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貴重資料は突然に。〜カウントされない者たち〜

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 9月になりました。暑さはまだまだ残るけど、カレンダーが変わると秋を感じますね。大型台風、どうなることやら‥


基本的に当ブログでは雑記の類以外は資料を基にして記事を書くように努めている。資料は、自分の興味の赴くままに集めるけれど、それは実物資料であったり、紙の資料だったり、聞き取りからの情報など様々だ。
聞き取り調査の場合、時代的には先の戦時中を体験した方々から話を聞くことは、すでに困難な状況にある。だから、遺された資料の発掘に努めるしかない。

資料を探す方法はいろいろあるけれど、”資料と出会える幸運”が大事なことであり、自分の望んでいる資料がどこに眠っているのかに”気がつく”嗅覚も必要だと思う。

今回は、そんな幸運に恵まれて出会えた資料を基に描く。

板橋区民は数年前まで、成増陸軍飛行場関係者の戦友会である「成増会」の有志(成増会そのものは当時すでに解散していた。)によって続けられていた、靖国神社昇殿参拝の末席に加えていただいていた。板橋区に関わる戦友会が他にどのくらい存在しているのかは把握していないけれど、二造関係など、いくつかあるだろうと想像していた。

つい最近のこと、「慰霊祭回顧」と題された冊子と出会った。著者名は”東部一九九一部隊下赤塚中隊 赤塚会とある。

板橋区民はこの冊子を手にし、息が止まるほど驚いた。それは、長年、存在していたらいいなあ‥と願っていた資料だったからである。こんなに興奮を覚えたのは、啓志線に関わる二人の同名のヒュウ・ケーシーという人物が存在していたことが確認できた時以来だ。

東部一九九一部隊とは、戦時中、帝都防空に展開していた高射砲部隊で、下赤塚中隊とは「高射砲第116聨隊第三中隊」のことを指す。

板橋区内では、大東亜戦争開戦当初から高射砲陣地の構築が始まっていた。1944年時点では、板橋区の調査によると、赤塚(赤塚第一中学校から新大宮バイパスを挟んで北西方向の台地上。現在住宅地)と前野(平和公園、現在新中央図書館建設中の場所)に陣地が存在したが、戦時中の空中写真を確認すると茂呂(武蔵野病院北側あたり)にも置かれていたようだ。(板橋区によれば電波小隊が駐屯していたとされる。)

高射砲第116聨隊は、成増に本部を置き東京北西部一帯(一部埼玉も)を管轄しており、3000名以上の兵士が所属していた。これだけの人員がいて防空作戦に従事していたのなら、体験談の一つも残っているのではないか、と長年資料を探索し続けていたのである。

さて、出会った冊子には、表題に「慰霊祭回顧」とある。ページを開くと冒頭に、「本書を昭和二十年七月十日下赤塚陣地で散華した九人の御霊に捧げる」と著されている。

本文に目を通すと、1945年7月10日朝、成増飛行場を目標に攻撃を行った米艦載機群により放たれた爆弾が、下赤塚に展開していた高射砲陣地の砲座の一つに命中、分隊長以下9名が一瞬にして壮烈な戦死を遂げたことが書かれており、その霊を弔うため、昭和61年(1986年)3月30日に靖国神社で慰霊祭が行われたことを記念して製作されたものであることがわかった。関係者のみに少数印刷、配布されたため、部外者の目に止まる機会がなかったのである。

この日の空襲は、コルセアなど艦載機によるもので、東京都戦災史には当日、下谷区、板橋区、立川市、北多摩郡東村山町、多磨村、調布町、西多摩郡福生町、新島が空襲され、死者6人と記録されている。板橋区の調査によれば、成増飛行場を目標に下赤塚に空襲があったと記されているが、被害についての記録はない。

一般に、役所などが公表する戦災記録は、当時の警察や役所が罹災を受け付けたり調査した市民の死傷者数しか扱っておらず、兵士については公表されていない。成増飛行場でも爆弾による戦死者は出ているが、記録は残っていないのだ。板橋区民も、地元の古老の方々から戦時中の話を伺ってきたけれど、我が赤塚郷の一隅で9人もの人間が一瞬にして亡くなった話は初めて知った。


