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⭐️貴重資料は突然に!⭐️板橋区民、感激とともに襟を正す。

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 当ブログを訪れていただいている善男善女の皆様方、現在、我が赤塚郷所在の板橋区立郷土資料館で開催されている特別展、「いたばし大交通展」へお越しいただけたでしょうか。


資料館では、1階が江戸時代までの交通(主に街道関係)、2階では近代交通関係の展示がおこなわれている。今年は都営三田線が開業してから50周年ということで、三田線に関するスペースが少し多い。

実は、その三田線の開業を記念する展示資料の中でも、ある重要な品が展示されていなかった。それは、始発であり終点でもある「志村駅」の切符だ。「志村駅」とは、まだ住所が確定しなかった時期の駅名で、現在の高島平駅である。開業半年後に「高島平駅」という名称に変更され、志村駅名の切符は希少なものとなった。

なんであんな離れた場所が「志村」なんだ?と疑問に思うところだけれど、昔の地図上で徳丸田んぼは、志村中台町とか志村西台町と表記されていた。そこで、仮に志村との名称が付けられていたのだ。

「志村駅」は団地建設が始まる時に開業し、当時は一般利用客はほどんどいなかったため、現在に残る切符はあまりにも少ない。ただし、三田線開業当時は都電や蒸気機関車の廃止が相次ぎ、そのため鉄道ブームが起こっていたこともあり乗り鉄ファンも多く、珍しかった新規開業の路線を開業日に楽しもうと多くの鉄道ファンで盛況だったようだ。

さて、このたびそんな貴重な「志村駅」切符が板橋区民の元にやってきた。それも入場券、乗車券、領収書のコンボセットだ。

切符を提供していただいたのは、十数年前から度々お世話になっているS先生で、元交通博物館、鉄道博物館の学芸員であった方だ。先生は数年前に定年退職をされているが、現役の頃より、”歩く交通図書館”との異名を持つ博学の人物である。凄いのは、質問をしてその答えがわからなくても、普通ならば「わかりません、知りません。」で終わるところ、どうやったらその疑問の答えにたどり着けるのかその道筋を教示してくれることであった。

S先生が「志村駅」の切符を所持されていることは知遇を得た時からしっていて、当時から、もし手放す気になった暁には是非、板橋区民へ一報を、とお願いしていた。S先生は、高校生か大学生だった50年前の都営6号線開業日、終点の志村駅までやってきた乗り鉄収集鉄の一人として、これらの切符を収集されたのであった。S先生の非凡さは、普通の人ならば乗車券と入場券の購入で済ますところを、領収書まで手に入れていることで、その証拠に、領収書発券番号が1番となっているのだ。

S先生は今回の特別展を訪れ都営三田線の乗車券展示を見て、終点始発である「志村駅」の切符がないことに感じるものがあったのか、50年間大事に保管していたコレクションを手放す決心をされた。現在展示中の昭和40年代の三田線乗車券は、切符収集界の大家であったT氏から譲っていただいた物がほとんどだが、T氏も50年前に自ら収集されたもので、「志村駅」の切符は絶対に譲っていただけなかった品で、それほど、貴重なものであるのだ。

特別展では、いろいろな質問が寄せられているようで、中でも、どうやって資料を収集するのか、と聞かれることが多いと言う。それは実に様々で、基本は”持ってる人から譲ってもらう。”ことで、こう書くと身も蓋もないけれど、販売会などで直接購入する以外は、他人が持っていたものなので答えるとすればそうとしか答えられない。その手にいれる方法を聞きたいとすれば、それは個人の持つノウハウなので、説明し辛いことである。

手に入れた資料のほとんどが、どんな背景を持って失われずに存在し続けてきたのかは不明だが、今日まで何十年、古いものでは百年余の時を経て板橋区民の元に流れ着いたものであり、実に不思議な縁である。

