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2018年盛夏。板橋区民、徳丸発世界的商品ヤマト糊の歴史をふり返る。

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 何度書いても暑い。いや、熱い。赤塚郷は夕立にも避けられているようだ。


ここのところ戦時中のことを振り返っているが、我が生れ故郷、東武練馬駅付近は日中戦争以降、いくつかの軍需工場が存在し、その影響もあったのか東京陸軍第一造兵廠練馬倉庫が北町に置かれた。この地帯は、米軍の爆撃目標となり、空襲されたこともあった。

そんな軍需工場の一つに、「東洋食品工業株式会社」があった。その工場は、現在の徳丸通りを北へ、東武練馬中央病院の先、ライオンズガーデンの建つ場所に存在していた。

ん?あの場所には、と、昔からの徳丸民なら思い浮かぶだろう。その場所には、誰しもが一度は使ったことのある「ヤマト糊」の工場があったんじゃないか、と指摘するはずだ。通りを北へ向かい左側が工場、右側に製品倉庫があったが、両方共、板橋イオン建設と同時期に取り壊されマンションへと変わってしまった。

板橋区民は幼少の頃、まきば幼稚園に通っていたが、その途中にヤマト糊工場はあった。工場の横に隣接して庭のある民家があり、通りに面した門の奥に、メガネをかけた半身の黒い人物像が建っていたのが、幼い頃に見た不思議な風景として今も記憶に残っている。


現在の「ヤマト糊」の会社HPを覗くと、会社沿革にはこうある。


1899 東京墨田区において「ヤマト糊」の製造販売を開始。「ヤマト糊本舗」開業。日本初の「保存できるでんぷん糊」
     として広く受け入れられる。

1923 人気女優・栗島すみ子をポスターモデルに起用。「ヤマト糊」を商標登録して販路を拡大。

1948 東京都中央区に移転。「ヤマト糊工業株式会社」に改組。

1950 強力で劣化しないでんぷん糊を製造できる「冷糊法」により特許を取得。

1955 工場の生産設備を大幅自動化。

以下省略


ずいぶん、シンプルに記載されてますね。昔のHPでは、絵本的な感じでもっと詳しく会社沿革やのりの歴史について書かれていたように記憶します。

あんまりシンプルなので、「ニッポン・ロングセラー考」様のサイトから、ヤマト糊の歴史について転載をさせていただく。

『緑色のチューブや青いボトルに入ったでんぷん糊「ヤマト糊」を作っているのは、東京のヤマト株式会社。歴史は古く、今から110年前の1899(明治32)年にまで遡る。
この頃、東京の両国で薪炭商(燃料としての炭を販売する仕事)を営んでいた木内弥吉は、ある事で大いに頭を悩ませていた。炭の小分け販売用の袋貼りに使う糊がすぐに腐ってしまい、その度に自分で作るか、糊を販売する番小屋まで買いに行かなければならなかったのだ。当時の糊はでんぷん質を水に溶いて煮たもので、保存が利かなかった。これでは不便極まりない。そこで弥吉は、当時最先端の化学知識を応用し、防腐剤を使った糊を開発した。加えて、防腐剤による刺激臭を消す目的で香料も使用。原料には精選した米の純粋でんぷんを使い、湯煎(加熱処理)して品質を均等に保った。

完成した糊は、今までの糊とは大きく違っていた。腐らないので保存が利き、香りが良いので使いやすい。弥吉はこの糊を円筒形の瓶に入れ、大八車に載せて会社や銀行、郵便局、学校などへ売り歩いた。明治後期は会社や官公庁の事務量が増え、政府が学校教育に力を入れ出した時期。日本全体で事務用糊の需要が急拡大しており、そこに登場した「保存できる糊」は、事務の効率化にうってつけの道具だったのである。
弥吉は「これを日本一の糊にしたい」「商売が大当たりしますように」という願いを込め、製品の蓋に“矢が的に当たる”当たり矢マークを刻印した。名付けて「ヤマト(矢的)糊」。響きがいいこの商品名は、そのまま社名(ヤマト糊本舗)にもなった。

発売当時のヤマト糊の価格は不明だが、従来の糊よりかなり高価だったらしい。また、初期の製品は、保存はできるものの、使っているうちに粘性が低下するといった課題もあった。だがヤマトは高まる需要を背景に商品の改良を重ね、ヤマト糊は徐々に庶民の間に普及していった。

ヤマトは戦前から宣伝にも力を入れていた。1923(大正12)年には、当代きっての人気女優だった栗島すみ子をポスターのモデルに起用。また、芝居小屋や劇場などで使う緞帳や、有名浪曲師が使う演台掛けにヤマトのマークが入ったものを寄贈し、全国を巡回する際の宣伝効果を狙った。製品が売れ出すと、類似品が数多く市場に出てくる。この年、ヤマトは「ヤマト糊」の名称を商標登録。ブランドを守ると共に、販路の拡大を推し進めた。

順調に成長していたヤマトだったが、戦時中は一挙に状況が暗転した。1939(昭和14)年に公布された米穀配給統制法によって、米、馬鈴薯、甘藷、とうもろこしなど、食料となる全てのでんぷん原料が国の統制下に置かれ、糊の原料として使えなくなったのである。ヤマトを始め、糊メーカーは皆大きな打撃を受けた。だがこの困難な状況が、後にヤマトが大きく飛躍するきっかけを生むことになる。

