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2018年盛夏。板橋区民、戦時中を振り返る。Vol.-2

101

 暑い、いや熱い。屋外へ出ることを躊躇しますね。。

前回書きました、第100飛行団に所属していた常盤台写真館2代目のT氏についての続きです。

T氏は、戦後に常盤台写真館へ迎えられた方で、山形のご出身らしい。ご本人を知る方より、知覧で特攻待機中に終戦を迎えた、とお聞きしている。知覧待機で陸軍ということは、基本的に振武隊の可能性が高い。すでに沖縄は米軍に占領されていたけれど、いよいよ本土上陸も近いとのことで、米艦船への特攻作戦は継続されていた。

そこで、知覧特攻平和会館へ問い合わせをし、ご回答をいただいた。T氏の旧姓が不明なので、名前を頼りに探していただいたが、振武隊の該当者2名は戦後の職業が違うので除外、可能性が高いのは101戦隊に所属していたS氏という方らしい。陸軍少尉候補者24期後期出身まではわかったけれど、それ以上はまだ不明だ。

ただし、101戦隊は知覧に駐屯していたことはなく、S氏が特攻隊員として選抜されて知覧にいたのか、第100飛行団の戦隊史に「8月上旬に高松へ移動していた101戦隊は、飛行団長、秋山紋次郎大佐の命により戦闘態勢を維持。8月16日夕方、米艦隊が土佐湾へ侵入との情報を受け、夜半に特攻隊12機へ編成し、出撃したが目標を発見できず帰投した。」と記載があり、その中にいた可能性もある。

それにしても、昔、話を伺ったことがある、101戦隊に所属し、終戦直後、最後に四式戦に搭乗して成増飛行場を飛び立った中村吉明少尉が存命であったなら、重ねて話を聞くことができたのに、と残念である。


ここで終わらすのもなんなので、第100飛行団の戦隊史に記載されている成増飛行場の様子を、一部転載させていただくことにする。

沖縄方面作戦任務で概ね戦力を喪失した第101、102,103戦隊は、部隊立て直しのため昭和20年6月上旬、航空総軍の直轄となり、成増飛行場へ移動した。ただし、団司令部は都城西飛行場に留まり、引き続き特攻作戦を指導した。
移動当初は飛行機も人員の補充もままならず、空中勤務者たちは交代で、熱海にあった航空保養所旅館「相模屋」で休養していた。

確か練馬区史だったか、古老による成増飛行場の回想話が載っていて、「成増飛行場には飛行機はほとんどなく、南方けら引き上げてきたのかボーッとした上半身裸の兵がうろうろしていた。」などという描写があったけれど、それはまさにその時分の状況だったのだろう。

補充の進捗がすすまず、7月10日、遂に一時的に102戦隊を解散し、101戦隊と103戦隊に人員機材を振り分け、訓練を開始した。27日、飛行場に布板をおき、対地射撃訓練中に103戦隊機同士が空中接触し、空中勤務者2名が殉死してしまった。

以下、第103戦隊の整備員をされていた駒井薫氏の寄稿より転載。

「都城東飛行場に展開していた、私ども103戦隊の整備員は、6月上旬飛行隊に先立ち、戦力回復並びに機材補充と確保のために、東京の成増飛行場に移動することになり、先発隊として、都城基地を後にして、東都城駅より日豊本線に乗車、宮崎より北上して関門トンネルを通過、下関にて山陽本線、神戸から東海道本線へ乗り換え東京へ前進した。(注、移動時の困難話は省略)東京駅から山手線にて池袋、そして武蔵野線(西武池袋線)で石神井駅に到着しました。

これより先、成増飛行場までの里程約5粁を肩に背袋、両手に部品等の小荷物をといった姿体で歩行約1時間20分基地に到着致しました。成増飛行場では飛行場大隊?が準備して下さった、板橋の赤塚第一国民学校(赤塚小学校)が私たちの宿舎(兵舎)でした。場内の端で小休した後、案内役の下士官により誘導でそこから約四粁北上し、川越街道を横切り少し入ってから宿舎に到着致しました。学校には他部隊の兵隊達が宿泊しておりました。私どもは一両日は環境の整理のため休暇が与えられました。

その後は川越街道をへだてた飛行場まで毎日四粁の里程を防暑服を着用して汗とホコリと油にまぎれての作業に往復の日々が続きました。赤塚より基地を望めば左手方向に、滑走路が南北に走り、松林の間々には、いくつかの掩体壕があり、壕内は四式戦が秘匿されていますし、又右手雑木林の木々の間には、いくすじかの誘導路が大木のあいだに走っておりました。当時東京地方は連日の様にB29の爆撃や、P51の機銃掃射がありました。そのたびに作業を中止して附近の雑木林の中に退避いたしました。

ある時作業の間に私は小用のため西側(北大泉町)にある便所にて用たしをしていた時のことです(すでに警報は鳴っていました)。キィーンと云うP51の金属音と共に機銃の連射音、ブス、ブスと云う無気味な射る音と同時に便所にも、数弾がうち込まれ、私は生きたここちはありませんでした。悪夢が去った翌日だったと思いますが北大泉町の農家(便所より西側にある)の機の部品をあづけてある納屋に参りましたら昨日の機銃掃射の一弾が病床の娘さんに直撃して亡くなったとのお話に、私は返す言葉もありませんでした。きっとあの娘さん(宮下さんと云う方だったと記憶しています)は私の身替りになって下さったと信じ、御冥福をお祈り致し帰ってきました。<以下、飛行機の部品を取りに立川航空廠の部品疎開先である秩父・高篠村へ受領しにいった話等、省略>」


第100飛行団の話はここまで。戦時中を振り返る。Vol.-3へ続く。

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