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2018年8月

2018年盛夏。板橋区民、徳丸発世界的商品ヤマト糊の歴史をふり返る。

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 何度書いても暑い。いや、熱い。赤塚郷は夕立にも避けられているようだ。


ここのところ戦時中のことを振り返っているが、我が生れ故郷、東武練馬駅付近は日中戦争以降、いくつかの軍需工場が存在し、その影響もあったのか東京陸軍第一造兵廠練馬倉庫が北町に置かれた。この地帯は、米軍の爆撃目標となり、空襲されたこともあった。

そんな軍需工場の一つに、「東洋食品工業株式会社」があった。その工場は、現在の徳丸通りを北へ、東武練馬中央病院の先、ライオンズガーデンの建つ場所に存在していた。

ん?あの場所には、と、昔からの徳丸民なら思い浮かぶだろう。その場所には、誰しもが一度は使ったことのある「ヤマト糊」の工場があったんじゃないか、と指摘するはずだ。通りを北へ向かい左側が工場、右側に製品倉庫があったが、両方共、板橋イオン建設と同時期に取り壊されマンションへと変わってしまった。

板橋区民は幼少の頃、まきば幼稚園に通っていたが、その途中にヤマト糊工場はあった。工場の横に隣接して庭のある民家があり、通りに面した門の奥に、メガネをかけた半身の黒い人物像が建っていたのが、幼い頃に見た不思議な風景として今も記憶に残っている。


現在の「ヤマト糊」の会社HPを覗くと、会社沿革にはこうある。


1899 東京墨田区において「ヤマト糊」の製造販売を開始。「ヤマト糊本舗」開業。日本初の「保存できるでんぷん糊」
     として広く受け入れられる。

1923 人気女優・栗島すみ子をポスターモデルに起用。「ヤマト糊」を商標登録して販路を拡大。

1948 東京都中央区に移転。「ヤマト糊工業株式会社」に改組。

1950 強力で劣化しないでんぷん糊を製造できる「冷糊法」により特許を取得。

1955 工場の生産設備を大幅自動化。

以下省略


ずいぶん、シンプルに記載されてますね。昔のHPでは、絵本的な感じでもっと詳しく会社沿革やのりの歴史について書かれていたように記憶します。

あんまりシンプルなので、「ニッポン・ロングセラー考」様のサイトから、ヤマト糊の歴史について転載をさせていただく。

『緑色のチューブや青いボトルに入ったでんぷん糊「ヤマト糊」を作っているのは、東京のヤマト株式会社。歴史は古く、今から110年前の1899(明治32)年にまで遡る。
この頃、東京の両国で薪炭商(燃料としての炭を販売する仕事)を営んでいた木内弥吉は、ある事で大いに頭を悩ませていた。炭の小分け販売用の袋貼りに使う糊がすぐに腐ってしまい、その度に自分で作るか、糊を販売する番小屋まで買いに行かなければならなかったのだ。当時の糊はでんぷん質を水に溶いて煮たもので、保存が利かなかった。これでは不便極まりない。そこで弥吉は、当時最先端の化学知識を応用し、防腐剤を使った糊を開発した。加えて、防腐剤による刺激臭を消す目的で香料も使用。原料には精選した米の純粋でんぷんを使い、湯煎(加熱処理)して品質を均等に保った。

完成した糊は、今までの糊とは大きく違っていた。腐らないので保存が利き、香りが良いので使いやすい。弥吉はこの糊を円筒形の瓶に入れ、大八車に載せて会社や銀行、郵便局、学校などへ売り歩いた。明治後期は会社や官公庁の事務量が増え、政府が学校教育に力を入れ出した時期。日本全体で事務用糊の需要が急拡大しており、そこに登場した「保存できる糊」は、事務の効率化にうってつけの道具だったのである。
弥吉は「これを日本一の糊にしたい」「商売が大当たりしますように」という願いを込め、製品の蓋に“矢が的に当たる”当たり矢マークを刻印した。名付けて「ヤマト(矢的)糊」。響きがいいこの商品名は、そのまま社名(ヤマト糊本舗)にもなった。