バブルのころ、ある日本の大企業の名誉会長が、ゴッホの名画をオークションで、当時としては史上最高価格である、約125億円で落札したことがあった。名誉会長は喜びのあまり、「自分が死んだら棺桶にいれて焼いてくれ」という発言をし、それが海外のマスコミで大きく報道され、ネットがまだなかった時代であったが、大バッシングを受けた。世界的には、美術品は社会の共有物である文化遺産という意識が強く、個人の死後にそれを消失させるようなことは非常識であるが故、とりわけ海外の美術品愛好家から批判されたのだ。

板橋区民が収集した資料は、そこまでの金銭価値はないけれど、「今の時代、たまたま自分が預かっているだけ。」という感覚はある。だから、S先生が今回板橋区民に貴重な切符を託してくれた気持ちは良く分かる。将来、これらの資料がどこへ流れるのかはまだ考えられないけれど、責任はずっしりと重く、襟を正して受け入れなければならないのである。

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コメント

開通日に、祖母に連れられて乗りました。
幼稚園の年長でした。
当時、両親の都合により月に一度くらい都心近くの某下町に暮らす祖父母の家にお泊りしに行くことがあり、開通日はちょうどその日にあたっていました。

「ちかてつはとてもあたたかかったです」

と、日記に記しています。
あの頃は寒くて当たり前だったと、改めて振り返ります。

あいにくながらその日の切符(西台駅)は手元にありませんが、翌昭和44年(1969年)4月7日発行の小児切符を保管しています。
この日は小学校の入学式だったはずで、どのような経緯かは覚えていませんが、子供ゆえ駅員が大目に見てくれたのでしょう。

西台から板橋本町~西巣鴨間行き 2等20円と記されています。
交通局には1等車などありませんが、国鉄にならっていたのでしょうね。

この切符は長い間日記に貼り付けていて、しかも落書きをしています。
まだ幼かったゆえ、コレクションの何たるかを理解できていなかったのですね。
コレクションについて理解できたのは1年ほど過ぎてから。
万国博関連のものの保管を通じて覚えました。

成人してから切符を日記帳より剥がしましたが、裏面には糊づけした紙がこびりついていて、郷土資料館に預けられるものではありません。とほほほ。


さて、僭越ではございますが。
現・高島平の志村駅は志村西台町の西、徳丸本町と徳丸町飛び地に建設されています。
1969年発行の、住居表示実施前後の町名を表裏に印刷した地図にて確かめました。
旧北豊島郡赤塚村で、志村ではありません。

「志村」という名称は、都市交通審議会答申で用いられた東京地下鉄第6号線の計画で使われていたからではありませんか。
当初は都電志村橋終点付近を想定していましたが、建設困難という理由から蓮根橋近辺に変更された後、赤塚田んぼに大規模団地建設の計画が決まり再度位置が変更されたと聞き及んでいます。

うちの母も「どうしてあそこが志村なの?」と首をひねっておりました。
高島平に変えるときも、「高島秋帆なんて初めて聞いた。」
まあ、当時の一般住民の認識はそのレベルです。

当時の東京都や交通局の人は、どうも板橋区の地名について理解が浅かったとみられます。
「新板橋」は氷川町の国道17号に架かる橋のことで、旧中山道の板橋に対して新板橋だということを承知していたら、大きく離れているあの駅に「新板橋」とつけるはずがありません。


開業当初の志村→高島平駅には幾度か「探検」に行きました。
やたら大きな構造なのに、2番線と3番線にちょっとしか線路が敷かれていなくて、案内表示も2と3だけでした。
子供の目にはとても不思議でした。

延長する計画があるだろうとは当時から薄々気がついていて、子供たちの間でも話題になっていましたが、そこから先は東武になる予定で、1と4は東武用になるはずだったということは「トラムとメトロ」の展示会で初めて知り、30年来の疑問が解決しました。