当日の状況が冊子に載っているので、一部を転載させていただく。


赤塚中隊長 馬渕誠一(旧姓長屋)元中尉の回想

「‥忘れもしません。昭和二十年七月十日東の空が漸く明けきった頃、東方地平線上に黒ゴマを撒いた様に数百機の敵艦載機の大編隊が我が陣地めがけて殺到してくるのが望見されました。機影はみるみる大きさを増し、正に雲霞の如き表現があてはまる敵機との死闘が開始されました。赤塚隊各掩帯内の砲座と敵機の壮絶なる一騎打ちが繰り返され始めたのです。時刻をかえり見るいとまなぞ毫もありません。突如上空の雲塊からコルセアの一群が急降下で現れ、数発投下した爆弾の一発が、第五掩帯内の砲座に折悪しく命中し大炸裂音とともに肉片が飛び散り、分隊長狩野辰一軍曹以下九名が壮裂な戦死を遂げ、小隊長ほかが負傷を負ったのであります。あたり一帯土けむりに覆われ視界は全く零の状態となりましたが、戦友は戦いの間をぬって、救出に遺体の収容にあたりました。
 敵機が去ると同時に戦死者を掩帯付仮眠所内に安置いたし、直ちに手厚く慰霊の通夜にあたった次第であります。朝な夕な寝食を共にし、肉親ともかわらぬ深い絆で生死を誓い合った我が友を一瞬に失った悲しみが満ち溢れ、死体にすがって慟哭するもの、悲嘆の涙にくれるものの中にあって、私もただただ涙がとめどなく流れて断腸の思いで胸がいっぱいでありました。〜以下略」


この時に亡くなった方々は、狩野辰一、上林健吾、大石徳三、加藤昌八、出会場寛蔵、山岸藤一郎、三木源美、中口幸三、吉田康男の九名であった。


”‥数百機の敵艦載機の大編隊が我が陣地めがけて殺到してくるのが望見されました‥”なんてちょっと筆が滑ったような表現もあるけれど、(数百機もの攻撃にさらされたら我が赤塚郷は被害甚大でもっと記録に残っているはずである。)空襲当日の状況が、実に生々しく語られている。

関係者向けに作成された冊子なので、亡くなった方々の階級が載っていなかったり、人員配置や「赤塚陣地」の様子が図面などで描かれていないのが惜しまれるが、それでも今まで謎であった陣地の実態が明らかになったのは大きい。また、「赤塚会」という戦友会が存在していたことも確認できた。全国の戦友会の所在が載った本を所持しているけれど、そこには記載がなかったように思う。

今回、この冊子により下赤塚中隊の詳しい戦歴もわかった。おかげで第一次資料のバイブル、防衛庁編纂の戦史叢書「本土防空作戦」や下志津修親会「高射戦史」に載る高射砲第116聨隊の資料と合わせると、より詳しく部隊の実態が把握できるようになった。

〜東部一九九一部隊下赤塚中隊の戦歴〜

昭和16年(1941年)11月
千葉県柏市東部七七部隊にて動員下令東部一九九一部隊編成独立高射砲第一中隊中隊長大尉永田胖


昭和16年11月23日
宮城県仙台防空のため東部二五部隊到着宮城野原に陣地構築


昭和17年(1942年)5月
仙台市より茨城県日立市に転進(移動)日立の防空につく


昭和17年9月
東京防空のため東京都足立区に転進


昭和17年12月
東京都板橋区下赤塚に転進と同時に東部一九九一部隊は聨隊となり東部一九九一下赤塚中隊となる(高射砲第116聨隊第三中隊)


昭和18年(1943年)12月
中隊長大尉永田胖南方に出征後任に長屋誠一中尉着任


昭和20年(1945年)7月10日
6時40分頃艦載機F4U延28機の爆撃を受け9人の戦死者を出す(五分隊分隊長狩野辰一以下9人)


昭和20年8月15日
終戦となる

上記の戦歴中、ふと気になる点が浮かんだ。それは、下線で強調した昭和17年12月に部隊が下赤塚に転進してきた時期だ。

この当時、成増飛行場は建設前で、高松町一帯に飛行場が造られる計画は、まだ地主たちにも知らされていなかった頃である。赤塚周辺には重要な軍需工場地帯は存在せず、現在の練馬区春日町に置かれた陣地と合わせて考えると、高射砲陣地構築は飛行場の防空のためであったと考えるのが自然だろう。

と、すると、成増飛行場設置は昭和17年12月には決まっていた、との推測が成り立つのである。

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