発売当時のヤマト糊の価格は不明だが、従来の糊よりかなり高価だったらしい。また、初期の製品は、保存はできるものの、使っているうちに粘性が低下するといった課題もあった。だがヤマトは高まる需要を背景に商品の改良を重ね、ヤマト糊は徐々に庶民の間に普及していった。

ヤマトは戦前から宣伝にも力を入れていた。1923(大正12)年には、当代きっての人気女優だった栗島すみ子をポスターのモデルに起用。また、芝居小屋や劇場などで使う緞帳や、有名浪曲師が使う演台掛けにヤマトのマークが入ったものを寄贈し、全国を巡回する際の宣伝効果を狙った。製品が売れ出すと、類似品が数多く市場に出てくる。この年、ヤマトは「ヤマト糊」の名称を商標登録。ブランドを守ると共に、販路の拡大を推し進めた。

順調に成長していたヤマトだったが、戦時中は一挙に状況が暗転した。1939(昭和14)年に公布された米穀配給統制法によって、米、馬鈴薯、甘藷、とうもろこしなど、食料となる全てのでんぷん原料が国の統制下に置かれ、糊の原料として使えなくなったのである。ヤマトを始め、糊メーカーは皆大きな打撃を受けた。だがこの困難な状況が、後にヤマトが大きく飛躍するきっかけを生むことになる。

主要なでんぷん原料が使えなくなった開発陣は、やむなく彼岸花やダリヤなどの球根からでんぷんを抽出した。ところが、異なる種類の非食品でんぷんでは、従来の商品と同じ品質を維持するのが難しい。研究を重ねた結果、開発陣が辿り着いたのは、でんぷんを加熱して糊にするのではなく、化学的な処理によって非食品でんぷんを混合させる技術だった。“冷糊法”と名付けられたこの製法によって、ヤマトは今までよりも強力で劣化しにくい糊を作ることに成功。後の1950(昭和25)年、同社は冷糊法の製法特許を取得している。』


ちょっと長いけれど、ヤマト糊の歴史が詳しく書かれてますね。

それにしても、確かに「ヤマト糊」の歴史については詳しいけれど、どうも現在のヤマト株式会社と重ねると違和感を感じる。オーナー家は長谷川という苗字であり、現在の社長も長谷川豊氏である。

板橋区民は、板橋サティ(現・板橋イオン)が建設される際、その変貌の記録を残しておいた。板橋区役所の文化財係に協力を願い、学芸員さんと大木伸銅工場内部を調査した。その時、ヤマト糊工場も茨城へ移転することを知り、文化財係を通してヤマト側へ調査を依頼したが、すでに工場はほぼ壊されていたので、まだ残っていた隣接の民家(社長宅)の、あの、幼い頃から不思議に思っていた半身像を調べてみた。像の台座には由来が書かれており、その全文が以下の通りだ。

『長谷川武雄社長は、明治36年10月29日北海道八雲町に生まれ、昭和3年3月3日、志を抱いて上京、本所区平川橋に於て莫大小製造卸合名会社長谷川惎商店を開業し、業務の拡張と共に店舗を東両国に移す。
昭和16年5月1日ヤマト糊の製造に努めた。偶々第二次世界大戦遭い、当時の情勢は事業を縮小するのを止なき至らしめたが機を看るに敏なる氏はここ徳丸町に食品加工業東洋食品工業株式会社を興し時の需要に対応した。終戦後、我国の事務用糊の外国品に劣れるを憂い特許製法を発明し、これが研究に専念し、研鑽5年、昭和25年ついに製糊法の天革新ともいえる、冷糊法による事務用糊の特許製法を発明し、斯界に冠たる優秀品を発売、ヤマト糊の赫々たる名声に全国に普く拡りかくて確固たる販路を拓くに至った。その敏わくて明察による幾多の功績は常に吾々を感激せしめよき先達として敬慕しヤマト糊創立60周年を記念し吾等一同相図りここに肖像を建てて之を顕彰する。
昭和34年11月10日 
ヤマト糊工業株式会社従業員一同
東京工場ヤマト会会員一同』

