭和の終わりを実体験していない。すでにフジテレビのスーパータイムはNYでリアルタイム放映(朝8時ころだったかな)されていたので、崩御前の状況から大喪の礼までのニュースは一通り見ていた。ついでに言うと、板橋区民は日本でのいわゆるバブル時代も経験していないのである。(ここらへんのことは、いつか別建てで語りたいと思う。)


掲載の写真は崩御の10年前、今からちょうど40年前の1979年、昭和54年正月の一般参賀で撮影した写真だ。オリンパスOM2に135ミリの望遠レンズを付けて撮った。5月に新天皇となる徳仁親王以下のご兄弟は、まだ長和殿にお出ましになるまえのお年だった。

昭和天皇が崩御されてすでに30年、生で拝したことがある人も少なくなっていると思うけれど、昭和天皇とダイアナ妃とキングオブポップス・マイケルジャクソン、楽聖サー・ポールマッカートニー卿を生で見たことがあるのは板橋区民にとっては自慢の風景になっている。

写真に写る昭和天皇はまだ70代で、お隣の明仁皇太子殿下は40代だ。こうしてみると、天皇陛下はお手が長くすらっとしていたんだな、と思う。お手ふりをする際、手を真ん中から折り曲げてパクパクさせるのが陛下の特徴だった。確か現在と同じく、新年の挨拶をマイクを通して行っておられたと記憶するが、玉音放送と同じお声だったのかと思うと歴史の重みがあり、感慨深い。

新天皇即位の5月1日までに、今上陛下の一般参賀が行われるのかまだ発表はないけれど、このままご退位されるのは寂しい気持ちがする。

それにしても、板橋区民も歳を取ってくるわけで、長時間おしくらまんじゅう状態の中で待つのは辛くなってきた。これからの新時代はどうするか、どうしようかなあ。。

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1945年1月9日。

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2019年1月9日、今日も抜けるような青空の良い天気でしたね。

‥いまから74年前の今日も、東京の空は快晴だった。

1945年1月9日、マリアナの基地を飛び立った米軍爆撃機B-29は、3コ梯団に別れ中島飛行機武蔵製作所を襲った。これに対し、飛行47戦隊は午後1時ごろ成増陸軍飛行場を順次離陸し、迎撃に向かった。

47戦隊富士隊から選抜された対空特攻隊(震天制空隊)員であった幸万寿美軍曹は、池袋〜新宿の上空でB-29の右翼エンジン付近に体当たりし、散華した。乗機の二式単戦・鍾馗はバラバラになって墜落し、立教大学のグラウンドに右手首が、椎名町に落ちたエンジンには髪の毛が張り付いていたという。体当たりをされたB-29は、友軍機によってとどめを刺され、撃墜された。

同じ富士隊の粟村尊准尉は、最新鋭機、四式戦・疾風を駆って梯団最後の編隊を追撃し、銚子上空まで来た。敵最後尾機に後ろ上方から接近し、プロペラで敵機の水平尾翼をガリガリとかじり始めた。次の瞬間、栗村機はひっくり返ってB-29の機体に馬乗りとなったがやがて滑り落ち、墜落して行く。水平尾翼を破壊されたB−29もガクンと機首を下げ、3回きりもみになった後で空中分解し、海面に突っ込んだ。

幸軍曹は大分の出身、特攻隊員に選抜された時は、「お受けします。」と堂々と返事をしたという。一方、粟村准尉は開戦以来のベテラン空中勤務者で、47戦隊の教育係を勤めていた。「B-29は機関銃で落とせる。」との持論をもち、特攻攻撃には反対していた。

その粟村准尉が、特攻隊員でもないのにB-29へ体当たりをした。

なぜ、粟村准尉は特攻したのか。これはもう、ご本人にしかわからないことだ。

准尉機が特攻する様は、震天制空隊員であった鈴木精曹長(後日特攻死)が目撃していた。成増飛行場に戻り、取材に来た新聞記者に対し曹長は、「粟村准尉殿は、どうしてもこいつを落とすんだという気迫で、とうとう最後には突っ込んだのです。」と語っている。

