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2018年7月

板橋区民、会いに行く。横浜へ。

暑い。いや、熱い。

今日の板橋区民はアウェーの地、渋谷を越え新横浜にいる。ここ、横浜アリーナで小田和正コンサートが行われるのだ。

まだ開場にはだいぶ早いが、今回の席があまり良くないので、オンステージシートの抽選にエントリーしてみるのだ。オンステージシートとはバックバンド後ろの席で、ステージ上に立っている気分が味わえるのだが、最初から最後まで立ちっぱなしになるのでオジサンには辛い席ではある。

まだ時間はたっぷりあるので、久しぶりにラーメン博物館へ寄ることにした。

ラー博は何年ぶりだろうか。確かオープン当初だったから、20年ぶりかな。

ラーメン博物館と言えば館内に展開する人気ラーメン店巡りだ。先ずはラーメンの鬼こと故・佐野実氏の支那そばやへ。色々な店を巡れるようにミニサイズのメニューがある。ちょっと斜め目線で食べてみたが、いや、これは美味い。チャーシューも板橋区民の大好きなホロホロさだ。こんな店が近くにあれば絶対に通うなあ。

さて、お次は利尻ラーメンの店へ。5年前に利尻島へ行ったのだがその時食べたかどうか記憶があやふやだ。利尻コンブの旨味をふんだんに生かしたラーメンだが、食べても思い出せない‥でもこちらもチャーシューがホロホロで美味しかった。
もう一軒気になる店があったけど、いくらミニサイズでもカップ麺一個分はあるのでちょっとムリだ。。

ラーメン博物館を後にして再び横アリへ。入場してオンステージシート当選者の貼紙を見ると‥我が苗字が!と思ったら女性名だった。同じ苗字の方、おめでとうございます、楽しんで下さい。でも、今回の席は玉アリよりも良席だった。横アリは玉アリよりもキャパが小さいですね。

ちなみにこれがオンステージシートだ。


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21時半、コンサートは終了した。地元開催だけあって、小田さんもリラックスしたステージだった。が、張り切り過ぎて最後のほうで足がもつれたのかオンステージシート席中に突っ込んでしまった。ホント、お歳なんだから気をつけてほしい。

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⭐️祝!ハレンチ学園誕生50周年。⭐️

 梅雨明けはフェイクだったのですかね。。

「ハレンチ学園」
このタイトルだけでトキメキを覚えるのは50代以上のおじさんだろう。

「ハレンチ学園」は、漫画家・永井豪により1968年11号から1972年41号まで『週刊少年ジャンプ』にて連載されたギャグ漫画だ。作品中に「モーレツごっこ」を登場させ、子供達の間で、スカートめくりが大流行する一因となった。

板橋区民もちょうどその頃から漫画本を購入し始めた記憶がある。徳丸の宮の下交差点西側にあった文房具店で漫画雑誌を売っていたので、主にそこで買い、無ければ東武練馬駅前の塩野書店(今はココイチだったかな。)まで行った。初期はジャンプ、それからチャンピオン、サンデーを読んでいた、と思う。

永井豪先生の丸みを帯びた絵柄が好きで、後で知ったが、手塚治虫先生のアシスタントもしていたそうだ。「ハレンチ学園」は、最初の頃は他愛もないエッチなギャグ漫画だったけれど、後半はなんだか生徒(学校)と教育委員会との戦争物となり、その描写がシリアスさを帯びてきて、もはや少年の読み物ではなくなり購読をやめてしまった。

連載当時は、学生運動が最後の光を放っていたころで、その影響を受けていたのかと思っていたが、作品が社会的に槍玉に上がり(現在の表現では”大炎上”し)、PTA等からの激しい批判の標的となって作者の人格攻撃にまで発展した。永井豪先生は、当時の教育制度に対しての痛烈な皮肉と、戦争を生むのは醜い人間の欲望と偏った思想であるとの思いを込め、この戦争描写を展開させたらしい。先生は、ハレンチ学園連載後半ころからマガジンで「デビルマン」の連載を始め、ハレンチ学園終了後から「マジンガーZ」の連載を始めた。

少年期の私の好きなギャグ漫画家は、永井豪、吾妻ひでお、山上たつひこ、鴨川つばめ達であったが、皆、最初は他愛もないギャグ漫画を描いていたのが、だんだん精神世界方面へと行ってしまった。これはなぜなのか今持って不思議である。


ん?今回は思い出の漫画について記事にしているだけか?