違和感の原因は、よくあることだけれど、説明不足にあるのだ。

これは板橋区民の解釈であり、真実とは違う恐れはあるが、それを承知で読んでいただきたいのだが、補填すると、最初にヤマト糊を発明したのは「東京の両国で薪炭商を営んでいた木内弥吉氏」で、大正年間を通して全国的なブランドとして成長させた。しかし、戦時中の統制で原料調達がうまくいかなくなり、昭和16年、事業を「東両国で莫大小製造卸合名会社を営んでいた長谷川惎商店」へ商標ごと譲渡するに至った。莫大小製造とはメリヤス業のことで、メリヤス製造は明治初期から旧武士階級の新い職業として隅田一帯で繁栄していた。メリヤスを壁紙など二次製品へ転用する際には澱粉糊が欠かせず、そのような関係から長谷川惎商店と関係していたのではないかと推測する。

しかし、統制された澱粉原料以外の材料で糊を造ることは困難で、やむなく、食品加工業東洋食品工業株式会社を徳丸町に設立した。記事の最初に書いたけれど、この東洋食品は乾燥野菜を製造し、海軍に納入していた軍需工場だったのだ。乾燥の技術が糊の開発過程で生まれたものかは定かではないが、全く関係がなかったとは思えないのである。

終戦後、開発陣は再び糊の研究を進め、ついに画期的な製造法、“冷糊法”を開発し、今までよりも強力で劣化しにくい糊を作ることに成功。昭和25年に製法特許を取得した。
この“冷糊法”を開発したのが徳丸工場であり、戦後ヤマト糊の躍進はこの工場から始まったのである。板橋区民は行ったことはないけれど、ヤマト糊徳丸工場は、板橋区内の小学校の社会科見学コースにもなっていた。

1999年秋、更地となったヤマト糊徳丸工場跡を訪れると、敷地の隅にポツンと石の臼のような物体が転がっていた。
よく見ると、当時のヤマト糊のHPに載っていた、“冷糊法”を開発した臼そのものであった。
これは廃棄されるぞ、と思った板橋区民は、郷土資料館に連絡し、後世に残る歴史的遺物なので是非保存を、と訴えた。訴えは快く聞いてもらえ、臼は郷土資料館へ引き取られていったのである。