粟村准尉は、高度7000メートルあたりでひっくり返った機から脱出し、友軍機に手を振りながら落下傘で降下し、銚子沖約30キロの海上に着水した。降下地点は無線ですぐ基地に連絡されたが、救援は出されなかったという。整備中隊長で、47中隊がベトナムに進出していたころからの親友だった刈谷正意中尉は、この無線を戦闘指揮所で聞き、救援を出すよう上層部へ懇願したが、聞き入れられず心底悔しかったと述べていた。

栗村准尉は落下傘降下についても研究しており、どの高さでどの風向きの時はどこへ着地するのか等、調べていた。それが、1月9日の迎撃の際、自分自身の身の上に起こったのである。

まずは、飛び去るB-29の後ろから攻撃を行い、後部銃座が沈黙したのを確かめてから、水平尾翼をプロペラで破壊し始めた。飛行機は、主翼が少しくらい破損しても飛び続けることはできるが、水平尾翼を失うと、コントロールが効かなくなり、しまいには墜落する。昔、日航機が御巣鷹山に墜落した状況と同じだ。

幸軍曹は、特攻任務を全うするため、躊躇なくB-29に体当たりした。それに対し粟村准尉は、確実に落とすために水平尾翼に狙いを定め、自らの機体を使い仕留めた。それから後は運に任せていたのだろうか、結果的にパラシュートで脱出できた。

そこまでは良かった。着水地点も友軍に知らせることができ、救援を待つのみであったが、救援隊は来ず、行方不明となってしまった。米軍は本土空襲を行う際、かならずその飛行ルート上に救援用の艦船や潜水艦を配備していた。粟村准尉に撃墜されたB-29も、墜落前に救難信号を送っており、当然米軍が救助に駆けつけることは日本側にはわかっていたのである。

日本軍はおそらく、米潜水艦がいるとわかっている海域に向かうことができず、粟村准尉は見殺しになってしまったのである。

粟村准尉は47戦隊の最古参兵で、下士官ではあったがすべての空中勤務者から慕われる存在だった。タローと名付けた雌(メス)の犬を可愛がり、宿舎のベッドで一緒に眠ったり、訓練の時も連れて歩いた。ある時、タローは准尉の乗った飛行機を追いかけ翼に飛びのってしまったが、准尉は構わず離陸しようとしたことがあった。(離陸時は200キロ近いスピードなので当然それまでにタローは降りているが。)

タローは、訓練や出撃をした准尉の帰りを必ず滑走路で待っていた。しかし、1月9日以降、いくら待っていても准尉は帰ってこなかった。ある隊員は、着陸時に吠えながら走ってくるタローの姿を見て、涙を禁じえなかったという。「おい、タロー、准尉殿はもう戻ってこないんだぞ‥」

そんなことが一ヶ月ほど続いたある日、タローは隊員達に噛み付くようになった。軍医は、「狂犬病」と判断し、タローは哀れ薬殺されてしまったのである。


冒頭4枚目の写真は、翌10日に撮影された富士隊員の記念写真である。同じ隊から二人の戦死者を出し意気消沈していたと聞いていたけれど、どんな思いで写真に収まったのであろうか。。

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板橋原人て、いたのかなあ‥

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 風がとても冷たいですね。外へ出たくなくて運動不足です。


先週より板橋区立郷土資料館では特別展「再発見!いたばしの遺跡」が始まった。(しかし役所は何で”板橋”をいちいち平仮名で”いたばし”と表記するんですかね?)