現在の高島平駅では、ラッシュ時以外は1と4を使い、2と3は早々と閉めている模様です。
時の移ろいを感じます。

投稿: Windy 41 | 2018年11月 3日 (土) 19時10分

>>Windy 41さま
コメントをありがとうございます。幼い頃の思い出を書いていただきましたが、私の切符コレクション第1号は最寄りの「東武練馬駅」のもので、小学校低学年の頃でした。切符を渡したくなくてそのままポケットに入れて持ち帰ったもので、罪の意識があったのかはっきり覚えています。真ん中から折れ曲がってしまったのでセロハンテープで巻いてしまい、展示されるような代物ではありません。
志村の駅名は昔見た地積図の記憶のつもりでしたが、西台より西側には志村が付かなかったかもしれません。が、ご指摘の通りあまりこだわりのない(後に新しい町の名前がつくと考えていたのか)人たちが徳丸田んぼは頭に志村が付くところもあるから志村でいいや、と安易に決めたような感じでしょうかね。高島平と言う名の由来も知りませんでしたが、母校の紅梅小学校で習いました。

投稿: | 2018年11月 3日 (土) 21時07分

上のコメントでは個人的なお話を長々と連ねて失礼しました。
「いたばし大交通展」が契機のひとつとなる形で、最近硬券切符コレクションの見直しをしています。
それほど大掛かりなものではなく、百枚程度あれば十分です。

志村駅の切符もわが家にやってくることになりました。
改めて振り返れば、「志村」は自治体名であったにもかかわらず、鉄道としては都電の停留場名が十数年続いた後、現・高島平駅に8ヶ月使われただけで消えてしまったのですね。鉄道が不便な土地柄です。

ネットオークションも見ていますが、国鉄で数十年前に無人化された駅の入場券にヒートアップする人が大勢いて、びっくりしています。
終了5分前を狙って入札を仕掛ける人も何人かいるようで、他のカテゴリーではまず見られません。
日曜日の夜終了の業者さんが多いですね。
それでも、他の記事で言及されていた「交通趣味」誌の時代に比べるとはるかに楽になっているはずです。

先日、東上線の駅から池袋・東海道線経由で静岡・愛知県方面の準常備式連絡乗車券を見かけました。
昭和42~45年のものです。
買いませんでしたが、結構驚きでした。
当時は東武と東海道・山陽本線の間で連絡運輸が指定されていたために作られたのでしょう。券売機普及以前は東武の駅で長距離切符が直接買えたのですね。

日付印字器を「ダッチングマシン」ということもこのブログで初めて知りましたが、「Dating Machine」で、普通に読めばデーティングマシンです。わざわざローマ字読みにするなど、誰が思いついたのでしょう。

コレクション界は、今ちょうど世代交替期にあたっているみたいですね。
切符販売のお店に行ったら、たくさんの硬券特急・急行券が綺麗に貼り付けてあるアルバムが何冊もあって。
亡くなられた方が丁寧に保管して、大切にしてきたのだろうとすぐに想像がついて胸がかすかに痛み、諸行無常を感じました。

政府や公的機関が発行したものに価値を認められる人は、40代半ば以上でしょう。
若い人は「道の駅のきっぷ」やトレーティングカードのほうがいいのでしょうね。
そういえば、線友社は既に閉店した模様です。

投稿: Windy 41 | 2019年5月13日 (月) 17時06分

>> Windy 41さま
コメントをありがとうございます。「志村駅」の切符入手、おめでとうございます。なかなか手に入らない逸品ですね。そうですか、線友社はもう無くなりましたか。あそこは切符収集の梁山泊のような所でした。人気となったのは、品揃えと販売価格が良心的だったところに尽きますね。いつしか常連の独占化が始まり、一見客には敷居の高い店となってしまいましたが、現在に続く販売もするコレクターを育てた店でした。私のコレクションも、最後はどうなるのか自分にもわかりません。線友社のオーナーは、「一度手に入ればそれでいいじゃないか、あとはそれを売ってまた違うものを手に入れれば良いんだよ。」という思想の方でした。自分の集めている物は、地域に関わるものなのでそのような心境にはなれませんが。

投稿: | 2019年5月13日 (月) 21時11分

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