あれから約20年。今でも臼は郷土資料館の片隅でひっそりと眠りについているが、いつか陽の目を見る日は来るのであろうか‥

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板橋区民、会いに行く。晴海埠頭まで。

今日も暑い。いや、熱い。

こんな酷暑な中、板橋区民はいま、晴海埠頭にいる。イギリス海軍の揚陸母艦アルビオンに乗船するためだ。


開場時間に着いたので、すごい行列だ。酷暑なのであまり人は来ないと思ったが甘かった。


はぁはぁ、やっと手荷物検査場が見えてきた。海風で少しは涼しいが照り返しが熱い。。


ようやく乗艦。


中は当たり前だが広い。


本物の英国兵を囲むミリオタ諸氏。


自衛隊と違って武器に触り放題。大人気だ。



ビジュアルも良いですネ。いかにもイギリス兵って感じだ。


次はアルビオンに接待?として随伴している掃海母艦うらがに乗艦。


うらがは機雷を掃海するための船だ。



デッキにはこんなプレートが。

なんか生々しいですね。


艦橋内へ。


ミッション終了、下船。

酷暑の中、辛かったけど楽しかったです。イギリス兵って米軍と違って黒人を見かけませんね。

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板橋区民、会いに行く。台風のさなか調布まで。

ようやく酷暑も一段落と思いきや台風の影響ではあまり喜べない。

まだ八丈島付近と遠いのに雨風が強い。そんな中、板橋区民は東京都西部へ出向かなくてはならない。


赤塚郷民が武蔵境辺りへ行く時は、成増から吉祥寺までバスを使う。池袋、新宿の大都会を通らず、ドアツードアで済むからだ。


吉祥寺駅まで約一時間。ちょうど昼時なので、いきなりステーキへ。


今日はワイルドステーキランチ300グラムがなんと1000円なのだ。一時間くらい並ぶかと思ったら10分も待たずに店内へ。さすが立ち食いだけある。

あー満足、さて帰えるか。じゃない、目的はこれからである。

吉祥寺駅から電車に乗り二駅目の武蔵境駅にある、武蔵野ふるさと館へやって来た。こちらでは今、かつて武蔵境にあった、中島飛行機武蔵野工場の展示が行われているのだ。


展示はシンプルだが、米国国立公文書館所蔵の貴重資料がふんだんに使われ、とても興味深く、勉強になった。
どうしてこんな資料を発見出来たのかを展示担当者の方にお聞きすると、予算を確保し、平成27,28年度に調査専門の方に委託したのだそうだ。沖縄県から委託されて長年米国公文書館に通っていた方がプロ化して各自治体に調査をセールスしておられるようだ。なるほど。

見学を終え武蔵境駅に戻りバスに乗る。さて何処へ。


さて着いたところは味の素スタジアム。いつも国道20号から見るばかりで近くまで来るのは初めてだ。風が強くて傘が折れそう。すでに何本も折れた傘が風に舞っている。


で、目的地はスタジアムではなく、お隣の武蔵野の森総合スポーツセンターアリーナだ。


と言うことで、またまた小田和正コンサートへ。とりあえず、オンステージ席の抽選へ申し込む。


が、見事に落選。今回はいままでで1番残念な席だ。でもまあ花道の一部は近くに見えるかな。楽しみましょう!




午後9時、コンサート終了。残念な席でしたがそれは会場全体が見えない、と言う意味で花道は近かったので小田さんが通る時はよく見えました。声も調子良さそうで感動致しました。

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2018年8月15日、73年目の終戦記念日にプラモデルで振り返る。

 暦の上では秋ですが、暑い。いや、熱い。。

73年前の8月15日の東京は晴れ、最高気温32.3度を記録したと言う。今日はその日を彷彿とさせるようである。


板橋区民は板橋区と関係ある様々な文物を収集しているが、その中にはプラモデルもある。小学校高学年から中学半ばまでの一時期ではあるけどプラモデルをさかんに作っていたことがあり、当時は北町商店街の「まつや」か赤羽の「山中」、または東武デパートで購入していた。

そのころは海軍派だったので、もっぱらウォーターラインシリーズを作っていた。飛行機はせいぜいゼロ戦(51型)で、陸軍機の知識は全くなかった。作りはまったく雑で、もちろん塗装などせずバリ取りもしない素組みで、作るより集めることにのめり込んでいたように思う。なぜか駆逐艦が好きであった。

長じて成増陸軍飛行場に興味を惹かれるようになると、47戦隊に所属した戦闘機のプラモデルを探すようになった。すでに当時はコンピューターゲーム真っ盛りの時代で、プラモデルもガンプラやフィギュアに押され、おもちゃ売り場の片隅にひっそりと積まれているのみであった。

今回は、収集したプラモデルの紹介をしつつ平成最後の終戦記念日を静かに過ごしたいと思う。

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まずはハセガワ製中島キー44二式単戦「鍾馗」震天制空隊仕様から。

これは、東京への本格空襲が始まった1944年11月中旬に成増飛行場で結成された震天制空隊機。この箱絵は第二陣として増員された機体で、モデルは1945年1月9日に成増上空で散華した幸軍曹機と推測、当時撮影された日本ニュース映画の一コマを元に描かれたのだろう。なんとなく背景が南国っぽいのはご愛嬌。


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お次もハセガワ製中島キー44二式単戦「鍾馗」震天制空隊仕様。なかなか綺麗な箱絵ですね。どなたの乗機だったのかはちょっとわかりません。特攻機は武装などを全て降ろし、”肉弾”でB-29へ突っ込みますので、この箱絵は史実に忠実だと思います。ちなみに、元震天制空隊員の方から聞きましたが、武装を降ろした戦闘機は戦闘機ではない。とおっしゃっておりました。軍隊では武器を持たずに敵と戦うことや、自分を殺して敵をやっつけるという戦法も教わらなかったのだそうだ。


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お次もハセガワ製中島キー44二式単戦「鍾馗」。こんなマーキングをした47戦隊機は見た記憶はなく、40㎜砲載機とあるけど、震天制空隊機ならば武装していないのでちょっとアヤシイ箱絵ですね。