いやいや、実は、永井豪先生は「都立板橋高校」出身であり、「ハレンチ学園」は板橋高校をモデルとして描かれた作品と言われているのだ。

板橋区民が覚えている板橋高校は、板橋区内No.-1の高偏差値を誇る、都立高第43群の最高峰グループに属するエリート校であった。それがなんで”ハレンチ”になったの?永井先生は逆説的に描いたの?と思ったが、先生の在学していた頃は、まだ学校群制度前の時代(学校群制度は1968年から)だった。

永井先生によると、学生時代に教諭が女子生徒の体を触り、その場は教諭個人の冗談を含む一過性の性的揶揄と思ったが、後で隠れて泣いている女子生徒を目の当たりにし、その目撃談を元にデフォルメして作品を描いた、と言う。当時の糾弾者達は、ハレンチ描写よりも、余りに理想の教師像からかけ離れた教師達の描写を問題視し、教師という権威をからかったことに怒りを覚えたらしい。


現在は普通に教師の不祥事がニュースに上がるけれど、昔は確かに聖域のように守られていましたね。学校もずいぶん変わり、兎跳びなんてとんでもない、運動の際、水を飲むとバテるからダメだ。なんてもはや過去のこと、給食にハラールフード提供やジェンダーフリー対応も当たり前、なんて時代だ。当時、常識が変わるなんて思いもしなかったけれど、長い時を経ると変化はあるものですね。。

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板橋区民、リア充を愉しむ。〜ゆるキャン△旅〜

今日から梅雨明けって感じですね。

そんなことで板橋区民は大月市付近にいる。夏休み先取りと言うことで山梨市のキャンプ場を目指し、我が赤塚郷からバイクで移動中なのである。

山梨市に着いて笛吹川近くの養魚場へ寄り、生きた鮎を購入。本日のメインディッシュだ。

ほったらかし温泉到着。我が赤塚郷から4時間半であった。

さすが人気のほったらかし温泉キャンプ場、すんばらしい景色。

テントやタープを設営し、隣接のほったらかし温泉へ。
いやー素晴らしい!景色は最高だ。惜しむらくは富士山が雲に隠れて見えない。。それでもとても良い景色だけれど。

宿営地に戻り、さっそく新鮮な鮎を焼き始める。

鮎を焼いていると富士山が顔を出してきた。

鮎、焼き上がりました。ウマウマ

最後のマシュマロデザートまで美味しくいただきました。

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2018年盛夏。板橋区民、戦時中を振り返る。Vol.-1

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 暑い、いや、熱い。チョー熱いっす。もはや身の危険を感じますね。。


ここのところ、リア充を誇るかのような記事ばかりでこれじゃいかんと思いつつ前回のキャンプ話も、キャンプをしながらしこたまワインを飲んでいたので続きが書けない状態に陥り、正気に戻ってから書こうにもその話に誰が興味あるのかと正気な頭が語りかけるので、結局はしり切れとんぼとなってしまったのである。反省。

さて、外は熱いが内はクールに引き締めていきましょう。

この間、戦前から大山駅近くで写真館を営んでいたという家の方から話を伺う機会があった。話の途中でふと思い出したことがあったので、そのことを聞いてみた。

それは、現在も営業しているけれど、常盤台にある常盤台写真館のことである。建築が好きな方ならばご存知と思うが、常盤台住宅地ができると同時に開業した老舗写真館で、旧の建物は、小金井にある江戸東京たてもの園に移築され、現在でも内部ともに見学できるようになっている。移築されるだけあって、モダンで洒落た建物だ。

立地も外観も良かったので写真の評判も良く、板橋区民の姉も成人式の写真は常盤台写真館で撮影をした。その時はおそらく三代目の方が撮影したと思うけれど、大山の写真館の方に聞いたのは二代目の方の話しで、二代目の方=T氏は、今から40年前にはすでに亡くなられていた。現役の頃は、板橋区(城北地区だったかな)の写真組合のまとめ役をしておられたそうである。

