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1945年1月27日。

S20127

 今日も冷たい強い風が吹いてますね。

いまから74年前の1月27日昼過ぎ、米軍爆撃機B-29数機が関東地方に侵入してきた。東部軍は、13時過ぎに警戒警報を発令、後続機による本格的な空襲があると判断し、14時、空襲警報に切り替えた。敵機は第一梯団・第二梯団(約70機)に分かれ御前崎から続々と侵入し、東京東部地区(銀座、神田、浅草、荒川区方面)を空襲した。本来の目標は中島武蔵野工場であったが雲に阻まれ、レーダー爆撃に切り替えて第二目標に投弾したものが都心部に着弾したようであった。

帝都防空戦隊は全力出動で敵を迎え撃った。47戦隊富士隊から選抜され震天制空隊員となった鈴木精曹長は、先日、目の前で敵機に体当たりをした粟村准尉を思い浮かべたのだろうか、今度こそ仕留めてやるという必死の覚悟で邀撃に上がった。ところが、鈴木曹長機は離陸してすぐに成増飛行場へ戻ってきた。曹長は駆けつけた整備隊の狩谷中尉に向かい、「無線機が故障した。すぐに代機を!」と絶叫した。特攻機は装備をすべて降ろしても、敵の位置を知るために無線機だけは必要だった。

刈谷中尉はとっさに、「特攻機の代機なんぞ無いぞ!」と思ったが、鈴木曹長の鬼気せまる気迫に押され、「よし!これで行け!」と通常の重装備機を与えた。この時出動した同僚が後に語ったところでは、慌しく離陸した鈴木曹長機は、B-29に対して後上方攻撃を加え、猛烈な砲火の中を突進し、体当たりを果たしたという。墜落した小梅(群馬県桐生市小梅)の小川から引き上げられた機体は、エンジンから脚の支柱にいたるまで、敵弾により蜂の巣のようになっていたという。

板橋区民は、この時の話を刈谷中尉から直接伺ったことがある。刈谷さんは成増陸軍飛行場関係者で結成された戦友会、「成増会」の会長を亡くなるまで続けられていた。もしご存命ならば、今年で101歳を迎えていたはずだ。
刈谷さんからは、当時のいろいろな話や写真を見せていただいたが、この貴重な体験を是非後世に残したいと思い、記録をする機会を伺っていた。月日が過ぎ、ようやくDVビデオカメラを手に入れ、インタビューのお願いを申し入れていたのだけれど、すでにお体に変調をきたされており、その後、直接連絡が取れなくなってしまった。

それから数ヶ月が経ったころ、とつぜん刈谷さんから連絡をいただいた。いままで和光市の国立埼玉病院(旧・埼玉陸軍病院)に検査入院していたが手術が決まり、準備のため3日間だけ赤塚の自宅に戻っているので、会っても良いということだった。あわてて準備をしてご自宅に伺い、インタビューに応じていただけたのである。

その日は朝から夕方まで、刈谷さんのご体調を考えながら約8時間にわたりお話をいただき、そのうち6時間の映像を収めることができた。刈谷さんはとても頭脳明晰な方で、ほとんど資料を見ないままお話をされる。これは、長年に渡り様々な機関や戦史家の方から求められ、繰り返し語ってきた実績ゆえと思うけれど、どうせなら生い立ちからの話をお聞きしたいと思い、結果長いインタビューとなってしまったのである。

インタビューの後、入院手術を受けられた刈谷さんは健康を取り戻すことは叶わず、その後ほとんど寝たきりとなってしまい、2002年11月、逝去された。

今回、刈谷さんへのインタビュー映像から、記事で取り上げた鈴木精曹長特攻出撃の様子を語ったシーンを初公開する。(映像約2分)

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コメント

こんにちは。はじめまして。
板橋区に住んで50数年の者です。
成増飛行場、飛行第47戦隊について勉強しております。
実は親類が第47戦隊の元パイロットで健在です。何度か会って
話をしています。
こちらのブログは以前から拝見させていただいております。
またよろしくお願いいたします。

投稿: せり | 2019年1月27日 (日) 14時57分

>>せりさま
うれしいコメントをありがとうございます。
親戚の方が、47戦隊の空中勤務者(陸軍航空隊ではこう呼びました。)でおられたのですね。いつかは関係者の方が当ブログの存在に気がつき、コメントをいただけることを楽しみにしておりました。また機会がありましたらいろいろとご教示くださいませ。

投稿: | 2019年1月27日 (日) 18時03分

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