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次はアリイ製中島キー84四式戦「疾風」、第二中隊富士隊所属機。B-29よりもグラマンと戦っているような箱絵が渋い。四式戦に換装されてからは米軍小型機との戦いが本格化しました。


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これはハセガワの中島キー84四式戦「疾風」の金属モデル。塗装済みの完成品で、なかなか質も良い。飾っておくと埃が気になるしアクリルケースへ入れると場所とるし、結局箱に入ったままだ。第二中隊富士隊所属一楽少尉乗機と思われる。

四式戦のモデルは他にもあるけれど、箱絵が47戦隊仕様ではないので省略する。(47戦隊デカール封入のものあり)


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これはレア物と思われる、ハセガワ製中島キー43一式戦「隼」。なにがすごいって47戦隊昇格前の47中隊時代の、しかも「隼」だ。47戦隊の「隼」は、主に擬似空中戦や射撃標的の布を付けて飛んだりと、訓練用の裏方として運用されていた。この機をラインナップしようとしたハセガワの人はよほどのオタクだよなあ。


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最後は、憎っくきボーイングB-29スーパーフォートレス「ドーントレス ドッティ」。1944年11月24日に、東京への本格空襲のためサイパン島の基地から飛び立った111機のB-29の一番機。第73爆撃団爆撃団司令Emmett O'Donnell Jr准将自らが操縦した。目標は先日紹介した武蔵境駅近くにあった中島飛行機武蔵製作所である。しかし、目標に投弾できたのは僅か24機で、59機が臨機目標東京市街地に投弾した。

この日、成増飛行場からは47戦隊機が全力出動し、第2中隊富士隊から震天制空隊へ選抜された19歳の見田伍長が、銚子沖でB-29「ラッキー アイリッシュ」機体後部に激突、右水平尾翼を喪失した機は九十九里東方約100キロ沖に墜落した。


現在もたまにネットでプラモデルを物色していますが、最初期の47戦隊仕様のプラモデルは1960年代半ばから確認できますが、ヴィンテージ価格が上乗せされ、購入に躊躇しちゃいますね。

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板橋区民、静かに参る。

朝、夜は涼しくなりましたね。



終戦記念日の喧騒と暑さが苦手で、少しは涼しい本日、靖国神社を参拝しております。

靖国神社を訪れたのは、旧成増会同志の方々が参拝をやめて以来のこと、拝殿前で無沙汰をお詫びしました。

人出は有りますが、とても静かで響くのは蝉の声ばかり、これが本来の姿でしょう。



東京裁判のパール判事記念碑に我が母校、赤一中の先輩・松原仁先生の花を発見。


東京の桜開花宣言の標本木としてすっかり有名になりました。前は囲いは無かったと思いますが、権威付けされちゃいましたね。

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板橋区民、思いを遂げる。

台風は過ぎたけど、風が強いですね。




板橋区民はいま、浜町の明治座にいる。明治座は初めてである。




で、何をしに来たかと言うと、「志村魂」を観に来たのだ。



昨日、俳優の菅井きんが亡くなっていたニュースが流れた。板橋区民が子供だった頃からおばさん役で親しんでいた方だった。最近、自分が子供だったころのオジさん、オバさん世代が少なくなったのを実感する。

そんなことで、子供のころテレビで楽しませてくれた方々も亡くなったり目にする機会がなくなったりしていて、今のうちに会っておきたいとの思いが強くなった。

子供時代に好きだったテレビは、なんと言ってもドリフだった。8時だよ、全員集合!!の公開放送のハガキも出したが当たることは一度も無かった。すでにドリフも長さんが亡くなり、テレビでのコントも見れなくなってしまった。

しかしまだ志村さんがいる。板橋区民は荒井注時代なので、志村加入後はそれほどではなかったが、バカ殿様シリーズは時々みていた。そこで、ドリフを引き継ぐ志村さんの舞台はいつか観たいと願っていた。