板橋区民もさっそく開催初日に見学に行きました。寒いのであまり人がいないかなと思いましたが、いやいや結構な入場者で驚いた。

板橋区は、古代より海に接する高台に位置し食料が得やすかったため、4万年前からの生活の痕跡が残るとても住みよい土地だった。なので、旧石器時代から近代までの遺跡が満遍なく出土する稀有な場所でもある。

近年も考古展示は何度か行われていたけれどマニアックな展示が多かったので、今回のような普遍的というかシロウトにもわかりやすい展示はありがたい。なかでも、旧石器時代に触れた展示は、あの”大事件”が起こって以来、遠慮がちになりあまり触れられてこなかったので、ようやくか、という感じを持った。

平成の初めころまで、板橋区内のあちこちで遺跡の発掘調査が行われていて、たまに見学会が催されていた。板橋区民も見に行ったことが何度かあるけれど、資料館で資料を見るのと違い、生活が行われていたその場所を体感出来ることは感動の大きさがちがうのである。

しかし、最近はめったに発掘の情報を耳にしたり、見学会が催されることがないように感じる。これはどうしてなのだろう?板橋区内では今でも土地開発が行われている場所はあると思うのですが。環七通り小竹向原駅近くの小茂根一丁目にある根ノ上遺跡では、発掘のときに地面に突き刺さった状態で謎の鉄の筒のような物が数本出土し、そのままにして見学会を行ったところ、お年寄りの方から「こりゃ焼夷弾だね。」と指摘を受け調べるてみると、まさに空襲の時に落とされた物と判明したことがあった。


10年くらい前、志村の凸版印刷が転居するという噂を耳にした。凸版印刷構内では過去何度か遺跡の発掘調査が行われ、旧石器から江戸時代の道跡まで満遍なく出土し、板橋区最後のフロンティアと呼ばれていた。その後進展状況は耳にしなかったけれど、今年に入ってから、志村にある大手の病院グループが土地を取得したという新たな噂を聞いた。

凸版印刷は板橋区の遺跡包蔵地に指定されているので、土地を開発する際には遺跡発掘調査をすることが義務付けられている。土地が譲渡された場合には当然発掘が行われるだろうし、まだ敷地の80%くらいが未調査地と思われるので、さて何が出てくるのか今から楽しみである。もしかしたら板橋原人の痕跡が‥なんてね。


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1945年1月27日。

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 今日も冷たい強い風が吹いてますね。

いまから74年前の1月27日昼過ぎ、米軍爆撃機B-29数機が関東地方に侵入してきた。東部軍は、13時過ぎに警戒警報を発令、後続機による本格的な空襲があると判断し、14時、空襲警報に切り替えた。敵機は第一梯団・第二梯団(約70機)に分かれ御前崎から続々と侵入し、東京東部地区(銀座、神田、浅草、荒川区方面)を空襲した。本来の目標は中島武蔵野工場であったが雲に阻まれ、レーダー爆撃に切り替えて第二目標に投弾したものが都心部に着弾したようであった。

帝都防空戦隊は全力出動で敵を迎え撃った。47戦隊富士隊から選抜され震天制空隊員となった鈴木精曹長は、先日、目の前で敵機に体当たりをした粟村准尉を思い浮かべたのだろうか、今度こそ仕留めてやるという必死の覚悟で邀撃に上がった。ところが、鈴木曹長機は離陸してすぐに成増飛行場へ戻ってきた。曹長は駆けつけた整備隊の狩谷中尉に向かい、「無線機が故障した。すぐに代機を!」と絶叫した。特攻機は装備をすべて降ろしても、敵の位置を知るために無線機だけは必要だった。

刈谷中尉はとっさに、「特攻機の代機なんぞ無いぞ!」と思ったが、鈴木曹長の鬼気せまる気迫に押され、「よし!これで行け!」と通常の重装備機を与えた。この時出動した同僚が後に語ったところでは、慌しく離陸した鈴木曹長機は、B-29に対して後上方攻撃を加え、猛烈な砲火の中を突進し、体当たりを果たしたという。墜落した小梅(群馬県桐生市小梅)の小川から引き上げられた機体は、エンジンから脚の支柱にいたるまで、敵弾により蜂の巣のようになっていたという。

板橋区民は、この時の話を刈谷中尉から直接伺ったことがある。刈谷さんは成増陸軍飛行場関係者で結成された戦友会、「成増会」の会長を亡くなるまで続けられていた。もしご存命ならば、今年で101歳を迎えていたはずだ。
刈谷さんからは、当時のいろいろな話や写真を見せていただいたが、この貴重な体験を是非後世に残したいと思い、記録をする機会を伺っていた。月日が過ぎ、ようやくDVビデオカメラを手に入れ、インタビューのお願いを申し入れていたのだけれど、すでにお体に変調をきたされており、その後、直接連絡が取れなくなってしまった。