主要なでんぷん原料が使えなくなった開発陣は、やむなく彼岸花やダリヤなどの球根からでんぷんを抽出した。ところが、異なる種類の非食品でんぷんでは、従来の商品と同じ品質を維持するのが難しい。研究を重ねた結果、開発陣が辿り着いたのは、でんぷんを加熱して糊にするのではなく、化学的な処理によって非食品でんぷんを混合させる技術だった。“冷糊法”と名付けられたこの製法によって、ヤマトは今までよりも強力で劣化しにくい糊を作ることに成功。後の1950(昭和25)年、同社は冷糊法の製法特許を取得している。』


ちょっと長いけれど、ヤマト糊の歴史が詳しく書かれてますね。

それにしても、確かに「ヤマト糊」の歴史については詳しいけれど、どうも現在のヤマト株式会社と重ねると違和感を感じる。オーナー家は長谷川という苗字であり、現在の社長も長谷川豊氏である。

板橋区民は、板橋サティ(現・板橋イオン)が建設される際、その変貌の記録を残しておいた。板橋区役所の文化財係に協力を願い、学芸員さんと大木伸銅工場内部を調査した。その時、ヤマト糊工場も茨城へ移転することを知り、文化財係を通してヤマト側へ調査を依頼したが、すでに工場はほぼ壊されていたので、まだ残っていた隣接の民家(社長宅)の、あの、幼い頃から不思議に思っていた半身像を調べてみた。像の台座には由来が書かれており、その全文が以下の通りだ。

『長谷川武雄社長は、明治36年10月29日北海道八雲町に生まれ、昭和3年3月3日、志を抱いて上京、本所区平川橋に於て莫大小製造卸合名会社長谷川惎商店を開業し、業務の拡張と共に店舗を東両国に移す。
昭和16年5月1日ヤマト糊の製造に努めた。偶々第二次世界大戦遭い、当時の情勢は事業を縮小するのを止なき至らしめたが機を看るに敏なる氏はここ徳丸町に食品加工業東洋食品工業株式会社を興し時の需要に対応した。終戦後、我国の事務用糊の外国品に劣れるを憂い特許製法を発明し、これが研究に専念し、研鑽5年、昭和25年ついに製糊法の天革新ともいえる、冷糊法による事務用糊の特許製法を発明し、斯界に冠たる優秀品を発売、ヤマト糊の赫々たる名声に全国に普く拡りかくて確固たる販路を拓くに至った。その敏わくて明察による幾多の功績は常に吾々を感激せしめよき先達として敬慕しヤマト糊創立60周年を記念し吾等一同相図りここに肖像を建てて之を顕彰する。
昭和34年11月10日 
ヤマト糊工業株式会社従業員一同
東京工場ヤマト会会員一同』

違和感の原因は、よくあることだけれど、説明不足にあるのだ。

これは板橋区民の解釈であり、真実とは違う恐れはあるが、それを承知で読んでいただきたいのだが、補填すると、最初にヤマト糊を発明したのは「東京の両国で薪炭商を営んでいた木内弥吉氏」で、大正年間を通して全国的なブランドとして成長させた。しかし、戦時中の統制で原料調達がうまくいかなくなり、昭和16年、事業を「東両国で莫大小製造卸合名会社を営んでいた長谷川惎商店」へ商標ごと譲渡するに至った。莫大小製造とはメリヤス業のことで、メリヤス製造は明治初期から旧武士階級の新い職業として隅田一帯で繁栄していた。メリヤスを壁紙など二次製品へ転用する際には澱粉糊が欠かせず、そのような関係から長谷川惎商店と関係していたのではないかと推測する。

しかし、統制された澱粉原料以外の材料で糊を造ることは困難で、やむなく、食品加工業東洋食品工業株式会社を徳丸町に設立した。記事の最初に書いたけれど、この東洋食品は乾燥野菜を製造し、海軍に納入していた軍需工場だったのだ。乾燥の技術が糊の開発過程で生まれたものかは定かではないが、全く関係がなかったとは思えないのである。

終戦後、開発陣は再び糊の研究を進め、ついに画期的な製造法、“冷糊法”を開発し、今までよりも強力で劣化しにくい糊を作ることに成功。昭和25年に製法特許を取得した。
この“冷糊法”を開発したのが徳丸工場であり、戦後ヤマト糊の躍進はこの工場から始まったのである。板橋区民は行ったことはないけれど、ヤマト糊徳丸工場は、板橋区内の小学校の社会科見学コースにもなっていた。

1999年秋、更地となったヤマト糊徳丸工場跡を訪れると、敷地の隅にポツンと石の臼のような物体が転がっていた。
よく見ると、当時のヤマト糊のHPに載っていた、“冷糊法”を開発した臼そのものであった。
これは廃棄されるぞ、と思った板橋区民は、郷土資料館に連絡し、後世に残る歴史的遺物なので是非保存を、と訴えた。訴えは快く聞いてもらえ、臼は郷土資料館へ引き取られていったのである。

あれから約20年。今でも臼は郷土資料館の片隅でひっそりと眠りについているが、いつか陽の目を見る日は来るのであろうか‥

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