開演10分前、前方ど真ん中の良席なので、楽しみだ。





午後4時30分舞台終了。前半はテレビ番組版「志村けんの大丈夫だぁ」、途中30分休息を挟んで志村さんの三味線ショーと人情喜劇と言う構成だった。

いゃーやっぱり舞台はキレイですね。もう、キラキラしてる。後ろの席にゲラオバさんが陣取っていて五月蝿かったけど、ナマの臨場感がありました。

前半はテレビ番組通りのお約束ギャグ満載で、客もそれを見に来たと言った感じか。昼の回なので子供連れも多く年齢層も子供からお年寄りまで幅広い。中にはクロウトっぽい美女もチラホラ。
後半の人情劇のあとのカーテンコールは変なおじさん締めで終了でした。志村さんも68才、まだまだ頑張ってマス。

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8月も後半だし、残暑見舞いをかねてブログを訪れた方に情報をチラ見せする。

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 暑さはぶり返しましたが、だいぶ陽も短くなり夏の終わりを感じますね。

ちょっと前に、都電最終日近辺に撮影された10数枚の写真をネガごと入手できた。厳しく言うと写真の腕前は、う〜ん、もっとがんばれ。てな感じだけれど、貴重な記録写真としての価値は高い。冒頭の写真のように板橋駅前電停だけ切り取ったカットがあったり、板橋区民にはうれしいかぎりだ。

この秋、板橋区立郷土資料館にて企画展、「都営三田線開業50周年記念いたばし大交通展〜江戸時代の街道から鉄道まで〜」が開催されることは、当ブログでも何度か告知してきた。そろそろ関連事業の企画も決まってきたようなので、当ブログを訪れていただいた方へ先行情報を提供しますね。

オープニングイベント:10月13日・14日 オリジナル硬券配布(先着200名)とダッチングマシン体験

                         鉄道模型ミニ展示(講義室にて。)


談話会「三田線の昨日、今日、明日」  開催:11月17日午後1時30分〜午後3時30分(先着100名)

神田にあった交通博物館最後の館長、菅建彦氏(板橋区在住)司会により、東京都交通局OBの方と現業の方を招いての座談会。都営三田線の知られざる秘話が飛び出るかも。都電の話も期待大!

談話会「東上線の昨日、今日、明日」  開催:11月24日午後1時30分〜午後3時30分(先着100名)

神田にあった交通博物館最後の館長、菅建彦氏(板橋区在住)司会により、東武鉄道レジェンドの方と現業の施設部の方を招いての座談会。今年6月、すべての役職を退き自由の身となったレジェンド氏からどんな秘話が飛び出るのか、期待大!

その他、学芸員による展示解説:10月27日、11月17日 午後1時30分から40分間程度。

おまけ、「板橋宿に出没した珍獣”ラクダ”と記念撮影しよう!」 開催期間最終日まで。

えっ、ほんもんのラクダと記念写真か!‥なんてことを想像しながら開催を楽しみに待ちましょう!

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板橋区民、会いに行く。九段下まで。

蒸してますが、そこはかとなく秋の気配が。。



板橋区民は九段下に来たわけですが、それは‥




もちろん、小田和正アンコール!!コンサートに参加するためである。




ちょっと早い時間だけど、すでにグッズ売り場は黒山の人だかりだ。




せっかくの武道館だが今日の席は分が悪い。なにせ席種がA席なのだ。ホントは昨日は中央に近いS席を取ってあったのだが、10月下旬にポール東京ドーム公演がいきなり発表となり、そちらに参戦するための資金に回すためチケットを譲ってしまったのだ。武道館は裏以外どこからでも見えるから2日目はA席でもいいか、と思ったのだが、巨大スピーカーやら綱やらが邪魔して見切れ席のようだ。

と、文句を書いたけど、花道は半分以上見えるし直前は通路だし以外と愉しめるかも‥




‥午後9時30分、予定時刻にアンコールも終わりステージは幕を閉じた。小田さんの歌う姿が完全に見えなくなるシーンもあったけど、今回のツアーで1番良かったかもしれない。やっぱり武道館は良いな‥アリーナ会場と違いなんかアットホームな感じがしますね。来月で小田さんも71歳。いつまでも、このパワーを維持していただきたいと強く願う。



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