以前、成増飛行場で結成された特攻隊・振武隊の隊長であった堀山氏から、終戦時に成増飛行場に駐屯していた「第100飛行団」の戦隊史(1985年刊)の複写をいただいていた。その本の最後に、隊員の名簿が載っており、次に、戦後に亡くなった方の名簿があった。そこに、T氏の名前が記載されていたのを思い出したのである。

名前に気がついた時は、どのような経過で第100飛行団で終戦を迎えたのかなどさっぱりわからず、ずっと疑問が胸の中に残っていた。名簿にはただ連絡先の住所と遺族の名と電話番号が載っているだけで、第100飛行団のどこの戦隊に所属し、どんな部署でどのような地位で勤務していたのかまでは記載がなかったのである。

大山の写真館の方に思い出してもらうと、T氏は生前、知覧で特攻隊員として待機しており終戦になったため出撃しなかったこと、常盤台写真館へは婿養子として入ったこと、などと話していたことがわかった。

第100飛行団は、昭和19年7月、明野飛行学校北伊勢分教所で編成され、3個戦隊(第101、102、103)が所属していた。最初はフィリピンへ進出する計画であったが未熟な空中勤務者が多く、結局は第6航空軍に属して沖縄作戦にのぞむことになった。

その後、第101戦隊は都城東飛行場へ展開、第102戦隊は都城西飛行場に展開、第103戦隊は熊本県の隈ノ庄から徳之島、知覧へ移動し、都城へ展開した。特攻隊の援護任務や沖縄の飛行場への挺進攻撃など、激しい戦闘任務となり、主力の人員のほとんどが失われ、戦力回復のため昭和20年5月下旬、成増飛行場へ後退した。

そこで、T氏の話である。T氏は終戦時、知覧で特攻隊として待機していたと述べておられた。知覧へ駐屯していたことがあるのは第103戦隊だが、それは昭和20年4月から5月始め頃までである。また、沖縄特攻に参加した第100飛行団から選抜された振武隊は、都城東飛行場より出撃した第1特別振武隊である。(最初の出撃は4月6日。)

ざっとしか書かなかったけれど、第100飛行団の軌跡は以上であり、第102戦隊は成増で解散して他の戦隊へ吸収され、命令により昭和20年7月下旬に成増から高松と由良飛行場へ展開し、そのまま現地で終戦を迎えている。

そうとなると、T氏の話はどうもつじつまが合わなくなる。ご本人が物故された今では確認しようもないけれど、どうなのかなあとすっきりしない気持ちである。養子に入いられる前の旧姓も、階級もまだわからない。

第100飛行団は終戦時に知覧にはいなかったけれど、T氏は特攻隊員に選抜され振武隊に所属していた可能性は捨てきれない。振武隊の記録は、特攻を行った部隊についてはネット上に名簿があるけれど、出撃せず待機で終わった部隊についてまで記載のある記録をまだ確認できておらず、鋭意調査中だ。


第100飛行団の話は、Vol.-2へ続きます。

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2018年盛夏。板橋区民、戦時中を振り返る。Vol.-2

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 暑い、いや熱い。屋外へ出ることを躊躇しますね。。

前回書きました、第100飛行団に所属していた常盤台写真館2代目のT氏についての続きです。

T氏は、戦後に常盤台写真館へ迎えられた方で、山形のご出身らしい。ご本人を知る方より、知覧で特攻待機中に終戦を迎えた、とお聞きしている。知覧待機で陸軍ということは、基本的に振武隊の可能性が高い。すでに沖縄は米軍に占領されていたけれど、いよいよ本土上陸も近いとのことで、米艦船への特攻作戦は継続されていた。

そこで、知覧特攻平和会館へ問い合わせをし、ご回答をいただいた。T氏の旧姓が不明なので、名前を頼りに探していただいたが、振武隊の該当者2名は戦後の職業が違うので除外、可能性が高いのは101戦隊に所属していたS氏という方らしい。陸軍少尉候補者24期後期出身まではわかったけれど、それ以上はまだ不明だ。

ただし、101戦隊は知覧に駐屯していたことはなく、S氏が特攻隊員として選抜されて知覧にいたのか、第100飛行団の戦隊史に「8月上旬に高松へ移動していた101戦隊は、飛行団長、秋山紋次郎大佐の命により戦闘態勢を維持。8月16日夕方、米艦隊が土佐湾へ侵入との情報を受け、夜半に特攻隊12機へ編成し、出撃したが目標を発見できず帰投した。」と記載があり、その中にいた可能性もある。