それから数ヶ月が経ったころ、とつぜん刈谷さんから連絡をいただいた。いままで和光市の国立埼玉病院(旧・埼玉陸軍病院)に検査入院していたが手術が決まり、準備のため3日間だけ赤塚の自宅に戻っているので、会っても良いということだった。あわてて準備をしてご自宅に伺い、インタビューに応じていただけたのである。

その日は朝から夕方まで、刈谷さんのご体調を考えながら約8時間にわたりお話をいただき、そのうち6時間の映像を収めることができた。刈谷さんはとても頭脳明晰な方で、ほとんど資料を見ないままお話をされる。これは、長年に渡り様々な機関や戦史家の方から求められ、繰り返し語ってきた実績ゆえと思うけれど、どうせなら生い立ちからの話をお聞きしたいと思い、結果長いインタビューとなってしまったのである。

インタビューの後、入院手術を受けられた刈谷さんは健康を取り戻すことは叶わず、その後ほとんど寝たきりとなってしまい、2002年11月、逝去された。

今回、刈谷さんへのインタビュー映像から、記事で取り上げた鈴木精曹長特攻出撃の様子を語ったシーンを初公開する。(映像約2分)

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伝説の人/2019初春。

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 赤塚郷にも初雪が降りそうですね。

先日、板橋区内某所にて行われた新年の集いで、あの伝説のフレームビルダー・梶原氏にお会いした。

梶原氏は、1964年の東京オリンピック自転車競技で見たフランスチームの自転車の美しさに感動して本格的にフレーム作りにのめり込み、あのケルビム創業者の今野仁氏らと共に、1968年のメキシコオリンピックで日本人選手としてただ一人自転車競技の代表に選ばれた、井上三次選手の自転車を組み上げた。

残念ながら当時の日本では自転車王国の欧州チームには全くかなわず、スプリントでは二次予選敗退、1000mタイムトライアルは19位と終わってしまったが、フレームビルダーの頂点を目指して研鑽を積み、1974年にオランダで設立されたコガ・ミヤタの技術者として、ツールド・フランスなど名だたる大会で活躍したチームの自転車を作り続けた。しかし、1980年頃、突然世界の舞台から身を引き、以来、幻のフレームビルダーとして語り継がれる存在となってしまっていたのである。

当ブログを始めたころ、ある縁で梶原氏を知った板橋区民は、氏の工房を訪れた時のことを記事にした。すると、記事を見た自転車関係のライターの方などから多数のコメントをいただき、反響の大きさに驚かされた。その後、梶原氏にインタビューをした本や雑誌がいろいろ出てしまい、梶原氏から、あんたがネットに俺のことを書くから身辺が騒がしくなったじゃないか、と苦情を言われる始末であった。

それから時も過ぎ、いまは静かな日々を送られている梶原氏だけれど、相変わらずどこへ行くにも自転車を使っておられるのだが、前回お会いした時、ちょっと前に知り合いの自転車屋と話し込んでいるうちに、店の外に止めておいた愛車を盗まれてしまい往生したという話をお聞きした。その盗人は、あの伝説のカジワラ・フレームバイクとは知らずに盗み、おそらくはどこかに乗り捨ててしまったことだろう。

先日お会いした時も自転車で来られていたのだが、組み立て式の自転車だったので、「この間盗まれたので組み立て式にして、持ち歩るけるようにしたのですか?」と問うと、「最近、ちょっと長距離はね。折りたたんで電車に乗ったりするんだよ。」とおっしゃっておられた。

会合が終わると、梶原氏はささっと自転車を組み上げて去って行かれた。来年2020年は、56年ぶりに東京でオリンピックが開催される。その時、梶原氏は自転車競技をご覧になるのだろうか、そして氏は、どんな感慨をもって観るのだろうか、感想をお聞きしてみたいなあと、去っていく氏の背中を見送りながら、ふと思った次第である。

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