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1945年1月9日。

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2019年1月9日、今日も抜けるような青空の良い天気でしたね。

‥いまから74年前の今日も、東京の空は快晴だった。

1945年1月9日、マリアナの基地を飛び立った米軍爆撃機B-29は、3コ梯団に別れ中島飛行機武蔵製作所を襲った。これに対し、飛行47戦隊は午後1時ごろ成増陸軍飛行場を順次離陸し、迎撃に向かった。

47戦隊富士隊から選抜された対空特攻隊(震天制空隊)員であった幸万寿美軍曹は、池袋〜新宿の上空でB-29の右翼エンジン付近に体当たりし、散華した。乗機の二式単戦・鍾馗はバラバラになって墜落し、立教大学のグラウンドに右手首が、椎名町に落ちたエンジンには髪の毛が張り付いていたという。体当たりをされたB-29は、友軍機によってとどめを刺され、撃墜された。

同じ富士隊の粟村尊准尉は、最新鋭機、四式戦・疾風を駆って梯団最後の編隊を追撃し、銚子上空まで来た。敵最後尾機に後ろ上方から接近し、プロペラで敵機の水平尾翼をガリガリとかじり始めた。次の瞬間、栗村機はひっくり返ってB-29の機体に馬乗りとなったがやがて滑り落ち、墜落して行く。水平尾翼を破壊されたB−29もガクンと機首を下げ、3回きりもみになった後で空中分解し、海面に突っ込んだ。

幸軍曹は大分の出身、特攻隊員に選抜された時は、「お受けします。」と堂々と返事をしたという。一方、粟村准尉は開戦以来のベテラン空中勤務者で、47戦隊の教育係を勤めていた。「B-29は機関銃で落とせる。」との持論をもち、特攻攻撃には反対していた。

その粟村准尉が、特攻隊員でもないのにB-29へ体当たりをした。

なぜ、粟村准尉は特攻したのか。これはもう、ご本人にしかわからないことだ。

准尉機が特攻する様は、震天制空隊員であった鈴木精曹長(後日特攻死)が目撃していた。成増飛行場に戻り、取材に来た新聞記者に対し曹長は、「粟村准尉殿は、どうしてもこいつを落とすんだという気迫で、とうとう最後には突っ込んだのです。」と語っている。

粟村准尉は、高度7000メートルあたりでひっくり返った機から脱出し、友軍機に手を振りながら落下傘で降下し、銚子沖約30キロの海上に着水した。降下地点は無線ですぐ基地に連絡されたが、救援は出されなかったという。整備中隊長で、47中隊がベトナムに進出していたころからの親友だった刈谷正意中尉は、この無線を戦闘指揮所で聞き、救援を出すよう上層部へ懇願したが、聞き入れられず心底悔しかったと述べていた。

栗村准尉は落下傘降下についても研究しており、どの高さでどの風向きの時はどこへ着地するのか等、調べていた。それが、1月9日の迎撃の際、自分自身の身の上に起こったのである。

まずは、飛び去るB-29の後ろから攻撃を行い、後部銃座が沈黙したのを確かめてから、水平尾翼をプロペラで破壊し始めた。飛行機は、主翼が少しくらい破損しても飛び続けることはできるが、水平尾翼を失うと、コントロールが効かなくなり、しまいには墜落する。昔、日航機が御巣鷹山に墜落した状況と同じだ。

幸軍曹は、特攻任務を全うするため、躊躇なくB-29に体当たりした。それに対し粟村准尉は、確実に落とすために水平尾翼に狙いを定め、自らの機体を使い仕留めた。それから後は運に任せていたのだろうか、結果的にパラシュートで脱出できた。

そこまでは良かった。着水地点も友軍に知らせることができ、救援を待つのみであったが、救援隊は来ず、行方不明となってしまった。米軍は本土空襲を行う際、かならずその飛行ルート上に救援用の艦船や潜水艦を配備していた。粟村准尉に撃墜されたB-29も、墜落前に救難信号を送っており、当然米軍が救助に駆けつけることは日本側にはわかっていたのである。

日本軍はおそらく、米潜水艦がいるとわかっている海域に向かうことができず、粟村准尉は見殺しになってしまったのである。

粟村准尉は47戦隊の最古参兵で、下士官ではあったがすべての空中勤務者から慕われる存在だった。タローと名付けた雌(メス)の犬を可愛がり、宿舎のベッドで一緒に眠ったり、訓練の時も連れて歩いた。ある時、タローは准尉の乗った飛行機を追いかけ翼に飛びのってしまったが、准尉は構わず離陸しようとしたことがあった。(離陸時は200キロ近いスピードなので当然それまでにタローは降りているが。)

タローは、訓練や出撃をした准尉の帰りを必ず滑走路で待っていた。しかし、1月9日以降、いくら待っていても准尉は帰ってこなかった。ある隊員は、着陸時に吠えながら走ってくるタローの姿を見て、涙を禁じえなかったという。「おい、タロー、准尉殿はもう戻ってこないんだぞ‥」

そんなことが一ヶ月ほど続いたある日、タローは隊員達に噛み付くようになった。軍医は、「狂犬病」と判断し、タローは哀れ薬殺されてしまったのである。


冒頭4枚目の写真は、翌10日に撮影された富士隊員の記念写真である。同じ隊から二人の戦死者を出し意気消沈していたと聞いていたけれど、どんな思いで写真に収まったのであろうか。。

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コメント

こんにちは。戦争について興味があり個人的に調べている者です。震天制空隊、成増飛行場、第47戦隊、その中でも特に幸軍曹について非常に興味があります。彼について調べていくうちに「板橋ハ晴天ナリ。」を知りました。47戦隊の他の隊員の方の貴重な証言や、成増飛行場の歴史について詳しく知ることができとても嬉しく思っています。もしよろしければ、成増飛行場や幸軍曹についてもっと詳しくお話を聞かせていただくことは可能でしょうか?お返事待っております。

投稿: カエル | 2019年8月19日 (月) 18時13分

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