それにしても、昔、話を伺ったことがある、101戦隊に所属し、終戦直後、最後に四式戦に搭乗して成増飛行場を飛び立った中村吉明少尉が存命であったなら、重ねて話を聞くことができたのに、と残念である。


ここで終わらすのもなんなので、第100飛行団の戦隊史に記載されている成増飛行場の様子を、一部転載させていただくことにする。

沖縄方面作戦任務で概ね戦力を喪失した第101、102,103戦隊は、部隊立て直しのため昭和20年6月上旬、航空総軍の直轄となり、成増飛行場へ移動した。ただし、団司令部は都城西飛行場に留まり、引き続き特攻作戦を指導した。
移動当初は飛行機も人員の補充もままならず、空中勤務者たちは交代で、熱海にあった航空保養所旅館「相模屋」で休養していた。

確か練馬区史だったか、古老による成増飛行場の回想話が載っていて、「成増飛行場には飛行機はほとんどなく、南方けら引き上げてきたのかボーッとした上半身裸の兵がうろうろしていた。」などという描写があったけれど、それはまさにその時分の状況だったのだろう。

補充の進捗がすすまず、7月10日、遂に一時的に102戦隊を解散し、101戦隊と103戦隊に人員機材を振り分け、訓練を開始した。27日、飛行場に布板をおき、対地射撃訓練中に103戦隊機同士が空中接触し、空中勤務者2名が殉死してしまった。

以下、第103戦隊の整備員をされていた駒井薫氏の寄稿より転載。

「都城東飛行場に展開していた、私ども103戦隊の整備員は、6月上旬飛行隊に先立ち、戦力回復並びに機材補充と確保のために、東京の成増飛行場に移動することになり、先発隊として、都城基地を後にして、東都城駅より日豊本線に乗車、宮崎より北上して関門トンネルを通過、下関にて山陽本線、神戸から東海道本線へ乗り換え東京へ前進した。(注、移動時の困難話は省略)東京駅から山手線にて池袋、そして武蔵野線(西武池袋線)で石神井駅に到着しました。

これより先、成増飛行場までの里程約5粁を肩に背袋、両手に部品等の小荷物をといった姿体で歩行約1時間20分基地に到着致しました。成増飛行場では飛行場大隊?が準備して下さった、板橋の赤塚第一国民学校(赤塚小学校)が私たちの宿舎(兵舎)でした。場内の端で小休した後、案内役の下士官により誘導でそこから約四粁北上し、川越街道を横切り少し入ってから宿舎に到着致しました。学校には他部隊の兵隊達が宿泊しておりました。私どもは一両日は環境の整理のため休暇が与えられました。

その後は川越街道をへだてた飛行場まで毎日四粁の里程を防暑服を着用して汗とホコリと油にまぎれての作業に往復の日々が続きました。赤塚より基地を望めば左手方向に、滑走路が南北に走り、松林の間々には、いくつかの掩体壕があり、壕内は四式戦が秘匿されていますし、又右手雑木林の木々の間には、いくすじかの誘導路が大木のあいだに走っておりました。当時東京地方は連日の様にB29の爆撃や、P51の機銃掃射がありました。そのたびに作業を中止して附近の雑木林の中に退避いたしました。

ある時作業の間に私は小用のため西側(北大泉町)にある便所にて用たしをしていた時のことです(すでに警報は鳴っていました)。キィーンと云うP51の金属音と共に機銃の連射音、ブス、ブスと云う無気味な射る音と同時に便所にも、数弾がうち込まれ、私は生きたここちはありませんでした。悪夢が去った翌日だったと思いますが北大泉町の農家(便所より西側にある)の機の部品をあづけてある納屋に参りましたら昨日の機銃掃射の一弾が病床の娘さんに直撃して亡くなったとのお話に、私は返す言葉もありませんでした。きっとあの娘さん(宮下さんと云う方だったと記憶しています)は私の身替りになって下さったと信じ、御冥福をお祈り致し帰ってきました。<以下、飛行機の部品を取りに立川航空廠の部品疎開先である秩父・高篠村へ受領しにいった話等、省略>」


第100飛行団の話はここまで。戦時中を振り返る。Vol.-3へ続く。

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2018年盛夏。板橋区民、戦時中を振り返る。Vol.-3 〜成増飛行場を作った男、大河内大佐を追う。〜

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 週末、台風が直撃しそうですね。猛暑を吹き飛ばしてくれるのか‥

”板橋ハ晴天ナリ。”はH.P.の簡易版である、ブログというウェブサイト機能を使ってお伝えしている。PCからもモバイル機器からも簡単にUPできるので便利なのだ。しかし、写真+文章という構成から絵日記として利用されるのがほとんどで、過去記事がすぐに埋もれてしまい検索がしにくいという欠点がある。

”絵日記”であればマメな人なら毎日記事をUPできるけれど、当ブログはちょっと方針が違い、どちらかというとH.P.に近いような内容であり、記事によっては調査をしてから書くので、時間がかかったり更新が止まったりすることもある。記事にしようかと思っても、調べの途中でほったらかしになっている案件はいくつもあったりする。

ほったらかしにしておいても進展はないし、今こんなことを調べてます、という途中経過を書くことで何かしら反応があったり、最近とみに物忘れが進んできた自分の備忘録にもなるかと思い、今回はそんな案件の一つをネタにして書いてみる。

たびたび記事として取り上げているけれど、現在の練馬区光が丘地域一帯に存在していた成増飛行場(正式には成増陸軍飛行場)については、いまだに全容がハッキリとはわかっていない。
機会があれば人前で成増飛行場について話したりすることがあり、その時、本にしてまとめて欲しい、とお声をかけてくださる方もいるけれど、なかなか難しいことだ。

昔、成増飛行場の戦友会会長であった刈谷氏を中心に、飛行47戦隊史(=すなわち成増飛行場の本)の制作が進んでいたけれど、刈谷氏の死去と成増会解散により計画は頓挫してしまった。その時の原稿は一部現存しているけれど、基礎資料はほとんどない状況だ。

成増飛行場の兄弟飛行場である調布飛行場については、昭和の頃から有志の方々による調査がなされており、何より調布飛行場は、当初、東京府の計画により建設が進められた(大東亜戦争開戦時点に陸軍へ移管)ので、東京都公文書館に礎となる公文書が残されていたり、終戦後は米軍により重要施設として進駐されたりして、写真を含め良い資料が多く残されている。

それにひきかえ成増の場合は、戦時中の急造飛行場でもあり、従事していた人間が多い割に現在に残る記録が圧倒的に少なく、調査も困難で、なかなか実態は解明されない。資料調査に関して鋭い嗅覚と明晰な頭脳を持った方が成増飛行場に興味を持ち、調べてくれないかなあ‥と願うが、なかなか現れてはくれない。せめてマスコミが嗅ぎつけて資金と人間を投入してくれないか、なんて他力本願なことを妄想する次第である。

まあ、妄想していても先へは進まないので、凡才でもできる努力をするしかない。

成増飛行場は、大東亜戦争緒戦の1942年4月、真珠湾の仕返しを企画したアメリカ軍が、空母に無理やり搭載した陸軍爆撃機B-24により、帝都を奇襲したことが発端で計画された。

帝都防衛の使命により、皇居上空まで離陸から3分で到達できる場所、ということでいくつかの候補地より当時の板橋区高松地区が建設場所として選ばれた。

さて、飛行場の建設地を選んだのは誰なんだろう?

成増飛行場を調べる上で、最初の疑問がこのことである。平成のはじめ頃、田柄区民館が調査しまとめられた冊子によると、空襲から1年後の1943年春ころ、当該地区の地主500名余りが板橋区役所に集められ、陸軍航空本部の大河内大佐より、協力を求められたとの記載がある。

当時、立ち退きを要求された加藤さんという方に話を伺ったことがあり、「東條英機が兎月園に来て飛行場予定地を視察した結果、ここに飛行場ができることに決まった。」とおっしゃっていた。「東條英機のバカやろう!」と、地主たちは口々に罵っていたという。

そりゃそうだよな、先祖伝来の土地をいきなり取り上げられるんだもんな、とその時は思った。うん、地元にそんな逸話が残っていたことはわかった。当事者の方々はそう噂をしていたんだろう。

しかしである。ありそうな話だけれど、それが事実かどうかはわからない。これは調べてみなくてはいけない案件である。

で、調べてみると「東条内閣総理大臣機密記録」という本の存在を知った。これは、総理秘書官を務めた鹿岡円平が、昭和16年12月19日から19年9月21日までの東條総理の日々の行動(日時と総理のその間の所在・会議など)を克明に記録したもので、1990年8月に出版された。

内容を見るまではそんなに詳細には載ってないだろう、と穿っていたけど、これがなかなか丁寧に記録されていて驚いた。現在の新聞に載る首相動静と同じような感じで、視察など外部に出かける場合も几帳面に書かれている。

で、昭和17年4月のドーリトル空襲時から成増飛行場の工事が始まる昭和18年8月までを確認してみると‥高松地域はおろか東京市北西部へ出かけた記録は確認できなかった。

緒戦の日本軍爆進も終わり、連合国の反攻勢が始まった難しい時期に、総理と陸軍大臣を兼任している東條閣下が、完成式典ならともかく、視察なんぞにわざわざ足を運ぶことはないのだろう。

では、誰が視察に来たのか、となるともう概出である、陸軍航空本部の大河内大佐という可能性が高い。

Who is 大河内大佐?

まず、陸軍の飛行場設置をどこの機関が選定するのか。
そこで、陸軍航空本部を検索してみると、確かに、総務部第三部が飛行場その他の施設の設定、建築などに関する業務を担っていたことがわかった。

それでは、大河内大佐の存在は?これは、残念ながら当時の実名入り組織図にアクセスできていないため、わからないのである。このことが、この項をほったらかしにしている理由でもある。

ただし、他にアクセス方法がないわけではない。それは、大河内大佐の階級である。大佐、いわゆる”佐官”は軍人階級のエリートクラスであり、戦後に行われた戦争犯罪調査にかかわることが関係するのか、わりと記録が残されているということだ。

軍隊は、大まかに”兵”と”将兵”に分かれる。兵は招集による兵役で、将兵は望んで軍隊へ入り軍隊の学校で教育を受けた兵である。招集でも後に学校に入って教育を受ければ下士官や士官となることができた。しかし、将兵でも佐官クラスになれるのは優秀な方であり、さらに大佐にまでなれるのは相当な物である。海軍なら二番艦、三番艦の戦艦の艦長であり、会社に例えれば、本社の本部長クラスで取締役一歩手前くらいといったものだ。

そんな感じなので、いろいろ調べると該当する人物に行き当たった。それは、陸軍士官学校28期出身の大河内淳(少将)である。「日本陸軍将官辞典」にて経歴を調べると、明治27年10月山梨生まれで昭和20年2月に戦病死されており、砲兵出身、昭和17年8月1日東京第一造兵廠仙台所長を経て昭和18年10月、第一造兵廠監督官を任じている。

う〜ん、これだけではなあ‥

造兵廠関係の仕事はしていたけれど、陸軍航空本部の人間ではないようだし、ちょうど飛行場選定の時期に微妙な立場にいる。伝わる証言によると、飛行場建設工事の監督でもあったといわれているので、う〜ん、どうなんだろう。仙台所長を一年たたずに終え、造兵廠監督官になる直前まで関わっていたのだろうか。成増飛行場が仮に完成したのが昭和18年10月だ。
亡くなった時の階級が少将であるので、成増飛行場選定のころは「大佐」という階級に矛盾はない。仙台所長という事を抜きに考えると、現在の練馬自衛隊一帯に存在した陸軍第一造兵廠倉庫の場所選定時に、もしかしたら関わりがあり、そのことがなにか関係しているのかなあと妄想できないでもない。

まあ妄想はただのむなしい空想に過ぎず、陸軍航空本部の組織図なり他の資料でもっと詳しく確認できなければ断定はできないですね。

大河内淳少将の同期には、”大河原鉄之助”少将という人物がおり、昭和15年8月に陸軍士官学校教官、16年10月に工兵教導隊長、19年8月防衛築城部長、20年3月少将昇進、4月に防衛総司令部附、第6工兵隊司令官という経歴で、こちらの人物の間違いではないのかなあとも思ったけれど、成増飛行場選定のころは学校の先生であるので、違うのだろう。


そんな次第で、調査につまずいている報告なのに長くなってしまいました。いつか決定的な資料に巡り会えますように。。

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